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 本作品は、世界設定ばらしが非常に多く含まれています。他のGreen-Blue talesシリーズを読んでからの方が、いいかもしれません。


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   碧


                            Green-Blue tales

                              斎木 直樹

     第九章 夜の騎士

 私は、ほうと息を吐いた。
「大丈夫かしらね、ナイト……みどり、聞いてるの」
 みどりはとろんとした目を私へ向けると、あ、と言ったきり、またそっぽを向いて
しまった。
「何ぼうっとしてるのよ。ナイト、大丈夫かしらねって言ったの」
「うん」
と、みどりはまた自分の世界に戻ってしまう。こいつ、この前からこうなのよね。
 大地の精の試練の後、私達はナイトに城にいたらと提案したが、彼は頑強に拒みダ
イのもとへと帰ってしまった。何でも、ダイに聞きたいことがあるそうだ。そしてそ
れきり、この三日間姿を見ていない。
 三日の間、私達はセイトさんに、幻想界についての講義と魔力の調節の訓練をみっ
ちりと受けさせられた。おかげでこの国の地理と歴史、制度、状況のだいたいのとこ
ろは把握できたし、魔力も少しは調節できるようになったけれど、少しきつかった。
 気味が悪いのは、そのきつい授業を、あのみどりが文句も言わずに黙々とこなして
いたことだった。まるで何かを忘れようと――いいえ、違う。考えないようにしてい
るんだわ。
 ところで、なぜ三日もそんなに暇だったのかというと、次の試練は闇の精、つまり
あのダイの番なのだけれど、なぜか延ばし延ばしになり、やっと今朝ダイが城に現れ
たのだ。そしてそれは、もし不公平なことを言い出したら抗議してやるといきまいて
いたセイトさんも、拍子抜けしてしまうようなものだった。
 ダイの出した試練とは、「ある地域にのみ生息するある草を取ってくること」とい
うものだった。そして、今はその場所へ向かっているところなのである。
「みどり。セイトさんも仰っていたけど、この辺りはダークの勢力範囲なんだから、
気をつけなさいよ」
「うん……」
 あおいはあたしの顔を見ると、またため息をついたようだった。ごめんね。でも今
はまだ、何も考えたくない。考えちゃいけない。
 視界を、何か黒いものが通り過ぎた。それは、ずっとあたしが求めていたものだっ
た。
「みどり?」
 気がつくと、みどりが隣にいない。ぐるっと首を回して見渡すと、左の方に草を分
け入っていく姿がちらりと見えた。その先に立って手を差し伸べているのは、七歳く
らいの、黒髪のほっそりとした綺麗な少年。あの、ばかっ。
「やめなさい、みどりっ。それは、あんたの王子様じゃないっ」
 あおいの声が、背中から聞こえてくる。そう。そんなことは判ってる。でも、あた
しは。
 王子様の、淋しそうな深い青の瞳。死人のような顔色。大丈夫、そんなことしない。
「こら、待ちなさい。あんたが、あんたがナイトに言ったことを思い出すのよっ」
 みどりはナイトという言葉に反応したが、それは更に足を速めるということだった。
ちっ。逆効果だったか。
 あたしは、彼に微笑みかけようとした。でも、判る。きっとあたしの目は、泣きそ
うになってる。
 王子様が、不安そうに細い首を傾ける。大丈夫。そんなこと、しないよ。
 そして、みどりと少年は忽然と消えた。




 視線が低い。紫色の小さな花が、一面に咲いている。立っているのに、地面が異様
に近い。黄色い花粉のついたおしべを四枚の花弁が囲っているのが、よく見える。
 あたしは、視線を上げると、そこには王子様がいた。
 彼は、歳の割には大人びた目で淋しそうに微笑んでいる。周囲には、そんな彼を慰
めるように多くの動物たちがたむろしている。あたしは、一瞬何かを思い出しかけ、
それを打ち消した。
「わあ、すごいすごい。どうしてそんなことできるの?」
 王子様は、兎に似た白い毛の動物を優しくなでている。動物は、気持ちよさそうに
首を伸ばして目を細めている。あたしがやろうとしたら、逃げ出したくせに。あたし
は、そのことを思い出して口をとがらせた。
 ああ、王子様。会いたい。そうしなくては――そうしなくては?
