分離派建築博物館--山田 守の建築--

パラボラ宇宙の種子 〜「分離派建築会の作品」等からの抜粋による図面・ドゥローイング〜 -2-


ある電話局の草案 1921年, ある電話局の平面

設計:山田 守...............................................................年代:1921(大正10)年


ある電話局の草案--山田守(「分離派建築会の作品 2」より)
「ある局の草案1921年」と題されたこの立面図は、山田が逓信省内における設計図面を「分離派建築会の作品 2」
に掲載したものである。(作品展は1921(大正10年)10月20日から24日まで日本橋白木屋で開催され出版も開催日
と同日である)
この図面が具体的に建てることを前提とした設計案なのか、それとも営繕課係長の指示のもとに作成された標準
モデル案であったのかなど様々な推測がなされている。また様式的な要素が見られるところから本当に山田自身
がデザインしたものか確実なことは言えない。
同展には装飾が少なくモダンな中央電信局のための「あるオフィスビルディングの草案」が出品されており、ま
たこれと同傾向の牛込電話局もこの頃には設計が済んでいたはずである。この2件と歴史主義的な「ある局の草
案」のデザイン上の乖離が大きいことが最大の疑問である。

しかし山田守にとって思想上かつ実際に現場を手伝った先輩でもある岩元禄は柱頭の無いフルーティング付ピラ
スターを青山電話局や西陣電話局の一部でも使用していることから、分離派山田の岩元に対する敬愛を示す目的
で誰の設計かはともかくとして岩元風の柱のある案を出展したかったのではないかと推測している。
岩元の2つの電話局は大正10年に着工し同年中に西陣局は竣工し翌年に青山局が完成する。しかし同年岩元は東
京大学に助教授として迎えられ逓信省を退く一方、結核を発病し分離派展の行われた頃に休職し療養に入った。
山田守や岡村蚊象(山口蚊象)が岩元禄の現場をアシストしていたころの出展図面ということになる。
                                        (記述更新 2006年)

ある電話局の平面--山田守(「分離派建築会の作品 2」より)
上記立面の局舎の平面図。
下関市に建つ下関電話局(現 下関市役所第一別館)に立面での類似点が多いことから、山田の名の入ったこれら
図面から山田守の設計ではないかと一時期話題になった。しかし敷地形状など図面と建物と必ずしも整合してお
らず、図面のデザインも山田自身が下関電話局のためにデザインしたものかはっきりしたことは今も不明である。
一方で建物の調査も行われたがやはり下関電話局の設計者の特定に至らなかった。しかし誰の設計かにかかわら
ず和田信夫営繕課係長が推進した大正12年前後の標準電話局舎として唯一残る貴重な建物であることには変わり
なく、1999年暮れに保存が決定された。 
                                        (記述更新 2006年)


あるスパンドリルの彫刻の草案,ある天井の透刻の草案
設計:山田 守......................................................................年代:1921(大正10)年


ある天井の透刻の草案,あるスパンドリルの彫刻の草案
スパンドレルの彫刻にみられる女体のモチーフは先輩である岩元禄が建物のレリーフのデザインに好んで
採り入れていたもの。どの建物の試案なのか具体的なことは不明である。