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 本作品は、世界設定ばらしが非常に多く含まれています。他のGreen-Blue talesシリーズを読んでからの方が、いいかもしれません。


碧 序章
碧 第一章へ
碧 第二章へ
碧 第三章へ
碧 第四章へ
碧 第五章へ
碧 第六章へ
碧 第七章へ
碧 第八章へ
碧 第九章へ
碧 第十章へ
碧 第十一章へ
碧 終章へ
碧 あとがきへ


   碧


                            Green-Blue tales

                              斎木 直樹

     第四章 黒い森、青い石

「痛っ。また切ったあ」
 私達は、森の中を私だけ黙々と歩いていた。この森に入ってから、もう二時間も経
っただろうか。まだ昼間のはずなのに、日の光がほとんどといっていいほど当たらな
いので、辺りは暗くじめじめとした湿気が肌にまとわりつく。
 今日は長袖に膝丈のスカート、腰に藤紫のスカーフ、何かの皮でできた膝下までの
ブーツといった取り合わせなのだけれど、これが暑くてしようがない。
「何でこんな道、歩かなくちゃいけないんだよお」
 みどりは、左右から私達を引っかいてやろうとつけ狙っているとがった枝でできた
               ノイローゼ
手の傷をなめなめ吠えた。半分、神経症状態になっているようだ。二人とも、セイト
さんに言われたとおりに長袖を着ているおかげで身体の中心部は保護されていたけれ
ど、表に出ている部分は残らず引っかき傷だらけになってしまっている。
「他に、道がないからでしょう」
 全く、この道といったら。最初のうちは、よかったんだよ。ある程度の広さがきち
んとある、一昨日言ったあの森みたいに明るくて気持ちよかった。
 だけど、セイトさんからもらった、すっかり変色してしまっているごわごわの地図
通りに進んでいくと、だんだんとそのようすが変わってきたんだ。
 まず光が当たらなくなり、道の幅が狭くなってきたかと思うと、すっかり獣道みた
いになっちゃって。とがった枝があたし達をひっきりなしに引っかいてくるわ、得体
の知れない不気味な吠え声は聞こえてくるわ。がさごそと、どこかで何かが動く音も
聞こえてくる。
「あーあ、こんなところで野宿するなんてなあ」
 グリーン王女殿下は、呑気な声でそうのたまった。
「嫌なこと言わないでよ、ただでさえこの森は危険だとか、セラフィムは凄い意地悪
だとか聞かされてきたのに」
 あおいは、刺の混じった声で返してきた。かなりいらついてるみたいだ。おおこわ。
 あたし達が、何のためにこんな薄気味悪い森に来たかというと、勿論、この前みた
いに遊びに来たわけではない。
 二番目の試練、つまり水の精の出した試練が、こういうものだったのだ。「泥の湖
に棲む、セラフィム・ラ・ナイアデスの持つものを携えてくること」。そのセラフィ
ムのいる泥の湖という湖が、この森――魔の森の中にあるのだそうだ。
「持ち物を持って来いったってなあ。泥棒しろってのかよ」
「さあねえ。まあ、とにかく行ってみましょう」
「そのまま行くと、森を抜けちゃうよ」
 一瞬、暗い森を静けさが支配した。
「あお、い。あんた何か言った?」
 私は首を振った。今の声、私達のじゃないわ。
「私よ」
と、頭の上から声がしたかと思うと、ざっと音を立てて何かが落ちてきた。いいえ、
降りてきた。
 それは、私達よりは少し年長に見える、長い黒髪を高い位置で結んだ女の子だった。
フードのついた、体型が判りにくい大きな黒衣を着ている。少しきつい顔立ちだけれ
ど、グリーン=ブルーには多いまあまあの美人だ。まだわずかに、幼さが抜けきって
いないところが可愛らしい。彼女の目尻が上がり気味な紺瑠璃の瞳は興奮してしっと
りと潤み、大きめの赤い唇はきゅっと締まっている。
「ま、とりあえず、こんにちは」
