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渋谷栄一訳(C)

  

紅葉賀

光る源氏十八歳冬十月から十九歳秋七月までの宰相兼中将時代の物語

第一章 藤壺の物語  源氏、藤壺の御前で青海波を舞う

  1. 御前の試楽---朱雀院への行幸は、神無月の十日過ぎである
  2. 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌遠贈答---翌朝、中将の君
  3. 十月十余日、朱雀院へ行幸---行幸には、親王たちなど、宮廷を挙げて一人残らず供奉なさった
  4. 葵の上、源氏の態度を不快に思う---宮は、そのころご退出なさったので
第二章 紫の物語  源氏、紫の君に心慰める
  1. 紫の君、源氏を慕う---幼い人は馴染まれるにつれて
  2. 藤壺の三条宮邸に見舞う---藤壺が退出していらっしゃる三条の宮に
  3. 故祖母君の服喪明ける---少納言は、「思いがけず嬉しい運が回って来たこと
  4. 新年を迎える---男君は、朝拝に参内なさろうとして
第三章 藤壺の物語(二)  二月に男皇子を出産
  1. 左大臣邸に赴く---宮中から大殿にご退出なさると
  2. 二月十余日、藤壺に皇子誕生---参賀のご挨拶といっても、多くの所にはお出かけにならず
  3. 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る---四月に参内なさる
  4. 源氏、紫の君に心を慰める---つくづくと物思いに沈んでいても、晴らしようのない気持ちがするので
第四章 源典侍の物語  老女との好色事件
  1. 源典侍の風評---帝のお年、かなりお召しあそばされたが
  2. 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす---お上の御髪梳りに伺候したが
  3. 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される---たいそう秘密にしているので、源氏の君はご存知ない
  4. 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう---君は、「実に残念にも見つけられてしまったことよ」と思って
第五章 藤壺の物語(三) 秋、藤壺は中宮、源氏は宰相となる

 七月に藤壺女御、中宮に立つ---七月に、后がお立ちになるようであった

 

第一章 藤壺の物語 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う

 [第一段 御前の試楽]
 朱雀院への行幸は、神無月の十日過ぎである。常の行幸とは違って、格別興趣あるはずの催しであったので、女御や更衣の御方々が、御覧になれないことを残念にお思いになる。主上も、藤壺の宮が御覧になれないのを、もの足りなく思し召されるので、その試楽を御前において、お催しあそばす。

 源氏の中将は、「青海波」をお舞いになった。一方の舞手には大殿の頭の中将。容貌、心づかい、人よりは優れているが、立ち並んでは、やはり花の傍らの深山木である。

 入り方の日の光が、鮮やかに差し込んでいる時に、楽の声が高まり、感興もたけなわの時に、同じ舞の足拍子、表情は、世にまたとない様子である。朗唱などをなさっている声は、「これが、仏の御迦陵頻伽のお声だろうか」と聞こえる。美しくしみじみと心打つので、帝は、涙をお拭いになさり、上達部、親王たちも、皆落涙なさった。朗唱が終わって、袖をさっとお直しになると、待ち構えていた楽の音が賑やかに奏されるとき、お顔の色が一段と映えて、常よりも光り輝いてお見えになる。

 春宮の女御は、このように立派に見えるのにつけても、おもしろからずお思いになって、〔弘徽殿女御〕「神などが、空から魅入りそうな、容貌だこと。嫌な、不吉だこと」とおっしゃるのを、若い女房などは、厭味なと、聞きとがめるのであった。藤壺の宮は、「大それた心のわだかまりがなかったならば、いっそう素晴らしく見えたろうに」とお思いになると、夢のような心地がなさるのであった。

 宮は、そのまま御宿直なのであった。

 〔帝〕「今日の試楽は、「青海波」に万事尽きてしまったな。どう御覧になりましたか」

 と、お尋ね申し上げなさると、心ならずも、お答え申し上げにくくて、

 〔藤壺〕「格別でございました」とだけお返事申し上げなさる。

 〔帝〕「相手役も、悪くはなく見えた。舞の様子、手捌きは、良家の子弟は格別であるな。世間で名声を博している舞の男たちも、確かに大したものであるが、大様で優美な趣きを、表すことができない。試楽の日に、こんなに十分に催してしまったので、当日の紅葉の木陰は、寂しかろうかと思うが、お見せ申したいとの気持ちで、念入りに催させた」などと、お話し申し上げなさる。

