電信業務の中枢及び無線通信業務の一部を担う目的で建てられたこの建物は、逓信省にとって最新技術
を担う施設にふさわしい最先端デザインであったのはもちろんだが、むしろ山田守が一方で所属する分離
派建築会のデザインを象徴する建築として、また山田守の出世作として知られることとなった。
当時山田の上司であった和田信夫は、意匠を簡略化し効率的に多くの局舎を建設するための「標準設計」
を推進しており、連窓縦長窓や柱型に限定した外壁のデザインと内田式流水防火装置を備えることを部下
に求めた。また流水防火装置用の屋上ペントハウスの水槽にはアーチあるいはパラボラアーチの屋根をあ
しらうこともあった(下関電話局,福岡郵便局電話分室など)。
和田から東京中央電信局の設計を命じられた山田にとって標準設計は自由な創造の妨げに他ならず、そ
の隙を突くデザインを模索し、さらに様式性を排除した独自の抽象的造形を大胆に試みた。山田は、分離
派結成の1920年の第1回展覧会の際に発行された「分離派建築会 宣言と作品」(1920)に寄せた小論「吾
人は如何なる建築を造るべきか」の中で考案した「リズム式」の造形を逓信省内の仕事で試みてい
た。例えば1922年竣工の牛込分局,1924年竣工の門司郵便局電話事務室などが該当すると考えられるが、
東京中央電信局が集大成的規模と内容を持つことになった。
なお、ここで多用されるパラボラアーチなどのアーチ窓の要素は、西欧のドイツ表現主義の建物などで
既に散見されるが、日本の逓信省の建物に限ってみても森泰治の同時期の建物などで既に見出される。従
って山田守が省内で初めて採用したのではないと考えている。
頂部のパラボラアーチの反復は抽象的でリズミカルな新しい表現となっていおり、総タイル貼りの白い
建物は一般にも人気を得た。その反面、合理主義を標榜する方面からの新聞紙上における批判も起こり、
曲面に満ちた外観やタイルが必然性を欠く無駄な飾りに過ぎないという主旨の指摘があった(*1)。これに
対して山田は、柱型の内部は中空でダクトの機能を持つこと(結果的にアーチと一体化して機能を分節す
るデザインとなっている)、また美的要素は無駄ではなく必要であるとするなどの説明でかわし、瀧澤も
論戦に加わったが議論は平行線のまま終った。
こうしたエピソードが示すように、分離派は従来の様式的建築を創造性の欠如という部分において否定
し、主観的な創造を標榜した結果ドイツに興った表現主義的な意匠とも似た新傾向のデザインを作り世に
問うた。しかし1925(大正14)年の時点において、より若い世代による合理的で新即物主義的な方向を求
める動きも次第に高まりをみせるなど、大正期の建築をめぐる状況がめまぐるしい変化の渦中に置かれて
いた事実の一端を、この建築を通して知ることが出来よう。
(記述更新2011.8)
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