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渋谷栄一校訂(C)

  

光る源氏の二十二歳春から二十三歳正月まで近衛大将時代の物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大将の君・大将・大将殿・男君、二十二歳から二十三歳 参議兼近衛右大将
 頭中将<とうのちゅうじょう>
呼称---三位中将・中将の君・中将、葵の上の兄
 桐壺帝<きりつぼのみかど>
呼称---院・帝、光る源氏の父
 弘徽殿女御<こうきでんのにょうご>
呼称---今后・后、桐壺帝の女御、東宮の母
 藤壺の宮<ふじつぼのみや>
呼称---后の宮・中宮、桐壺帝の后、光る源氏の継母
 葵の上<あおいのうえ>
呼称---大殿・殿・姫君、光る源氏の正妻
 六条御息所<ろくじょうのみやすどころ>
呼称---御息所・女、光る源氏の愛人
 紫の上<むらさきのうえ>
呼称---姫君・二条の君・対の姫君・女君、光る源氏の妻
 朧月夜の君<おぼろづきよのきみ>
呼称---御匣殿、右大臣の娘、弘徽殿女御の妹
 朝顔の姫君<あさがおのひめぎみ>
呼称---姫君・朝顔の宮、式部卿宮の娘、光る源氏の恋人の一人

第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語

  1. 朱雀帝即位後の光る源氏---世の中かはりて後、よろづもの憂く思され
  2. 新斎院御禊の見物---そのころ、斎院も下りゐたまひて
  3. 賀茂祭の当日、紫の君と見物---今日は、二条院に離れおはして
第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
  1. 車争い後の六条御息所---御息所は、ものを思し乱るること
  2. 源氏、御息所を旅所に見舞う---かかる御もの思ひの乱れに
  3. 葵の上に御息所のもののけ出現する---大殿には、御もののけいたう起こりて
  4. 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る---斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを
  5. 葵の上、男子を出産---すこし御声もしづまりたまへれば
  6. 秋の司召の夜、葵の上死去する---秋の司召あるべき定めにて
  7. 葵の上の葬送とその後---こなたかなたの御送りの人ども
  8. 三位中将と故人を追慕する---御法事など過ぎぬれど、正日までは
  9. 源氏、左大臣邸を辞去する---君は、かくてのみも、いかでかは
第三章 紫の君の物語 新手枕の物語
  1. 源氏、紫の君と新手枕を交わす---二条院には、方々払ひみがきて
  2. 結婚の儀式の夜---その夜さり、亥の子餅参らせたり
  3. 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り---朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ

【定家注釈】
【校訂付記】

 

第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語

 [第一段 朱雀帝即位後の光る源氏]

 世の中代はりて後、よろづもの憂く思され、御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき御忍び歩きもつつましうて、ここもかしこも、おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ、報いにや、なほ我につれなき人(自筆本奥入01・墨筆注記)の御心を、尽きせずのみ思し嘆く。

 今は、ましてひまなう、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心やすげなり。折ふしに従ひては、御遊びなどを好ましう、世の響くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさましもめでたし。ただ、春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。御後見のなきを、うしろめたう思ひきこえて、大将の君によろづ聞こえつけたまふも、かたはらいたきものから、うれしと思す。

 まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、〔六条御息所〕「幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし」と、かねてより思しけり。

 院にも、かかることなむと、聞こし召して、

 〔桐壺院〕「故宮のいとやむごとなく思し、時めかしたまひしものを、軽々しうおしなべたるさまにもてなすなるが、いとほしきこと。斎宮をも、この御子たちの列になむ思へば、いづかたにつけても、おろかならざらむこそよからめ。心のすさびにまかせて、かく好色わざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり」

 など、御けしき悪しければ、わが御心地にも、げにと思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。

 〔桐壺院〕「人のため、恥ぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨み、な負ひそ」

 とのたまはするにも、「けしからぬ心のおほけなさを聞こし召しつけたらむ時」と、恐ろしければ、かしこまりてまかでたまひぬ。

 また、かく院にも聞こし召し、のたまはするに、人の御名も、わがためも、好色がましういとほしきに、いとどやむごとなく、心苦しき筋には思ひきこえたまへど、まだ表はれては、わざともてなしきこえたまはず。
 女も、似げなき御年のほどを恥づかしう思して、心とけたまはぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもてなして、院に聞こし召し入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどを、いみじう思し嘆きけり。

 かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君は、「いかで、人に似じ」と深う思せば、はかなきさまなりし御返りなども、をさをさなし。さりとて、人憎く、はしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを、君も、「なほことなり」と思しわたる。

 大殿には、かくのみ定めなき御心を、心づきなしと思せど、あまりつつまぬ御けしきの、いふかひなければにやあらむ、深うも怨じきこえたまはず。心苦しきさまの御心地に悩みたまひて、もの心細げに思いたり。めづらしくあはれと思ひきこえたまふ。誰れも誰れもうれしきものから、ゆゆしう思して、さまざまの御つつしみせさせたてまつりたまふ。かやうなるほどに、いとど御心のいとまなくて、思しおこたるとはなけれど、とだえ多かるべし。

 [第二段 新斎院御禊の見物]

 そのころ、斎院も下りゐたまひて、后腹の女三宮ゐたまひぬ。帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋ことになりたまふを、いと苦しう思したれど、こと宮たちのさるべきおはせず。儀式など、常の神わざなれど、いかめしうののしる。祭のほど、限りある公事に添ふこと多く、見所こよなし。人からと見えたり。