 [第二段 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌遠贈答]

 翌朝、源氏中将の君、

 〔源氏〕「どのように御覧になりましたでしょうか。何とも言えないつらい気持ちのまま舞ましたので。

  つらい気持ちのまま立派に舞うことなどはとてもできそうもないわが身が

  袖を振って舞った気持ちはお分りいただけましたでしょうか

 恐れ多いことですが」

 とあるお返事、目を奪うほどであったご様子、容貌に、お見過ごしになれなかったのであろうか、

 〔藤壺〕「唐の人が袖振って舞ったことは遠い昔のことですが

  その立ち居舞い姿はしみじみと拝見いたしました

 並々のことには」

 とあるのを、この上なく珍しく、「このようなことにまで、お詳しくいらっしゃり、唐国の朝廷まで思いをはせられるお后としてのお和歌を、もう今から」と、自然とほほ笑まれて、持経のように広げてご覧になっていた。

 [第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸]

 行幸には、親王たちなど、宮廷を挙げて一人残らず供奉なさった。春宮もお出ましになる。恒例によって、楽の舟々が漕ぎ廻って、唐楽、高麗楽と、数々を尽くした舞は、幾種類も多い。楽の声、鼓の音が、四方に響き渡る。

 先日の源氏の君の夕映えのお姿、不吉に思し召されて、御誦経などを方々の寺々におさせになるのを、聞く人ももっともであると感嘆申し上げるが、春宮の女御は、大仰であると、ご非難申し上げなさる。

 垣代などには、殿上人や、地下人でも、優秀だと世間に評判の高い精通した人たちだけをお揃えあそばしていた。宰相二人、左衛門督と右衛門督が、左楽と右楽とを指揮する。舞の師匠たちなど、世間で一流の人たちをそれぞれ招いて、各自家に引き籠もって練習したのであった。

 木高い紅葉の下に、四十人の垣代たちの、何とも言い表しようもなく見事に吹き鳴らしている笛の音に響き合っている松風、本当の深山颪と聞こえて、吹き乱れ、色とりどりに散り乱れる木の葉の中から、「青海波」の光り輝いて舞い出る様子、何とも恐ろしいまでに見える。插頭の紅葉がたいそう散って薄くなって、顔の照り映える美しさに圧倒された感じがするので、御前に咲いている菊を折って、左大将が差し替えなさる。

 日の暮れかかるころに、ほんの少しばかり時雨が降って、空の様子までが折の情趣を見知り顔であるのに、そうした非常に美しい姿で、菊が色とりどりに変色し、その素晴らしいのを冠に插して、今日は又とない秘術を尽くした入綾の舞納めの時には、ぞくっと寒気がし、この世の舞とは思われない。何も分るはずのない下人どもで、木の下、岩の陰、築山の木の葉に埋もれている者までが、少しでも物の情趣を理解できる者は感涙を落としたのであった。

 承香殿の女御の第四皇子、まだ童姿で、「秋風楽」をお舞いになったのが、これに次ぐ見物であった。これらに興趣も尽きてしまったので、他の事には関心も移らず、かえって興ざましであったろうか。

 その夜、源氏の中将、正三位になられる。頭中将、正四位下に昇進なさる。上達部は、皆しかるべき人々は相応の昇進をなさるのも、この君の昇進につれて恩恵を蒙りなさるので、人の目を驚かし、心をも喜ばせなさる、前世が知りたいほどである。

 [第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う]

 藤壺の宮は、そのころご退出なさったので、例によって、お会いできる機会がないかと、窺い回るのに夢中であったので、大殿では穏やかではいらっしゃれない。その上、あの若草の君を尋ねてお迎えになったのを、「二条院では、女人をお迎えになったそうです」と、人が申し上げたので、まことに気に食わないとお思いになっていた。

 〔源氏〕「内々の様子はご存知なく、そのようにお思いになるのはごもっともであるが、性格が素直で、普通の女性のように恨み言をおっしゃるのならば、自分も腹蔵なくお話して、お慰め申し上げようものを、心外なふうにばかりお取りになるのが不愉快なので、起こさなくともよい浮気沙汰まで起こるのだ。相手のご様子は、不十分で、どこそこが不満だと思われる欠点もない。誰よりも先に結婚した方なので、愛しく大切にお思い申している気持ちを、まだご存知ないのであろうが、いつかはお思い直されよう」と、「安心できる軽率でないご性質だから、いつかは」と、期待できる点では格別なのであった。