「みどりーっ」
 あおいが、息を切らせて草原の向こうから現れた。小さい頃のあたしと同じに、髪
を伸ばしている。この草原の向こうには、何があるのだろう。ここは、いったいどこ
なのだろう。
「あおい。どうしたの?」
 あおいは大きく息を吸い、つばを飲み込んだ。白い顔が赤く染まっている。
「こんなとおくにいた、の。はあ。おばあちゃんがよんでる、よ」
 あたしは、にっこりと笑った。まだ何の苦しみも知らない顔で。あの頃は、母さん
もおばあちゃんも、当たり前のように側にいた。
「そう。じゃ、行こう」
 あおいは、軽く睨むような目で頷いた。
「うん。早く」
 嫌。あたしは、帰りたくない。もっと、もっと遊んでいたい。もう王子様とは、二
度と会えないんだから。淋しそうな王子様の瞳――殺したくない。
「じゃ、またね」
「うん……」
 あおいが来たときに、動物は皆逃げ出してしまっていた。取り残された少年は、た
だ一匹腕に抱いていた、りすのような動物をきゅっと抱きしめた。小動物は、逃げだ
そうと身をよじる。黒髪の少年は頼りなさそうな顔で、何か言おうとして止める。
 嫌だったら。またなんて、ないのよ。もう、二度とあの子はやってこない。二度と、
会えはしない。
 近づこうとする意思とは反対に、王子様の姿はどんどん遠ざかっていく。
 あたしは、大きく王子様に手を振った。
「やくそく、わすれないでね。きっとよっ」
 約束なんて、守られない。王子様を殺したくない。殺したくないのに、あの子はや
ってこない。




「やってこない……」
「プリンセス、そろそろ起きる時間だよ」
                 プリンセス
 低い男の声。王子様の声じゃない。お姫さま?そうか。あたしは今、王女なんだ。
気がつかなかった。王子様がいなくても、あたしは王女なんだ。王子様……え?
 あたしはがばっと身を起こした。けれど、実際には頭しか動かなかったので、もと
い、起こそうとした。
 あたしの身体は椅子に縛り付けられていた。えらく固そうなロープでぎっちりと縛
り上げられているので、多少引っ張ったぐらいじゃ緩みそうにはない。その上、この
部屋には頑丈そうな黒髪の男達が三人以上はいる。正攻法じゃ、到底敵わない。
 なら、あたしにできることは一つだ。
「おっと、力は使わない方がいい。君には封印――力を使えないようにするもののこ
とだ――がしてあるし、ここには正の結界が張られている。それも、そんじょそこら
の結界じゃない。お貴族様の結界だ」
 ダイは、にっこりと笑った。その目がいやらしく光ってさえいなければ、とても魅
力的だといえるのに。
「解説してやろう。長とはいえたかが一介の民衆の出の私には、グリーンブルーであ
る君の力を完全に封じることはできないんだ。しかし、君の調節できない無闇な力を
この状態で使えば、こんな屋敷はすぐに全壊してしまう――ナイトのいる、ね」
 あたしは、人が睨み殺せるものなら、今ここで一人殺してやりたいと思った。
「解放されたかったら、『九つの試練』をやめて人間界に帰りなさい」
「誰が」
 ダイは口を歪めた。
 あたしは眉をしかめた。なぜだか、彼はあたしと目が合わないようにしている。ナ
イトもこの間まではそうだったけれど、この男が良心の呵責に苦しむようなかよわい
質には見えない。なぜ。
 彼はすぐに、いつもの冷静な表情に戻って告げた。
「まあ、手始めにおきまりの拷問でもさせてもらおうか」




「セイトさん、ダイの家はどこですかっ」
と、私がセイトさんの執務室に現れると、彼はたっぷり三十秒固まっていた。今日は
いつもの緑の正装ではなく、灰色の上衣を羽織っている。
「殿下。突然瞬間移動してくるのはおやめ下さい、危険です。――グリーン殿下はど
ちらに」
「いいから、ダイのすみかを教えて下さい」
「まさか」