「はい、こんにちは……じゃなくて。どうしてそうなるのっ」
 あら、怒らせちゃったかしら。私は口元を覆い隠した。
「だって、まだお昼でしょう。時間的には」
 女の子は、何か言いたそうに大きく口を開いたけれど、妙な顔をしてつぐみ、巨大
なため息をついた。ふふ。
「それで、あなたの名前は」
 黒衣の彼女は、何かを自慢するように軽く上を向いて言いきった。
「私はニャーオ、ニャーオ・ウィッチ。一人前の魔女よ」
「ま、じょ」
 そんなもの、ここにいたのか。セイトさん、言ってたかな。
「なによ。まさか、あんたたち魔女がなんたるかも知らないわけ?」
 あたし達は顔を見合わせると、威勢よく頷いた。するとニャーオは頭を抱え、また
しても嘆息した。
「人間界から来たっていっても、王になろうってんだから予備知識くらいあるもんだ
と思ってた私が、ばかだったわ。そんなんじゃ、あのダイとナイトに勝つのは無理だ
ね」
 張りつめた何万本もの空気の糸が、きりりと音を立てた。数秒後、あおいは妙に機
械的な声で、ゆっくりと尋ねた。うへっ。
「なぜ、そのことを知っているの」
 喪服のような黒い服を纏った少女は、葬式には全くにつかない凄い微笑をしてみせ
る。
「そんなこと、このグリーン=ブルーの民なら誰でも知ってるわ。人間界から来た双
子が、あのダイとナイト様と王位を争ってるってね」
 彼女は、人間という単語と、双子という単語を強調して言った。
「でも、城以外で、たった六日前に人間界から訪れたばかりの私達の顔を知る者は、
どれだけいるでしょうね。しかもあなたは、ここにいる」
 あおいは冷たい眼で、苦しそうな顔で黙り込んでしまったニャーオをしばらく観察
したあと、急に愛想よくにっこりと笑った。
「それで、私達に何の用なの、魔女さん」
「あ、それよそれ。私はね、あんたたちを手伝ってやろうと思って来たの」
 手伝うだって?
 黒髪の魔女は勝ち誇ったように青い眼を見開き、腕まで組んで満足そうに一人笑ん
でいた。
「何よ。私じゃ不足だって言うの」
 あたし達は、多少舌足らずにまでなって、彼女を説き伏せようとした。
「そういう問題じゃなくってさ、こういうのって手伝っちゃいけないんじゃないの?」
「セイトさんだって、心配だけどって仰っていたのに」
「あのね。一人前の魔女の、この私が手伝ってやるって言ってんのよ。ナイトにはあ
のダイがついてるんだからね。第一、あんたたちこのまま行ったら森を抜けちまうん
だよ」
 みどりは、ふてくされた顔で反抗した。
「何で判るんだよ。あたし達は、地図通り来たんだからね」
 彼女は鼻で思いきり笑った。王族にここまで無礼なのも、注目すべき行動ね。
                    グリーンブルー
「ばかねえ、この道は獣道よ。この何十年、王族どころか、普通の妖精でさえこの森
を把握している者なんかいやしないわ。それで、その古びた地図がいまだに合ってる
方がおかしいのよ」
 何十年。いくらこの森が不気味だからと言っても、何十年も人が入らないなんて。
ここは、いい猟場のように見えるのに。
「では、なぜあなた、ニャーオは知っているの」
「あたしは、魔女の里が近いから、一人になりたいときはよくここへ来るのよ」
と、ニャーオはしぼんでいく風船のように言った。それを見て、あおいは今度は優し
い声で問うた。
「さっきから、一人前の魔女だって言っているけれど、それってすごいのかしら」
 すると、女の子はまた、勢いよく眩しいほどに顔を輝かせた。
「あったりまえでしょ。私の歳で魔女になるなんて、あたしの母さん以外にはこの百
年いなかったんだからわね」
 すっかり機嫌を直したらしい魔女っ子を確認すると、あおいはそれまでの愛想笑い
を顔から追い出し、氷でできた能面を取り出してつけた。うう、ニャーオはまだ気付
かずに呑気に笑ってるけど、こういう時のあおいって、すっげこわいんだ。
「こちらの名は、言っていなかったわね」