 

第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める

 [第一段 紫の君、源氏を慕う]

 幼い人は、馴染まれるにつれて、とてもよい性質、容貌で、無心に懐いてお側離れず付きまとい申されなさる。「暫くの間は、邸内の者にも誰それと知らせまい」とお思いになって、今も離れた対の屋に、お部屋の設備をまたとなく立派にして、ご自分も明け暮れお入りになって、ありとあらゆるお稽古事をお教え申し上げなさり、お手本を書いてお習字などさせては、まるで他で育ったご自分の娘をお迎えになったようなお気持ちでいらっしゃった。

 政所、家司などをはじめとして、特別に担当を分けて、何の心配もないようにお仕えさせなさる。惟光以外の人は、はっきり分からずばかりに思い申し上げていた。あの父宮も、ご存知ないのであった。

 姫君は、やはり時々お思い出しなさる時は、尼君をお慕い申し上げなさる時々が多い。君がおいでになる時は、気が紛れていらっしゃるが、夜などは、時々はお泊まりになるが、あちらこちらの方々にお忙しくて、暮れるとお出かけになるのを、後をお慕いなさる時などがあるのを、とてもかわいいとお思い申し上げていらっしゃった。

 二、三日宮中に伺候し、大殿にもいらっしゃる時は、とてもひどく塞ぎ込んだりなさるので、気の毒で、母親のいない子を持ったような心地がして、外出も落ち着いてできなくお思いになる。僧都は、これこれしかじかと、お聞きになって、不思議な気がする一方で、嬉しいことだとお思いであった。あの尼君の法事などをなさる時にも、丁重にご弔問なさっていた。

 [第二段 藤壺の三条宮邸に見舞う]

 藤壺がご退出していらっしゃる三条の宮に、ご様子も知りたくて、参上なさると、王命婦、中納言の君、中務などといった女房たちが応対に出た。「他人行儀なお扱いであるな」と、おもしろくなく思うが、気を落ち着けて、世間一般のお話を申し上げなさっているところに、兵部卿宮が参上なさった。

 この君がいらっしゃるとお聞きになって、お会いなさった。宮はとても風情あるご様子をして、色っぽくなよなよとしていらっしゃるのを、「女性として見るにはきっと素晴らしいに違いなかろう」と、こっそりと拝見なさるにつけても、あれこれと睦まじくお思いになられて、懇ろにお話など申し上げなさる。宮も、君のご様子がいつもより格別に親しみやすく打ち解けていらっしゃるのを、「じつに素晴らしい」と拝見なさって、娘婿でいらっしゃるなどとはお思いよりにもならず、「女としてお会いしたいものだ」と、色っぽいお気持ちにお考えになる。

 日が暮れたので、御簾の内側にお入りになるのを、羨ましく、昔は、お上の御待遇で、とても近くで、直接にお話申し上げなさったのに、すっかり疎々しくいらっしゃるのを、辛く思われるとは、理不尽なことであるよ。

 〔源氏〕「しばしばお伺いすべきですが、特別の事でもない限りは、参上するのも自然滞りがちになりますが、しかるべき御用などをば、お申し付けございましたら、嬉しく……」

 などと、堅苦しい挨拶をしてお出になった。命婦も、手引き申し上げる手段もなく、宮のご様子も以前よりは、いっそう辛いことにお思いになっていて、お打ち解けにならないご様子も、気おくれしおいたわしくもあるので、何の効もなく、月日が過ぎて行く。「何とはかない御縁か」と、お悩みになること、お互いに嘆ききれない。

 [第三段 故祖母君の服喪明ける]

 少納言は、「思いがけず嬉しい運が回って来たことよ。これも、亡き尼上が、姫君様をご心配なさって、御勤行にもお祈り申し上げなさった仏の御利益であろうか」と思われる。「大殿は、本妻として歴としていらっしゃる。あちらこちら大勢お通いになっているのを、本当に成人されてからは、厄介なことも起きようか」と案じられるのだった。しかし、このように特別になさっていらっしゃるご寵愛のうちは、とても心強い限りである。

 ご服喪は、母方の場合は三箇月であると、晦日には忌明け申し上げさせなさるが、他に親もなくてご成長なさったので、派手な色合いではなく、紅、紫、山吹の無地の織物の御小袿などを召していらっしゃる様子、たいそう当世風でかわいらしげである。