 御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。
 一条の大路、所なく、むくつけきまで騒ぎたり。所々の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへ、いみじき見物なり。

 大殿には、かやうの御歩きもをさをさしたまはぬに、御心地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人びと、
 〔女房〕「いでや。おのがどちひき忍びて見はべらむこそ、栄なかるべけれ。おほよそ人だに、今日の物見には、大将殿をこそは、あやしき山賤さへ見たてまつらむとすなれ。遠き国々より、妻子を引き具しつつも参うで来なるを。御覧ぜぬは、いとあまりもはべるかな」
 と言ふを、大宮聞こしめして、

 〔大宮〕「御心地もよろしき隙なり。さぶらふ人びともさうざうしげなめり」

 とて、にはかにめぐらし仰せたまひて、見たまふ。

 日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。隙もなう立ちわたりたるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき(校訂01)女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めて、皆さし退けさするなかに、網代のすこしなれたるが、下簾のさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり。

 〔供人〕「これは、さらに、さやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」

 と、口ごはくて、手触れさせず。いづかたにも(校訂02)、若き者ども酔ひ過ぎ、立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御前の人びとは、「かくな」など言へど、えとどめあへず。
 斎宮の御母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。つれなしつくれど、おのづから見知りぬ。

 〔供人〕さばかりにて(校訂03)は、さな言はせそ」

 〔供人〕「大将殿をぞ、豪家には思ひきこゆらむ」

 など言ふを、その御方の人も混じれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。

 つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。榻などもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人悪ろく、くやしう、「何に、来つらむ」と思ふにかひなし。物も見で帰らむとしたまへど、通り出でむ隙もなきに、

 〔見物人〕「事なりぬ」

 と言へば、さすがに、つらき人の御前渡りの待たるるも、心弱しや。「笹の隈(自筆本奥入02・墨筆注記)にだにあらねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、なかなか御心づくしなり。

 げに、常よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間どもも、さらぬ顔なれど、ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり。大殿のは、しるければ、まめだちて渡りたまふ。御供の人びとうちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おし消たれたるありさま、こよなう思さる。

 〔御息所〕「影をのみ御手洗川のつれなきに身の憂きほどぞいとど(校訂04)知らるる」

 と、涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さま、容貌の、「いとどしう出でばえを見ざらましかば」と思さる。

 ほどほどにつけて、装束、人のありさま、いみじくととのへたりと見ゆるなかにも、上達部はいとことなるを、一所の御光にはおし消たれためり。大将の御仮の随身に、殿上の将監などのすることは常のことにもあらず、めづらしき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の蔵人の将監仕うまつれり。さらぬ御随身どもも、容貌、姿、まばゆくととのへて、世にもてかしづかれたまへるさま、木草もなびかぬはあるまじげなり。

 壺装束などいふ姿にて、女房の卑しからぬや、また尼などの世を背きけるなども、倒れまどひつつ、物見に出でたるも、例は、「あながちなりや、あなにく」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつくりて、額にあてつつ見たてまつりあげたるも。をこがましげなる賤の男まで、おのが顔のならむさまをば知らで、笑みさかえたり。何とも見入れたまふまじき、えせ受領の娘などさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、さまことさらび、心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの見物なりける。
 まして、ここかしこにうち忍びて通ひたまふ所々は、人知れずのみ数ならぬ嘆きまさるも、多かり。

 式部卿の宮、桟敷にてぞ見たまひける。

 〔式部卿宮〕「いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かな。神などは目もこそとめたまへ」

 と、ゆゆしく思したり。姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを、

 〔朝顔姫君〕「なのめならむにてだにあり。まして、かうしも、いかで」

 と御心とまりけり。いとど近くて見えむまでは思しよらず。若き人びとは、聞きにくきまでめできこえあへり。

 祭の日は、大殿にはもの見たまはず。大将の君、かの御車の所争ひを、まねび聞こゆる人ありければ、「いといとほしう憂し」と思して、

 〔源氏〕「なほ、あたら重りかにおはする人の、ものに情けおくれ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからはさしも思さざりけめども、かかる仲らひは情け交はすべきものとも思いたらぬ御おきてに従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし。御息所は、心ばせのいと(校訂05)恥づかしく、よしありておはするものを、いかに思し憂じにけむ」

 と、いとほしくて、参うでたまへりけれど、斎宮のまだ本の宮におはしませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。ことわりとは思しながら、「なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶやかれたまふ。

 [第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物]

 今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光に車のこと仰せたり。

 〔源氏〕「女房、出で立つや」

 とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たてまつりたまふ。

 〔源氏〕「君は、いざたまへ。もろともに見むよ」

 とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、

 〔源氏〕「久しう削ぎたまはざめるを、今日は、吉き日ならむかし」

 とて、暦の博士召して、時問はせなどしたまふほどに、

 〔源氏〕「まづ、女房出でね」

 とて、童の姿どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかに削ぎわたして、浮紋の表の袴にかかれるほど、けざやかに見ゆ。

 〔源氏〕「君の御髪は、我削がむ」とて、「うたて、所狭うもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」

 と、削ぎわづらひたまふ。

 〔源氏〕「いと長き人も、額髪はすこし短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情けなからむ」

 とて、削ぎ果てて、「千尋」と祝ひきこえたまふを、少納言、「あはれにかたじけなし」と見たてまつる。

 〔源氏〕「はかりなき千尋の底の海松ぶさの生ひゆくすゑは我のみぞ見む」

 と聞こえたまへば、

 〔紫君〕「千尋ともいかでか知らむ定めなく満ち干る潮ののどけからぬに」

 と、ものに書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしと思す。

 今日も、所もなく立ちにけり。馬場の御殿のほどに立てわづらひて、

 〔源氏〕「上達部の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」

 と、やすらひたまふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、

 〔源典侍〕「ここにやは立たせたまはぬ。所避りきこえむ」

 と聞こえたり。「いかなる好色者ならむ」と思されて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせたまひて、

