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渋谷栄一訳(C)

  

若 紫

光る源氏の十八歳春三月晦日から冬十月までの物語

第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語

  1. 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く---瘧病みに罹りなさって
  2. 山の景色や地方の話に気を紛らす---少し外に出て見渡しなさると
  3. 源氏、若紫の君を発見す---人もいなくて、何もすることがないので
  4. 若紫の君の素性を聞く---「心惹かれる人を見たなあ
  5. 翌日、迎えの人々と共に帰京---明けて行く空は、とてもたいそう霞んで
  6. 内裏と左大臣邸に参る---君は、まず内裏に参内なさって
  7. 北山へ手紙を贈る---翌日、お手紙を差し上げなさった
第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語
  1. 夏四月の短夜の密通事件---藤壺の宮に、ご不例の事があって
  2. 妊娠三月となる---宮も、やはり実に情けないわが身であったと
  3. 初秋七月に藤壺宮中に戻る---七月になって参内なさった
第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
  1. 紫の君、六条京極の邸に戻る---あの山寺の人は、少しよくなって
  2. 尼君死去し寂寥と孤独の日々---神無月に朱雀院への行幸があるのであろう
  3. 源氏、紫の君を盗み取る---君は大殿においでになったが

 

第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語

 [第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く]

 瘧病みに罹りなさって、いろいろと呪術や加持などして差し上げさせなさるが、効果がなくて、何度も発作がお起こりになったので、ある人が、「北山にある、某という寺という所に、すぐれた行者がございます。去年の夏も世間に流行して、人々がまじないあぐねたのを、たちどころに治した例が、多数ございました。こじらせてしまうと厄介でございますから、早くお試しあそばすとよいでしょう」などと申し上げるので、呼びにおやりになったところ、「老い曲がって、室の外にも外出いたしません」と申したので、「しかたない。ごく内密に行こう」とおっしゃって、お供に親しい者四、五人ほど連れて、まだ夜明け前にお出かけになる。

 やや山深く入った所なのであった。三月の晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまっていた。山の桜はまだ盛りで、入って行かれるにつれて、霞のかかった景色も趣深く見えるので、このような山歩きもご経験なく、窮屈なご身分なので、珍しく思われなさるのであった。

 寺の有様も実にしんみりと趣深い。峰高く、深い岩屋の中に、聖は入っているのだった。お登りになって、誰ともお知らせなさらず、とてもひどく粗末な身なりをしていらっしゃるが、はっきり誰それと分かるご風采なので、

 「ああ、恐れ多いことよ。先日、お召しになった方でいらっしゃいましょうか。今は、現世のことを考えておりませんので、修験の方法も忘れておりますのに、どうして、このようにわざわざお越しあそばしたのでしょうか」

 と、驚き慌てて、にっこりしながら拝する。まことに立派な大徳なのであった。しかるべき薬を作って、お呑ませ申し、加持などして差し上げるうちに、日が高くなった。

 [第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす]

 少し外に出て見渡しなさると、高い所なので、あちこちに、いくつもの僧坊がはっきりと見下ろされる、ちょうどこのつづら折の道の下に、同じような小柴垣であるが、きちんと結いめぐらして、こざっぱりとした建物に、渡廊などを建てつなげて、木立がとても風情あるのは、

 「どのような人が住んでいるのか」

 とお尋ねになると、お供である人が、

 「これが、某という僧都が、二年間籠もっております所だそうでございます」

 「気おくれするほど立派な人が住んでいるという所だな。何とも、あまりに粗末な身なりであったなあ。聞きつけられたら困るな」などとおっしゃる。

 美しそうな童女などが、大勢出て来て、閼伽棚に水をお供えしたり、花を手折ったりなどするのも、はっきりと見える。

 「あそこに、女がいるぞ」
 「僧都は、まさか、そのようには、囲って置かれるまいに」
 「どのような女だろう」

 と口々に言う。下りて行って覗く者もいる。

 「きれいな女の子たちや、若い女房、童女が見える」と言う。

 源氏の君は、勤行なさりながら、日盛りになるにつれて、どうだろうかとご心配なさるのを、

 「何かとお気を紛らわしあそばして、お気になさらないのが、よろしゅうございます」

 と申し上げるので、後方の山に立ち出でて、京の方角を御覧になる。遠くまで霞がかかっていて、四方の梢がどことなく霞んで見える具合を、

 「絵にとてもよく似ているなあ。このような所に住む人は、心に思い残すことはないだろうよ」とおっしゃると、

 「これは、まことに平凡でございます。地方などにございます海や、山の景色などを御覧に入れましたならば、どんなにか、お絵も素晴らしくご上達あそばしましょう。富士の山、何々の嶽……」

 などと、お話し申し上げる者もいる。また、西国の美しい浦々や、海岸辺りについて話し続ける者もいて、何かとお気を紛らわし申し上げる。

 「近い所では、播磨国の明石の浦が、やはり格別でございます。どこといって奥深い趣はないが、ただ、海の方を見渡しているところが、不思議と他の海岸とは違って、ゆったりと広々した所でございます。

 あの国の前国司で、出家したての人が、娘を大切に育てている家は、まことにたいしたものです。大臣の後裔で、出世もできたはずの人なのですが、たいそうな変わり者で、人づき合いをせず、近衛の中将を捨てて、申し出て頂戴した官職ですが、あの国の人にも少し馬鹿にされて、『何の面目があって、再び都に帰られようか』と言って、剃髪してしまったのでございますが、少し奥まった山中生活もしないで、そのような海岸に出ているのは、間違っているようですが、なるほど、あの国の中に、そのように、人が籠もるにふさわしい所々は方々にありますが、深い山里は、人気もなくもの寂しく、若い妻子がきっと心細がるにちがいないのと、一方では自分の気晴らしのできる住まいでございます。

 最近、下向いたしました機会に、様子を拝見するために立ち寄ってみましたところ、都でこそ不遇のようでしたが、はなはだ広々と、豪勢に占有して造っている様子は、そうは言っても、国司として造っておいたことなので、余生を豊かに過ごせる準備も、またとなくしているのでした。後世の勤行も、まことによく勤めて、かえって出家して人品が上がった人でございました」と申し上げると、

 「ところで、その娘は」と、お尋ねになる。

 「悪くはありません、器量や、気立てなども結構だということでございます。代々の国司などが、格別懇ろな態度で、結婚の申し込みをするようですが、全然承知しません。『自分の身がこのようにむなしく落ちぶれているのさえ無念なのに……、子はこの娘一人だけだが、特別に考えているのだ。もし、わたしに先立たれて、その素志を遂げられず、わたしの願っていた運命と違ったならば、海に投げ入ってしまえ』と、常々遺言をしているそうでございます」

 と申し上げると、源氏の君もおもしろい話だとお聞きになる。供人たちは、

 「きっと海龍王の后になる大切な娘なのだろう」
 「気位いの高いことも、困ったものだね」と言って笑う。

 このように話すのは、播磨守の子で、六位蔵人から、今年、五位に叙された者なのであった。

 「大変な好色者だから、あの入道の遺言をきっと破ってしまおうという気なのだろうよ」
 「それで、うろうろしているのだろう」

 と言い合っている。

 「いやもう、そうは言っても、田舎びているだろう。幼い時からそのような所に成長して、古めかしい親にばかり教育されていたのでは」

 「母親はきっと由緒ある家の出なのだろう。美しい若い女房や、童女など、都の高貴な家々から、縁故を頼って探し集めて、眩しく育てているそうだ」

 「心ない人が国司になって赴任して行ったら、そんなふうに安心して、置いておけないのでは」

 などと言う者もいる。源氏の君は、

 「どのような考えがあって、海の底まで深く思い込んでいるのだろうか。海底の人の「海松布」も何となく見苦しい」

 などとおっしゃって、少なからず関心をお持ちになっている。このような話でも、普通以上に、一風変わったことをお好みになるご性格なので、お耳を傾けられるのだろう、と拝見する。

 「暮れかけてきましたが、ご発作がおこりあそばさなくなったようでございます。早くお帰りあそばされるのがよいでしょう」

 と言うのを、大徳は、

 「おん物の怪などが、憑いている様子でいらっしゃいましたが、今夜は、やはり静かに加持などをなさって、お帰りあそばされませ」と申し上げる。

 「それも、もっともなこと」と、供人皆が申し上げる。源氏の君も、このような旅寝もご経験ないことなので、何と言っても興味があって、

 「それでは、早朝に」とおっしゃる。

 [第三段 源氏、若紫の君を発見す]

 人もいなくて、何もすることがないので、夕暮のたいそう霞わたっているのに紛れて、あの小柴垣の付近にお立ち出でになる。供人はお帰しになって、惟光朝臣とお覗きになると、ちょうどこの西面に、持仏を安置申して勤行している、それは尼なのであった。簾を少し上げて、花を供えているようである。中央の柱に寄り添って座って、脇息の上にお経を置いて、とても大儀そうに読経している尼君は、普通の人とは見えない。四十過ぎくらいで、とても色白で上品で、痩せてはいるが、頬はふっくらとして、目もとのぐあいや、髪がきれいに切り揃えられている端も、かえって長いのよりも、この上なく新鮮な感じだなあ、と感心して御覧になる。

