東京帝国大学を卒業後一旦は内務省に奉職、その後年武田五一に招かれて京都大学で教鞭を執ることになる。大学時代、 (分離派メンバーの大半は意匠班に属していたが)森田は構造班に属しつつも分離派への誘いを受け、その一員となった。 分離派としての活動時期において、「構造に就いて」(第三刊作品集所収,1924)の中で「構立て(くみたて)」という概 念を提示しつつ、単なる構造体を超えた構築性に建築美の本質を求めた。また建築作品としては、尖頭アーチを配した 「農学部正門」や「楽友会館」を残す。 生涯に渡り学者としてギリシャ古典主義建築の研究、特にヴィトルヴィウスの建築書の翻訳などで大きな業績を残した ことで知られるが、寡作ながら建築作品も残している。 |
-1- | ある役所 | 京都帝国大学楽友会館 | 現存する | 京都帝国大学農学部表門,門衛所 | 現存する |
-1- | 北野病院 | 現存しない | 基礎物理学研究所湯川記念館 | 現存する | 十六銀行熱田支店 | 現存する | 中之島図書館事務棟 | 現存する |