 ああ、気づかれてしまった。この老人にあまり心配はかけたくなかったけれど、他
に聞ける人がいないのだから、仕方がない。魔女の里はどこにあるかわからないし。
「セイトさん。あなた方は、長の家に無断で入ることはできないということは聞きま
した。だから、早く教えて下さい」
 セイトさんはまだちゅうちょしていたが、私は無理に聞き出した。
「ここからそこまでの直線距離は」
「二百五十テリアほどですか」
「単位が判らない。そう、この城はどのくらいですか」
 セイトさんは考え込むと、前庭は三テリアくらいだと言った。
「メートルに直すと……よし」
 適当ににテレポートして、少しずつ慎重に分けていくしかないわね。力は浪費され
てしまうけれど、今は時間の方が惜しい。
「お待ち下さい、殿下」
「いえ、行きます」
 思いきり不安そうな顔をしているおじいさんに、私は今できるだけ笑ってみせた。
「心配しないで下さい。大丈夫ですよ、私達はタフだから」
 私は、瞬間移動した。




 ……痛い。
 あれから何度も殴られ、蹴られ、棒で打たれたりした。身体中がずきずきするのを
越えて、全身心臓のように鼓動を打っている。骨が折れたりはしていないみたいだけ
ど、これじゃあ頭から足まで擦り傷とあざだらけだろうなあ。
「どうだい、グリーン。まだその気にはならないかい」
 あたしは、もう乾ききってしまった口腔を潤そうとした。身体は疲れ切っている。
「べーっだ。あたしはね、餓鬼の頃からけんかばっかしてたんだ。これくらい慣れっ
こだよ」
 彼は、あおいのようにため息をついた。やーい。あおいとダイの共通項めっけ。後
でからかってやろう。
「仕方ない。では、最後の仕上げにかかるしかないな」
 何?
 ダイはにやりと笑い、あたしの顔に大きな手をかざした。
 父さんの手もこんなに大きかったっけ。そんなことを思っていると、視界が狭くな
ってきているのを感じた。あれ、あたし、眠いのかな。
 ダイの方を見やる。すると、ここに来て初めてダイと目が会った。一瞬、ダイは情
けない表情になった。まるで、泣き出す一歩手前の顔。あ。
 視界一杯の金の色。まるで笑うかのように揺れ、さざめいている。善の精の長の髪
の色のような、輝く美しい金の色。
 そんな映像が、一瞬頭をかすった。今のはと考える間もなく、あたしは深い眠りに
落ちていく。肉体の重みから逃れ、吸い込まれていくのはとても楽だった。
 最後に見えたのは、黒い翼を生やした男の、しかめられた顔。




 ぷくぷく。
 ぷくぷく。あたしは、小さなあたしは、どこかに丸くなって浮かんでいた。目を閉
じて真っ暗な中に、時々ぷくぷくと音がする。もしかしたら、水の中なのかもしれな
い。身体の外は体温と同じ温度で、中と外の区別はつかない。ぷくぷく。ぷくぷく。
あたしは、薄い笑みを浮かべた。
 長い間、あたしは一人だった。でも、ここは温かくて安全だ。他のところへ行くこ
とはない。ここにいればいい。ここにいれば、何もかも大丈夫。あたしは安全。あた
しを傷つける怖いものは、何もない。ここは、とてもいいところ。永久に続く、ぷく
ぷくという音。何も変わらない、心地よく安全な場所。これ以上望むものがあるだろ
うか。あたしは、どこへもいかない。ずっとここにいる。
 突然、声が降ってきた。目をつぶっているのに映像が見えてくる。あれは、まだマ
マが生きていた頃のこと。
 おばあちゃんの家に預けられていたときのことだった。手をつないでいるあたしと
あおいの前に、えらく大きい二人のおばさんが立っている。がっしりとした身体に、
大きな顔とお腹。おばさんはあたし達へと化粧くさい顔を近づけ、真っ赤な口で笑っ
た。
「あらまあ双子ちゃんねえ。かわいいわあ。水越さんのお孫さん?」
「二人ともそっくりねえ。いいわねえ。どっちだか区別がつかないんじゃないの」