「知ってるわ。グリーン・グリーンブルーと」
「私の名は水越あおい、妹はみどり。私達の名にかけて問うわ。ニャーオ、あなたの
名にかけて答えなさい。あなたの目的は何」
「だから、手伝うためだって……」
 あおいの冷たい眼は、ニャーオの微かな声をかき消した。気まずい沈黙の間を取り、
あおいはゆっくりと尋ねた。
「あなたは、ダイの手の者なの」
「違う、私はナイトの味方じゃないっ」
 二人は、見つめ合っていた。ニャーオは悲しげな必死な眼で、あおいは冷静かつ酷
薄な眼で。と、あおいがふっと顔を崩した。
「いいわ」
「へ」
 ニャーオの呆気にとられた顔に、苦笑するあたし。この様子じゃ、何を言われたの
か判ってないな。
「ついてきていいってさ。いこか、ニャーオ」
「えっ」
「一緒に行きたいって言い出したのはあなたでしょう、魔女さん」
「そうだけども、でもどうして。本当は私、ナイトの陣営の者かもしれないのに」
 妙に焦ってるニャーオ。うーん、可愛い。
 あおいは、にっと笑う。ニャーオに心を許している証拠だ。
「そうかもしれないわね。でも、私はニャーオを信じる。あなたは、あまり上手い嘘を
つけるタイプじゃないし、さっきの言葉は本物だった」
「……試したな」
 黒髪の少女は恨めしそうに私をねめつけ、私は舌を出して応酬してやった。
「それに、どちらにしても私達にはたくさん味方じゃない方がいらっしゃるんだから、
魔女が一人くらい側にいたって大して変わらないわ」
 あおいの遠回しな言い方に、ニャーオは顔を不服そうにしかめた。どうも、こうい
うまどろっこしいことは嫌いみたいだ。親しみを感じちゃうな。
「たくさんって」
「まずダイ――ダークと、この試練を出したアクア。あとはファイアとハピネスね」
「ハピネスが?どうしてダークと」
「ハピネスとダークが仲がよくないことは、聞いたわ。でも、それはあくまで同じ妖
精の中でのことでしょう。人間との混血児なんかに、王位を渡すわけにはいかないと
思ったんじゃないのかしら。ましてや、ナイトはハピネスの血もひいている」
 ナイトの母親であるライムさんの祖父は、善の精の長だったそうだ。その上、今の
長はライムさんの従弟。これでナイト側につかないなんて、ありえないわよね。
 するとニャーオは、上目遣いになっておずおずと、それは最長老が言ったのかと尋
ねた。私は、その質問に軽く反応した。
「まさか。セイトさんがそんなことを仰るわけがないわ。むしろ隠しているくらいよ。
私達に帰られちゃ困るものね。彼ら、私達のような何も知らない子どもには何も判る
わけないって、どちらも敵意むき出しなんですもの。情報がある程度そろえば、あと
の推理は子どもにさえできるわ」
 私が丁寧に答えてあげると、ニャーオはひきつった顔で叫び気味に言った。
「あ、んた。ブルーって、もしかしてすっごい性格悪いんじゃないっ」
 私が口を開けたまま、何を言おうか思案していると、みどりがニャーオの肩をがっ
しりと握った。ニャーオがびくっとして振り返ると、そこにはまがいものの宝石のよ
うに目をきらきらと輝かせたみどりがいた。うげっ。
「よく判ってくれた。あたしは嬉しいよ。みんな信じてくれないんだもん」
 みどりは、泣きまねまでしている。ニャーオはあぜんとどう対処したらいいのか決
めかねているようだった。
「みどり、何だって?」
 みどりは、にこっと天使のような邪悪な明るい顔を上げた。
「あれ、聞こえなかった。もう一回言ったげよっか」
 私がみどりの頬をつねってやると、つねり返してくる。こいつっ。
 いつのまにか、ニャーオはくつくつと笑い出している。
「あんたたちって、変わってる」
「そうかな。よく言われるけど」
と、あたしが言うと、黒髪の少女はくしゅんと笑んだ。
「うん。でも、変わってるっていうか、こう、普通じゃないよ」
「人間の血が混じってるからかな」
 実は、人間界でもよく言われるんだけど。
「人間、か。あのさ、どっちか知らないかな。やよ」
 やよ?
