大正9(1920)年7月、山田守は帝大卒業と同時に逓信省に入省、終戦までの間電話局舎をはじ
めとする多くの局舎の設計に従事した。(また関東大震災後は復興局の委託で復興橋梁の設計
にも関与した。)その一方で、大正9年2月に結成し継続して開催された分離派作品展に出展し
続け、強い個性に基づく滑らかな曲面へのこだわりはその顕著さから、日本における表現主義
建築家の代表格ともみなされる。
山田は卒業を目前に控えた大正9(1920)年3月の『建築世界』誌上において、小論「建築実態
の研究に着目して建築観念を向上せしめよ」を発表し、議事堂コンペ案などを批判しつつ様式
主義に代って合理主義的な建築を目指す姿勢を表明している。そこにドイツの建築の最新の傾
向すなわちH.ペルツィッヒによる即物主義的姿勢の影響を垣間見ることが出来るが、ちなみに
表現のレベルにおけるペルツィッヒの影響については当時から指摘されている。
同年7月の第1回分離派展開催時の小論「吾人は如何なる建築を造るべきか」(『分離派建築
会 宣言と作品』所収)において、歴史様式に取って代わる抽象的な表現手段として「自然式」,
「リズム式」などを提案した。これらは実際に「門司電話分室」,「牛込電話分局」,「東京中
央電信局」などで試されたものと考えられる。
1929(昭和4)年から翌年にかけてヨーロッパへの海外視察を果たし、帰国後は「荻窪電話分
室」,「東京逓信病院」において国際様式的な作品を生み出すようになる。さらに戦後逓信省を
辞し独立した後は「東京厚生年金病院」をはじめとするいくつかの病院建築、あるいは一連の
東海大学校舎などにおいて、Y字形平面に代表される流麗さを湛えたプランによる国際様式的
モダニズムの建築へと作風を新たにした。
戦後に至って表現方法には若干の変化が見られたものの、山田の持ち味として根底に潜む
「流麗さ」,「運動感覚(ダイナミズム)」については戦前の逓信省時代から戦後に至っても一
貫して変らずこだわり続けられていた。すなわち自己に内在する感覚に忠実であり続け、また
ダイナミックな表現への指向、いずれをとっても日本には稀有な建築家なのであった。
(記述更新 2011.6)
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