岩元禄は大正7年に逓信省に入省するがすぐ志願兵として入営。本格的な設計は翌大正8年5月に復職し結核に 倒れ1922(大正11年)12月に逝去するまでの短い期間に行われた。建築の実施にあたって後輩の山田守や山口 文象(岡村蚊象)らが助力している。 岩元は分離派から入会の誘いを受けたが断り、さまざまな前衛芸術分野からなる「尖塔社」の一員として活 動したことが知られている。 |
岩元禄による唯一の現存建物。 「建築家・岩元禄(向井覚著)」によれば、岩元自らの建築の作法を「ガイスト・スピーレン(知的遊戯)」を標 榜した。機能主義的な主知的傾向を嫌い、それによって建築芸術の自律性を優先しようとしたのであろうか。 表現主義的な女体像やレリーフが飾られていることも、そうした意図の反映とみられる。 |
正面は、大きな放物線状の壁面いっぱいに女体をモチーフとしたセメントレリーフのパネルが繰返し配置さ れている。また1階円柱の上部には同様の女体像が載る。 側面には2層通しの円柱の半柱が列をなし、3階ペントハウス部分のバルコニーにはドリス式の円柱が並ぶ。 |
遠目に見た建物全体のボリュームも美しく、きめ細かな配慮を感じさせる。 |