 [第四段 新年を迎える]

 男君は、朝拝に参内なさろうとして、お立ち寄りになった。

 〔源氏〕「今日からは大人らしくなられましたか」

 と言って、微笑んでいらっしゃる、とても素晴らしく魅力的である。早くも、お人形を並べ立てて、忙しくしていらっしゃる……。三尺の御厨子一具と、お道具を色々と並べて、他に小さい御殿をたくさん作り集めて、差し上げなさっていたのを、辺りいっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。

 〔紫君〕「追儺をやろうといって、犬君がこれを壊してしまったので、直しておりますの」

 と言って、とても大事件だとお思いである。

 〔源氏〕「なるほど、とてもそそっかしい人のやったことらしいですね。直ぐに直させましょう。今日は不吉な言葉は慎んで、お泣きなさるな」

 と言って、お出かけになる様子の、辺り狭しのご立派さを、女房たちは端に出てお見送り申し上げるので、姫君も立って行ってお見送り申し上げなさって、お人形の中の源氏の君を着飾らせて、内裏に参内させる真似などなさる。

 〔少納言乳母〕「せめて今年からでも、もう少し大人らしくなさいませ。十歳を過ぎた人は、お人形遊びはいけないものでございますのに。このようにお婿様をお持ち申されたからには、奥方様らしくおしとやかにお振る舞いになって、お相手申し上げあそばしませ。お髪をお直しする間さえ、お嫌がりあそばして……」

 などと少納言も、お諌め申し上げる。お人形遊びにばかり夢中になっていらっしゃるので、これではいけないと思わせ申そうと思って言うと、心の中で、〔紫君〕「わたしは、それでは、夫君を持ったのだわ。この女房たちの夫君というのは、何と醜い人たちなのであろう。わたしは、こんなにも魅力的で若い男性を持ったのだわ」と、今になってお分かりになるのであった。何と言っても、お年を一つ取った証拠なのであろう。このように幼稚なご様子が、何かにつけてはっきりっと目立つので、殿の内の女房たちも、変わっていると思ったが、とてもこのように夫婦らしくないお添い寝相手なのだろうとは思わなかったのである。

 

第三章 藤壺の物語(二) 二月に男皇子を出産

 [第一段 左大臣邸に赴く]

 宮中から大殿にご退出なさると、いつものように、端然と威儀を正したご態度で、やさしいそぶりもなく窮屈なので、

 〔源氏〕「せめて今年からでも、もう少し夫婦らしく態度をお改めになるお気持ちが窺えたら、どんなにか嬉しいことでしょう」

 などとお申し上げなさるが、「わざわざ女の人を側に置いて、かわいがっていらっしゃる」と、お聞きになってからは、「重要な夫人とお考えになってのことであろう」と、隔て心ばかりが自然と生じて、ますます疎ましく気づまりにお感じになられるのであろう。つとめて見知らないように振る舞って、君の冗談をおっしゃっるご様子には、強情も張り通すこともできず、お返事などちょっと申し上げなさるところは、やはり他の女性とはとても違うのである。

 四歳ほど年上でいらっしゃるので、姉様で、気後れがし、女盛りで非の打ちどころがなくお見えになる。「どこにこの人の足りないところがおありだろうか。自分のあまり良くない浮気心から、このようにお恨まれ申すのだ」と、お考えにならずにはいられない。同じ大臣と申し上げる中でも、御信望この上なくいらっしゃる方が、宮との間に儲けて大切にお育てなさったための気位の高さは、とても大変なもので、「少しでも疎略にするのは、失敬である」とお思い申し上げていらっしゃるのを、夫君は、「どうしてそんなにまでも」という、いつもにおなりになっている、お互いの心の隔てなのであろう。

 大臣も、このように頼りない君のお気持ちを、辛いとお思い申し上げになりながらも、お目にかかりなさる時には、恨み事も忘れて、大切にお世話申し上げなさる。翌朝、お帰りになるところに、お顔をお見せになって、お召し替えになる時、高名の御帯を、お手ずからお持ちになってお越しになって、お召物の後ろを引き結び直しなどや、お沓までも手に取りかねないほど世話なさる、大変なお気の配りようである。