 〔源氏〕「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになむ」

 とのたまへば、よしある扇のつまを折りて、

 〔源典侍〕「はかなしや人のかざせる葵ゆゑ神の許しの今日を待ちける
 注連の内には」

 とある手を思し出づれば、かの典侍なりけり。「あさましう、旧りがたくも今めくかな」と、憎さに、はしたなう、

 〔源氏〕「かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべて逢ふ日を」

 女は、「つらし」と思ひきこえけり。

 〔源典侍〕「悔しくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを」

 と聞こゆ。人と相ひ乗りて、簾をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。

 「一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩きたまふかし。誰ならむ。乗り並ぶ人、けしうはあらじはや」と、推し量りきこゆ。「挑ましからぬ、かざし争ひかな」と、さうざうしく思せど、かやうにいと面なからぬ人はた、人相ひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも、心やすく聞こえむも、まばゆしかし。

 

第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語

 [第一段 車争い後の六条御息所]

 御息所は、ものを思し乱るること、年ごろよりも多く添ひにけり。つらき方に思ひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、「いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむこと」と思す。さりとて立ち止まるべく思しなるには、「かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも(校訂06)、やすからず、釣する海人の浮けなれや(自筆本奥入03・朱筆注記)」と、起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ。

 大将殿には、下りたまはむことを、「もて離れてあるまじきこと」なども、妨げきこえたまはず。

 〔源氏〕「数ならぬ身を、見ま憂く思し捨てむもことわりなれど、今はなほ、いふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」

 と、聞こえ(校訂07)かかづらひたまへば、定めかねたまへる御心もや慰むと、立ち出でたまへりし御禊河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂く思し入れたり。

 大殿には、御もののけめきて、いたうわづらひたまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方は、ことに思ひきこえたまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、わが御方にて、多く行はせたまふ。

 もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりするなかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、執念きけしき、おぼろけのものにあらず、と見えたり。

 大将の君の御通ひ所、ここかしこと思し当つるに、

 〔女房〕「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまには思したらざめれば、怨みの心も深からめ」

 とささめきて、ものなど問はせたまへど、さして聞こえ当つることもなし。もののけとても、わざと深き御かたきと聞こゆるもなし。過ぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただつくづくと、音をのみ泣きたまひて、折々は胸をせき上げつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう悲しく思しあわてたり。

 院よりも、御とぶらひ隙なく、御祈りのことまで思し寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。
 世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず思さる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。

 [第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う]

 かかる御もの思ひの乱れに、御心地、なほ例ならずのみ思さるれば、ほかに渡りたまひて、御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたまひて、いかなる御心地にかと、いとほしう、思し起して渡りたまへり。
 例ならぬ旅所なれば、いたう忍びたまふ。心よりほかなるおこたりなど、罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、憂へきこえたまふ。

 〔源氏〕「みづからはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思ひまどはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。よろづを思しのどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」

 など、語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわりに、あはれに見たてまつりたまふ。

 うちとけぬ朝ぼらけに、出でたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむことは思し返さる。
 〔御息所〕「やむごとなき方に、いとど心ざし添ひたまふべきことも出で来にたれば、一つ方に思ししづまりたまひなむを、かやうに待ち(校訂08 )きこえつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと……」
 なかなかもの思ひのおどろかさるる心地したまふに、御文ばかりぞ、暮れつ方ある。

 〔源氏〕「日ごろ、すこしおこたるさまなりつる心地の、にはかにいといたう苦しげにはべるを、え引きよかでなむ」

 とあるを、「例のことつけ」と、見たまふものから、

 〔御息所〕「袖濡るる恋路とかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き
 山の井の水(自筆本奥入04・朱筆注記)もことわりに」

 とぞある。「御手は、なほここらの人のなかにすぐれたりかし」と見たまひつつ、「いかにぞやもある世かな。心も容貌も、とりどりに捨つべくもなく、また思ひ定むべきもなきを」苦しう思さる。御返り、いと暗うなりにたれど、

 〔源氏〕「袖のみ濡るるや、いかに。深からぬ御ことになむ。

  浅みにや人はおりたつわが方は身もそぼつまで深き恋路を

 おぼろけにてや、この御返りを、みづから聞こえさせぬ」

 などあり。

 [第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する]

 大殿には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひたまふ。「この御生きすだま、故父大臣の御霊など言ふものあり」と聞きたまふにつけて、思しつづくれば、

 〔御息所〕「身一つの憂き嘆きよりほかに、人を悪しかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ」

 と思し知らるることもあり。

 年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなきことの折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後、ひとふしに思し浮かれにし心、鎮まりがたう思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてある所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。

 〔御息所〕「あな、心憂や。げに、身を捨ててや、往にけむ(自筆本奥入05・墨筆注記)」と、うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば、「さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれは、いとよう言ひなしつべきたよりなり」

と思すに、いと名だたしう、

 「ひたすら世に亡くなりて、後に怨み残すは世の常のことなり。それだに、人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつのわが身ながら、さる疎ましきことを言ひつけらるる、宿世の憂きこと。すべて、つれなき人にいかで心もかけきこえじ」