「やっぱり、いい」
 あんまりよさそうではない顔でそう言うと、ニャーオは先頭に立ってきびきびと歩
き始めた。




 ニャーオの後について歩いていくと、唐突にさっきよりも数段に広くて歩きやすい
道に出た。しかし、どこか遠くから聞こえてくる何種類もの獣の吠える声と、圧迫感
があるまでの暗さは変わらなかった。それどころか、それらは時間が経つにつれてひ
どさを増していくばかりだった。
 特に、暗さの方は辟易するほどで、それこそもう真っ暗で、暗闇以外には何も見る
ことはできなかった。火をつける道具は袋の中にあったのだけれど、それに気がつい
たときにはもう真っ暗になっていたので、暗闇の中で使い方も知らないものを試して
みる気にはならない私達は、仕方なく何十回となくけつまづきながら、黙々と陰気に
歩き続けていた。
「この辺で休もうか」
 暗闇の中でニャーオの声がしたかと思うと、ぽうっと火の玉が宙に浮かんだ。
「ひっ」
 何か叫ぼうとして、その炎が魔女の手の中にあることに気づいた。赤く揺らめく炎
に照らされて陰影のついたその顔は、不可思議そうだった。
「何よ。まさかあんたたち、こんな火に驚いてるわけ?グリーンブルーのくせに」
「だって、そんなことまでできるなんて知らなかったんだもん。ついこないだ、魔力
があるってことを知らされたばっかなんだよ、あたし達。それより、何で今までつけ
なかったんだよ」
 ニャーオは茫然としたそうな、笑い出したそうな、泣き出したそうな、複雑な顔を
していた。
「あたしは、暗いところでも見えるから、さ。そんな何もできないで、よく王になろ
うなんて思ったね」
「自分でもそう思う」
 一笑いすると、手分けをしてキャンプの用意を始めた。夜もそんなには寒くならな
いということだったが、動物避けのためにも火を焚くことにした。枯れ木を集め、倒
木を引きずってきて椅子にする。
「ああ、お腹すいた」
と、あたしは嬉々として、エカさんが渡してくれた袋を開いた。
 中には、食事用のさっぱりとしたパン、焼き豚みたいな保存用の肉、ゆで卵、箱詰
めのサラダ、ももに似ている果物と赤い木の実、アップルパイそのものに見えるもの、
革袋に入った甘くかつさっぱりした飲み物、その他諸々。さすがのあたしでも、これ
は一人じゃ食べきれないや。
「当たり前でしょう、あんた一人のものじゃないんだから。ニャーオも、どうぞ食べ
てね」
 ニャーオは、むっつりとした顔でパイを一切れ手に取った。そして一口食べると目
を見開き、次の一口でぺろりと平らげてしまった。こんな旨いもの、食ったことない
ってとこらしい。くすくすいっているあたし達の前で、次の獲物に手を伸ばす。
「でも、なぜセイトさんは、魔女のことは教えて下さらなかったのかしら。全ての種
族について教えたと仰っていたのに」
 黒髪の魔女は、チーズののったパンに伸ばした手を引っ込め、自嘲的な笑みを浮か
べた。
「魔女は、嫌われ者だからだよ。汚らわしいってね。双子と一緒さ」
「なぜ」
 私の疑問に、魔女っ子は軽くひるんだ。そんなことを聞かれるとは、予想していな
かったようだ。
「なぜって、そりゃ双子は不吉だし、生まれつき魔力が強いからだよ。魔女の集落は、
魔力の強い外れ者が集まってできたところなんだ。魔女には双子も多い」
 魔力が強いから?