「あら、でもこっちの子、泥だらけよ」
「あら本当。女の子なのにだめじゃない。それに比べて、こっちの子はきちんとして
て、偉いわねえ」
「いい子ねえ」
 小学校。時代遅れのピンクのひらひらのワンピースを着た大きい女の人が、上から
じっと見つめている。怖い。あたしは、女の人の大きい上履きを見つめている。そう
すると、頭の上から声が降ってくるようで怖さが増す。
「みどりちゃん。少しは、お姉さんのあおいちゃんを見習いなさい。全く、双子なの
にどうしてこう違うのかしら」
 今度は、ジャージを着た男の人が、おどけた調子でしゃべっている。
「水越。お前、隣のクラスのお姉さんはまた満点だったそうだぞ。それに比べて、こ
れじゃあな」
 教室にみんなの笑い声が響く。
 太った、厚化粧のおばさんがこっちを見ている。黒い木でできた大きなものの前で、
うんざりした顔で。
「水越さん。また音が外れてますよ。全く、どうしてあなたのような人が音楽をとっ
たの?この間のコンクールで準優勝した私立校の水越あおいさんって、あなたの双子
のお姉さんなんですってね」
「みどりちゃんらんぼうなんだもん、あそばない。あおいちゃん、お人形ごっこしよ
う」
「やっぱりお姉さんの方が」
「あおいさんて、綺麗だよなあ」
「あおいさんの方は」
 あたしは耳をふさいだ。できるだけ早く首を振る。心臓の辺りがきりきりと痛い。
涙腺が緩んけれど、涙が流れるのは感じられなかった。
 やめて。もういい。外なんて見ない。絶対に行かない。ずっとここにいる。だから、
やめて。あたし、ずっとここにいるから。
 ぷくぷく。ここは温かい。ここにいれば、誰もあたしを傷つけない。ここは、安全
だ。ここに、永久にいればいい。世界が終わるまで。
 追い打ちをかけるように、歪響した声がかぶさってくる。
 お父さん。
「お前より、あおいの方がいい子だ」
 あばあちゃん。
「やっぱり、あおいの方ができがいいねえ」
 そして、ママ。
「あなたがあおいなら……」
 ママ?




 私は、ダイと向かい合って立っていた。
 家来に囲まれて微笑みすら浮かべているダイの、高価そうな黒尽くめのきっちりし
た衣装とは対照的に、私の恰好は悲惨そのものだった。髪はぐしゃぐしゃ、服は徹底
的に汚れた上にところところ破けていて、身体はすりきずだらけ。
 けれど顔だけは劣らぬようにと、私は彼を真正面から凝視した。
「みどりを、返してちょうだい」
「おやブルー、よく来たね」
 あくまでも友好的な姿勢を崩さない闇の精の長に、私は上品な微笑みを差し上げた。
「負の結界をお屋敷の周囲に張り巡らせた上に、いろいろとしかけてくれてどうもあ
りがとう。おかげで、あなたが私達を殺すつもりはないことがよく判ったわ」
 ダイは少し、眉を寄せた。控えている闇の精たちは、無表情にただ立っている。
「もしそうならば、もう少し思い切った罠を仕掛けるでしょうからね。もう一度言う
わ。みどりを、返してちょうだい」
「君の力で、私に敵うかな?」
「あなたは、平民にしては貴族並の大きな力を持っているようね。未熟な私一人の力
では敵わないかもしれないけれど、みどりと二人なら何とかなるんじゃないかしら」
 ダイはゆっくりと、嫌味に微笑んだ。
「グリーンは、もう君のもとへは戻らないよ」
「いいえ。あの子は生きている限り、そこのナイトのように操られることはないわ。
決してね」
 私は、ダイの後ろの豪奢な椅子に座っている青年へと目をやった。その目は、どこ
へも向けられていない。顔には表情はなく、そこには絵に描いたような笑顔が載って
いる。生理機能のためのよだれが、口の端から洩れていた。本物の人形になってしま
ったのね、ナイト。
「そいつは、お前たちのせいで余計なことを言うようになった。王位につくまで、黙ら