 〔源氏〕「これは、内宴などということもございますそうですから、そのような折にでも」

 などとお申し上げなさると、

 〔左大臣〕「その時には、もっと良いものがございます。これはちょっと目新しい感じのするだけのものですから」

 と言って、無理にお締め申し上げなさる。なるほど、万事にお世話して拝見なさると、生き甲斐が感じられ、「たまさかであっても、このような方をお出入りさせてお世話するのに、これ以上の喜びはあるまい」と、お見えでいらっしゃる。

 [第二段 二月十余日、藤壺に皇子誕生]

 参賀のご挨拶といっても、多くの所にはお出かけにならず、内裏、春宮、一院ぐらいで、その他では、藤壺の三条の宮にお伺いなさる。

 〔女房〕「今日はまた格別にお見えでいらっしゃるわ」

 〔女房〕「ご成長されるに従って、恐いまでにお美しくおなりでいらっしゃるご様子ですわ」

 と、女房たちがお褒め申し上げているのを、宮は、几帳の隙間からわずかにお姿を御覧になるにつけても、物思いなさることが多いのであった。

 御出産の予定が、十二月も過ぎてしまったのが、気がかりで、今月はいくら何でもと、宮家の人々もお待ち申し上げ、主上におかれても、そのお心づもりでいらっしゃるのに、何事もなく過ぎてしまった。「御物の怪のせいであろうか」と、世間の人々もお噂申し上げるのを、宮は、とても身にこたえてつらく、「このお産のために、命を落とすことになってしまうにちがいない」と、お嘆きになると、ご気分もとても苦しくてお悩みになる。

 中将の君は、ますます思い当たって、御修法などを、はっきりと事情は知らせずに方々の寺々におさせになる。「世の無常につけても、このままはかなく終わってしまうのだろうか」と、あれやこれやとお嘆きになっていると、二月十日過ぎのころに、男御子がお生まれになったので、すっかり心配も消えて、宮中でも宮家の人々もお喜び申し上げなさる。

 「長生きを」とお思いなさるのは、つらいことだが、「弘徽殿などが、呪わしそうにおっしゃっている」と聞いたので、「死んだとお聞きになったならば、物笑いの種になろう」と、お気を強くお持ちになって、だんだん少しずつ気分が快方に向かっていかれたのであった。

 お上が、早く御子を御覧になりたいとおぼし召されること、この上ない。あの、密かなお気持ちとしても、ひどく気がかりで、人のいない時に参上なさって、

 〔源氏〕「お上が御覧になりたくあそばしてますので、まず拝見して詳しく奏上しましょう」

 と申し上げなさるが、

 〔藤壺〕「まだ見苦しい程ですので」

 と言って、お見せ申し上げなさらないのも、ごもっともである。実のところ、とても驚くほど珍しいまでに生き写しでいらっしゃる顔形、紛うはずもない。宮が、良心の呵責にとても苦しく、「女房たちが拝見しても、不審に思われた月勘定の狂いを、どうして変だと思い当たらないだろうか。それほどでないつまらないことでさえも、欠点を探し出そうとする世の中で、どのような噂がしまいには世に漏れ出ようか」と思い続けなさると、わが身だけがとても情けない。

 命婦の君に、まれにお会いになって、切ない言葉を尽くしてお頼みなさるが、何の効果があるはずもない。若宮のお身の上を、無性に御覧になりたくお訴え申し上げなさるので、

 〔王命婦〕「どうして、こうまでもご無理を仰せあそばすのでしょう。そのうち、自然に御覧あそばされましょう」

 と申し上げながら、悩んでいる様子は、お互いに一通りでない。気が引ける事柄なので、正面切っておっしゃれず、

 〔源氏〕「いったいいつになったら、直接に、お話し申し上げることができるのだろう」

と言って、お泣きになる姿が、お気の毒である。

 〔源氏〕「どのように前世で約束を交わした縁でこの世にこのような二人の仲に隔てがあるのだろうか

 このような隔ては納得がいかない」

 とおっしゃる。

 命婦も、宮がお悩みでいらっしゃる様子などを拝見しているので、そっけなく突き放してお扱い申し上げることもできない。

 〔王命婦〕「御覧になっている方も物思をされています、御覧にならないあなたは、またどんなにお嘆きのことでしょう。これが世の人が言う親心の闇というものでしょうか

 おいたわしい、お心の休まらないお二方ですこと」

 と、こっそりとお返事申し上げたのであった。

 このように何とも申し上げるすべもなくて、お帰りになるものの、宮は世間の人々の噂も煩わしいので、無理無体なことにおっしゃりもし、お考えにもなって、命婦をも、以前信頼していたように、気を許してお近づけなさらない。人目に立たないように、穏やかにお接しになる一方で、気に食わないとお思いになる時もあるはずなのを、とても身にこたえて思ってもみなかった心地がするようである。