 小綺麗な女房二が人ほど、他には童女が出たり入ったりして遊んでいる。その中に、十歳くらいかと見えて、白い袿の上に、山吹襲などの、糊気の落ちた表着を着て、駆けてきた女の子は、大勢見えた子供とは比べものにならず、たいそう将来性が見えて、かわいらしげな顔かたちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔はとても赤く手でこすって立っている。

 「どうしたの。童女とけんかをなさったのですか」

 と言って、尼君が見上げた顔に、少し似ているところがあるので、「その子どもなのだろう」と御覧になる。

 「雀の子を、犬君が逃がしちゃったの。伏籠の中に、閉じ籠めておいたのに」

 と言って、とても残念がっている。そこに座っていた女房が、

 「いつもの、うっかり者が、そのようなことをして、責められるとは、ほんと困ったことね。どこへ飛んで行ってしまいましたか。とてもかわいらしく、だんだんなってきましたものを。烏などが見つけたら大変だわ」

 と言って、立って行く。髪はゆったりととても長く、見苦しくない女のようである。少納言の乳母と皆が呼んでいるらしい人は、この子のご後見役なのだろう。

 尼君が、
 「何とまあ、幼いことよ。聞き分けもなくいらっしゃることね。わたしが、このように、今日明日にも思われる寿命を、何ともお考えにならず、雀を追いかけていらっしゃることよ。罪を得ることですよと、いつも申し上げていますのに、情けなく」と言って、「こちらへ、いらっしゃい」と言うと、ちょこんと座った。

 顔つきがとてもかわいらしげで、眉のあたりがほんのりとして、子供っぽく掻き上げた額つきや、髪の生え際は、大変にかわいらしい。「成長して行くさまが楽しみな人だなあ」と、お目がとまりなさる。それと言うのも、「限りなく心を尽くし申し上げている方に、とてもよく似ているので、目が引きつけられるのだ」と、思うにつけても涙が落ちる。

 尼君が、髪をかき撫でながら、
 「梳くことをお嫌がりになるが、美しい御髪ですね。とても子供っぽくいらっしゃることが、かわいそうで心配です。これくらいの年になれば、とてもこんなでない人もありますものを。亡くなった母君は、十歳程で父殿に先立たれなさった時、たいそう物事の意味は弁えていらっしゃいましたよ。この今、わたしがお残し申して逝ってしまったら、どのように暮らして行かれるおつもりなのでしょう」

 と言って、たいそう泣くのを御覧になると、何とも言えず悲しい。子供心にも、やはりじっと見つめて、伏し目になってうつむいているところに、こぼれかかった髪が、つやつやとして素晴らしく見える。

 「これからどこでどう育って行くのかも分からない若草のようなあなたを
  残してゆく露のようにはかないわたしは死ぬに死ねない思いです」

 もう一人の座っている女房が、「本当に」と、涙ぐんで、

 「初草のように若い姫君のご成長も御覧にならないうちに
 どうして尼君様は先立たれるようなことをお考えになるのでしょう」

 と申し上げているところに、僧都が、あちらから来て、

 「ここは人目につくのではないでしょうか。今日に限って、端近にいらっしゃいますね。この上の聖の坊に、源氏中将が瘧病のまじないにいらっしゃったのを、たった今、聞きつけました。ひどくお忍びでいらっしゃったので、知りませんで、ここにおりながら、お見舞いにも上がりませんでした」とおっしゃると、

 「まあ大変。とても見苦しい様子を、誰か見たでしょうかしら」と言って、簾を下ろしてしまった。

 「世間で、大評判でいらっしゃる光源氏を、この機会に拝見なさいませんか。俗世を捨てた法師の気持ちにも、たいそう世俗の憂えを忘れ、寿命が延びるご様子の方です。どれ、ご挨拶を申し上げよう」

 と言って、立ち上がる音がするので、お帰りになった。

 [第四段 若紫の君の素性を聞く]

 「しみじみと心惹かれる人を見たなあ。これだから、この好色な連中は、このような忍び歩きばかりをして、よく意外な人を見つけるのだな。まれに外出しただけでも、このように思いがけないことに出会うことよ」と、興味深くお思いになる。「それにしても、とてもかわいかった少女であるよ。どのような人であろう。あのお方の代わりとして、毎日の慰めに見たいものだ」という考えが、強く起こった。

 横になっていらっしゃると、僧都のお弟子が、惟光を呼び出させる。狭い所なので、源氏の君もそのままお聞きになる。

 「お立ち寄りあそばしていらっしゃることを、たった今、人が申したので、聞いてすぐに、ご挨拶に伺うべきところを、拙僧がこの寺におりますことを、ご存知でいらっしゃりながらも、お忍びでいらしていることを、お恨みに存じまして。旅のお宿も、拙僧の坊でお支度致しますべきでしたのに。残念至極です」と申し上げなさった。

 「去る十何日のころから、瘧病を患っていますが、度重なって我慢できませんので、人の勧めに従って、急遽訪ねて参りましたが、このような方が効験を現さない時は、世間体の悪いことになるにちがいないのも、普通の人の場合以上に、お気の毒と遠慮致しまして、ごく内密に参ったのです。今、そちらへも」とおっしゃった。

 折り返し、僧都が参上なさった。法師であるが、とても気がおけて人品も重々しく、世間からもご信頼されていらっしゃる方なので、軽々しいお姿を、きまり悪くお思いになる。このように山籠りしていらっしゃる間のお話などを申し上げなさって、「同じ草庵ですが、少し涼しい遣水の流れも御覧に入れましょう」と、熱心にお勧め申し上げなさるので、あの、まだ自分を見ていない人々に大げさに吹聴していたのを、気恥ずかしくお思いになるが、かわいらしかった有様も気になって、おいでになった。

 なるほど、とても格別に風流を凝らして、同じ木や草も植えなしていらっしゃった。月もないころなので、遣水に篝火を照らし、灯籠などにも火を灯してある。南面はとてもこざっぱりと整えていらっしゃる。空薫物が、たいそう奥ゆかしく薫って来て、名香の香などが、匂い満ちているところに、源氏の君のおん追い風がとても格別なので、奥の人々も気を使っている様子である。

 僧都は、この世の無常のお話や、来世の話などを説いてお聞かせ申し上げなさる。ご自分の罪障の深さが恐ろしく、「どうにもならないことに心を奪われて、一生涯このことを思い悩み続けなければならないようだ。まして来世は大変なことになるにちがいない……」。と、お考え続けて、このような出家生活もしたいと思われる一方では、昼間の面影が心にかかって恋しいので、

 「ここにおいでの方は、どなたですか。お尋ね申したい夢を拝見しましたよ。今日、思い当たりました」

 と申し上げなさると、にっこり笑って、

 「唐突な夢のお話というものでございますな。お知りあそばされたても、きっとがっかりあそばされることでございましょう。故按察使大納言は、亡くなってから久しくなりましたので、ご存知ありますまい。その北の方が拙僧の妹でございます。あの按察使が亡くなって後、出家しておりますのが、最近、患うことがございましたので、こうして京にも出ずにおりますのを、頼り所として山籠りしているのでございます」とお申し上げになる。

 「あの大納言のご息女が、おいでになると伺っておりましたのは。好色めいた気持ちからではなく、真面目に申し上げるのです」と当て推量におっしゃると、

 「娘がただ一人おりました。亡くなって、ここ十何年になりましょうか。故大納言は、入内させようなどと、大変大切に育てていましたが、その本願のようにもなりませず、亡くなってしまいましたので、ただこの尼君が一人で苦労して育てておりましたうちに、誰が手引をしたものか、兵部卿宮がこっそり通って来られるようになったのですが、本妻の北の方が、ご身分の高い人であったりして、気苦労が多くて、明け暮れ物思いに悩んで、亡くなってしまいました。物思いから病気になるものだと、目の当たりに拝見致しました次第です」

 などとお申し上げなさる。「それでは、その人の子であったのだ」とご理解なさった。「親王のお血筋なので、あのお方にもお似通い申しているのであろうか」と、ますます心惹かれて世話をしたい。「人柄も上品でかわいらしくて、なまじの小ざかしいところもなく、一緒に暮らして、自分の理想通りに育ててみたいものだなあ」とお思いになる。

 「とてもお気の毒なことでいらっしゃいますね。その方には、後に遺して行かれた人はいないのですか」

 と、幼なかった子の将来が、もっとはっきりと知りたくて、お尋ねになると、

 「亡くなりますころに、生まれました。それも、女の子で。それにつけても心配の種として、余命少ない年に思い悩んでおりますようでございます」と申し上げなさる。

 「やはりそうであったか」とお思いになる。

 「変な話ですが、その少女のご後見とお思い下さるよう、お話し申し上げていただけませんか。考えるところがあって、通い関わっています所もありますが、本当にしっくりいかないのでしょうか、独り暮らしばかりしています。まだ不似合いな年頃だと、世間並の男同様にお考えになっては、体裁が悪い」などとおっしゃると、

