分離派建築博物館--山田 守の建築--

曲面ボリュームのシンフォニー 〜逓信省 局舎等より〜 -2-


東京中央電信局,あるオフィスビルディングの草案
設計:山田 守............................場所:東京都中央区......................................建築年代:1925(大正14)年........................現存しない


左−外観(「山田守建築作品集」より,右−詳細「建築新潮」1925年11号より)

頂部のパラボラアーチが特徴的なこの建物は竣工当時から話題となり、分離派を代表する建築として知られるよ
うになった。鉄筋コンクリート造で外装はすべて白色タイルである。従来の様式性を持たず、純粋に抽象幾何学
的な曲線としてパラボラアーチを反復することを造形を原理としている点では、日本のモダニズム建築の初期の
事例と言う見方も可能であろう。(竣工後この建物は機能主義の観点で論争を呼んだことが知られる。)
パラボラアーチという単一要素を反復するデザインは、山田が提唱した「リズム式」と言う造形方法に拠ると思
われ、1922年竣工の牛込電話局,1924年竣工の門司電話局がこの類例に含まれよう。この建物の計画は下記草案
がもとになっているとされ年代は1921年(山田入省の翌年)ということになるが、細かいデザイン変更と関東大
震災による工事の中断を経て1925年に完成、若き日の山田守の主張がほぼそのまま実現してしまった。

パラボラアーチは既に逓信省内で通用していたデザイン要素だが、正確にはそれを用いて反復するという新たな
構成法によって誰も見たことの無かった造形を生んだ点こそが、山田守が逓信省に「新風を吹き込んだ」と語り
継がれるゆえんなのではないだろうか。
                                         (記述更新2006年)

あるオフィスビルディングの草案 1921年 (「分離派建築会の作品 2」より)
この草案は東京中央電信局のための山田守による原案であったとされる。1921年(大正10年)の年代から逓信
省入省翌年のものであり恐らく牛込電話局に相次いで計画されたものであろう。しかしこの計画案は上司の和
田信夫係長に提示したものの却下され対立に至ったことが知られている。
結局、議論の後さらに役職上さらに上位の内田課長のとりなしで一部変更が加えられ実現されることになった。
                                         (記述更新2006年)

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                モダニズム移行へのあるエピソード
          (「あるオフィスビルディングの草案」における対立の原因)

 山田守が東京中央電信局のためにデザインした案とされる「あるオフィスビルディングの草案」は、上司の
和田係長に提示したもののやりなおしを指示され、これがもとで山田との間で諍いが起こったが知られている。
しかし具体的にどういった点が問題となり対立に至ったのかについては、これまであまり明確にされてこなか
ったように感じた。そこで単なる保守的な上司と血気盛んな新人設計士らの騒動として片付ける前に、根底に
ある対立の原因を探る考察を試みた。

1.標準設備仕様としての「内田式流水防火装置」
 この草案が提出された当時、防災上の観点で延焼防止を目的とする内田営繕課長が開発した「内田式流水防
火装置」を設置することがひとつの設計上での義務とされており、局舎の標準設計のひとつとして和田係長は
これを推進する任務にあたっていた。おおむね昭和に入る前まで局舎建物に取り付けられていたこの装置は、
屋上に水槽を持ち万一の際最上階の窓上部に穿たれた吐水口から流れ出た水が水幕として柱型の間の窓ガラス
や壁面を上から下まで流れ伝う機構と言われ、今日で言うドレンチャー設備にあたる。
 これを用いる場合当然デザインに与える制約も大きく、設計者が不満を感じていたことが知られている。
実際に山田の「あるオフィスビルディングの草案」を見ると、この案には流水防火装置の設置を考慮した様子
が見られない、と言うか吐水口が配置されるべき最上階の窓上にあたる部分には各箇所でパラボラアーチのデ
ザインがわざわざ塞ぎ尽くすような格好で並べ立てられており吐水口を取り付ける余地は無い。主にここが和
田係長の癇に障った部分であろうと考えられる。
 山田は内田式流水防火装置をデザインの障害と感じそれを突破することを常々画策していたようであって、
この草案も本当は上司の怒りを買うのを承知の上で提出したふしがある。(註1)敢えて流水防火装置を無視し
た案ならば、これを見た和田係長が「もう一案真面目な案をやってくれぬか」と述べてたちどころに設計を
やり直すよう指示したのは上司の立場からすればむしろ当然であったろう。