 と思し返せど、思ふもものを(自筆本奥入06・墨筆注記)なり。

 [第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る]

 斎宮は、去年、内裏に入りたまふべかりしを、さまざま障はることありて、この秋入りたまふ。九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ、ふたたびの御祓へのいそぎ、とりかさねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥し悩みたまふを、宮人、いみじき大事にて、御祈りなど、さまざま仕うまつる。

 おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐしたまふ。大将殿も、常にとぶらひきこえたまへど、まさる方のいたうわづらひたまへば、御心のいとまなげなり。

 まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈り、数を尽くしてせさせたまへれど、例の執念き御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験者ども、めづらかなりともてなやむ。さすがに、いみじう(校訂09 )調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、

 〔もののけ〕「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」とのたまふ。

 〔女房〕「さればよ。あるやうあらむ」

 とて、近き御几帳のもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにものしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮もすこし退き(校訂10 )たまへり。加持の僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみじう尊し。

 御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつらむに心乱れぬべし。まして惜しう悲しう思す、ことわりなり。白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添へたるも、「かうてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」と見ゆ。御手をとらへて、

 〔源氏〕「あな、いみじ。心憂きめを見せたまふかな」

 とて、ものも聞こえたまはず泣きたまへば、例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもりきこえたまふに、涙のこぼるるさまを見たまふは、いかがあはれの浅からむ。

 あまりいたう泣きたまへば、「心苦しき親たちの御ことを思し、また、かく見たまふにつけて、口惜しうおぼえたまふにや」と思して、

 〔源氏〕「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりとも、けしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」

 と、慰めたまふに、

 〔もののけ〕「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへ、と聞こえむとてなむ。かく参り来むとも、さらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」

 と、なつかしげに言ひて、

 〔もののけ〕「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」

 とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見す見す、「世には、かかることこそはありけれ」と、疎ましうなりぬ。「あな、心憂」と思されて、

 〔源氏〕「かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」

 とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたう思さる。

 [第五段 葵の上、男子を出産]

 すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたがりまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。
 言ふ限りなき願ども立てさせたまふけにや、たひらかに事なり果てぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ、急ぎまかでぬ。

 多くの人の心を尽くしつる日ごろの名残、すこしうちやすみて、「今はさりとも」と思す。御修法などは、またまた始め添へさせたまへど、まづは、興あり、めづらしき御かしづきに、皆人ゆるべり。
 院をはじめたてまつりて、親王たち、上達部、残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男にてさへおはすれば、そのほどの作法、にぎははしくめでたし。

 かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。「かねては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。
 あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたまひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ましう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。

 大将殿は、心地すこしのどめたまひて、あさましかりしほどの問はず語りも、心憂く思し出でられつつ、「いとほど経にけるも心苦しう、また気近う見たてまつらむには、いかにぞや。うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしう」、よろづに思して、御文ばかりぞありける。

 いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに、誰も思したれば、ことわりにて、御歩きもなし。なほいと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにても、まだ対面したまはず。若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今から、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず、ことあひたる心地して、大臣もうれしういみじと思ひきこえたまへるに、ただ、この御心地おこたり果てたまはぬを、心もとなく思せど、「さばかりいみじかりし名残にこそは」と思して、いかでかは、さのみは心をも惑はしたまはむ。

 若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを、見たてまつりたまひても、まづ、恋しう思ひ出でられさせたまふに、忍びがたくて、参りたまはむとて、

 〔源氏〕「内裏などにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日なむ初立ちしはべるを、すこし気近きほどにて聞こえさせばや。あまりおぼつかなき御心の隔てかな」

 と、恨みきこえたまへれば、

 〔女房〕「げに、ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを、いたう衰へたまへりと言ひながら、物越にてなどあべきかは」

 とて、臥したまへる所に、御座近う参りたれば、入りてものなど聞こえたまふ。

 御いらへ、時々聞こえたまふも、なほいと弱げなり。されど、むげに亡き人と思ひきこえし御ありさまを思し出づれば、夢の心地して、ゆゆしかりしほどのことどもなど聞こえたまふついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、引き返し、つぶつぶとのたまひしことども思し出づるに、心憂ければ、

 〔源氏〕「いさや、聞こえまほしきこといと多かれど、まだいとたゆげに思しためればこそ」

 とて、「御湯参れ」などさへ、扱ひきこえたまふを、いつならひたまひけむと、人びとあはれ がりきこゆ。

 いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。御髪の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、「年ごろ、何ごとを飽かぬことありて思ひつらむ」と、あやしきまでうちまもられ(校訂11 )たまふ。

 〔源氏〕「院などに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらば、うれしかるべきを、宮のつとおはするに、心地なくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」

 など、聞こえおきたまひて、いときよげにうち装束きて出でたまふを、常よりは目とどめて、見出だして臥したまへり。

 [第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する]

 秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みたまふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたまひぬ。

 殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、いといたう惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入りたまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。
 ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ちこみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、いと恐ろしきまで見えたまふ。

 御もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながら、二、三日見たてまつりたまへど、やうやう変はりたまふことどものあれば、限り、と思し果つるほど、誰も誰もいといみじ。
 大将殿は、悲しきことに、ことを添へて、世の中をいと憂きものに思し染みぬれば、ただならぬ御あたりの弔ひどもも、心憂しとのみぞ、なべて思さるる。院に、思し嘆き、弔ひきこえさせたまふさま、かへりて面立たしげなるを、うれしき瀬もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。
 人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返りたまふと、さまざまに残ることなく、かつ損なはれ(校訂12 )たまふことどものあるを見る見るも、尽きせず思し惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなること、多かり。