「では、王族も汚らわしいの?王家の者は、魔力が強いんでしょう」
 ニャーオは、不快そうに顔をしかめた。
「何言ってんだよ、グリーンブルーは聖なる者って言われてるんだからね。私はそん
なこと……知らないよ」
 魔力が強いから、外される。つまり、自分より色々なことができる者が恐いから、
排除するということね。確かに、大きな魔力は、それを持たない者にとっては脅威と
なる。魔女とは、そんな外れ者たちが作り上げた身分。
 よく似た姿、よく似た顔の妖精たち。もしかしてそれは、そうしようとしたからで
はないのか。皆、同じでいようとしたからではないのか。
 多数は少数を排除する。その法則は、ここでも成り立っている。ここも、幻想と夢
だけでできた理想郷なんかじゃない。環境は子どもの夢のようでも、そこに生きる人
たちは、現実のまま。争いも不公平なこともあれば、自分と違う者を恐れ、疎外し、
自分たちと同じ者だけと共に生きようとする。
 理想郷なんて、ありえない。




「人一人殺そうと思うのなら、もっと強く締めなくては駄目よ」
 死神の使いを気取ったのかのように喪服を纏った少女は、蒼白な顔で私の首から手
を退けた。見開かれた大きな青い瞳が痛々しい。
「なんで」
「あなたが飲み物に入れた薬のことかしら。私はあれを飲まなかった。もっとも、あ
なたとみどりは、食べるのに夢中で気づかなかったみたいだけれどね」
 魔女は、横で脳天気にむにゃむにゃ言っている顔に目をやると、もう何回目かも判
らないため息をつき、唇だけで笑ってみせた。
「それで、どうする。私を殺す?」
「どうもしないわ。二人でも一人前以下の私一人で、魔女のあなたにかなうわけない
しね」
 黒髪の魔女は一瞬得意げな顔をしたが、すぐに我を取り戻した。
「でも、それが理由じゃないわ。私を殺したかったら、どうぞ。仕方がないもの」
「何が仕方がないの」
「あなたを信じたから、よ。私はあなたを信じ、その結果殺されることになろうとも、
文句は言えない。もしあなたを返り討ちにしてなんとか生きながらえたとしても、そ
れは私として生きることにはならない。私は、私として以外の生き方なんてしたくな
いの。それにね」
 ニャーオはふてくされつつも、一応相づちを打ってよこした。
「何」
「もし本当に殺す気があったら、ニャーオは毒を入れていたはずよ」
 魔女には、薬剤師のような薬を扱う側面もあるのだそうだ。睡眠薬が手にはいるの
なら、毒も管理は同じようなものだろう。
 魔女っ子はしばしの間、真っ白になっていた。そして、悔しそうな、辛そうな、悲
しそうな複雑な表情になると、笑い出した。今度こそ、静かだけれど本当の笑いだっ
た。
「気分が直ったようね。じゃあ、みどり。そろそろ起きなさい」
「はーい、お姉さま」
 若い魔女は、息を止めた。
「あ、起きたのは途中からだよ。こういう、しちめんどくさくて意地の悪いことは、
根性のねじくれ曲がったお姉様に任せるに限る」
「あんたはいっつも一言多いの」
 あたし達がじゃれていると、ニャーオは洩らした。
「あんたたちって、本当に」
「なあに、変だって?」
 あおいは、ニャーオに優しく微笑みかける。
「ううん、それもあるけど。うん、上手く言えないな。脳天気じゃないし」
「そうそう。それはみどりだけ」
 あたしは、こらこらとあおいを軽く蹴った。
「そう……すごく、すごく」
 その時、消えかけた火の向こうの草むらで大きな音がした。
「何」
「あおいっ」
 本当にあっと言う間に、あおいはもの凄い速さで大木の上に現れた、でっかい黒と
紫色の縞のある蜘蛛の吐き出した銀色の糸に捕らえられていた。
 その蜘蛛は小型車くらいの大きさで、拡大鏡で見た蜘蛛がそこにいるかのようにグ
ロテスクだった。けれど、その口から出ている糸は対照的に綺麗な銀色で、人を魅了
するものさえあった。
 若い魔女は、夢見るように呟いた。
「マデリスク=マデリィン」
「何だよそれっ。こいつの名前なのっ」
「でも、こいつがこんなところにいるわけがないのに。山岳地帯にしかいないはず」
「現にいて、あおいは捕まってんだよっ。何とかしなくちゃ」
「――じょうぶ」
 もう既に全身銀色のヴェールに包まれて身動きもとれず、いつそれに喰われるかと
いう少女は、絞り出すように言った。
「だい、じょうぶ」
 あおいは、もううっすらとしか窺えない顔をしかめたまま目を閉じ、その瞬間、見
