■卒業制作から■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 時代の変遷は地層に喩えれば不連続面の積み重なりにも似ているが、ただ拡大して見ると古い土と新しい土が混 じり合う連続体のようでもあります。単純な筋模様と片付けたが為に、見えなくなったことがあるかも知れません。 ここでは分離派そのもののよりも、分離派の発足時期を中心とした大正期に並立する建築の状況や前後史などに 重点を置き、紙上の構想を介して照らしてみようと考えました。そこで用いた過去の建築学生の卒業制作は、実現 を前提としない構想として、若い感性によって時代の空気を如実に表した夢として魅力溢れるものばかりです。 ある時期を象徴的に示すために、恣意的との批判を恐れず、あくまで私なりの理解として、主に昭和3年に市販さ れた「東京帝大卒業計画図集」(木葉会編,洪洋社刊)その他の古書から数点を、ピックアップして時系列に沿っ てコメントを加えてみました。 《ただし書き》 *ここではどうしても旧帝大生の作を多く取り上げることになったが、これは当時彼らが人々が日本 の建築界を牽引する役割を担っていた実態に即し、また手近に得られる資料で例示したことに拠っ たためであって、殊更、旧帝大生の活躍のみを印象付けようという意図は含まれておりません。 *ここに取り上げた作品は、本来なら作者ご遺族の了解を得るべきところ、これを待たず掲載しまし た。この点、関係ご遺族の方々にあらかじめおことわり申し上げますと共に、主旨に鑑みご理解頂 ければ幸いです。尚、もしご連絡が頂ければご意向に沿った対応を取らせて頂きます。 |
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逓信省に奉職して後に山田守ら分離派を部下とする和田信夫の卒業計画。ネオ・ゴシック風であるが正面中 央にみられる2連の半円窓は、大正12年頃に和田が係長として行った標準設計の電話局舎に取り入れた意匠 要素を想像させる。 逓信省において、後年岩元禄や分離派の山田が入省した後の和田信夫にはどうしても保守的な上司として のイメージがつきまとい、私もそのような解釈をしてきた。しかし彼の名誉の為に明らかにしておきたいこ ともある。和田は入省早々にして逓信局舎としては初めて鉄筋コンクリート造の設計を行いこれを推進した 功績を残しており、なれば若かりし頃の新取の情熱は分離派に引けを取らぬものがあったと言っておこう。 この明治43年という年は、日本の建築デザイン上のひとつの分岐点と言えるかもしれない。新しい議事堂 のデザインのあり方を睨んで「我国将来の建築様式を如何にすべきや」としたテーマで建築界挙げての論戦 が開始された年である。(帝国議会議事堂コンペについては大正7〜8年にかけて実施された。)明治以来の 西欧移入の建築を疑問視し、日本独自のデザインのあり方を主体的に考え始めたことは、ひいては個人の主 観性を尊重する「大正」という時代が展開する端緒となった。やがて来る後藤慶二の活躍,分離派の勃興も この流れに沿う出来事だった。 |
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野田俊彦の名高き「建築非芸術論」を含む卒業論文「鉄筋混凝土と建築様式」が書かれた頃の卒業制作で ある。様式建築の設計でしのぎを削っていたこの時代に、野田が提出したのはとても華麗とは言えない無愛 想な表情の劇場(ガスタンクとも揶揄されたようだ)だが、彼の卓越した筆致から絵画に相当秀でていたこ とは窺える。 さて、この「建築非芸術論」を少し調べてみた。(註1)論文の内容は、建築物は実用に供すべきであり 芸術として扱うべきではない、との自論が、言い方を変えて反復主張されるものであった。実用に供しない 以上は建築とは呼ばず「記念塔、凱旋門、五重塔、墳墓の如きものを自分は置物と名付ける」(註2)とい う過激さだ。 こうした偏狭な視点が目立つものの、恩師となる内田祥三の薦めによって本人が論文の一部を「建築非芸 術論」と改題した上、大正4年10月建築雑誌で紹介された経緯がある。内田が「同感なる点もあり」(註2) と救いを差し伸べたように、確かに見るべき点もある。 私が読む限り、ひとつにはトルストイの「芸術論」を援用した点であり、芸術をコミュニケーション言語 的に捉える見方(今日的に言えばさしずめ「記号論」)の萌芽が感じられなくもない。これが展開できただ けでもさぞかし斬新な論文となったであろうに。 もうひとつは重要で、歴史様式建築(=芸術としての建築)に見られるような取って付けたような装飾に 対する苛立ちが示されており、このことは分離派よりさらに先行して歴史様式の旧弊から脱しようと叫んで いたことに相通ずる。