分離派建築博物館

「分離派」について

「分離派」の結成:
分離派は大正9年に結成された日本初の建築デザイン運動グループの名称です。当時、卒業を間近に控えた東京
帝国大学建築学科の学生有志数人で結成し各自が計画案や実作の写真などを持ち寄り展覧会を行なうかたちで活
動しました(#1)。その活動は昭和初期まで続けられます。
メンバーは当初堀口捨己山田守石本喜久治森田慶一、瀧澤眞弓、矢田茂ら同期生が中心でしたが、後に
蔵田周忠(当時濱岡周忠)と山口文象(当時岡村蚊象),大内秀一郎が加わりました。
彼等は分離派終息後もそれぞれ建築の各分野で活躍し独自の道を切り拓きました。
「分離派」という名称の由来は、過去の建築様式から分離し新たな建築づくりをめざそうとしたところから名付
 けられました。

#1 展覧会作品集「分離派建築会の宣言と作品」の表紙(1920)

大正時代の状況は、他の芸術分野と同様に建築デザインの分野においても、明治期以来の国家建設的使命による
ヨーロッパの伝統的様式建築の移植も一段落し、個人の主観性やロマンチシズムを尊重する気風が芽生え始めまし
た。堀口捨己が「ああいう白樺派運動のようなことを建築でやりたい」(*1)と語ったことが結成の動機のひとつだ
ったと言われています。
勿論、建築の芸術性を追うこうした姿勢に対して当時は否定的な考え方も根強く、建築を工学技術による実用物
と位置付けて芸術性を否定する考え方が根強かった時代です。例えばそれは野田俊彦の挑発的な論文「建築非芸術
論」に象徴されていました。(但し、かく言う野田自身の画才は卓越していた)
一方西洋に目を向けると、20世紀を過ぎた頃から近代建築の様々な思潮が明確に過去の様式建築に対立するか
たちで生まれ、それらは日本にも雑誌等を通して伝わり表層的ではあっても当時の若手建築家達を大いに刺激しは
じめました。イタリア未来派,ドイツ表現主義,ロシア構成主義,ウィーン・ゼツェッション,等。 
このように、内外の状況の変化に呼応して、当時の日本にも内容はともかくとしても何かしら新しいムーブメント
が旗揚げされるべき気運が生じており「分離派」の誕生も必然的な出来事だったと言えるのでしょう。

大正期は、分離派結成から遡って既に日本の建築に変化をもたらすさきがけにあたる建築家が萌芽的な活動を行っ
ていました。後藤慶二(多摩監獄等(一部保存)を設計)、岩元禄(逓信省の建築、及び「尖塔社」に参加)、らが
おり自己の主観性を打ち出した活動を行っていましたが、彼らは早く世を去り大きな流れをもたらすまでには至り
ませんでした。また、本野精吾はドイツ留学から帰国後ペーター・ベーレンス風の最新のデザインで西陣織物館
(現存)を設計しています。他に、藤井厚二は新しい感覚の和風住宅(聴竹居(現存))を生み出したという意味
で昭和3年のことながら特筆されるべき存在です。
ともあれ、分離派の登場によってはじめて建築デザインの変化を広く世にアピールすることになりました。
                                                     (*1:「建築家 山田守」(向井覚)P.94)

「分離派」のデザイン:
「分離派」という名が示すように過去のデザイン様式から分離するという方向性のみを旗印に集結した運動で
実際に展覧会等では分離派メンバーはそれぞれ一匹狼的に持論を展開しています。
しかし、実際のところ当時の日本は先進ドイツの動向に眼差しが注がれ、とりわけドイツ表現主義建築の影響
が濃厚でした。彼らにしてみれば「分離派様式」は有り得ないはずですが、分離派=日本の表現主義建築とい
う見方から逃れられない一面もありました。
実際の造形は古典様式を排したボリュームによる造形、幾何学形状や曲線や曲面の多用るいは半円や放物線状
の窓を取り入れた造形、建築に主観的な詩的な、ストーリー性を感じさせるなどといった傾向が顕著でした。
特にモダニズムを先取りした部分は、今日分離派が評価される主要な点だと考えられます。
やがては一時的な流行現象の如く波及し日本のあちこちにそうした建物が出現しました。(#2)

#2 半円窓を多用した建物(平和記念東京博 建築館)