 [第七段 葵の上の葬送とその後]

 こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧など、そこら広き野に所もなし。院をばさらにも申さず、后の宮、春宮などの御使、さらぬ所々のも参りちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ。大臣はえ立ち上がりたまはず、

 〔左大臣〕「かかる齢の末に、若く盛りの子に後れたてまつりて、もごよふこと」

 と恥ぢ泣きたまふを、ここらの人、悲しう見たてまつる。

 夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。

 常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、

 〔源氏〕「のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな」

 殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず。年ごろの御ありさまを思し出でつつ、

 〔源氏〕「などて、つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ。世を経て、疎く恥づかしきものに思ひて過ぎ果てたまひぬる」

 など、悔しきこと多く、思しつづけらるれど、かひなし。鈍める御衣たてまつれるも、夢の心地して、「われ先立たましかば、深くぞ染めたまはまし」と、思すさへ、

 〔源氏〕「限りあれば薄墨衣浅けれど涙ぞ袖を淵となしける」

 とて、念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みたまひつつ、「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よりはけなり。若君を見たてまつりたまふにも、「何に忍ぶの(自筆本奥入07・朱筆注記)と、いとど露けけれど、「かかる形見さへなからましかば」と、思し慰む。
 宮はしづみ入りて、そのままに起き上がりたまはず、危ふげに見えたまふを、また思し騒ぎて、御祈りなどせさせたまふ。

 はかなう過ぎゆけば、御わざのいそぎなどせさせたまふも、思しかけざりしことなれば、尽きせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる、ましてことわりなり。また、類ひおはせぬをだに、さうざうしく思しつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも(奥入01)、あさましげなり。

 大将の君は、二条院にだに、あからさまにも渡りたまはず、あはれに心深う思ひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。所々には、御文ばかりぞたてまつりたまふ。

 かの御息所は、斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ、いとどいつくしき御きよまはりにことつけて、聞こえも通ひたまはず。憂しと思ひ染みにし世も、なべて厭はしうなりたまひて、「かかるほだしだに添はざらましかば、願はしきさまにもなりなまし」と思すには、まづ対の姫君の、さうざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思しやらるる。

 夜は、御帳の内に一人臥したまふに、宿直の人びとは近うめぐりてさぶらへど、かたはら寂しくて、「時しもあれ(自筆本奥入08・朱筆注記)と寝覚めがちなるに、声すぐれたる限り選りさぶらはせたまふ念仏の、暁方など、忍びがたし。

 〔源氏〕「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり。「今めかしうも」とて、見たまへば、御息所の御手なり。

 〔御息所〕「聞こえぬほどは、思し知るらむや(校訂13 )

  人の世をあはれと聞くも露けきに後るる袖を思ひこそやれ

 ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」

 とあり。「常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふものから、「つれなの御弔ひや」と心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。

 〔源氏〕「過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだと、けざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。

 〔源氏〕「斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへど、「わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、

 〔源氏〕「こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思し知るらむや、とてなむ。

  とまる身も消えしもおなじ露の世に心置くらむほどぞはかなき

 かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰れにも」

 と聞こえたまへり。

 里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたまへるけしきを、心の鬼にしるく見たまひて、「さればよ」と思すも、いといみじ。

 〔御息所〕「なほ、いと限りなき身の憂さなりけり。かやうなる聞こえありて、院にもいかに思さむ。故前坊の、同じき御はらからと言ふなかにも、いみじう思ひ交はしきこえさせたまひて、この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせたまひしかば、『その御代はりにも、やがて見たてまつり扱はむ』など、常にのたまはせて、『やがて内裏住みしたまへ』と、たびたび聞こえさせたまひしをだに、いとあるまじきこと、と思ひ離れにしを、かく心よりほかに若々しきもの思ひをして、つひに憂き名をさへ流し果てつべきこと」

 と、思し乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。

 さるは、おほかたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔より名高くものしたまへば、野の宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めきたること多くしなして、「殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくを、そのころの役になむする」など聞きたまひても、大将の君は、「ことわりぞかし。ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。もし、世の中に飽き果てて下りたまひなば、さうざうしくもあるべきかな」と、さすがに思されけり。

 [第八段 三位中将と故人を追慕する]

 御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。ならはぬ御つれづれを、心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出でつつ、慰めきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大将の君は、

 〔源氏〕「あな、いとほしや。祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」

 といさめたまふものから、常にをかしと思したり。

 かの十六夜の、さやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好色事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ、果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもしたまひけり。

 時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣更へして、いと雄々しうあざやかに、心恥づかしきさまして参りたまへり。

 君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹き、時雨、さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、

 「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず(自筆本奥入09・奥入02)

 と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、「女にては、見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかし」と、色めかしき心地に、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまながら、紐ばかりをさし直したまふ。
 これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。

 中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。

 〔三位中将〕「雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきて眺めむ
 行方なしや」

 と、独り言のやうなるを、

 〔源氏〕「見し人の雨となりにし雲居さへいとど時雨にかき暮らすころ」

 とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、

 〔三位中将〕「あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院など、居立ちてのたまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに、もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げなる御けしきながら、あり経たまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々ありつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思ひきこえたまひけるなめり」

 と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて光失せぬる心地して、屈じいたかりけり。

 枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、

 〔源氏〕「草枯れのまがきに残る撫子を別れし秋のかたみとぞ見る

 にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」

 と聞こえたまへり。げに何心なき御笑み顔ぞ、いみじううつくしき。宮は、吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。