当時としては画期的な見方と言って良いであろう。 実のところこの論文は、卒業にも影響を与えかねない程教官らから内容を問題視されたらしく、この点 だけとれば、彼は構造派の急先鋒どころか将来を約束されたエリート学生が卒業直前で優等生の座をふいに した学生に過ぎない状態だった(註3)。後年旗揚げした分離派の学生の卒業時と似たケースを連想させる。 よって、この論文の本当の意義は、その内容よりもむしろタイトルが示すようなセンセーショナルな部分 にあり、佐野利器や内田祥三が推進していた強固で科学的な合理性に基づく建築づくり(構造派の趣旨)を 高らかに謳い上げる烽火(のろし)のような役割のみにあったのではないかと考えている。 野田は早世するまでの間にある程度の仕事をこなしたが、やはり分離派などへの挑発的姿勢や分離派の仮 想敵としてばかり知られてきたことも今日では否定出来ない。これには彼自身の煽り立ての裏にさらに言行 不一致による「分りにくさ」が拍車をかけていたことが一因だったようだ。例えば彼の言行不一致は上図の 卒業制作の時点で、野田が卒論で否定していたはずの建築の芸術性がアーチ窓など彼自身の設計の中に残っ ていることを早くも級友から指摘されていた(註3)。 |
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八木憲一は岩元禄と帝大の同期生で、共に主席を争う優秀な者同士の仲であった。岩元が若くして病没 した際には八木が弔辞を述べている。(註1) この設計では、様式を簡素化して構造体を割りと明確に表現しており、いわゆる「ゼツェッション」風 の範疇に属し、大正期の建築の特徴を示している。 彼は清水組に就職し、担当した建物として旧第一銀行函館支店(1921年,現・函館市文学館)が現存し ている。また、現在建築家のご子息にこの画像をお見せしたところ、やや驚かれた様子で(ちなみに当時 の資料は戦災で一切失われたとのこと)、清水組で憲一氏が担当した新宿の伊勢丹に通ずる印象を持った、 との感想を聞かせて頂いた。 大正期の建物には、「ゼツェッション」あるいは「セセッション」と称する建物が多い。この呼称を辿 れば20世紀初頭のウィーン・ゼツェッション(ウィーン分離派)運動を指しそもそもこれが様式名称でない からには、本来ならO.ワーグナー,J.ホフマン,J.M.オルブリッヒらの作風を指すのが筋であろう。しか し日本の大正期特有の「ゼツェッション」は、ウィーンの建築家の特徴を取り入れた場合はもとより、ま た西欧の傾向に範を取る新傾向一般という位の意味合いを含んだ歴史様式を簡素化したデザイン傾向まで を指して呼称していたと考えている。 当時の日本は、とにかく様式名称を付けなければ設計として通らない時代であった。そうした事情を察 しながら、私としては呼称と造形の細かい整合性にまではあまり深入りしないようにしている。(尚、当 HPでは"Secession"又は"Sezessin"の発音をある程度尊重して「ゼツェッション」と記している。) ついでに(話がやや脱線気味だが)ここで主役として扱っている日本の「分離派」の名称についても、 近代建築の創始たるO.ワーグナーのウィーン分離派にあやかって取り入れた名称であって、(建築表現の レベルでウィーンの亜流と誤解されることもあったが、実際はドイツ表現主義の表現をヒントにしたこと が多い)西欧のそれとは文脈的にも切り離して考えることが大切だと思う。日本の分離派は全く日本独自 の状況に即した運動体であることを押さえておきたい。 註1:「建築家 岩元禄」(向井覚)による |
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早稲田大学の村野は、「機械」という新しい時代の商品を売る店舗の設定で、当時近代建築を象徴し ていたウィーン・ゼツェッションを選択する計画を行った。さらに仮想のロケーションの中にファサー ドと隣接する建物を描き込み街路全体のイメージをも示したが、もっぱら単体建築の芸術性のみが競わ れた時代にあって、建築を実社会との関係で捉える視点を重視したいとする主張がこのパース1枚で十 分に伝わってくる。大正7年の段階で、これはとにかく斬新という他ない。 この案が渡辺節の目に留まったことがきっかけで、村野は卒業後彼の下で勤めることになったらしい。 |