 「たいそう嬉しいはずの仰せ言ですが、まだいっこうに幼い年頃のようでございますので、ご冗談にも、お世話なさるのは難しいのでは。もっとも、女人というものは、人に世話されて一人前にもおなりになるものですから、事こまかには申し上げられませんが、あの祖母に相談しまして、お返事申し上げさせましょう」

 と、無愛想に言って、こわごわとした感じでいらっしゃるので、若いお心では恥ずかしくて、上手にお話し申し上げられない。

 「阿弥陀仏のおいでになるお堂で、勤行のございます時刻です。初夜のお勤めを、まだ致しておりません。済ませて参りましょう」と言って、お上りになった。

 源氏の君は、気分もとても悩ましいところに、雨が少し降りそそいで、山風が冷やかに吹いてきて、滝壺の水嵩も増して、音が大きく聞こえる。少し眠そうな読経が途絶え途絶えにぞっとするように聞こえるなども、何でもない人も、場所柄しんみりとした気持ちになる。まして、いろいろとお考えになることが多くて、お眠りになれない。初夜と言ったが、夜もたいそう更けてしまった。奥でも、人々の寝ていない様子がよく分かって、とても密かにしているが、数珠の脇息に触れて鳴る音がかすかに聞こえ、ものやさしくそよめく衣ずれの音を、上品だとお聞きになって、広くなく近いので、外側に立てめぐらしてある屏風の中を、少し引き開けて、扇を打ち鳴らしなさると、意外な気がするようだが、聞こえないふりもできようかということで、いざり出て来る人がいるようだ。少し後戻りして、

 「おかしいわ、聞き違いかしら」と不審がっているのを、お聞きになって、

 「仏のお導きは、暗い中に入っても、決して間違うはずはありませんが」

 とおっしゃるお声が、とても若く上品なので、お返事する声づかいも、気がひけるが、

 「どのお方への、ご案内でしょうか。分かりかねますが」と申し上げる。

 「なるほど、唐突なことだとご不審になるのも、ごもっともですが、

  初草のごときうら若き少女を見てからは
  わたしの旅寝の袖は恋しさの涙の露ですっかり濡れております

 と申し上げて下さいませんか」とおっしゃる。

 「まったく、このようなお言葉を、頂戴して分かるはずの人もいらっしゃらない有様は、ご存知でいらっしゃりそうなのに。どなたに」と申し上げる。

 「自然と、しかるべきわけがあって申し上げているのだろうとお考え下さい」

 とおっしゃるので、奥に行って申し上げる。

 「まあ、華やいだことを。この姫君を、年頃でいらっしゃると、お思いなのだろうか。それにしては、あの『若草を』と詠んだのを、どうしてご存知でいらっしゃることか」と、あれこれと不思議なので、困惑して、遅くなっては、失礼になると思って、

 「今晩だけの旅の宿で涙に濡れていらっしゃるからといって
  深山に住むわたしたちのことを引き合いに出さないでくださいまし

 乾きそうにございませんのに」とご返歌申し上げなさる。

 「このような取次を介してのご挨拶は、まだまったく致したことがなく、初めてのことです。恐縮ですが、このような機会に、真面目にお話させていただきたいことがあります」と申し上げなさると、尼君は、

 「聞き違いをなさっていらっしゃるのでしょう。まことに立派なお方に、どのようなことをお返事申せましょう」とおっしゃると、

 「きまりの悪い思いをおさせになってはいけません」と女房たちが申す。

 「なるほど、若い人なら嫌なことでしょうが、真面目におっしゃっているのは、恐れ多い」

 と言って、いざり寄りなさった。

 「突然で、軽薄な振る舞いと、きっとお思いになられるにちがいないような場合ですが、わたし自身にはそのように思われませんので。仏はもとよりお見通しで」

 と言ったが、落ち着いていて、気の置ける様子に気後れして、すぐにはお切り出しになれない。

 「おっしゃるとおり、思い寄りも致しませぬ機会に、こうまでおっしゃっていただいたり、お話させていただけますのも、どうして浅い縁と申せましょう」とおっしゃる。

 「お気の毒な身の上と承りましたご境遇を、あのお亡くなりになった方のお代わりと、わたしをお思いになって下さいませんか。わたしも幼いころに、かわいがってくれるはずの母親に先立たれましたので、妙に頼りない有様で、年月を送っております。同じような境遇でいらっしゃるというので、お仲間にしていただきたいと、心から申し上げたいのですが、このような機会はめったにございませんので、どうお思いになられるかもかまわずに、申し出たのでございます」と申し上げなさると、

 「とても嬉しく存じられるはずのお言葉ですが、お聞き違えていらっしゃることがございませんでしょうかと、憚られるのです。年寄一人を頼りにしている孫がございますが、とてもまだ幼い年頃で、大目に見てもらえるところもございませんようなので、お承りおくこともできないのでございます」とおっしゃる。

 「みな、はっきりと承知致しておりますから、窮屈にご遠慮なさらず、深く思っております格別な心のほどを、御覧下さいませ」

 と申し上げなさるが、まだとても不似合いなことを、そうとも知らないでおっしゃる、とお思いになって、打ち解けたご返事もない。僧都がお戻りになったので、

 「それでは、このように申し上げましたので、心丈夫です」と言って、屏風をお閉てになった。

 暁方になったので、法華三昧を勤めるお堂の懺法の声が、山下ろしの風に乗って聞こえて来るのが、とても尊く、滝の音に響き合っていた。

 「深山おろしの懺法の声に煩悩の夢が覚めて
  感涙を催す滝の音であることよ」

 「不意に来られてお袖を濡らされたという山の水に
  心を澄まして住んでいるわたしは驚きません
 耳慣れてしまったからでしょうか」と申し上げなさる。

 [第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京]

 明けて行く空は、とてもたいそう霞んで、山の鳥どもがどこかしことなく囀り合っている。名も知らない木や草の花々が、色とりどりに散り混じり、錦を敷いたと見える所に、鹿があちこちと立ち止まったり歩いたりしているのも、珍しく御覧になると、気分の悪いのもすっかり忘れてしまった。

 聖は、身動きも不自由だが、やっとのことで護身法をして差し上げなさる。しわがれた声で、とてもひどく歯の間から洩れて聞きにくいのも、しみじみと年功を積んだようで、陀羅尼を誦していた。

 お迎えの人々が参って、ご回復されたお祝いを申し上げ、帝からもお見舞いがある。僧都は、見慣れないような果物を、あれこれと、谷の底から採ってきては、ご接待申し上げなさる。

 「今年いっぱいの誓いが固うございまして、お見送りに参上できませぬ次第。かえって残念に存じられてなりません」

 などと申し上げなさって、お酒を差し上げなさる。

 「山や谷川に心惹かれましたが、帝にご心配あそばされますのも、恐れ多いことですので。そのうち、この花の時期を過ごさずに参りましょう。

 大宮人に帰って話して聞かせましょう、この山桜の美しいことを
 風の吹き散らす前に来て見るようにと」

 とおっしゃる態度や、声づかいまでが、眩しいくらい立派なので、

 「三千年に一度咲くという優曇華の花の
  咲くのにめぐり逢ったような気がして、深山桜には目も移りません」

 と申し上げなさると、君は微笑みなさって、「その時節に至って、一度咲くという花は、難しいといいますのに」とおっしゃる。

 聖は、お杯を頂戴して、

 「奥山の松の扉を珍しく開けましたところ
  まだ見たこともない花のごとく美しいお顔を拝見致しました」

 と、ちょっと感涙に咽んで君を拝し上げる。聖は、ご守護に、独鈷を差し上げる。それを御覧になって、僧都は、聖徳太子が百済から得られた金剛子の数珠で、玉の飾りが付いているのを、そのままその国から入れてあった箱で、唐風なのを、透かし編みの袋に入れて、五葉の松の枝に付けて、紺瑠璃の壺々に、お薬類を入れて、藤や桜などに付けて、場所柄に相応しいお贈物類を、捧げて差し上げなさる。

 源氏の君は、聖をはじめとして、読経した法師へのお布施類、用意の品々を、いろいろと京へ取りにやっていたので、その近辺の樵人にまで、相応の品物をお与えになり、御誦経の布施をしてお出立になる。

 室内に僧都はお入りになって、あの君が申し上げなさったことを、そのままお伝え申し上げなさるが、

 「何ともこうとも、今すぐには、お返事の申し上げようがありません。もし、君にお気持ちがあるならば、もう四、五年たってから、ともかくも」とおっしゃると、「しかじか」と同じようにばかりあるので、つまらないとお思いになる。