 〔大宮〕「今も見てなかなか袖を朽たすかな垣ほ荒れにし大和撫子」

 なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、「今日のあはれは、さりとも見知りたまふらむ」と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、

 〔源氏〕「わきてこの暮こそ袖は露けけれもの思ふ秋はあまた経ぬれど
 いつも時雨は(自筆本奥入10・朱筆注記)

 とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、「過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思されければ、

 「大内山(自筆本奥入11・朱筆注記)を、思ひやりきこえながら、えやは」とて、

 〔朝顔姫君〕「秋霧に立ちおくれぬと聞きしよりしぐるる空もいかがとぞ思ふ」

 とのみ、ほのかなる墨つきにて、思ひなし心にくし。

 何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。

 「つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かたみに情けも見果つべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆばかりなるは、あまりの難も出で来けり。対の姫君を、さは生ほし立てじ」と思す。「つれづれにて恋しと思ふらむかし」と、忘るる折なけれど、ただ女親なき子を、置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめたく、「いかが思ふらむ」とおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。

 暮れ果てぬれば、御殿油近く参らせたまひて、さるべき(校訂14)限りの人びと、御前にて物語などせさせたまふ。
 中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋にもかけたまはず。「あはれなる御心かな」と見たてまつる。おほかたには、なつかしううち語らひたまひて、

 〔源氏〕「かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見なれて(自筆本奥入12・朱筆注記)、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそ、耐へがたきこと多かりけれ」

 とのたまへば、いとどみな泣きて、

 〔女房〕「いふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは、さるものにて、名残なきさまにあくがれ果て(校訂15)させたまはむほど、思ひたまふるこそ」

 と、聞こえもやらず。あはれと見わたしたまひて、

 〔源氏〕「名残なくは、いかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあらば、見果てたまひなむものを。命こそはかなけれ」

 とて、灯をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞ、めでたき。
 とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、

 〔源氏〕「あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」

 とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。

 〔源氏〕「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼なき人を見捨てず、ものしたまへ。見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たづきなさもまさりぬべくなむ」

 など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、「いでや、いとど待遠にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。

 大殿は、人びとに、際々ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなしつつ、皆配らせたまひけり。

 [第九段 源氏、左大臣邸を辞去する]

 君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。御車さし出でて、御前など参り集るほど、折知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御前にさぶらふ人びと、ものいと心細くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。
 夜さりは、やがて二条院に泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かしこにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日にしも閉ぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。

 大臣も宮も、今日のけしきに、また悲しさ改めて思さる。宮の御前に御消息聞こえたまへり。

 〔源氏〕「院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ参りはべる。あからさまに立ち出ではべるにつけても、今日までながらへはべりにけるよと、乱り心地のみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そなたにも参りはべらぬ」

 とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返りも聞こえたまはず。

 大臣ぞ、やがて渡りたまへる。いと堪へがたげに思して、御袖も引き放ちたまはず。見たてまつる人びともいと悲し。
 大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。大臣、久しうためらひたまひて、

 〔左大臣〕「齢のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざにはべるを、まして、干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を、えのどめはべらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院などにも参りはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせたまへ。いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうもはべるかな」

 と、せめて思ひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。君も、たびたび鼻うちかみて、

 〔源氏〕後れ先立つほどの定めなさ(自筆本奥入13)は、世のさがと見たまへ知りながら、さしあたりておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。院にも、ありさま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。

 〔左大臣〕「さらば、時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこえたまふ。

 うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほたれつつゐ集りたるを、いとあはれ、と見たまふ。

 〔左大臣〕「思し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち寄らせたまはじやなど、慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき女房などは、今日を限りに、思し捨てつる故里と思ひ屈じて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるなむ、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ、心細き夕べにはべれ」

 とても、泣きたまひぬ。

 〔源氏〕「いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思ひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべりつらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。今御覧じてむ」

 とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心地ぞしたまふ。
 御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人びとは、悲しきなかにも、ほほ笑むあるべし。あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。

 〔左大臣〕「かしこの御手や」

 と、空を仰ぎて眺めたまふ。よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきなるべし。「旧き枕故き衾、誰と共にか(自筆本奥入14・奥入3・墨筆注記)とある所に、

 〔源氏〕「なき魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに」

 また、「霜の花白し」とある所に、

 〔源氏〕「君なくて塵つもりぬる常夏の露うち払ひいく夜寝ぬらむ」

 一日の花なるべし、枯れて混じれり。

 宮に御覧ぜさせたまひて、

 〔左大臣〕「いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、前の世を思ひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日ごろに添へて、恋しさの堪へがたきと、この大将の君の、今はとよそになりたまはむなむ、飽かずいみじく思ひたまへらるる。一日、二日も見えたまはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」

 と、御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに、御前なるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。

 若き人びとは、所々に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうち語らひて、

 〔女房〕「殿の思しのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰むべかめれと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」

 とて、おのおの、「あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむほど、おのがじし(校訂16)あはれなることども多かり。

 院へ参りたまへれば

 〔院〕「いといたう面痩せ(校訂17)にけり。精進にて日を経るけにや」

 と、心苦しげに思し召して、御前にて物など参らせたまひて、とやかくやと思し扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。

 中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。命婦の君して、

 〔藤壺〕「思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」

 と、御消息聞こえたまへり。

 〔源氏〕「常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつるに、厭はしきこと多く思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めはべりてなむ、今日までも」

 とて、さらぬ(校訂18)折だにある御けしき取り添へて、いと心苦しげなり。無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。