2.標準デザイン要素としての「パラボラアーチ」
 これまで向井覚氏やそれに次ぐ小原誠氏による戦前の逓信省が抱えていた設計者の掘り起こし調査によって、
当時の局舎の設計者や建築年代が大方明らかにされた。以下、先達が明らかにした内容に沿ってパラボラアー
チというデザイン要素を考えたい。(階段室上部など高所水槽部分など取り付けられたアーチには正確には2
次曲線ではなく半円のものもあるが同質のものとして扱い、ここでは厳密に区別していない。)
 この草案を特徴付けるパラボラアーチに着目すれば、既に山田の牛込電話局や同期の同僚森泰治の大阪中央
電話局難波分局,設計担当者不詳の下関電話局福岡電話分室,兵庫電話分局などで使用されており、これら
については計画した際にパラボラーチのあるデザインがもとで諍いがあったとは聞かない。森泰治の難波分局
は独特のゼセッション風デザインにパラボラアーチをアレンジしており、未完に終わった横浜中央電話局もパ
ラボラーチを持つ同様のデザインがなされた。山田の牛込電話局と森の難波分局がいずれも大正11年に竣工し
ているところから、これらは二人の入省まもない大正9年後半から大正10年にかけて和田の指示のもとほぼ同
時期に各々の作風でパラボラアーチを取り入れた最初期の例だったのではないかと考えられる。これが発端で
あったように思うのだが、さらに遡る可能性もあるとも言われている。(註2-1)(註2-2)
 よくパラボラアーチは分離派のシンボルとして山田守のオリジナルのように思われがちだが決してそうでは
ない。(註3)山田が影響を受けたとされるドイツ表現主義の建築を見てもパラボラアーチは窓形状に散見される
程度であり、特にH・ペルツィッヒからパラボラアーチのヒントを得たとは考えられない。ペルツィッヒはベル
リン大劇場で細かな半円アーチを鍾乳石の連なりのメタファーとして表現していたようだが、山田の純粋に幾
何学的な曲線の扱いとは本質的に異なる。
 大正12年頃を中心に集中的にパラボラアーチを持つ建物が各地で竣工していることからすれば、むしろ設計
を統括する和田係長がパラボラアーチなどのデザインを部下に指示し積極的に推進していたと推測してもおか
しくない。なぜなら彼が標準設計の目玉として推進する流水防火装置の屋上の水槽部を誇らしく飾る電話局の
シンボルとしてこのデザインが活用できたからである。
 従って、パラボラアーチは1921(大正10)年のオフィスビルディングの草案と同時期かそれ以前から採用さ
れてきたデザイン要素であったと言える。つまり山田の「あるオフィスビルディングの草案」に見られるパラ
ボラアーチ形状そのものが保守的な目にとって初めて目にする新奇なものと映りそれが反感を買った原因では
ないか、という推測は少なくとも成り立たない。

3.「歴史主義」対「分離派」山田の主張。
 和田係長は、全国に急速に拡大する電信電話事業に対応するために効率良く局舎を設計し建設する任務を背
負っており、従ってデザインは簡略化して規格パターンをあらかじめ設けておく必要があった。こうしたいわ
ゆる標準設計のうち付け柱と縦長窓だけの外観は震災後の局舎にも応用されかなり普及したのだった。要する
に当時はデザインをあれこれ言っていられない位忙しい時期であったことが知られている。
 一般に日本国内で多くみられた当時の建築デザインも、歴史主義の範囲内である程度様式を簡略化したもの
が多く、逓信省在職中の渡辺仁はこうした方向を保ちつつ自らの作風として大正中期の局舎を設計していた。
和田係長の本音も渡辺仁あたりを手本にして様式をうまく簡略化した設計を皆が手際よく進めて欲しいと考え
ていたのではないだろうか。ただし簡略化とはいえ和田係長の世代からすればある程度の様式性が保たれた歴
史主義の範囲内で設計することはあくまで前提だったであろう。
 これに対して、山田は入省前に分離派を旗揚した帝大生として自らの主張を「建築世界」誌に掲載している。
(註4)これによると、例えば鉄骨造に石造時代のルネッサンス様式の形骸を纏わせるような不合理さが蔓延し
た当時の建築界全般を「変態建築濫造の時代」として批判し自ら過去の建築から分離したデザインを追究する。
山田は一官僚として入省した後もそうした姿勢を堅持したので、ともすればデザインを形骸的に扱うことにな
る和田係長主導の標準設計的な発想とは根本的に相容れなかったはずである。
 実際に山田が編み出した当時の作風は付加装飾を持たないシンプルな造形であり、様式的な僅かなアーティ
キュレーション(分節性)も感じられずこれを意図的に避けていたとも思える。むしろ日本におけるモダニズ
ムの先駆け的な要素を備えていたと言えよう。(註5)(しかし皮肉なことに山田の草案を救った内田課長は出
来た建物を見て実は「ゴシック様式」と勘違い(?)していたらしい。)
 和田係長と山田守の対立は、根底の部分ではこうしたデザインに対する基本的な考え方の相違が原因してい
たものと考えられる。そして山田が彼の草案において標準設計に必要な防火装置の吐水口を(もともと和田が
提案したデザインかもしれない)パラボラアーチを用いてのべつ塞ぐようなデザインを行った結果、標準設計
をあからさまに否定するような行為と受け取られ感情的な対立に至ったと推察する。もちろん山田にしても苦
心のデザインだったわけでいとも簡単に否定されてはたまらないのであり、両者譲り合えないかたちとなった
ことは周知の通りである。(註6)
 結局さらに上司の内田課長の仲立で少々修正を加えられて中央電信局は実現に至ったわけだが、カーテンウ
ォール状の窓が腰窓に変更されたのが見て取れる他、内田式流水防火装置については装備されたと記録される。
(註7)しかし写真などから吐水口を観察するとどうも部分的に取り入れたに過ぎなかったようにも見られ、その
効果には首をかしげたくなる。