 [第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る]

 四月に参内なさる。日数の割には大きく成長なさっていて、だんだん寝返りなどをお打ちになる。驚きあきれるくらい、間違いようもないお顔つきを、ご存知ないことなので、「他に類のない美しい人どうしというのは、なるほど似通っていらっしゃるものだ」と、お思いあそばすのであった。たいそう大切にお慈しみになること、この上もない。源氏の君を、限りなくかわいい人と愛していらっしゃりながら、世間の人々がご賛成申し上げそうにもなかったことによって、坊にもお据え申し上げられずに終わったことを、どこまでも残念に、臣下としてもったいないご様子、容貌で、ご成人していらっしゃるのを御覧になるにつけ、おいたわしくおぼし召されるので、「このように高貴なお方から、同様に光り輝いてお生まれになったので、疵のない玉だ」と、お思いあそばして大切になさるので、宮は何につけても、胸の痛みの消える間もなく、不安な思いをしていらっしゃる。

 いつものように、中将の君が、こちらで管弦のお遊びをなさっていると、お抱き申し上げあそばされて、

 〔帝〕「御子たちは、大勢いるが、そなただけを、このように小さい時から明け暮れ見てきた。それゆえ、思い出されるのだろうか。とてもよく似て見える。とても幼いうちは皆このように見えるのであろうか」

 と言って、たいそうかわいらしいとお思い申し上げあそばされている。

 中将の君は、顔色が変っていく心地がして、恐ろしくも、かたじけなくも、嬉しくも、哀れにも、あちこちと揺れ動く思いで、涙が落ちてしまいそうである。お声を上げたりして、にこにこしていらっしゃる様子が、とても恐いまでにかわいらしいので、自分ながら、この宮に似ているのは大変にもったいなくお思いになるとは、身贔屓に過ぎるというものであるよ。宮は、どうにもいたたまれない心地がして、冷汗をお流しになっているのであった。中将は、かえって複雑な思いが、乱れるようなので、退出なさった。

 ご自分の部屋の方でお臥せりになって、「胸のどうにもならない悩みが収まってから、大殿へ出向こう」とお思いになる。お庭先の前栽が、どことなく青々と見渡される中に、常夏の花がぱあっと色美しく咲き出しているのを、折らせなさって、命婦の君のもとに、お書きになること、多くあるようだ。

 〔源氏〕「思いよそえて見ているが、気持ちは慰まず、涙を催させる撫子の花の花であるよ

 花と咲いてほしい、と存じておりましたが、効ない二人の仲でしたので」

 とある。ちょうど人のいない時であったのであろうか、御覧に入れて、

 〔王命婦〕「ほんの塵ほどのお返事でも、この花びらに」

 と申し上げるが、ご本人にも、もの悲しく思わずにはいらっしゃれない時なので、

 〔藤壺〕「袖を濡らしている方の縁と思うにつけても、やはり疎ましくなってしまう大和撫子です」

 とだけ、かすかに中途で書き止めたような返歌を、喜びながら差し上げたが、「いつものことで、返事はあるまい」と、力なくぼんやりと臥せっていらっしゃったところに、胸をときめかして、たいそう嬉しいので、涙がこぼれた。

 [第四段 源氏、紫の君に心を慰める]

 つくづくと物思いに沈んでいるにつけても、晴らしようのない気持ちがするので、いつものように、気晴らしには西の対にお渡りになる。

 取り繕わないで毛羽だっていらっしゃる鬢ぐきや、うちとけた袿姿で、笛を慕わしく吹き鳴らしながら、お立ち寄りになると、女君、先程の花が露に濡れたような感じで、寄り臥していらっしゃる様子、かわいらしく可憐である。愛嬌がこぼれるようで、おいでになりながら早くお渡り下さらないのが、何となく恨めしかったので、いつもと違って、すねていらっしゃるのであろう。端の方に座って、