 お手紙は、僧都のもとに仕える小さい童にことづけて、

 「昨日の夕暮時にわずかに美しい花を見ましたので
  今朝は霞の空に立ち去りがたい気がします」

 お返事、

 「本当に花の辺りを立ち去りにくいのでしょうか
 そのようなことをおっしゃるお気持ちを見たいものです」

 と、教養ある筆跡で、とても気品のある文字を、無造作にお書きになっている。

 お車にお乗りになるころに、左大臣邸から、「どちらへ行くともおっしゃらなくて、お出かけあそばしてしまったこと」と言って、お迎えの供人、ご子息たちなどが大勢参上なさった。頭中将、左中弁、その他のご子息もお慕い申して、

 「このようなお供には、お仕え申しましょうと、存じておりますのに、あまりにも、お置き去りあそばして」とお怨み申して、「とても美しい桜の花の下に、しばしの間も足を止めずに、引き返しますのは、もの足りない気がしますね」とおっしゃる。

 岩蔭の苔の上に並び座って、お酒を召し上がる。落ちて来る水の様子など、風情のある滝のほとりである。頭中将は、懐にしていた横笛を取り出して、吹き澄ましている。弁の君は、扇を軽く打ち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と謡う。普通の人よりは優れた公達であるが、源氏の君の、とても苦しそうにして、岩に寄り掛かっておいでになるのは、またとなく不吉なまでに美しいご様子に、他の何人にも目移りしそうにないのであった。いつものように、篳篥を吹く随身や、笙の笛を持たせている風流人などもいる。

 僧都は、七絃琴を自分で持って参って、

 「これで、ちょっとひと弾きあそばして、同じことなら、山の鳥をも驚かしてやりましょう」

 と熱心にご所望申し上げなさるので、

 「気分が悪いので、とてもできませんのに」とお答え申されるが、ことに無愛想にはならない程度に琴を掻き鳴らして、一行はお立ちになった。

 名残惜しく残念だと、取るに足りない法師や、童子たちも、涙を落とし合っていた。彼ら以上に、室内では、年老いた尼君たちなどは、まだこのようにお美しい方の姿を見たことがなかったので、「この世の人とは思われなさらない」とお噂申し上げ合っていた。僧都も、

 「ああ、どのような因縁で、このような美しいお姿でもって、まことにむさ苦しい日本国の末世にお生まれになったのであろうと思うと、まことに悲しい」と言って、目を押し拭いなさる。

 この若君は、子供心に、「素晴らしい人だわ」と御覧になって、

 「父宮のお姿よりも、優れていらっしゃいますわ」などとおっしゃる。

 「それでは、あの方のお子様におなりあそばせな」

 と申し上げると、こっくりと頷いて、「とてもすてきなことだわ」とお思いになっている。お人形遊びにも、お絵描きなさるにも、「源氏の君」と作り出して、美しい衣装を着せ、お世話なさる。

 [第六段 内裏と左大臣邸に参る]

 源氏の君は、まず内裏に参内なさって、ここ数日来のお話などを申し上げなさる。「とてもひどくお痩せになってしまったものよ」とおっしゃって、ご心配あそばした。聖の霊験あらたかであったことなどを、お尋ねあそばす。詳しく奏上なさると、

 「阿闍梨などにも任ぜられてもよい人であったのだな。修行の功績は大きいのに、朝廷からは知られていらっしゃらなかったことよ」と、尊重なさりたく仰せられるのであった。

 大殿が、参内なさっておられて、

 「お迎えにもと存じましたが、お忍びの外出なので、どんなものかと遠慮して。のんびりと、一、二日、お休みなさい」と言って、「このまま、お供申しましょう」と申し上げなさるので、そうしたいとはお思いにならないが、連れられて退出なさる。

 ご自分のお車にお乗せ申し上げなさって、自分は遠慮してお乗りになる。大切にお世話申し上げなさるお気持ちの有り難いことを、やはり胸のつまる思いがなさるのであった。

 大殿邸でも、おいであそばすだろうとご用意なさって、久しくお見えにならなかった間に、ますます玉の台のように磨き上げ飾り立て、用意万端ご準備なさっていた。

 女君は、例によって、物蔭に隠れて、すぐには出ていらっしゃらないのを、父大臣が、強くご催促申し上げなさって、やっと出ていらっしゃった。まるで絵に描いた姫君のように、かしずき座らされて、ちょっと身体をお動かしになることも難しく、きちんと行儀よく座っていらっしゃるので、心の中の思いを話したり、北山行きの話をもお聞かせしたりするにも、話のしがいがあって、興味をもってお返事をなさって下さろうものなら、情愛もわこうが、まったく少しも打ち解けず、源氏の君をよそよそしく気づまりな相手だとお思いになって、年月を重ねるにつれて、お気持ちの隔たりが増さるのを、とても辛く、心外なので、

 「時々は、世間並みの妻らしいご様子を見たいですね。私がひどく苦しんでおりました時にも、せめてどうですかとだけでも、お見舞い下さらないのは、今に始まったことではありませんが、やはり残念で」

 と申し上げなさる。ようやくのことで、

 「『尋ねないのは、辛いものなの』でしょうか」

 と、流し目に御覧になっている目もとは、とても気後れがしそうで、気品高くかわいらしげなご容貌である。

 「たまさかにおっしゃるかと思えば、心外なお言葉ですね。『訪ねない』、などという間柄は、他人が使う言葉でございましょう。嫌なふうにおっしゃいますね。いつまでたっても変わらない体裁の悪い思いをさせるお振る舞いを、もしや、お考え直しになるときもあろうかと、あれやこれやとお試し申しているうちに、ますますお疎んじなられたようですね。仕方ない、『長生きさえしたら

 と言って、夜のご寝所にお入りになった。女君は、すぐにもお入りにならず、お誘い申しあぐねなさって、溜息をつきながら横になっているものの、何となくおもしろくないのであろうか、眠そうなふりをなさって、あれやこれやと夫婦仲を思い悩まれることが多かった。

 この若草の君が成長していく間がやはり気にかかるので、「まだ相応しくない年頃と思っているのも、もっともである。申し込みにくいものだなあ。何とか手段を講じて、ほんの気楽に迎え取って、毎日の慰めとして一緒に暮らしたい。父兵部卿宮は、とても上品で優美でいらっしゃるが、つややかなお美しさはないのに、どうして、あの一族に似ていらっしゃるのだろう。父宮が同じお后様からお生まれになったからだろうか」などとお考えになる。血縁がとても親しく感じられて、何とかしてと、深く思われる。

 [第七段 北山へ手紙を贈る]

 翌日、お手紙を差し上げなさった。僧都にもそれとなくお書きになったのであろう。尼上には、

 「取り合って下さらなかったご様子に気がひけますので、思っておりますことをも、十分に申せずじまいになりましたことを。これほどに申し上げておりますことにつけても、並々ならぬ気持ちのほどを、お察しいただけたら、どんなに嬉しいことでしょうか」

 などと書いてある。中に、小さく結んで、

 「あなたの山桜のように美しい面影はわたしの身から離れません
  心のすべてをそちらに置いて来たのですが

 『夜の間に吹く風が心配で』と思われまして」

 と書いてある。ご筆跡などはさすがに素晴らしくて、ほんの無造作にお包みになった様子も、年配の人々のお目には、眩しいほどに好ましく見える。

 「まあ、困ったこと。どのようにお返事申し上げましょう」と、お困りになる。

 「行きがかりのお話は、ご冗談ごとと存じられましたが、わざわざお手紙を頂戴いたしましたのに、お返事の申し上げようがなくて。まだ「難波津」をさえ、満足に書き続けませんようなので、お話になりません。それにしても、

  激しい山風が吹いて散ってしまう峰の桜に
  その散る前にお気持ちを寄せられたような頼りなさに思われます
 ますます気がかりでございまして」

 とある。僧都のお返事も同じようなので、残念に思って、二、三日たって、惟光を差し向けなさる。

 「少納言の乳母という人がいるはずだ。その人を尋ねて、詳しく相談せよ」などとお言い含めなさる。「何とも、どのようなことにもご関心を寄せられる好き心だなあ。あれほど子供じみた様子であったのに」と、はっきりとではないが、少女を見た時のことを思い出すとおかしい。

 わざわざ、このようにお手紙があるので、僧都も恐縮の由を申し上げなさる。少納言の乳母に申し入れて面会した。詳しく、お考えになっておっしゃっるご様子や、日頃のご様子などを話す。多弁な人なので、もっともらしくいろいろ話し続けるが、「とても無理なお年なのに、どのようにお考えなのか」と、大変心配なことと、どなたもどなたもお思いになるのであった。

 お手紙にも、とても心こめてお書きになって、例によって、その中に、「あの一字一字にお書きなのを、やはり拝見したいのです」とあって、

 「浅香山のように浅い気持ちで思っているのではないのに
  どうして山の井に影が宿らないようにわたしからかけ離れていらっしゃるのでしょう」

 お返事は、

 「うっかり薄情な人と契りを結んで後悔したと聞きました浅い山の井のような
  浅いお心のままではどうして孫娘を差し上げられましょう」

 惟光も同じ趣旨のご報告を申し上げる。

 「尼君のご病気が多少回復したら、しばらくここで過ごして、京のお邸にお帰りになってから、改めてお返事を申し上げましょう」とあるのを、待ち遠しくお思いになる。

 