せておくことにさせてもらったよ」
 人を操るには、その人の弱点を突き逃げ場所を与えてやればいい、とセイトさんは
教えくれた。ナイトには、ダイの知る弱点などあまりあるほどあるに違いない。
「子どもは、親の操り人形じゃないのよ」
「今や、グリーンも人形さ」
 目を閉じて、私はゆっくりとつばを飲み込む。大丈夫。私は、そんな台詞に惑わさ
れるほどよわくはない。
 私は、呪文を唱えた。私は、私。
「ええ。そうかもしれない」
 ダイは、勝ち誇った笑みを上げた。目が光を受けて輝いて見える。
「でもね、ダイ。私は、私の真実であるみどりが好きなの。そうでないみどりは、い
らないくせいにね」
 ダイの目が、開かれる。ナイトの目は、死んだまま。
「だから私は、私の真実でないみどりがみどりだったら、そのみどりは助けない。自
分で自分を救ってもらう。仕方ない、王には私がなるわ」
「そうはさせないわよ、お姉さま」
 ダイの驚愕した顔。こんな形容詞がつく顔、初めて見た。
 みどりは私以上にずたぼろで、片腕を押さえびっこをひいてはいるけれど、顔には
不敵な微笑みが浮かんでいる。
「最後にママを出したのが、まずかったね」
「何?」
「あたし達のママは、あんなことを言う人じゃなかった」
 みどりは言い切った。
 ダイは、鼻で笑った。けれどその目には、いつもの自信はなかった。
「何をばかな。ラピスラズリ王女が死んだとき、お前たちは五歳だったのだぞ」
「だから?あたしはね、ママに聞いたことがあるんだ。あたしは、あおいになった方
がいいのかって」
 言葉もない。
「ママは答えてくれた。あおいになったみどりなんかよりも、みどりでいるみどりの
方がずっと好きだって。みどりは、みどりでいるのが一番いいんだって。だから、あ
たしはあたしであることにした。あたしは、あたし。水越みどり」
 ダイの顔は、見ていられないほどだった。そして人形は、こんな時でさえ人形のま
まだった。
「王位が欲しいなら、やってみなさい。あたし達は、決して、負けはしな、い……」
 私がみどりへと目をやる途中、ダイの顔に目を奪われた。その顔は、あまりに無防
備だった。
 すぐにみどりへ顔を向けると、彼女の顔がわずかに歪んだ。倒れる、と私が駆け寄
る前に、彼女を支える白い手があった。
「みどり」
「ナイト……」
 ナイトは、泣いていた。前のような名残涙ではなく、気を失ったみどりを細い腕で
しっかりとかき抱き、静かに涙を味わっていた。
 きっとナイトは顔を上げた。ダイを涙のたまった目で睨み付ける。
「僕は今まで……思っていた。僕が母を殺したのなら、僕――俺は、あなたの言うこ
とをきこうと。あなたが俺を憎むのは当然なのだから、あなたの言うことは何でもき
こう、そう思っていました。でも、それはもうやめにします」
 ナイトは、おそらく十何年ぶりに哀しみ以外の感情を湛えた瞳で、無表情なダイを
精一杯睨んだ。
「俺を王位につけたいなら、勝手にするがいい。でもみどりを、みどりをこんなふう
に傷つけるなんて許さない。俺が王となることが母の望みだったのなら、それはいい。
だが、俺はもう、それ以外のことではお前のいうことは決してきかない。もう二度と」
 ナイトは、息を継いだ。みどりの頭を支えていた手が外れる。
「ダイ・ダーク。お前など、俺の父でもなんでもない。俺の父母は、俺を産んだ母と
お前が殺したあの二人だけだっ」
「だめ……」
 ナイトは、はっと腕の中のみどりを見た。みどりは、閉じかけた目を開こうと努力
していた。
「駄目。そんなことを言っては。この人も、きっと」
と、みどりはまた眠りへと落ちていった。




 私とナイトは、ダイの屋敷を出たところの森で休憩していた。みどりはずっと眠っ
たままだった。私達が出るときも、ダイは他の考えに囚われているようで、無表情な