開いた。
 と、ものすごい轟音と突風が起き、あたしとニャーオはとっさに目をつぶった。風
に押され、退く。めりめりと木が割れていく音が、すさまじい音の中に聞こえた。目
を再び開くと、辺りの惨状はひどいものだった。
 あおいの立っている足下には銀色の糸が何千本となく散乱していて、その目の前に
は、いくつもの深い傷と無数の浅い傷を負った巨大蜘蛛が逃げ出そうと四苦八苦して
いる。その傷は周囲の木にまで被害を及ぼしており、何本かの木は倒れてさえいる。
まるで、局地的な強力竜巻が襲った跡地のようだった。
 あおいは、髪にへばりついている糸を忌々しげに振り払い、こちらへ歩いてくる。
彼女は傷一つ負っていないようだった。自分が信じた者には殺されても構わないと言
い切ったその直後に、襲ってきたものには容赦ないその態度は、いかにもあおいだ。
 魔女っ子はあぜんとした状態から脱し、呆れ半分感心半分に言った。
「マデリィンの糸は、鉄をも溶かす火でも溶けなければ、何をもっても切ることはで
きないと言うのに。なんて奴だよ、あんたは」
「あら、そうなの」
と、あおいはなんてことはないという顔をして言った。いつの間にか、あの蜘蛛は消
え失せていた。
「何が一人前以下よ。呪文も使わずにあんなことして、しかも息も乱さないなんて、
そこらの魔女でも敵わないじゃないか」
「一人前以下よ。ほとんど調節できないんだもの」
 若き魔女は、固まった。
「……まじ?」
「そうそう。ちょっと使い方を教えてもらったら、色々できるようになったのはいい
んだけど、なんか暴発しちゃうんだよね」
 みどりのやたら明るい声に私は目をやり、補足した。
「さっきも、木にあまり傷を付けないように気をつけたつもりなんだけれど、これだ
もの」
 魔女は、私達を代わりばんこに見つめていた。
「ところで」
「ナイト、と言うよりは、ダイなんじゃないのかなあ」
と、みどりは頬をぽりぽりと掻きながらのたまった。こいつは、全く。
 私は、一つ咳払いをすると、
「とにかく、仕掛けられたということは、湖は近いということよね」
 ニャーオは口をとんがらせて、あと少しだと肯定した。
「おそらく、先を越されたわね」
「ま、着くだけで上等って感じかな。ニャーオがいなきゃ道に迷ってたらしいし」
「あんたたちは……」
 ニャーオは頭を抱えた。
 森は暗いながらも、朝を迎えようとしていた。

 そこは、辺り一帯ミルクを薄めたような不透明な白っぽい霧に覆われていた。足下
の土の色さえ判らない。どこからか聞こえてくる単調な、ハープを弾くような、ぽん、
ぽんという音が、耳を騒がす。
「何これ……」
「先が見えないわ。みどり、あまり先へ行かない方が」
と、私がみどりの声のした方へ手探りをしながら言った矢先。
「わっ」
「どうしたのっ」
「足が――抜けない」
 すると、その時を待っていたかのように、急速に霧が退く。みどりは、思っていた
よりも私とニャーオから離れた場所に立っていた。目を凝らしてよく見ると、みどり
の脚が黒い泥の中から生えていることに気づく。
「みどりっ」
 私が駆け寄ろうとするのを、ニャーオは腕をつかんで止め、首を振った。
「泥の湖から這いあがった者はいないんだよ。力も効かない」
 みどりは一生懸命あがいてはいるが、足は抜けないどころか、ずんずん泥の中へと
埋まっていく。底なし沼。
 その時、この場に似つかわしくない、くすくすと笑う声が聞こえてきた。若い女の
声だった。
「誰だっ」
 魔女の問いに応えたのは、嘲りそのものの鮮やかな笑いだった。彼女は大きな岩の
上で、くすくすと笑い続けている。
 長く足下まである不揃いな、強い癖のついた黒髪は素肌の上に垂らされ、巧みに裸
の胸を隠してある。切れ長の濃い色の目はつり目気味で、冷たく静かに私達を眺めて
いる。鼻筋はすっと通っていて、赤く大きな唇は白い肌によく映えていた。
 そして、その女には、足がなかった。足の代わりに、魚のような青緑色のてらてら
と光る鱗の尻尾がついている。そう、彼女は人魚だったのだ。しかし彼女には、その
尻尾をより自分を高めるもののようにみせる美しさがあった。その美しさは、他の妖
精たちにはないもので、言葉には表しにくいのだけれど、こう、誰もにすっと背筋を
伸ばさせるものがあった。
 私はすっと息を吸うと、ゆっくりと、一言一言できるだけはっきりと言った。
