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ぷにぷに新報 第4号 1頁 発行1994年(平成6年)1月1日
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花穂と命名しました
1993.SEP
1993年(平成五)9月30日午前6時24分。木村重雄、由美子夫妻に第2子長女が誕生しました。
長女は夫妻により「花穂」と命名されました。

長女出産ドキュメント
妊 娠
由美子が体調の変化に気付いたのは1月中旬(1993)。妊娠かな?と検査薬で自分で調べたらやはり陽性でした。
その夜、重雄はすかさず一人ワインで乾杯。
私の記憶が確かならば、買ったのは赤のレゼルブ。
近所のコンビ二で350mlのミニボトルを求めました。
もっとも後日訪れた産婦人科では検査するにもまだ早すぎて妊娠と断定するには「?」がつくといわれたそうです。でもすぐ軽いつわりもはじまって、私たちは妊娠をその時点で完全に信じてましたけど。
つ わ り
長男の峻太郎の時もそうでしたがおハナ坊の妊娠中も由美子は激しく長いつわりに悩まされました。どうしても食事が喉を通らず、入院点滴の生活もしました。
入院期間は短かったですけど、由美子は病院、しゅんたろうは実家
のばあちゃんち、家には重雄と猫と、一家離散状態でありました。
お腹が目立ち始めた頃にはつわりもようやく収まりましたが、ますます元気なしゅんたろう相手に夏を乗り切るのも一苦労でした。(冷夏でホント助かりました)
夜 明 け
由美子の陣痛が始まったのは前日の夜でした。
峻太郎の出産のときにかなり時間がかかったので、今度もそうだろう、病院には翌朝行けばいいやと、ひとまず布団に入りました。
ところが、陣痛の痛みは増すばかり。これはいけないとついに午前3時過ぎ、車で病院に駆け込んだのです。
診察後、病室には入らずそのまま分娩の控え室に。ますます激しくなる陣痛にじっと耐える由美子。ただおろおろとして、右往左往するだけの重雄。
そんな二人の上を大きな陣痛のうねりがいくつも通り過ぎ、いつか東の空も白み始め、ほどなく朝焼にくもり硝子が真っ赤に染まりました。
窓を開けると清冽な空気とともに、昇ったばかりの太陽の光が部屋に飛び込んできました。
それは何とも荘厳な、一生涯忘れることの出来ない最高の夜明けとなりました。
立 ち 会 い
初対面のおはな坊をじっと見つめるゴッちゃん
それからすぐに由美子は分娩台に上がり、重雄も白衣にマスクをして立ち会い出産に挑みました。
立ち会い出産は夫婦の共同作業とはいうものの、結局のところ由美子の一人舞台。重雄の役は励ましの言葉をかけ、手を握ってやるくらいのもの。
情けないもんです。先生も看護婦さんも一生懸命やってるのに、父親は何の手助けも出来ないんですから。じゃまにならないようじっとしてるのが関の山。
由美子のたくましさと、無力な自分との対比に自責の念にとらわれていると、思いのほかするりと、私達の世界におハナ坊は生まれてきました。
その瞬間のことは言葉にできるものではありません。父と母とそして輝ける朝日に祝福されて、おハナ坊は産声をあげました。
取り上げてくれた先生も、看護婦さんも、おハナ坊も、そして私達の姿も、皆、朝日に包まれておりました。
名 前 に つ い て
「かほ」と読みます。花は桜。日本人が最も愛する、そして日本を代表する桜の花です。もちろん、峻太郎の太郎に対する。花子の花でもあります。
穂とは稲の穂です。実りの秋の収穫を待つ稲の穂です。昨秋(1993)は、数十年振りという凶作。日本が稲作文化の国であることを再確認した年となりました。その大切な稲の穂です。
桜咲く春、収穫の秋。花穂とは美しい日本の自然、四季を象徴してつけた名前なのです。
太 郎 と 花 子
これから世界はますます国際交流の盛んな時代に進んでいきます。でもそれは無国籍化ではなく、逆に互いの国を理解し合った上での交流です。
世界に飛び出す前に、まず日本に生まれて、日本で育ったことを忘れないで欲しい。そう願って2人には典型的な日本人名である太郎と花子からとった名前をつけたのです。
お は な ぼ う
おはな坊を歓迎するしゅんたろうとぷにぷに
花穂の愛称は「おはな坊」です。花穂→ハナホ→オハナボウというわけですが、ここだけの話、本当は矢印が逆で、初めに愛称が決まり、おはなぼうと呼びたいがために花穂の漢字を当てました。
敬愛する志村けんが、[だいじょうぶだあ]の中で石野陽子と親娘を演じるコントをしていました。その娘の名前が[おはなぼう]だったのです。
おハナ坊はそこから取りました。決して石野陽子のファンだからでなく、その親娘の姿がとても素敵で、あのような親娘像に憧れたからです。
母親は
93年、由美子は妊娠、出産と父親以上の働きをした1年となりました。ほとんど行楽らしい行楽もせず、つわりに耐え抜き、反抗期の峻太郎の成長を見守り、おハナ坊を出産する。孤軍奮闘の一年。
その間、父親と言えば…… 尾瀬や伊豆に遊び、中華街を歩き、峻太郎とプールで泳ぎ、はとバスに乗り、と、有り難く過ごさせていただきました。
感謝。
550段
真っ赤な階段が永遠に続く
峻太郎が3才になる直前の9月、父子2人で東京見学をしてきました。
旅行サークルの仲間と、はとバスに乗ってきたのです。皇居も見学したし、観光バスにも喜んでましたが、一番楽しんだのは東京タワー。
150メートルの大パノラマも恐がらすに大はしゃぎして、帰りは550段の階段を歩いて下ったのです。
父と子の初めての小旅行。峻太郎はこの日のことを大人になっても覚えていてくれるだろうか、お土産屋さんではとバスのミニチュアを子供にせがまれながら、東京タワーとおない年の父親はそんなことを思うのでありました。
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