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これほど徹底した、ほとんどモダニズム建築と言って良いような案がなぜこの時期に出現したのだろ うか。コルビュジェもバウハウスもまだホワイトボックス型の建築を作り得ていない時期に西欧のA・ロ ースの住宅やT・ガルニエの計画などから情報を得ていたのかと、想像したくなる。しかし恐らく本当の ところは、佐野利器が総帥的な立場で構造的に堅固で合理的な建築を推進していた、いわゆる「構造派」 の考え方が帝大学生の間にも浸透しており、こうしたシンプルな造形で示されていたと考える方が自然 なようだ。つまり直接的には当時の日本独自の経緯から発生した合理主義建築の系譜上にあるものと考 えられる。 「構造派」は、建築を科学を拠り所とした方向性、つまり地震国日本にとって耐震工学に基づいた建 築を必要かつ十分とし(旧弊になる意匠は手慰み的なものとして排除)また利便性,低コスト化にも寄 与するなどを訴えていたのだが、その背景には従来からの芸術性偏重の建築家像に対する反動的要素も あったようだ。(さらに、この構造派への反動は分離派の行動へと繰り返される。)しかし、石原のこ の案からはそうした対立構図に与する匂いは感じられず、構造的に明快かつ美的に昇華した表現となっ ている。 そしてこのような日本ならではの帝大を発信源とした官製の合理主義建築の文脈は、震災以後は例え ば鉄筋コンクリートの復興小学校として、またその果ての究極的な姿として吉田鉄郎の東京や大阪の中 央郵便局のような傑作に到達したと見てはどうだろうか。(そういえば石原憲治と吉田鉄郎は同期卒業 生である。なぜか上記設計と後の東京中央郵便局の立面にはやや共通する部分が認められる。) 石原は卒業後東京市に籍を置き、震災復興期にかけて都市計画上の業務や研究に携わった。また都市 美運動を提唱して、あの都市美協会発刊「建築の東京」の編纂に関与した人物と言えば思いつく方もい るかも知れない。 |
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分離派が発足した年に、彼らと同期生の阪東義三が描いた作品。ややライト風の感じもするが、無装 飾で幾何学的な造形性は石原憲治と同様に、帝大を発信源とした合理主義建築の系譜上にあると思われ る。合理性を前面に打ち出したシンプルな建築という条件を満たせば、比較的自由な表現も可能だった ということか。歴史様式に対抗する動きは分離派の行動が目立つが、一方のこうした流れの方がやはり 本流であったように思えてくる。 阪東は、後に東京市建築課に在籍して震災後の復興小学校の設計にも関わった。震災後の復興建築が 全般的にモダニズムにスムーズに移行出来たように見えるのも、実のところは、佐野利器が主導した合 理主義的な思想が学生の間にもあらかじめ浸透し、彼のような人材がゆくゆく官僚設計士として投入さ れていったからであろう。(註1) ただし阪東は分離派の一員にはならなかったものの理解はあったようで、卒業後も分離派に寄付を行 ったり、表現派風のデザインを自らも取り入れたりした。 彼の造形には、単一モチーフを徹底して用いる特徴があるようだ。この立面図で様式建築的にプロポ ーションを調整するような造形性は破棄され、徹底して水平性を強調することに意識が傾けられている。 また就職後に担当した邦楽座でも外壁全面に渡ってアーチ付の縦長のラインが執拗に繰り返されている。 註1:「日本建築家山脈―東京市建築局と同潤会の建築家」(村松貞次郎) に、古茂田甲牛郎の活動を中心とした詳細な記述がある |
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分離派が発足して翌々年ともなると、ドイツ表現主義から影響を受けたイメージが色濃くなる。 震災の翌年(大正13年)には、ここに取り上げた蒲原重雄は同期の岸田日出刀と共に「ラトー」 というグループを名乗り復興創案展に出展を行った。蒲原はこの時小菅刑務所(現・小菅拘置所) を計画中であり、現在も正面部分が残されている。 この卒業制作案が象徴するように、分離派発足を境として学生の制作も全般的に様変わりの傾 向を見せた。鉄筋コンクリートを主体構造とした結果、従来のように組積造を基本とする歴史様 式の規範を隠れ蓑のようにしてデザインの質を保持するわけにもいかず、諸刃の剣のように、作 者の感性や設計コンセプトの良否がそのままデザインに反映されてしまうようになった。 |
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東京美術学校を卒業した金澤庸治の表現主義的な作品としては、この1点だけが知られる。 これはB・タウトに代表される超スケール的なユートピア性を咀嚼し、自らの案として表現し得 た点で傑出していると思う。 |