まま何も言わず何もしなかった。ダイが何も指示しないので、家来たちも手持ちぶさ
たに私達三人を見送るだけだった。
 ナイトはみどりの寝顔のあたりに視線を据えたまま、ずっと暗い顔で押し黙ってい
る。
 沈み込んだままのナイトを盗み見ると、私は二、三度口をぱくぱくさせ、やっとの
思いで声に出して聞いた。
「あの、ね。ナイト」
「何だ」
 ひびが縦横無尽に入った硝子の印象。
 私はちゅうちょしたが、思い切って尋ねた。
「さっきの、ダイがあなたのご両親を殺したって、本当なの」
 ナイトは、すねた子どものような表情で肯定した。
「でも、あなたがいう人って、ダイのお兄さん夫婦のことなんでしょう?」
 長い黒髪の少年は、美しい眉をしかめた。
「知っていたのか。ああ、そうだ。俺が生まれるとすぐ、あいつは俺を父さんたちの
ところへやった。父さんたちには子どもがなかったから、とても嬉しがっていたそう
だ」
 ナイトはほんの一瞬だけ安らかな微笑みを浮かべ、すぐに打ち消した。
「でもある日、俺が家へ帰ると、あいつと何人かの男たちが家の周りにいた。俺が何
となく不安になって家へ入ろうとすると、あいつらは俺を捕まえて放してくれなかっ
た。隙を狙って家に入ると、父さんと母さんがぐちゃぐちゃになっていた。すぐに、
死んでいると判った」
 辺りにあるものを投げ出すような言い方。ナイトの混沌とした自暴自棄な感情が、
空気を伝わってくるかのようだった。私は、緊張した雰囲気に身を縮こまらせた。
「でも、ダイはダークの長よ。ダークは、家柄に左右されずに実力だけで長を選ぶ、
とても民主的な一族だと聞いたわ。そんな一族の長にあの若さでなるなんて、だてに
できることじゃない。兄夫婦をそんな残虐なやり方で殺した人が、なれるものじゃな
いわ。そうでしょう?」
「絶対にあいつさ。あいつに決まってる。あおいは、あんな奴を信じるのか?みどり
を、こんな目に遭わせたのに」
 私は、自身も明るくするための軽い笑みとともに、肩をすくめた。
「みどりは、こんなことで壊れるくらいにはデリケートにできていないわ。見たとこ
ろ傷は酷いものはなさそうだし。倒れたのは体力がつきたのと――」
 ナイトは、おとなしく次の言葉を待っている。そうしていると、鳥の幼生のようだ。
「お腹が空いたからよ」
と、私はみどりのお腹を押した。気持ちよくぺこっとへこむ。
「あにすんだよっ」
 みどりがむくっと起きあがりいててと言うのを見て、ナイトは思わず吹き出したけ
れど、すぐにまじめな顔に戻ってしまった。
「みど」
「ダイはあたしの体力を消耗させて、気力をなくさせようとしただけだと、あたしも
思う。暗示にかけやすいようにね。だから気にしないで、ナイト。このくらい、ご飯
さえ食べれば自分で治せるから」
 セイトさんに試してもらった結果、みどりの治癒能力はそれほど強いことが判って
いた。しかも、不思議なことにみどりの治癒は、他の人のもののように魔力を消費す
るものではないということだ。そう言われてみればみどりの怪我の治りは異常に早か
ったし、お見舞いに行った後その人の病状がよくなったということも、かなりあった。
 しかしそれでもと、ナイトは食い下がり続けた。
「ナイト。あたしには、ダイがそこまでやる人だとは思えない。ダークの人たちも、
ばかじゃない。あの人たちは、なぜダイに従っているの?」
「なぜ君たちはあいつを、こんな酷いことまでされて許せるんだ」
 心の奥底から持ち上がってくるどろどろとした感情をさらけ出すナイトに、みどり
はあっさりと答えた。
「そんなに酷いことはされてはいないし、あの人はあたし達の命まで取ろうとはして
いなかったみたいだしね」
 魔の森の蜘蛛も、私を食べられはしなかっただろう。毒があったとしても、解毒剤
くらいある。あれは、脅しとみていい。