 〔源氏〕「こちらへ」

 とおっしゃるが、素知らぬ顔で、

 〔紫君〕「お目にかかることが少なくて」

 と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる様子、たいそう色っぽくてかわいらしい。

 〔源氏〕「まあ、憎らしい。このようなことをおっしゃるようになりましたね。みるめに人を飽きるとは、良くないことですよ」

 と言って、人を召して、お琴取り寄せてお弾かせ申し上げなさる。

 〔源氏〕「箏の琴は、中の細緒が切れやすいのが厄介だ」

 と言って、平調に下げてお調べになる。調子合わせの小曲だけ弾いて、押しやりなさると、いつまでもすねてもいられず、とてもかわいらしくお弾きになる。

 お小さいからだで、左手をさしのべて、弦を揺らしなさる手つき、それがとてもかわいらしいので、愛しいとお思いになって、笛を吹き鳴らしながらお教えになる。とても賢くて、難しい調子などを、たった一度で習得なさる。何事につけても才長けたご性格を、「期待していた通りである」とお思いになる。「保曽呂俱世利」という曲目は、名前は嫌だが、素晴らしくお吹きになると、合奏させて、まだ未熟だが、拍子を間違えず上手のようである。

 大殿油を燈して、絵などを御覧になっていると、「お出かけになる予定」とあったので、供人たちが咳払いし合図申し上げて、

 〔供人〕「雨が降って来そうでございます」

 などと言うので、姫君、いつものように心細くふさいでいらっしゃった。絵を見ることも止めて、うつ伏していらっしゃるので、とても可憐で、お髪がとても見事にこぼれかかっているのを、かき撫でて、

 〔源氏〕「出かけている間は寂しいですか」

 とおっしゃると、こっくりなさる。

 〔源氏〕「わたしも、一日でもお目にかからないでいるのは、とてもつらいことですが、お小さくいらっしゃるうちは、安心とお思い申し上げて、まずは、ひねくれて嫉妬する人の機嫌を損ねまいと思って、うっとうしいので、暫く間はこのように出かけるのですよ。大人におなりになったら、他の所へは決して行きませんよ。人の嫉妬を受けまいなどと思うのも、長生きをして、思いのままに一緒にお暮らし申したいと思うからですよ」

 などと、こまごまとご機嫌をお取り申されると、そうは言うものの恥じらって、何ともお返事申し上げなさらない。そのままお膝に寄りかかって、眠っておしまいになったので、とてもいじらしく思って、

 〔源氏〕「今夜は出かけないことになった」

 とおっしゃると、皆立ち上がって、御膳などをこちらに運ばせる。姫君を起こして上げなさって、

 〔源氏〕「出かけないことになった」

 とお話し申し上げなさると、機嫌を直してお起きになった。ご一緒にお食事を召し上がる。ほんのちょっとお箸を付けなさって、

 〔紫君〕「では、お寝みなさいませ」

 と不安げに思っていらっしゃるので、このような人を放っては、どんな道であっても出かけることはできない、と思われなさる。

 このように、引き止められなさる時々も多くあるのを、自然と漏れ聞く人が、大殿にも申し上げたので、

 〔女房〕「誰なのでしょう。とても失礼なことではありませんか」

 〔女房〕「今まで誰それとも知れず、そのようにくっついたまま遊んだりするような人は、上品な教養のある人ではありますまい」

 〔女房〕「宮中辺りで、ちょっと見初めたような女を、ご大層にお扱いになって、人目に立つかと隠していられるのでしょう。分別のない幼稚な人だと聞きますから」

 などと、お仕えする女房たちも噂し合っていた。

 お上におかれても、「このような女の人がいる」と、お耳に入れあそばして、

 〔帝〕「気の毒に、大臣がお嘆きだというが、……」

 と、仰せられるが、恐縮した様子で、お返事も申し上げられないので、「お気に入らないようだ」と、かわいそうにお思いあそばす。

 〔帝〕「その一方では、好色がましく振る舞って、ここに見える女房であれ、またここかしこの女たちなどと、浅からぬ仲に見えたり噂も聞かないようだが、どのような人目につかない所にあちこち隠れ歩いて、このように人に怨まれることをしているのだろう」と仰せられる。

第四章 源典侍の物語 老女との好色事件

 [第一段 源典侍の風評]

 帝のお年は、かなりお召しあそばされたが、このような方面は、無関心ではいらっしゃれず、采女や、女蔵人などでも、容貌や気立ての良い者を、格別にもてなし、お目をかけあそばされていたので、教養のある宮仕え人の多いこの頃である。