「セラフィムさん、みどりを助けて下さい」
 セラフィム・ラ・ナイアデスは微かに眉を寄せただけで、顔には笑みを絶やさない。
「もう一度言います。みどりを、助けて下さい」
 そうしている間にも、みどりの足は着実に埋まっていく。膝から、ももへと。
 人魚はみどりの方を見ると、再び勝ち誇ったかのような笑顔を浮かべた。
「私は、お前たちにふさわしい罰を与えているだけだ」
「罰?私達は、まだ何もしていないわ。何に対する罰だと言うの」
「さっき、出かけた隙に王族の者が私の持ち物をほとんど全て奪っていった。お前たち
もグリーンブルーだろう、同罪さ」
 腰から胸へ。
「そんな、あいつらと私達は……ああ」
 胸から肩へ、そしてあご。
「――んなところで」
 セラフィムは、細い眉をしかめた。
「こんなところで、死んでやらない」
 そう言った直後にはみどりの口は泥の中へと沈み、鼻も埋まっていった。そして、
その強い意志を込めた、目も。
 私は息を吐くと、人魚に向かって言った。
「みどりが死んでいたら、私、どうしていたか判らなかったわ」
「死んでいたら?」
 私はにっとすると、みどりの沈んでいった場所へさっと目線を移した。
 大きな音がしたような気がし、泥まみれの物体が勢いよく上がってきた。人魚と魔
女は、何も見えていないような目でそちらの方を見ていた。
 みどりは黒い顔を泥まみれの手で拭うと、にこっとセラフィムに笑いかけたように
思えた。
「セラフィムさん、ですよね。この泥、何とかなりませんか。やり方わかんなくって」
「え、ええ」
 真っ白になっていたセラフィムは首を振ると、ぱんと手を叩いた。すると、みどり
についていた泥どころか泥の湖までなくなり、あとには宙に浮かんでいる多少湿った
みどりと、泥のあったところには綺麗な深い青緑色の湖が残った。
 みどりは、目をぱちくりさせながら、すとんと着地した。泥の感触を確かめるよう
に、手をしげしげと見つめる。
「今のは」
「幻覚よ。セラフィム・ラ・ナイアデスお得意のね。ばあさまに聞いたことがあるわ。
でも、泥の湖まで幻覚だったなんて知らなかった」
 セラフィムはわずかに興味を示したようで、それはサマンサのことかと尋ねた。
「ええ。サマンサ・ウィザードは私の師匠にして、育て親です」
「そうか。あの子は昔、この湖によく来ていた。ところでそこの娘たちよ、お前たち
は双子かい」
 私達が肯定すると、彼女は下を向いて一人何事かを呟いていた。
「そうか、グリーンブルーの双子なら――いや、しかし」
「あの、セラフィムさん。私達の話を聞いていただけますでしょうか」
「え、ああ。言ってみなさい」
「私の名は、ブルー・グリーンブルーです」
「あたしの名は、グリーン・グリーンブルー。セラフィム・ラ・ナイアデス、今日は
お願いしたいことがあって参りました」
 私達は、九つの試練のことを話した。セラフィムはときどき相づちを打ちながら話
を聞いていたが、最後に一つ質問をしていいかと尋ねた。
「今度の試練は、どの長老が出したのかな」
「……アクア、です」
「そうか。やはり、な。私達は昔から邪魔者扱いはされていたが、ここまでするか―
―」
 セラフィムは気落ちするでもなく、静かな目をしていた。
 黒髪に黒い瞳は闇の精、金髪碧眼は善の精といったように妖精は種族によって、大
体外見が決まっている。長の外見が、その種族の特徴を如実に表していると言ってよ
いだろう。セラフィムは髪は黒なので、普通で言えば大地の精か闇の精なのだが、水
の精の血の方が濃いということだ。
「それで、セラフィムさん。あたし達に何かあなたのものを、頂けないかとはいいま
せん。貸していただけないでしょうか」
 セラフィムは軽く肩をすくめると、
「貸すもなにも、さっき言ったように、私のものは身につけていたこれ以外、あやつ
らに全て持って行かれてしまったからな」
と、セラフィムはどこからか定期入れぐらいの大きさの白っぽい金属でできているよ
うに見えるものを取り出した。それは、どう見てもここの科学力では作り出せるはず
のない代物だった。
 彼女は一人そっと優しく微笑むと、どうやってか携帯用の鏡のようにぱかっとそれ
を開いた。すると、それの下の面から鉛筆ぐらいの背の高さの若い女の人の映像が宙
に浮かび上がった。銀髪のその人は、セラフィムを少しふくよかにさせた感じで、と
ても綺麗だった。彼女はひたすら優しげに微笑んでいたが、定期的にはいるノイズが