4.まとめ
 中央電信局が竣工した大正14年には、既に機能主義という形で西欧モダニズムが日本にも伝わり山田は新聞
紙上などでそうした立場から批判を受ける側に廻っている。ドイツ表現主義の延長上に目されていた分離派も
わずかの期間のうちに槍玉に上がるようになったという内容を瀧澤真弓や森田慶一らが述懐しているように
(註8)、大正後期は変化の激しい時代でありこうした点が山田のモダン指向への先見性を見えにくくしている
面があったように思われる。
 和田係長と山田守の草案をめぐる対立は、1921年(大正10年)という早い段階で日本のモダンムーブメント
の動きとして、保守性に対抗してモダニズムへの移行の道を切り拓く場面を示すエピソードであったと位置づ
けては大げさ過ぎるであろうか。

附言
 東京中央電話局のパラボラアーチに注目すれば、それは山田守自身の発案による彼の専売特許的なモチーフ
だったのではなく逓信省内で通用していたものであったことを述べた。これは私だけの自論などではなく大正
後期に用いられてきた他のデザイン要素なども含めて以前から指摘されてきたことでもあり、ここではその一
部の要素を拾い出して再構成して述べたに過ぎない。(註9)
 また、そのような見方を行ったからといって山田守の東京中央電話局が分離派の代表的建築であったという
位置づけはなんら変わることはなく、その後も山田はパラボラアーチだけではなく曲線美に終世こだわり続け
独自の創造の世界を切り拓いたことが周知の事実として変わらないであろうことを付け加えておきたい。
                                        (2006年11月 記)
              (註1):  「建築記録/東京中央電信局」座談会 p97による。
              (註2-1):「旧神戸中央電信局の設計者森泰治と大正期の電話局舎」(NTTファシリティーズジャーナル,1982.2,小原誠)
                   で詳細に述べられており本考察もほぼこれを土台にしている。しかし折れ線アーチを持つ名古屋金山
                       分局は大正8年頃の竣工と推定されているがはっきりしないのでとりあえず除外した。
                   また同著者の論文として、「大正期の分離派様式の電話局舎」(日本建築学会報告,1993.3,小原誠)
                   「山田守の「ある電話局舎」と大正期の分離派風電話局舎」(日本建築学会報告,1994.9,小原誠)
                   なども参考にしている。    
              (註2-2):戦前の逓信省局舎の図面が東海大学に所蔵されており大正期の局舎のものも含まれていると見られる
                       が、これら図面が山田が持ち込んだであることを理由にすべて彼の設計であるとはいえない。教材用
                       に使用する目的であったろうと言われており、手近にあった他の設計者による図面も含まれている可
                       能性が高いからである。また同名称建物でも逓信省の局舎は増築や改修が頻繁に行われておりそうし
                       た面も考慮した図面の調査が必要であろう。下記論文にその図面リストが掲載されている。
                      「建築家「山田守」の現存する設計図面について」(2005,東京家政学院大学紀要,大宮司勝弘)
              (註3):  註2「旧神戸中央電信局の・・」において「分離派のデザインが山田守の特許ではないことは明白であ
                       る」と述べられている。
              (註4): 「建築世界」(大正9年3月号)所収「建築実態の研究に着目して建築観念を向上せしめよ」(1920,
                       山田守)
              (註5): 「分離派建築会 宣言と作品」所収「吾人は如何なる建築を造るべきか」(1920,山田守)において独
                   自に考案した「リズム式」によるデザインと考えられる。
              (註6): 「建築家・山田守」(向井覚)所収,「90年東京中電のかお」(1964,山田守)で山田の側から見た諍い
                   のいきさつや和田係長との関係などが語られている
              (註7): 「建築家・山田守」所収の「逓信事業史」からの引用として「設備は内田式流水防火装置及消火栓を
                   配置し・・・」との記述が見られる。
              (註8): 「建築記録/東京中央電信局」座談会 p94の内容による。
              (註9): 「分離派風の局舎から震災復興型の局舎へ(抄録)」(NTTファシリティーズジャーナル,1999.3,小原誠)にお
                   いて「(ある電話局の)草案もそれ以前の渡辺仁や岩元録の遺産を,組織として引き継いでいたこ
                   とになる」と述べられている。
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