「分離派」の活動の経過:
概略以下の表ような経過で作品案や就職先における担当の建築を持ち寄りながら作品展を繰り返されました。
第5回からは公募展のかたちをとり昭和以降は石本氏と分離派のありかたについて意見が別れ石本氏脱会と
ともに自然消滅しました。
(「建築家 山田守」(向井覚)年表を参考に作成 )
年代作品展場所備考
1920(大正9)年2月結成 、習作展帝大第二学生控所
1920(大正9)年7月第1回展白木屋「分離派建築会 宣言と作品」刊行
1921(大正10)年10月第2回展白木屋「分離派建築会 宣言と作品 第二」刊行
1922(大正11)年5月関西第1回展京都高島屋石本喜久治渡欧送別会
1923(大正12)年6月第3回展京橋 星製薬堀口捨己渡欧送別会
1924(大正13)年6月関西第2回展大阪三越
1924(大正13)年11月第4回展銀座松屋「分離派建築会 宣言と作品 第三」刊行
1926(大正15,昭和元)年1月第5回展白木屋
1927(昭和2)年1月第6回展白木屋
1928(昭和3)年9月第7回展日本橋三越

分離派の活動以後も、生涯設計活動を行なったのは、堀口捨己,山田守,石本喜久治,山口文象,蔵田周忠で、
森田慶一と瀧澤眞弓は当初設計を行なっていましたが大学で研究者として名を残し、矢田茂は卒業してすぐに大
手建設会社に勤めたことが知られています。
分離派結成以後、当時の日本の設計活動を取巻く状況に影響を及ぼす大きな出来事が起こりました。
まず、大正12年の関東大震災です。首都近郊が壊滅状態となり、防災上の観点から都市や建築物のあり方につ
いて大きな見直しが行われました。(#3)それまでの煉瓦造に代わって耐震性と防火性に有効な鉄筋コンクリートが
素材として普及しはじめました。そのことはまたコンクリートという素材による新しい表現への模索が始まったこ
とをも指しています。
都市の様相の変化を示す顕著な例としては、同潤会アパートや震災復興事業として建てられた復興教育施設が挙げ
られるでしょう。復興小学校のうちのいくつかには分離派的なデザインが取り入れられています。
大正時代の日本の社会思想的状況の変化には、共産主義の勃興によるプロレタリア芸術の出現が挙げられます。
はじめ分離派のメンバーであった山口文象は「創宇社」を結成して東大エリート達の純粋芸術に対抗するかたちで
プロジェクトを行なったことが知られています。
尚、分離派の活動とほぼ同時期に美術方面で旗揚げした村山知義らのグループ「マヴォ」は、日本的なダダイズム
から構成主義へ変化し、プロレタリア芸術への指向を持ちつつ美術、舞台芸術や建築デザインなどでセンセーショ
ナルな活動を展開していました。

尚、実際のところ分離派メンバーによる表現主義的なデザインはそう長くは続かず、ル・コルビュジェの作品に
代表されるモダニズムの流入は、建築界において昭和初期には既に無視できない潮流となりました。
分離派のメンバー達もそれぞれ渡欧するなどそれぞれが咀嚼するかたちで新しい建築のあり方について追求し、
宣言に示された「過去建築圏からの決別」は、結果的にこの流れに沿って実現されたと言えるのかも知れません。

#3 関東大震災で倒壊した煉瓦造建築(浅草陵雲閣)

  ドイツ表現主義建築:
 当時のヨーロッパにおいて、形骸化していた様式建築に対抗する様々な近代建築のうちのひとつの傾向とし
て位置付けられます。表現主義はしかし、ある様式を指すものではなく、建築運動として存在していたわけで
もないのです。作家個人のある時期の表現傾向やある地域に見られる表現を括ったと言った方が良いかも知れ
ません。
  その最初の例と認められているものは、ドイツ工作連盟ケルン展におけるブルーノ・タウトの「ガラスの家」
とされています。(#4)ガラス−結晶体への憧憬が強く込められ、建築を単なる地上に存在する物質としてだけ
ではなく、タウトはこの頃、建築を作家の主観性によるひとつの「詩」のようにとらえており、幻想の赴くま
まを機関紙「曙光」に著わしています。
  自己のインスピレーションの実現を可能にしたのは、新しい素材の持つ性質を造形に活かすという近代建築
の理念によるところが大きいとされています。例えばコンクリートという可塑性の素材によって、エーリヒ・
メンデルゾーンは「アインシュタイン塔」で、曲面の多用の極致とも言える建築で一世を風靡しました(#5-1,2)。
また、ハンス・ペルツィッヒの作品はアーチ型を多く用いた建物で合理性と個性を強く打ち出しています(#6-1,2)。
#4..B.タウト グラスハウス(1914) #5-1..E.メンデルゾーン アインシュタイン塔(1924)
#5-2..E.メンデルゾーン 建築ファンタジー #6-1..H.ペルツィッヒ ルーバンの工場(1911)
#6-2..H.ペルツィッヒ ヴェルダーミューレ(1906)

                                                                                (#4  近代建築史図集(日本建築学会)より)
                                                                                (#5-1,2   Erich Mendelsohn(Studio paperback)より)
                                                                                (#6-1,2  「近代建築への招待」(ユリウス・ポーゼナー 青土社)より)