それを壊している。
「これも、あなたが作った映像ですよ、ね」
「いいえ。姉が、城から持ち帰った物なの。たった一人の肉親であった双子の姉の、
たった一つの形見」
 そんな、ばかな。立体映像がこんなにコンパクトに――魔法よ、魔法に決まってい
る。魔力によって、記憶を映像化しているのよ。
「お亡くなりになったんですか、お姉さん」
「ええ。ずっとずっと昔にね。これを渡せたらいいのだけれど」
 私は首を振り、しっかりとした声で言った。
「いいえ、結構です。私達も母と祖母を亡くしましたが、たった一つ遺された形見を
他人に渡す気にはなれませんから。何もないのなら、仕方がありません。ありがとう
ございました。そして、すみませんでした」
「何を謝る」
「先ほどあなたが仰ったように、私達がいなければ、ナイトたちがあなたの持つ物を
持ち去ることはなかったでしょうから」
 セラフィムはただじっと私達のことを見つめていたが、その瞳は、今までとは違っ
た色を映していた。
「それは、別に構いません。元々、あまりたいしたものはなかったのですから」
「では、失礼いたします」
 これで、王にはあのナイトがなるのか。それも致し方ない。私達が甘すぎたという
ことだ。
「待って」
 あたし達が振り向くと、そこには美しい妖精の真摯な顔があった。尻尾が消え、髪
の毛も腰の辺りまでに短くなっているし、服も着ている。外見も、幻覚だったのか。
「お待ち下さい。もしかしたら、私は間違っているのかもしれませんが――いいえ、
きっとそうなのだわ。これを」
 差し出された手には、野球のボールくらいの大きさの青い、宝石のような玉が乗っ
ていた。ナイトの瞳のように綺麗な深い青のその玉は、あたしの手に乗ると、ぽうと
静かに光り始めた。セラフィムさんはそれを見ると、とても優しくにっこりと笑った。
「これを、預かっていて下さい。私のものではありませんが、持っていけば長老たち
は認めるでしょう。必要なときには私が取りに参りますので、どうぞお気になさらず
に」
「ありがとう、セラフィムさん。またいつか。さようなら」
 あたし達はすぐに歩き始めたので、そのあとセラフィムが呟いた言葉は、彼女自身
の耳にしか入らなかった。
「またいつか、お会いいたしましょう――二人の王よ」

 しばらく歩いたあと、なぜか茫然としていた魔女っ子が呟いた。
「――んじらんない。あのセラフィムが、青玉を手放すなんて」
「青玉って、これのこと」
 ニャーオはまたしても、信じられない、なんてものを知らないのこのアホどもはと
いう顔でこっちを見た。
「まさか、本当に知らないの。五聖玉の、青玉よ」
 知らないもん。
「だーっ。何なのよ、もう。最長老は何してんの。聖玉の伝説なんて、五歳児でも知
ってるわよ」
「だから、何なんだよ」
 あたしが不機嫌そうに尋ねると、ニャーオはたっぷり勿体をつけて教えてくれた。
「五聖玉はこの国グリーン=ブルーを守るために作られ、グリーン=ブルーの最盛期
の王は聖石全てを持っているという伝説があるのよ。そのうちの一つが、これってわ
け」
「ふうん」
「ふうんじゃないの。色々な王が集めようとしたんだけど、大体の聖石はありかもわ
かんなくって、やっと青玉は百年ほど前にあのセラフィムが持ってるって判ったんだ
けど、絶対に手放そうとしなかったんだからね」
「ふうん。百年ほど、前って。セラフィムが、何」
 魔女っ子は目を瞬かせると、何が不思議なのという顔をした。
「セラフィムは、何百年以上もあの湖に独りで住んでいるのよ。少なくとも三百年は
っていう話だけど。この森は危険だからってこともあるんだけど、セラフィムがいる
から、この森は魔の森って言われてるんだよ」
 さんびゃくだって。
「あのさ、妖精って、みんなそんな長生きなの」
「ううん。寿命は五十か六十くらいよ。ただ、セラフィムとかみたいに特別に大きい
力を持っていて長生きしたいと思った者には、ときどきそういうのがいるの。うちの
ばばさまも、もう百五十いってるっていうし」
 魔女のサマンサ、か。なんか、何とかは魔女みたいだなー。安易なネーミング。
 でも、まあとにかく、これで第二次も通過、かな。
 あたしは、ちょうど顔に当たる木漏れ日に、手をかざした。

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