第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語

 [第一段 夏四月の短夜の密通事件]

 藤壺の宮に、ご不例の事があって、ご退出された。主上が、お気をもまれ、ご心配申し上げていらっしゃるご様子も、まことにおいたわしく拝見しながらも、せめてこのような機会にもと、魂も浮かれ出て、どこにもかしこにもお出かけにならず、内裏にいても里邸にいても、昼間は所在なくぼうっと物思いに沈んで、夕暮れになると、王命婦にあれこれとおせがみになる。

 どのように手引したのだろうか、とても無理算段してお逢い申している間さえ、現実とは思われないのは、辛いことであるよ。宮も、思いもしなかった出来事をお思い出しになるだけでも、生涯忘れることのできないお悩みの種なので、せめてそれきりで終わりにしたいと深く決心されていたのに、とても情けなくて、ひどく辛そうなご様子でありながらも、優しくいじらしくて、そうかといって馴れ馴れしくなく、奥ゆかしく気品のある御物腰などが、やはり普通の女人とは違っていらっしゃるのを、「どうして、わずかの欠点すら少しも混じっていらっしゃらなかったのだろう」と、辛くまでお思いになられる。どのようなことをお話し申し上げきれようか。鞍馬の山に泊まりたいところだが、あいにくの短夜なので、情けなく、かえって辛い逢瀬である。

 「お逢いしても再び逢うことの難しい夢のようなこの世なので
  夢の中にそのまま消えてしまいとうございます」

 と、涙にひどくむせんでいられるご様子も、何と言ってもお気の毒なので、

 「世間の語り草として語り伝えるのではないでしょうか、
  この上なく辛い身の上を覚めることのない夢の中のこととしても」

 お悩みになっている様子も、まことに道理で恐れ多い。命婦の君が、お直衣などは、取り集めて持って来た……。

 お邸にお帰りになって、泣き臥してお暮らしになった。お手紙なども、例によって、御覧にならない旨ばかりなので、いつものことながらも、全く茫然自失とされて、内裏にも参内せず、二、三日閉じ籠もっていらっしゃるので、「また、どうかしたのだろうか」と、ご心配あそばされるにちがいないようなのも、恐ろしいばかりに思われなさる。

 [第二段 妊娠三月となる]

 藤壺宮も、やはり実に情けないわが身であったと、お嘆きになると、ご気分の悪さもお加わりになって、早く参内なさるようにとの御勅使が、しきりに来るが、ご決心もつかない。

 本当に、ご気分が、普段のようにおいであそばさないのは、どうしたことかと、密かにお思い当たることもあったので、情けなく、「どうなることだろうか」とばかりお悩みになる。

 暑いころは、ますます起き上がりもなさらない。三か月におなりになると、とてもよく分かるようになって、女房たちもそれとお気付き申すにつけ、思いもかけないご宿縁のほどが、恨めしい。他の人たちは、思いもよらないことなので、「この月まで、ご奏上あそばされなかったこと」と、意外なことにお思い申し上げる。ご自身一人には、はっきりとお分かりになる節もあるのであった。

 お湯殿などにも身近にお仕え申し上げて、どのようなご様子もはっきり存じ上げている、おん乳母子の弁や、命婦などは、変だと思うが、お互いに口にすべきことではないので、やはり逃れられなかったご運命を、命婦は驚きあきれたことと思う。

 帝に対しては、おん物の怪のせいで、すぐにはご兆候がなくあそばしたように奏上したのであろう。周囲の人もそうとばかり思っていた。ますますこの上なく愛しくお思いあそばして、御勅使などがひっきりなしにあるにつけても、空恐ろしく、物思いの休まる時もない。

 源氏中将の君も、ただごとではない異様な夢を御覧になって、夢解きをする者を呼んで、ご質問させなさると、及びもつかないような思いもかけない方面のことを判断したのであった。

 「その中に、順調に行かないところがあって、お身を慎みあそばさなければならないことがございます」

 と言うので、面倒に思われて、

 「自分の夢ではない、他の方の夢を申すのだ。この夢が現実となるまで、誰にも話してはならぬ」

 とおっしゃって、心中では、「どのようなことなのだろう」とお考えめぐらしていると、この女宮のご懐妊のことをお聞きになって、「あの夢はもしやそのようなことか」と、お思い合わせになると、ますます熱心に言葉のあらん限りを尽くして申し上げなさるが、命婦も考えると、まことに恐ろしく、難儀な気持ちが増してきて、まったく逢瀬を手立てする方法がない。ほんの一行のお返事がまれにはあったのも、すっかり絶えはててしまった。

 [第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る]

 七月になって宮は参内なさった。珍しい事で感動深くて、以前にも増す御寵愛ぶりはこの上もない。少しふっくらとおなりになって、ちょっと悩ましげに、面痩せしていらっしゃるのは、それはそれでまた、なるほど比類なく素晴らしい。

 例によって、明け暮れ、帝はこちらにばかりお出ましになって、管弦の御遊もだんだん興の乗る季節なので、源氏の君も暇のないくらいお側にたびたびお召しになって、お琴や、笛など、いろいろと君にご下命あそばす。つとめてお隠しになっているが、我慢できない気持ちが外に現れ出てしまう折々、藤壺宮も、さすがに忘れられない事どもをあれこれとお思い悩み続けていらっしゃるのであった。

 

第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語

 [第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る]

 あの山寺の人は、少しよくなってお出になられたのであった。京のお住まいを尋ねて、時々お手紙などがある。同じような返事ばかりであるのももっともであるが、ここ何か月は、以前にも増す物思いによって、他の事を思う間もなくて過ぎて行く。

 秋の終わりころ、とても物寂しくてお嘆きになる。月の美しい夜に、お忍びの家にやっとのことでお思い立ちになると、時雨めいてさっと降る。おいでになる先は六条京極辺りで、内裏からなので、少し遠い感じがしていると、荒れた邸で木立がとても年代を経て鬱蒼と見えるのがある。いつものお供を欠かさない惟光が、

 「故按察大納言の家でございまして、ちょっとしたついでに立ち寄りましたところ、あの尼上は、ひどくご衰弱されていらっしゃるので、どうして良いか分からないでいる、と申しておりました」と申し上げると、

 「お気の毒なことよ。お見舞いすべきであったのに。どうして、そうと教えなかったのか。入って行って、挨拶をせよ」

 とおっしゃるので、惟光は供人を入れて案内を乞わせる。わざわざこのようにお立ち寄りになった旨を言わせたので、入って行って、

 「このようにお見舞いにいらっしゃいました」と言うと、驚いて、

 「とても困ったことですわ。ここ数日、ひどくご衰弱あそばされましたので、お目にかかることなどはとてもできそうにありません」

 とは言っても、お帰し申すのも恐れ多いということで、南の廂の間を片づけて、お入れ申し上げる。

 「たいそうむさ苦しい所でございますが、せめてお礼だけでもとのことで。何の用意もなく、鬱陶しいご座所で恐縮です」

 と申し上げる。なるほどこのような所は、普通とは違っているとお思いになる。

 「常にお見舞いにと存じながら、すげないお返事ばかりあそばされますので、遠慮いたされまして。ご病気でいらっしゃることが、重いこととも存じませんでしたもどかしさを」などと申し上げなさる。

 「気分のすぐれませんことは、いつも変わらずでございますが、いよいよの際となりまして、まことにもったいなくも、お立ち寄りいただきましたのに、自分自身でお礼申し上げられませんこと。仰せられますお話の旨は、万一にもお気持ちが変わらないようでしたら、このような頑是ない時期が過ぎましてから、きっとお目をかけて下さいませ。ひどく頼りない身の上のまま残して逝きますのが、願っております仏道の妨げに存ぜずにはいられません」などと、申し上げなさった。

 すぐに近いところなので、不安そうなお声が途切れ途切れに聞こえて、

 「まことに、もったいないことでございます。せめてこの姫君が、お礼を申し上げなされるお年でありましたならよいのに」

 とおっしゃる。しみじみとお聞きになって、

 「どうして、浅く思っております気持ちから、このような好色めいた態度をお見せ申し上げましょうか。どのような前世からの因縁によってか、初めてお目にかかった時から、愛しくお思い申しているのも、不思議なまでに、この世の縁だけとは思われません」などとおっしゃって、「いつも甲斐ない思いばかりしていますので、あのかわいらしくいらっしゃるお一声を、ぜひとも」とおっしゃると、

