分離派建築博物館--逓信省の建築--

逓信省(設計担当者不祥) -2-

旧福岡郵便局電話分室(福岡都市管理部訓練センター)

場所:福岡県福岡市博多区...................................................建築年代:1923(大正12)年.......................................................................現存しない

外観
下関局とよく似た外観を持つ。山田守の「ある電話局の草案」と同様、階段室上部屋根はフラット屋根で壁
面に半円アーチが描き込まれている。

・外観−(「電電建築」1982.2 (「旧神戸中央電信局の設計者森泰治と大正期の電話局舎」-小原誠 より))

兵庫電話分局

場所:兵庫県神戸市兵庫区...................................................建築年代:1922(大正11)年..........................................................................現存しない


右写真は不鮮明だが階段室上部のレリーフで男性像をかたどっている。これと類似した造形感覚によるレリーフ
がかつて旧神戸電信局や旧横浜中央電話局を飾っておりこれらの設計者は森泰治であることが判明している。
                                                                                     (記述 2001.1)
・左−外観−(神戸市内の近代洋風建築 '84.3 神戸市教育委員会より)
・右−放物線アーチ下部のレリーフ−(「電電建築」1982.2 (「旧神戸中央電信局の設計者森泰治と大正期の電話局舎」-小原誠 より))


....................
現在も慰霊碑に取り付けられて残るレリーフ


電話局は既に建替えられて久しいが、かつての建物のペントハウスのパラボラアーチ付近に取り付けられてい
たレリーフの一部が、建設地付近の柳原天神に残されていた。歴史ある建物ならば様々な出来事がついて回る
ものだが、ここでの場合、空襲の際5人の女性交換手の殉職という悲しい事実であった。レリーフの一部は、
彼女らの供養と記憶の継承のための慰霊碑となっている。
慰霊碑であるためか、力を湛えうつむく驚くほど筋肉質の男の図案は、一層際立った印象を与える。
(こなぜこうした図案が発想されたのだったか、関心あるものの知る由もない。)

                                        (記述追加 2008.6)

大阪西電話分局

場所:大阪府西区......................................................建築年代:1922〜23(大正11〜12)年頃.......................................................................現存しない

外観

ドリス式の付け柱やペントハウスの半円窓が覗える。
・外観−(「電電建築」1982.2 (「旧神戸中央電信局の設計者森泰治と大正期の電話局舎」-小原誠 より))

名古屋金山分局

場所:愛知県名古屋市......................................................建築年代:1919(大正8)年頃(?).......................................................................現存しない


金山分局外観
折れ線状アーチによる外壁デザイン。 
折れ線状アーチは山田守の作とされる門司郵便局電話分室のアーチと同じデザインであるが、この金山局の完成した大
正8年当時山田はまだ逓信省に入省していない。
既に逓信省で設計を行っていた渡辺仁は、独立後に「日本劇場」において類似したアーチのデザインを行なっていることか
ら、このアーチのデザインを創案したのは渡辺ではないかとも推測されている。
逓信省時代の渡辺仁の担当作品もご参照いただければありがたい。

(「日本劇場」(渡辺仁 昭和8年)

*外観−(「電電建築」1982.2 (「旧神戸中央電信局の設計者森泰治と大正期の電話局舎」-小原誠 より))
*「日本劇場」−(「帝都復興せり!」松葉一清 より)