 ダイは、いつも私達に帰れと脅しをかけてきていた。殺しまでしてはナイト側に、
ひいては闇の精に容疑がかかることは必須。そこまでしていいことなど、何もない。
それが判らないほど、ダイはばかではない。
「ねえ、ナイト。ダイは、あなたを王にしたいだけなのよ」
「そして、自分が権力を握ろうとしている」
 私は、ナイトの現状認識能力にため息をついた。彼はすっかり感情に侵されている。
「どうしてあなたは、ダイのことをそんな風に思っているの?確かにダイは、あなた
に対してはきついみたいだけれど」
 ナイトは、薄い唇を噛みしめて目をそらした。苦しそうな目を下草に向ける。
「あいつは、俺を憎んでいるんだ。俺が、母を殺したから」
「それ、さっきも言っていたわね。どういうことなの」
「母は、俺を産んだ母さんは身体が弱い人で、俺を産んだために死んだ。その上、俺
は母に似ている。王の父となるために結婚した相手にそっくりな子なんて、見るだけ
でも嫌だろう。だからあいつは、俺を嫌っているんだ」
 つじつまが合わないわね。ナイトが母親を殺したから彼のことを嫌っているのなら、
ダイは彼女のことを愛していたはず。それなのに、ダイがライムさんと結婚したのは
政略的なものだと、ナイトは言う。どちらにしても、ダイがナイトを避けていること
は確実だけれど、それは、なぜ?
 みどりが、せっぱ詰まった口調で口を出した。
「違う。ナイト。何かが間違っている。あなたたちは、すれ違っているだけ。ダイは
ただ、ただ、見る方向があなたとは違っているだけなの」
 目を薄く開け、どこか遠くの方を見ながら語りかけたみどりを、ナイトは鼻で笑っ
た。
「どうして判る」
「勘、かな。そんな気がするんだ」
 金色の映像が頭をかする。あれと同時に、あたしの心に微かにある感情が触れてい
った。あれは。
「そういえば、ダイに聞きたいことがあるって言っていたけれど、きちんと聞いたの」
と、あおいが尋ねると、ナイトはその美貌をしかめた。
「あれはもう、いいんだ。そんなわけがない。あいつは俺を憎んでいるし、俺も……」
 幾重にも傷つけられた少年は、自虐的に笑んだ。荒んだ目を見るのは辛い。
「どうしたの?」
「いや、名前のことだ。俺の名前は母が付けたらしいんだけど、night か。俺にぴっ
たりな名前だと思ってさ」
「そうね」
 ナイトは少し、あたしに不思議な顔をしてみせた。
「え、何?騎士の knight でしょう。大切な何かを守れるように、かな。すてきな名
前、だよね」
 ナイト
「騎士?」
 ナイトは、長い間捜していた宝物を、意外と身近な場所で見つけたような表情で呟
いた。
「……うん」
「思ってもみなかった。俺はずっと、夜の night だとばかり思っていた」
 ナイトがあたしを見つめるのを感じて、あたしは目をそらした。ナイトの戸惑いが
空気を震わせて伝わってくる。
 気がつくと、あおいがいなくなっていた。きっと、ご飯を作りに行ったのだろう。
もう少し身体を治してから帰らないと、セイトさんたちがまた大騒ぎしてしまう。
「みどり」
「あ、あたし、あおい探しに行ってくる」
 あたしは、まだじんじんと痛む足をひきつれて立ち上がった。
「待ってくれ、みどり」
 あたしは、黙ったまま立ち尽くしていた。
 顔を上げれば、あたしをじっと見つめているナイトと目が会ってしまうことが判っ
ている。今のあたしには、彼の視線がダイの仕打ちよりもよっぽど痛かった。
「みどり、俺は」
「言わないで」
「みどり?」
 ナイトの困惑した顔が、見なくても感じとれる。――だって、殺したくない。
「ごめんなさい」




 みどりは、さっきの場所から少し離れた、皮がざらざらしている木の下に座り込ん
でいた。抱え込んだひざに額をつけているので、表情は見えない。
「泣いてるの?」
