分離派建築博物館・・・展示室・・・

復興教育施設と小公園

  関東大震災から立ち直るべく立案された帝都復興事業のなかでも、防災都市確立の為に公園の確保は重要な
要素であった。中でも小学校を地域コミュニティーの単位として扱い、不燃化,耐震化された鉄筋コンクリー
トの校舎と避難所ともなる小公園を一体のものとしてそれぞれが防災都市としての各地域のシンボルされるべ
く東京市内52箇所に設置し得た。これはそのアイデアもさることながら実現し得たことは類を見ないまさに
画期的なことであった。
しかし復興事業は全体的に国内の努力だけでは賄い切れるものではなく、アメリカからの義援金等国際的な応
援があって始めて成し得たことも忘れてはならない。

 小学校の建設にあたっては耐震構造を震災以前から研究を進めていた佐野利器の主導で行われ、将来を担う
子供に衛生思想を根付かせる意味でのトイレの水洗化、暖房設備、理科教育や公民教育を重要視した教室など
の合理主義に基いた設計思想が導入された。(逆に佐野は旧来の作法室の設置を拒み上位にあった教育局との
間で確執があったことが知られる。)
  校舎のデザインでもやはり東京市により時代の先端とされる要素が取り入れられた。ドイツ表現主義の影響
を受けた日本の分離派の影響が色濃い建築物が多く作られ、昭和に入り復興事業が一段落する頃にはスマート
なインターナショナル・スタイルの校舎も出現した。
〜復興教育施設〜
-1-九段小学校(旧 上六小学校)現存する
-2-坂本小学校現存する
黒門小学校現存する
-3-常盤小学校現存する
城東小学校現存する
-4-明石小学校現存しない(2010年解体)
十思小学校(現 十思スクェア)現存する
-5-今川中学校現存しない
早稲田小学校現存する
-6-窪町小学校現存しない(建替え済)
明正小学校現存する
柳北小学校現存する
平楽中学校現存しない(建替え済)
-7-四谷第五小学校(現新宿区役所第二分庁舎)現存する
四谷第四小学校現存する

 公園に着目すれば、東京市の井下清、復興局の折下吉延らの功績が大きいとされる。復興事業として帝都各
地に三大公園(墨田公園,浜町公園,錦糸公園)が復興局によって作られたのをはじめ、御料地や財閥の寄付に
よる敷地に作られたいくつかの公園、そして小学校とセットで設けられた小公園が東京市によって設置された。
これらは、都市防災や避難施設上の目的は勿論のこと、西欧の公園を参考にした上で実際に利用する市民の視
線に立った行き届いた設計がなされた辺りが今日の井下の高い評価につながっている。

 しかし昨今進められているスプロール化や小子化による学校の統廃合の問題で復興小学校はそれぞれが存廃
の問題に直面している。また小公園は既にかなり以前から存続していれば良い方で、設置当時の面影は当初の
数からすれば皆無と言ってよい状態になってしまった。ほぼ完全な姿を保つのはわずかに文京区の元町公園の
みだと言われている。
 こうした現状を知るために2006年を中心に当時の公園のいくつかの現状を見て廻った。本来なら学校とセッ
トで紹介すべきかもしれないが、敢えて最近見てきたままの公園の状況のいくつかを順に以下に紹介する。
 1920年代の大きなエポックとしての震災復興事業としての観点から、ここでは分離派やその他様式名称にあ
まり囚われずに見ていただければ幸いである。

 復興時の学校や公園の将来を考えると、不便になったら更新したり廃止すればよいといった単なる物の類と
は違った歴史的な積み重ねを経た遺産として認識し残す考えに立つことがまず重要であるはずだ。その次に将
来に向けてどのように活かして引き継いでいくかを考える、という手順を踏むべきであろう。もちろんそのプ
ロセスは形式的であってはならず、真摯なる民意が的確に反映されなければならないだろう。
 手順を踏むことを怠り安易に取り壊してしまったら、取り返しのつかない損失を犯すことになるだろう。
そんな失敗をする前に、未然に少しでも遺産としての認識を自ら深めようと思い取材し内容の貧弱さも顧み
ず掲載した次第である。
                                                (参考文献:「東京の都市計画」越沢明著)
〜小公園〜
-1-元町公園現存
-2- 京橋公園のすべり台現存
元加賀公園の壁泉現存
川南公園のすべり台現存
森下公園のパーゴラ現存
坂本町公園の少女像現存
-3- 大塚公園現存
宮本公園現存