 「いやはや、何もご存知ないさまで、ぐっすりお眠りになっていらっしゃって」

 などと申し上げている、ちょうどその時、あちらの方からやって来る足音がして、

 「祖母上さま、先日の寺にいらした源氏の君さまがいらしているそうですね。どうしてお会いさらないの」

 とおっしゃるのを、女房たちは、とても具合悪く思って、「お静かに」と制止申し上げる。

 「あら、だって、『会ったら気分の悪いのも良くなった』とおっしゃったからよ」

 と、利口なことを申し上げたとお思いになっておっしゃる。

 とてもおもしろいとお聞きになるが、女房たちが困っているので、聞かないようにして、行き届いたお見舞いを申しおかれて、お帰りになった。「なるほど、まるで子供っぽいご様子だ。けれども、よく教育しよう」とお思いになる。

 翌日も、とても誠実なお見舞いを差し上げなさる。いつものように、小さく結んで、

 「かわいい鶴の一声を聞いてから
  葦の間を行き悩む舟はただならぬ思いをしています
 『同じ人を慕い続けている』わたしです」

 と、殊更にかわいらしくお書きになっているのも、たいそう見事なので、「そのままお手本に」と、女房たちは申し上げる。少納言がお返事申し上げた。

 「お見舞いいただきました方は、今日一日も危いような状態なので、山寺に移るところでございまして。このようなお見舞いをいただきましたお礼は、あの世からでもお返事をさせていただきましょう」

 とある。とてもお気の毒にとお思いになる。

 秋の夕暮れは、常にも増して、心の休まる間もなく恋い焦がれているお方のことに思いが集中して、無理にでもその方のゆかりの人を尋ね取りたい気持ちもお募りなさるのであろう。尼君が「死にきれない」と詠んだ夕暮れを自然とお思い出しになられて、恋しく思っても、また、実際に逢ってみたら見劣りがしないだろうかと、やはり不安である。

 「手に摘んで早く見たいものだ
  紫草にゆかりのある野辺の若草を」

 [第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々]

 神無月に朱雀院への行幸が予定されている。舞人などを、高貴な家柄の子息や、上達部、殿上人たちなどの、その方面で適当な人々は、皆お選びあそばされたので、親王たちや、大臣をはじめとして、それぞれ伎芸を練習をなさり、暇がない。

 山里の人にも、久しくご無沙汰なさっていたのを、お思い出しになって、わざわざお遣わしになったところ、僧都の返事だけがある。

 「先月の二十日ごろに、とうとうご臨終をお見届けいたしまして、人の世の宿命だが、悲しく存じられます」

 などとあるのを御覧になると、世の中の無常をしみじみと思われて、「心配していた人もどうしているだろう。子供心にも、尼君を恋い慕っているだろうか。わたしも亡き母御息所に先立たれた頃には」などと、はっきりとではないが、思い出して、丁重にお弔いなさった。少納言の乳母が、心得のあるご返礼などを申し上げた。

 忌みなどが明けて京の邸に戻られたなどとお聞きになったので、暫くしてから、ご自身で、お暇な夜にお出かけになった。まことにぞっとするくらい荒れた所で、人気も少ないので、どんなに小さい子には怖いことだろうと思われる。いつもの所にお通し申して、少納言が、ご臨終の有様などを、泣きながらお話申し上げると、他人事ながら、お袖も涙でつい濡れる。

 「父兵部卿宮邸にお引き取り申し上げようとの事でございますようですが、『亡き姫君が、北の方をとても情愛のない嫌な人とお思い申していらしたのに、まったく子供というほどでもないお年頃で、また、しっかりと人の意向を聞き分けることもおできになれない、中途半端なお年頃で、大勢いらっしゃるという中で、軽んじられてお過ごしになるのではないか』などと、お亡くなりになった尼上も、始終ご心配されていらしたこと、明白なことが多くございましたので、このようにもったいないかりそめのお言葉は、後々のご配慮までもご推察申さずに、とても嬉しく存ぜずにはいられない時ではございますが、全く相応しい年頃でいらっしゃらないし、お年のわりには幼くていらっしゃいますので、とても見ていられない状態でございます」と申し上げる。

 「どうして、このように繰り返して申し上げている気持ちを、気兼ねなさるのでしょう。その、幼いお考えの様子がかわいく愛しくお見えになるのも、宿縁が特別なものと、わたしの心には自然と思われてくるのです。やはり、人を介してではなく、直接お伝え申し上げたい。

  若君にお目にかかることは難しかろうとも
  和歌の浦の波のようにこのまま立ち帰ることはしません
 失礼でしょう」とおっしゃると、

 「なるほど、恐れ多いこと」と言って、

 「和歌の浦に寄せる波に身を任せる玉藻のように
  相手の気持ちをよく確かめもせずに従うことは頼りないことです
 困りますこと」

 と申し上げる態度がもの馴れているので、すこし大目に見る気になられる。「どうして逢わずにいられようか」と、口ずさみなさるのを、ぞくぞくして若い女房たちは感じ入っていた。

 姫君は、祖母上をお慕い申されて泣き臥していらっしゃったが、お遊び相手たちが、

 「直衣を着ている方がいらっしゃってるのは、父宮さまがおいであそばしたのらしいわ」

 と申し上げると、起き出しなさって、

 「少納言や。直衣を着ているという方は、どちら。父宮がいらしたの」

 と言って、近づいて来るお声が、とてもかわいらしい。

 「宮さまではありませんが、必ずしも関係ない人ではありません。こちらへ」

 とおっしゃると、あの素晴らしかったお方だと、子供心にも聞き分けて、まずいことを言ってしまったとお思いになって、乳母の側に寄って、

 「ねえ、行きましょうよ。眠いから」とおっしゃるので、

 「今さら、どうして逃げ隠れなさるのでしょう。わたしの膝の上でお寝みなさいませ。もう少し近くへいらっしゃい」

 とおっしゃると、乳母が、

 「これですから。このようにまだ頑是ないお年頃でして」

 と言って、押しやり申したところ、無心にお座りになったので、お手を差し入れてお探りになると、柔らかなお召物の上に、髪がつやつやと掛かって、末の方までふさふさしているのが、とてもかわいらしく想像される。お手を捉えなさると、気味の悪いよその人が、このように近くにいらっしゃるのは、恐ろしくなって、

 「寝よう、と言っているのに」

 と言って、無理に奥に入って行きなさるのに後から付いて御簾の内側にするすると入って、

 「今は、わたしが世話して上げる人ですよ。お嫌いにならないでね」

 とおっしゃる。乳母が、

 「あら、まあ嫌でございますわ。あまりのなさりようでございますわ。いくらお話申し上げあそばしても、何の甲斐もございませんでしょうに」といって、つらそうに困っているので、

 「いくらなんでも、このようなお年の方をどうしましようか。やはり、ただ世間に類ないほどのわたしの愛情をお見届けください」とおっしゃる。

 霰が降り荒れて、恐ろしい夜の様子である。

 「どうして、このような少人数な所で頼りなく過ごしていらっしゃれようか」

 と思うと、ついお泣きになって、とても見捨てては帰りにくい有様なので、

 「御格子を下ろしなさい。何となく恐そうな夜の感じのようですから、宿直人となってお勤めしましょう。女房たち、近くに参りなさい」

 と言って、とても物馴れた態度で御帳の内側にお入りになるので、奇妙な思いも寄らないことをと、あっけにとられて、一同茫然としている。乳母は、心配で困ったことだと思うが、事を荒立て申すべき場合でないので、嘆息しながら見守っていた。

 若君は、とても恐ろしく、どうなるのだろうと自然と震えて、とてもかわいらしいお肌も、ぞくぞくと粟立つ感じがなさるのを、源氏の君はいじらしく思われて、肌着だけで包み込んで、ご自分ながらも、一方では変なお気持ちがなさるが、しみじみとお話なさって、

 「さあ、いらっしゃいよ。美しい絵などが多く、お人形遊びなどする所に」

 と、気に入りそうなことをおっしゃる様子が、とても優しいので、子供心にも、そう大して物怖じせず、とは言っても、気味悪くて眠れなく思われて、もじもじして横になっていらっしゃった。

 一晩中、風が吹き荒れているので、

 「ほんとうに、このように、お越し下さらなかったら、どんなに心細かったことでしょう」
 「同じことなら、お似合いの年でおいであそばしたら」

 とささやき合っている。少納言の乳母は、心配で、すぐ近くに控えている。風が少し吹き止んだので、夜の深いうちにお帰りになるのも、いかにもわけありそうな朝帰りであるよ。

 「とてもお気の毒にお見受け致しましたご様子を、今では以前にもまして、片時の間も見なくては気がかりでならないでしょう。毎日物思いをして暮らしている所にお迎え申し上げましょう。こうしてばかりいては、どんなものでしょうか。姫君はお恐がりにはならなかった」とおっしゃると、

 「父宮もお迎えになどと申していらっしゃるようですが、故尼君の四十九日忌が過ぎてからか、などと存じます」と申し上げると、

 「頼りになる血筋ではあるが、ずっと別々に暮らして来られた方は、他人同様に疎々しくお思いでしょう。今夜初めてお会いしたが、わたしの深い愛情は父宮様以上でしょう」

 と言って、かき撫でかき撫でして、後髪を引かれる思いでお出になった。

 ひどく霧の立ちこめた空もいつもとは違った風情であるうえに、霜は真白に降りて、本当の恋であったら興趣あるはずなのに、何か物足りなく思っていらっしゃる。たいそう忍んでお通いになる方への道筋であったのをお思い出しになって、門を叩かせなさるが、聞きつける人もいない。しかたなくて、お供の中で声の良い者に歌わせなさる。