「泣いてないよ」
 みどりは、血の上った顔を上げた。確かに、泣いてはいない。
 あたしは、微笑もうと努力をしなくてはならなかった。多分、ひきつっているよう
に見えたのだろう。みどりは、いぶかしげな感情を表情に少しだけ混ぜた。
「よかった。じゃあ、どうして逃げたの」
 みどりは、答えなかった。
「まだ、あの子のことを気にしているのね」
「忘れられるわけないじゃないっ」
 みどりは、私をぎっと睨んだ。相当ぴりぴりきている。
「あの子は、もうやってはこないわ」
「まだいる。たとえあの子が、王子様が忘れていたとしても、あたしが覚えている限
り、あの子は生きてる――殺したくないの」
 心から洩れたような言葉に、私は眉をひそめた。
「ナイトを好きになれば、あの子のことを忘れてしまうことになると思っているの?」
「当たり前でしょっ」
と、吠えたきり、みどりはまたうつむいた。
「ねえ」
「あたし、王子様のことが好きだった。あたしのことを、王女様にしてくれるって言
った、あの子のことが好きだった。少し大きくなって、王子様なんているわけないと
か、あの子がいつまでもそんなこと覚えているわけないとか、あまりにも子供じみた
夢だとか思ったりもした。でも、ずっとあの王子様のことが好きだった」
 説得する隙を与えないために、みどりは間髪入れずに一気に喋った。声が涙ぐんで
きている。彼女は、あの子のことをもう過去形で喋っていることに気づいていない。
 私は隣りに座り込んで、そっと肩を抱いてやった。
「なぜだかは判らないけれど、忘れられなかった。それなのに、今、あの子を殺せな
いよ」
 そっと聞く。
「それだけ?」
「怖いんだ。あの子のことを忘れちゃったら、殺してしまったら、今まで大切に持っ
ていたものを、今まで大事にしていたものを全てなくしてしまうような気がして。―
―変わるのはいい。変わっていくのは、仕方がない。でも、あたしは今までのそんな
ものも好きなのに。なのに……」
「どうしてナイトのことを好きになっちゃったんだろう」
 みどりは、身体を硬直させた。私は一つ息をつき、手を退ける。
 よくある防衛規制のパターンね。事実を認めたくないから、合理化してそれを受け
容れるのを拒否している。そんなことしなくても、いいえ。何をしたって、彼女がナ
イトのことをどう思っているかは、誰の目にも明らかなのに。セイトさんやエカさん、
リィンでさえ感じている。
 けれど、私はここで答えを与えてやるほど甘くはない。導くだけ。なぜなら、みど
りは私の真実だから。
「あのね、みどり。あんたは、ナイトのことぐらいであの子のことを忘れやしないわ」
 みどりの潤んだ問いかける目に、微笑みを返す。
「あんた、王子様のことが好きで、それで私や父さん母さん、おばあちゃんのことは
忘れてしまった?」
 彼女は目をぱちくりいわせ、気がつくと急いで首を横に振る。
「でしょう、それと同じことよ」
 みどりの顔を見ずに、子どもをあやすように肩をゆっくりと叩く。涙があふれるの
を、見たくない。
「あんたがたとえナイトのことを好きになっても、それは王子様のことを好きと思う
量よりも、ナイトのことを好きと思う量が少しだけ多くなるだけのことなの。王子様
のことが好きで、ナイトのことが好きで、王子様のことを好きな分から、ナイトの方
へ移すこともあるかもね。そうしていくだけよ」
 答えはない。
「大丈夫。あの子のことを殺すなんてとんでもない。あの子は、ずっと生きているわ。
あんたがそうしたいと思う限り、何でもあんたの中に生きてる。たとえ王子様があん
たのことを迎えに来なくても、彼は、あんたの中で、生きてる」
 みどりはいつまでも、じっとうつむいていた。

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