 春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、まかでたまふ。

 

第三章 紫の君の物語 新手枕の物語

 [第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす]

 二条院には、方々払ひみがきて、男女、待ちきこえたり。上臈ども皆参う上りて、我も我もと装束き、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられたまふ。
 御装束たてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。衣更への御しつらひ、くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女の、形、姿めやすくととのへて、「少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし」と見たまふ。

 姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。

 〔源氏〕「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」

 とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うちそばみて(校訂19)笑ひたまへる御さま、飽かぬところなし。
 「火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただ、かの心尽くしきこゆる人に、違ふところなくなりゆくかな」
 と見たまふに、いとうれし。

 近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、

 〔源氏〕「日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれば、しばし異方にやすらひて、参り来む。今は、とだえなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ」

 と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふく思ひきこゆ。「やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ち代はりたまはむ」と思ふぞ、憎き心なるや。

 御方に渡りたまひて、中将の君といふ、御足など参りすさびて、大殿籠もりぬ。
 朝には、若君の御もとに(校訂20)御文たてまつりたまふ。あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。

 いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩きも、もの憂く思しなられて、思しも立たれず。
 姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。

 つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにも、うつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。

 人びと、「いかなれば、かくおはしますならむ。御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。
 人まにからうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなく、ひき開けて見たまへば、

 〔源氏〕「あやなくも隔てけるかな夜をかさねさすがに馴れし夜の衣を」

 と、書きすさびたまへるやうなり。「かかる御心おはすらむ」とは、かけても思し寄らざりしかば、
 「などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ」
 と、あさましう思さる。

 昼つかた、渡りたまひて、

 〔源氏〕「悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心地ぞ。今日は、碁も打たで、さうざうしや」

 とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。人びとは退きつつ(校訂21)さぶらへば、寄りたまひて、

 〔源氏〕「など、かくいぶせき御もてなしぞ。思ひのほかに心憂く(校訂22)こそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」

 とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡れたまへり。

 〔源氏〕「あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」

 とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。

 〔源氏〕「よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」

 など怨じたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ、「若の御ありさまや」と、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、入りゐて、慰めきこえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。

 [第二段 結婚の儀式の夜]

 その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかりを、色々にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出でたまひて、惟光を召して、

 〔源氏〕「この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日は忌ま忌ましき日なりけり」

 と、うちほほ笑みてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思ひ寄りぬ。惟光、たしかにも承らで、

 〔惟光〕「げに、愛敬の初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。さても、子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」

 と、まめだちて申せば、

 〔源氏〕「三つが一つかにてもあらむかし」

 とのたまふに、心得果てて、立ちぬ。「もの馴れのさまや」と君は思す。人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。

 君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するも、いとをかしくて、「年ごろあはれと思ひきこえつるは、片端にもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と思さる。

 のたまひし餅、忍びて、いたう夜更かして持て参れり。「少納言はおとなしくて、恥づかしくや思さむ」と、思ひやり深く心しらひて、娘の弁といふを呼び出でて、

 〔惟光〕「これ、忍びて参らせたまへ」

 とて、香壺の筥を一つ、さし入れたり。

 〔惟光〕「たしかに、御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。あな、かしこ。あだにな」

 と言へば、「あやし」と思へど、

 〔弁〕「あだなることは、まだならはぬものを」

 とて、取れば、

 〔惟光〕「まことに、今はさる文字、忌ませたまへよ。よも混じりはべらじ」

 と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思ひ寄らねば、持て参りて、御枕上の御几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。

 人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限りの人びと、思ひ合はすることどもありける。御皿どもなど、いつのまにかし出でけむ。花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調へたり。

 少納言は、「いと、かうしもや」とこそ思ひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。

 〔女房〕「さても、うちうちにのたまはせよな。かの人も、いかに思ひつらむ」

 と、ささめきあへり。

 かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく、面影に恋しければ、「あやしの心や」と、我ながら思さる。通ひたまひし所々よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ」と、思しわづらはるれば、いともの憂くて、悩ましげにのみもてなしたまひて、

 〔源氏〕「世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」

 とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。

 今后は、御匣殿、なほこの大将にのみ心つけたまへるを、

 〔右大臣〕「げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、さてもあらむに、などか口惜しからむ」

 など、大臣のたまふに、「いと憎し」と、思ひきこえたまひて、

 〔弘徽殿大后〕「宮仕へも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」

 と、参らせたてまつらむことを思しはげむ。

 君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ今はことざまに分くる御心もなくて、

 〔源氏〕「何かは、かばかり短かめらむ(校訂23)世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり」

と、いとど危ふく思し懲りにたり。

 〔源氏〕「かの御息所は、いといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、かならず心おかれぬべし。年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき折ふしに、もの聞こえあはする人にてはあらむ」など、さすがに、ことのほかには思し放たず。

 〔源氏〕「この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。父宮に知らせきこえてむ」と、思ほしなりて、御裳着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとありがたけれど、女君は、こよなう疎みきこえたまひて、〔紫君〕「年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、苦しうわりなきものに思しむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、

 〔源氏〕「年ごろ、思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ(自筆本奥入15・朱筆注記)御けしきの、心憂きこと」と、怨みきこえたまふほどに、年も返りぬ。

 [第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り]

 朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ。それより大殿にまかでたまへり。大臣、新しき年ともいはず、昔の御ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとどかくさへ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへど、堪へがたう思したり。

 御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひたまひて、ありしよりけに、きよらに見えたまふ。立ち出でて、御方に入りたまへれば、人びともめづらしう見たてまつりて、忍びあへず。