 「曙に霧が立ちこめた空模様につけても
  素通りし難い貴女の家の前ですね」

 と、二返ほど歌わせたところ、心得ある下仕え人を出して、

 「霧の立ちこめた家の前を通り過ぎ難いとおっしゃるならば
  生い茂った草が門を閉ざしたことぐらい何でもないでしょうに」

 と詠みかけて、入ってしまった。他に誰も出て来ないので、帰るのも風情がないが、空が明るくなって行くのも体裁が悪いので邸へお帰りになった。

 かわいらしかった方の面影が恋しく、独り微笑みながらお臥せりになった。日が高くなってからお起きになって、手紙を書いておやりになる時、書くはずの言葉も普通と違うので、筆を書いては置き書いては置きと、気の向くままにお書きになっている。美しい絵などをお届けなさる。

 あちらでは、ちょうど今日、父宮がおいでになった。ここ数年来以上にすっかり荒れ行き、広く古めかしくなった邸が、ますます人数が少なくなって月日を経ているので、ずっと御覧になって、

 「このような所には、どうして、少しの間でも幼い子供がお過しになれよう。やはり、あちらにお引き取り申し上げよう。けっして窮屈な所ではない。乳母には、部屋をもらって仕えればよい。姫君は、若い子たちがいるので、一緒に遊んで、とても仲良くやって行けよう」などとおっしゃる。

 近くにお呼び寄せになると、あの源氏の君のおん移り香が、たいそうよい匂いに深く染み着いていらっしゃるので、「いい匂いだ。お召し物はすっかりくたびれているが」と、お気の毒にお思いになった。

 「これまでは、病気がちのお年寄と一緒においでになったことよ、あちらに引っ越してお馴染みなさいなどと、言っていましたが、変にお疎んじなさって、妻もおもしろからぬようでいたが、このような時に移って来られるのも、おかわいそうに」などとおっしゃると、

 「いえどう致しまして。心細くても、今暫くはこうしておいであそばしましょう。もう少し物の道理がお分かりになりましたら、お移りあそばされることが良うございましょう」と申し上げる。

 「夜昼となくお慕い申し上げなさって、ちょっとした物もお召し上がりになりません」

 と申して、なるほど、とてもひどく面痩せなさっているが、まことに上品でかわいらしく、かえって美しくお見えになる。

 「どうして、そんなにお悲しみなさる。今はもうこの世にいない方のことは、しかたがありません。わたしがついているので」

 などとやさしくお話申し上げなさって、日が暮れるとお帰りあそばすのを、とても心細いとお思いになってお泣きになると、宮ももらい泣きなさって、

 「けっして、そんなにご心配なさるな。今日明日のうちに、お移し申そう」などと、繰り返しなだめすかして、お帰りになった。

 その後の寂しさも慰めようがなく泣き沈んでいらっしゃった。将来の身の上のことなどはお分りにならず、ただ長年離れることなく一緒にいて、今はお亡くなりになってしまったと、お思いになるのが悲しくて、子供心であるが、胸がいっぱいにふさがって、いつものようにもお遊びはなさらず、昼間はどうにかお紛らわしになるが、夕暮時になると、ひどくおふさぎこみなさるので、これではどのようにお過ごしになられようかと、慰めあぐねて、乳母たちも一緒に泣いていた。

 源氏の君のお邸からは、惟光をお差し向けなさった。

 「私自身が参るべきところ、帝からお召しがありまして。お気の毒に拝見致しましたのにつけても、気がかりで」と伝えて、宿直人を差し向けなさった。

 「情けないことですわ。ご冗談にも結婚の最初からして、このようなお事とは」
 「宮さまがお耳にされたら、お仕えする者の落度として叱られましょう」
 「ああ、大変だわ。何かのついでに、父宮にうっかりお口にあそばされますな」

 などと言うにつけても、そのことを何ともお分りでいらっしゃらないのは、困ったことであるよ。

 少納言の乳母は、惟光に気の毒な身の上話をいろいろとして、

 「これから先いつか、ご一緒になるようなご縁から、お逃れ申されないものかも知れません。ただ今は、まったく不釣り合いなお話と拝察致しておりますが、不思議にご熱心に思ってくださり、またおっしゃってくださいますのを、どのようなお気持ちからかと、判断つかないで悩んでおります。今日も、父宮さまがお越しあそばして、『安心の行くように仕えなさい。うっかりしたことは致すな』と仰せられたのも、とても厄介で、なんでもなかった時より、このような好色めいたことも改めて気になるのでございました」

 などと言って、「この人も何か特別の関係があったように思うだろうか」など思われるのも、不本意なので、ひどく悲しんでいるようには言わない。惟光大夫も、「どのような事なのだろう」と、ふに落ちなく思う。

 帰参して、様子などをご報告すると、しみじみと思いをお馳せになるが、先夜のようにお通いなさるのも、やはり似合わしくない気持ちがして、「軽率な風変わりなことをしていると、世間の人が聞き知るかも知れない」などと、遠慮されるので、「いっそ迎えてしまおう」とお考えになる。

 お手紙は頻繁に差し上げなさる。暮れると、いつものように惟光大夫をお差し向けなさる。「差し障りがあって参れませんのを、不熱心なとでも」などと、伝言がある。

 「父宮さまから、明日急にお迎えにと仰せがありましたので、気ぜわしくて。長年住みなれた蓬生の宿を離れますのも、何と言っても心細く、お仕えする女房たちも思い乱れておりまして」

 と、言葉数少なに言って、ろくにお相手もせずに、繕い物をする様子がはっきり分かるので、帰参した。

 [第三段 源氏、紫の君を盗み取る]

 源氏の君は左大臣邸においでになったが、例によって、女君はすぐにはお会いなさらない。君は何となくおもしろくなくお思いになって、和琴を即興に掻き鳴らして、「常陸では田を作っているが」という歌を、声はとても優艶に、口ずさんでおいでになっていた。

 参上したので、呼び寄せて様子をお尋ねになる。「これこれしかじかです」と申し上げるので、残念にお思いになって、「あの父宮邸に移ってしまったら、わざわざ迎え取ることも好色めいたことであろう。子供を盗み出したと、きっと非難されるだろう。その前に、暫くの間、女房の口を封じさせて、連れて来てしまおう」とお考えになって、

 「早朝にあちらに行こう。車の準備はそのままに。随身を一、二名を申し付けておけ」とおっしゃる。承知して下がった。

 源氏の君は、「どうしようか。噂が広がって好色めいたことになりそうな事よ。せめて相手の年齢だけでも物の分別ができ、女が情を通じてのことだと想像されるようなのは、世間一般にもある事だ。もし父宮がお探し出された場合も、体裁が悪く、格好もつかないことになるだろうから」と、お悩みになるが、この機会を逃したら大変後悔することになるにちがいないので、まだ夜の深いうちにお出になる。

 女君は、いつものように気が進まない様子で、かしこまった感じでいらっしゃる。

 「あちらに、どうしても処理しなければならない事がございますのを思い出しまして、すぐに戻って来ます」と言って、お出になるので、お側の女房たちも知らないのであった。ご自分のお部屋の方で、お直衣などはお召しになる。惟光だけを馬に乗せてお出になった。

 門を打ち叩かせなさると、何も事情を知らない者が開けたので、お車を静かに引き入れさせて、惟光大夫が、妻戸を叩いて、合図の咳払いをすると、少納言の乳母が察して、出て来た。

 「ここに、おいでになっています」と言うと、

 「若君は、お寝みになっております。どうして、こんな暗いうちにお出あそばしたのでしょうか」と、どこかからの帰りがけと思って言う。

 「父宮邸にお移りあそばすそうですが、その前にお話し申し上げておきたいと思って参りました」とおっしゃると、

 「どのようなことでございましょうか。どんなにしっかりしたお返事ができましょう」

 と言って、微笑んでいた。源氏の君が、お入りになると、とても困って、

 「気を許して、見苦しい年寄たちが寝ておりますので」と申し上げる。

 「まだ、お目覚めではありますまいね。どれ、お目をお覚まし申しましょう。このような素晴らしい朝霧を知らないで、寝ていてよいものですか」

 とおっしゃって、ご寝所にお入りになるので、「もし」とも、お止めできない。

 紫の君は何も知らないで眠っていらっしゃったが、源氏の君が抱いてお起こしなさるので、目を覚まして、父宮がお迎えにいらっしゃったと、寝惚けてお思いになった。

 お髪を掻き繕いなどなさって、

 「さあ、いらっしゃい。父宮さまのお使いとして参ったのですよ」

 とおっしゃる声に、「違う人であったわ」と、びっくりして、恐いと思っているので、

 「ああ、情けない。わたしも同じ人ですよ」

 と言って、抱いてお出なさるので、大輔や少納言の乳母などは、「これは、どうなさいますか」と申し上げる。

 「ここには、常に参れないのが気がかりなので、気楽な所にと申し上げたが、残念なことに、宮邸にお移りになるそうなので、ますますお話し申し上げにくくなるだろうから。誰か一人付いて参られよ」

 とおっしゃるので、気がせかれて、

 「今日は、まことに都合が悪うございましょう。父宮さまがお越しあそばした時には、どのようにお答え申し上げましょう。自然と、年月をへて、そうなられるご縁でいらっしゃれば、ともかくなられましょうが、何とも考える暇もない急な事でございますので、お仕えする者どももきっと困りましょう」と申し上げると、

 「よし、後からでも女房たちは参ればよかろう」と言って、お車を寄せさせなさるので、驚きあきれて、どうしたらよいものかと困り合っていた。

 若君も、変な事だとお思いになってお泣きになる。少納言の乳母は、お止め申し上げるすべもないので、昨夜縫ったご衣装類をひっさげて、自分も適当な着物に着替えて、車に乗った。

 二条院は近いので、まだ明るくならないうちにお着きになって、西の対にお車を寄せてお下りになる。若君を、とても軽々と抱いてお下ろしになる。

 少納言の乳母が、
 「やはり、まるで夢のような心地がしますが、どういたしましたらよいことなのでしょうか」と、ためらっているので、

 「それはあなたの考え次第でしょう。ご本人はお移し申し上げてしまったのだから、帰ろうと思うなら、送ってやろうよ」

 とおっしゃるので、苦笑して下りた。急な事で、驚きあきれて、心臓がどきどきする。「父宮さまがお叱りになられることや、どうおなりになる姫君のお身の上だろうか、とにもかくにも、身内の方々に先立たれたことが本当にお気の毒」と思うと、涙が止まらないのを、何と言っても不吉なので、じっと堪えていた。

 こちらはご使用にならない対の屋なので、御帳などもないのであった。惟光を呼んで、御帳や、御屏風など、ここかしこに整えさせなさる。御几帳の帷子を引き下ろし、ご座所など、ちょっと整えるだけで使えるので、東の対にお寝具類などを取り寄せに人をやって、お寝みになった。

 若君は、とても気味悪くて、どうなさる気だろうと、ぶるぶると震えずにはいらっしゃれないが、やはり声を出してお泣きになれない。

 「少納言の所で寝たい」

 とおっしゃる声は、まことに幼い感じである。

 「今からは、もうそのようにお寝みになるものではありませんよ」

 とお教え申し上げなさると、とても悲しくて泣きながら横におなりになった。少納言の乳母は横になる気もせず、何も考えられず起きていた。

 夜が明けて行くにつれて、見渡すと、御殿の造り様や、調度類の様子は、改めて言うまでもなく、庭の白砂も宝石を重ね敷いたように見えて、光り輝くような感じなので、少納言はきまり悪い感じでいたが、こちらの対には女房なども控えていないのであった。たまのお客などが参った折に使う部屋だったので、男たちが御簾の外に控えているのであった。

 このように、女人をお迎えになったと、聞いた人は、「誰であろうか。並大抵の人ではあるまい」と、ひそひそ噂する。御手水や、お粥などを、こちらの対に持って上がる。源氏の君は日が高くなってからお起きになって、

 「女房がいなくて、不便であろうから、しかるべき人々を、夕方になってから、お迎えなさるとよいだろう」

 とおっしゃって、東の対に童女を呼びに人をやる。「小さい子たちだけ、特に参れ」とあったので、とてもかわいらしい格好して、四人が参った。

 紫の君はお召物にくるまって臥せっていらっしゃったのを、無理に起こして、

 「こんなふうに、お嫌がりなさいますな。いい加減な男は、このように親切にしましょうか。女性というものは、気持ちの素直なのが良いのです」

 などと、今からお教え申し上げなさる。

 ご容貌は、遠くから見ていた時よりも、美しいので、優しくお話をなさりながら、興趣ある絵や、遊び道具類を取りにやって、お見せ申し上げ、お気に入ることどもをなさる。

 だんだん起き出して座って御覧になるが、鈍色の色濃い喪服の、ちょっと柔らかくなったのを着て、無心に微笑んでいらっしゃるのが、とてもかわいらしいので、ご自身もつい微笑んで御覧になる。

 東の対にお渡りになったので、端に出て行って、庭の木立や、池の方などを、お覗きになると、霜枯れの前栽が絵に描いたように美しくて、見たこともない四位や五位の人々の服装が色とりどりに入り乱れて、ひっきりなしに出入りしていて、「なるほど、素晴らしい所だわ」と、お思いになる。御屏風類などの、とても素晴らしい絵を見ては、機嫌を良くしていらっしゃるのも、あどけないことよ。

 源氏の君は、二、三日、宮中へも参内なさらず、この人を手懐けようとお相手申し上げなさる。そのまま手本にとのお考えか、手習いや、お絵描きなど、いろいろと書いては描いては、御覧に入れなさる。とても素晴らしくお書き集めになった。「武蔵野と言うとつい文句を言いたくなってしまう」と、紫の紙にお書きになった墨の具合が、とても格別なのを取って御覧になっていらっしゃった。少し小さい文字で、

 「まだ一緒に寝てはみませんが愛しく思われます
  武蔵野の露に難儀する紫のゆかりのあなたを」

 とある。
 「さあ、あなたもお書きなさい」と言うと、
 「まだ、うまく書けません」

 と言って、顔を見上げていらっしゃるのが、無邪気でかわいらしいので、つい微笑まれて、

 「うまくなくても、まったく書かないのは良くありません。お教え申し上げましょうね」

 とおっしゃると、ちょっと横を向いてお書きになる手つきや、筆をお持ちになる様子があどけないのも、かわいらしくてたまらないので、我ながら不思議だとお思いになる。「書き損ってしまった」と、恥ずかしがってお隠しになるのを、無理に御覧になると、

 「恨み言を言われる理由が分かりません
  わたしはどのような方のゆかりなのでしょう」

 と、とても幼稚だが、将来の成長が思いやられて、ふっくらとお書きになっている。亡くなった尼君の筆跡に似ているのであった。「当世風の手本を習ったならば、とても良くお書きになるだろう」と御覧になる。

 お人形なども、特別に御殿をいくつも造り並べて、一緒に遊んでは、この上ない憂さ晴らしの相手である。

 あの残った女房たちは、兵部卿宮がお越しになって、お尋ね申し上げなさったが、お答え申し上げるすべもなくて、困り合っているのであった。「暫くの間、他人には聞かせまい」と源氏の君もおっしゃるし、少納言の乳母もそう考えていることなので、固く口止めさせていた。ただ、「行く方も知れず、少納言の乳母がお連れしてお隠し申したことで」とばかりお答え申し上げるので、宮もしょうがないとお思いになって、「亡くなった尼君も、あちらに姫君がお移りになることを、とても嫌だとお思いであったことなので、乳母がひどく出過ぎた考えから、すんなりとお移りになることを不都合だ、などと言わないで、自分の一存で連れ出してどこかへやってしまったのだろう」と、泣く泣くお帰りになった。「もし、消息をお聞きつけ申したら、知らせなさい」とおっしゃる言葉も、厄介で。僧都のお所にも、お尋ね申し上げなさるが、はっきり分からず、惜しいほどであったご器量など、恋しく悲しいとお思いになる。

 北の方も、その母親を憎いとお思い申し上げなさっていた感情も消えて、自分の思いどおりにできようとお思いになっていた当てが外れたのは、残念にお思いになるのであった。

 次第に女房たちが参上して来た。お遊び相手の童女や、幼子たちも、とても珍しく当世風なご様子なので、何の屈託もなくて遊び合っていた。

 紫の君は、男君がおいでにならなかったりして、寂しい夕暮時などだけは、尼君をお思い出し申し上げなさって、つい涙ぐみなどなさるが、父宮は特にお思い出し申し上げなさらない。最初からご一緒ではなく過ごしていらっしゃったので、今ではすっかりこの後の親を、たいそう馴れお親しみ申し上げていらっしゃる。外出からお帰りになると、まっさきにお出迎えして、親しくお話をなさって、お懐の中に入って、少しも嫌がったり恥ずかしいとは思っていない。そうしたことでは、ひどくかわいらしい振る舞いなのであった。

 小賢しい智恵がつき、何かとうっとうしい関係となってしまうと、自分の気持ちと多少ぴったりしない点も出て来たのかしらと、心を置かれて、相手も嫉妬しがちになり、意外なもめ事が自然と出て来るものなのに、まことにかわいらしい遊び相手である。自分の娘などでも、これほどの年になったら、気安く振る舞ったり、一緒に寝起きなどは、とてもできないものだろうに、この人は、とても風変わりな大切な娘であると、お思いのようである。

源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
大島本
自筆本奥入