 若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはするも、あはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、「人もこそ見たてまつりとがむれ」と見たまふ。

 御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうにし掛けられたるに、女のが並ばぬこそ、栄なくさうざうしく栄なけれ
 宮の御消息にて、

 〔大宮〕「今日は、いみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なかなか」

 など聞こえたまひて、

 〔大宮〕「昔にならひはべりにける御よそひも、月ごろは、いとど涙に霧りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど、今日ばかりは、なほやつれさせたまへ」

 とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねてたてまつれたまへり。かならず今日たてまつるべき、と思しける御下襲は、色も織りざまも、世の常ならず、心ことなるを、かひなくやはとて、着替へたまふ。来ざらましかば、口惜しう思さましと、心苦し。御返りに、

 〔源氏〕春や来ぬるとも(自筆本奥入16・朱筆注記)、まづ御覧ぜられになむ、参りはべりつれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず。

  あまた年今日改めし色着ては涙ぞふる心地する

 えこそ思ひたまへしづめね」と聞こえたまへり。

 御返り、

 〔大宮〕「新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なりけり」

 おろかなるべきことにぞあらぬや。

 【定家注釈】
 藤原定家は、青表紙原本において、短い和歌・漢詩句等の短い注釈は本文中に付箋の形で指摘し、一方長文の漢詩・歌謡・故事等は巻末の奥入に注釈するという仕分けをしていた。
 大島本「葵」は、付箋の注記が無いので、行間注記に「自筆本奥入」の注記を記載し、併せて参考に行間注記を記した。( )内に、その出典と先行注釈書名を記した。

奥入
01 擎掌上珠摧心中丹<古願文歟>
    此事非さ本文歟追可勘
02 有所嗟 二首 劉夢得
   庾令楼中初見時 武昌春柳似胸支
   相逢相失両如夢 為雨為雲今不知
   鄂渚濛々烟雨微 女郎魂遂暮雲帰
   只応長在漢陽渡 化作鴛鴦一隻飛
    夢得ハ白楽天同時之人也
    思ふ人にをくれてつくれる詩也
03 鴛鴦瓦冷霜華重 舊枕故衾誰与為

自筆本奥入
01 我を思ふ人を思はぬ報いにや我が思ふ人の我を思はぬ(古今集104 源氏釈・墨筆注記)
02 笹の隈桧隈川に駒とめてしばし水かへ影だに見む(古今集1080 源氏釈・墨筆注記)
03 伊勢の海に釣する海人の浮けなれや心一つを定めかねつる(古今集509 源氏釈・朱筆注記)
04 悔しくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水(古今六帖987 源氏釈・朱筆注記)
05 身を捨てて行きやしにけむ思ふより外なる物は心なりけり(古今集977 源氏釈、墨筆注記)
06 思はじと思ふも物を思ふなり言はじと言ふもこれも言ふなり(源氏釈所引・墨筆注記)
07 結びおきし形見の子だになかりせば何に忍の草を摘ままし(後撰集1187 源氏釈・朱筆注記)
08 時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを(古今集893 源氏釈・朱筆注記)09 旦為朝雲 暮為行雨(文選「高唐賦」)。相逢相笑尽如夢 為雨為雲今不知(劉夢得外集「有所嗟」)
10 神無月いつも時雨は降りしかどかく袖くたす折はなかりき(源氏釈所引・朱筆注記)
11 白雲の九重に立つ峰なれば大内山といふにぞありける(兼輔集98 源氏釈・朱筆注記)
12 みなれ木の見慣れそなれて離れなば恋しからむや恋しからじや(源氏釈所引 朱筆注記)
13 末の露もとの滴や世の中の後れ先立つためしなるらむ(遍昭集15 源氏釈)
14 鴛鴦瓦冷霜花重 旧枕故衾誰与共(白氏文集「長恨歌」 源氏釈)
15 み狩する雁羽の小野の楢柴の馴れはまさらで恋ひぞまされる(万葉集3062 源氏釈・朱筆注記)
16 新しく明くる年をば百年の春や来ぬると鴬ぞ鳴く(源氏釈所引・朱筆注記)

 【校訂付記】
底本:大島本 校訂は本行本文を尊重し、本文を改める際にはその訂正本文に従った。

校訂01 よき--(+よき
校訂02 いづかたにも--いつかた(+に)も
校訂03 さばかりにて--さはかりて(て$にて)
校訂04 いとど--いと(+
校訂05 いと--(+いと)
校訂06 べかめるも--へかめに(に$<朱>)も
校訂07 聞こえ--きこゆ(ゆ/$<朱>)
校訂08  待ち--(+<朱>)
校訂09 いみじう--(+いみしう<朱>)
校訂10 退き--し(+<朱>)そき
校訂11 まもられ--まも(+<朱>)れ
校訂12 損なはれ--そこな(+ハ)れ
校訂13 知るらむや--し(+<朱>)らむや
校訂14 さるべき--さるへ(+<朱>)
校訂15 あくがれ果て--あくかれ(+は)て
校訂16 おのがじし--(+を)のかしゝ
校訂17 面痩せ--おもひ(ひ<朱>)やせ
校訂18 さらぬ--さな(な<朱>)らぬ
校訂19 うちそばみて--うち(+そ)はみて
校訂20 御もとに--御(+も)とも(も$)に
校訂21 退きつつ--しりそきて(て$)つゝ
校訂22 心憂く--心(+う)く
校訂23 短かめらむ--みし□ゝ(□ゝ#<朱>)め(=らん歟)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入