 ちょっとしたことでも、お話しかけになれば、知らない顔をする者はめったにいないので、見慣れてしまったのであろうか、「なるほど、不思議にも好色な振る舞いのないようだ」と、試しに冗談を申し上げたりなどする折もあるが、恥をかかせない程度に軽くあしらって、本気になってお取り乱しにならないのを、「真面目ぶってつまらない」と、お思い申し上げる女房もいる。

 年をたいそう取っている典侍で、人柄も重々しく、才気があり、高貴で、人から尊敬されてはいるものの、たいそう好色な性格で、その方面では腰の軽いのを、「こう、年を取ってまで、どうしてそんなにふしだらなのか」と、興味深くお思いになったので、冗談を言いかけてお試しになると、不釣り合いなとも思わないのであった。あきれた、とはお思いになりながら、やはりこのような女も興味があるので、お話しかけなどなさったが、人が漏れ聞いても、年とった年齢なので、そっけなく振る舞っていらっしゃるのを、女は、とてもつらいと思っていた。

 [第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす]

 お上の御髪梳りに伺候したが、終わったので、お上は御袿係の者をお召しになってお出になりあそばした後に、他に人もなくて、この典侍がいつもよりこざっぱりとして、姿形、髪の具合が艶っぽくて、衣装や、着こなしも、とても派手に洒落て見えるのを、「何とも若づくりな」と、苦々しく御覧になる一方で、「どんな気でいるのか」と、やはり見過ごしがたくて、裳の裾を引っ張って注意をお引きになると、夏扇に派手な絵の描いてあるのを、顔を隠して振り返ったまなざし、ひどく流し目を使っているが、目の皮がげっそり黒く落ち込んで、ひどく髪がぼさぼさになっている。

 〔源氏〕「年に似合わない派手な扇だな」と御覧になって、ご自分のお持ちのと取り替えて御覧になると、赤い紙で顔に照り返すような色合いで、木高い森の絵を金泥で塗りつぶしてある。その端の方に、筆跡はとても古めかしいが、風情がなくもなく、「森の下草が老いてしまったので」などと書き流してあるのを、「他に書くこともあろうに、嫌らしい趣向だ」と微笑まれて、

 〔源氏〕「『森こそ夏の』、といったようですね」

 と言って、いろいろとおっしゃるのも、不釣り合いで、人が見つけるかと気になるが、女はそうは思っていない。

 〔源典侍〕「あなたがいらしたならば良く手馴れた馬に秣を刈ってやりましょう、盛りを過ぎた下草であっても」

 と詠み出す様子、この上なく色気たっぷりである。

 〔源氏〕「笹を分けて入って逢いに行ったら人が注意しましょう、いつでもたくさんんの馬を手懐けている森の木陰では

 厄介なことだからね」

 と言って、お立ちになるのを、袖を取って、

 〔源典侍〕「まだこんなつらい思いをしたことはございません。今になって、身の恥に」

 と言って泣き出す様子、とても大げさである。

 〔源氏〕「そのうち、お便りを差し上げましょう。心にかけていますよ」

 と言って、振り切ってお出になるのを、懸命に取りすがって、「橋柱です」と恨み言を言うのを、お上はお召し替えが済んで、御障子の隙間から御覧あそばしたのであった。「似つかわしくない仲だな」と、とてもおかしく思し召されて、

 〔帝〕「好色心がないなどと、いつも困っているようだが、そうは言うものの、見過ごさなかったのだな」

 と言って、お笑いあそばすので、典侍はばつが悪い気がするが、恋しい人のためなら、濡衣をさえ着たがる類もいるそうだからか、大して弁解も申し上げない。

 女房たちも、「意外なことだわ」と、取り沙汰するらしいのを、頭中将が、聞きつけて、「知らないことのないこのわたしが、まだ気がつかなかったことよ」と思うと、いくつになっても止まない好色心を見たく思って、言い寄ったのであった。

 この君も、人よりは素晴らしいので、「あのつれない方の気晴らしに」と思ったが、本当に逢いたい人は、お一人であったとか。大変な選り好みだことよ。

 [第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される]

 たいそう秘密にしているので、源氏の君はご存知ない。お見かけ申しては、まず恨み言を申すので、お年の程もかわいそうなので、慰めてやろうとお思いになるが、その気になれない億劫さで、たいそう日数が経ってしまったが、夕立があって、その後の涼しい夕闇に紛れて、温明殿の辺りを歩き回っていられると、この典侍、琵琶をとても美しく弾いていた。御前などでも、殿方の管弦のお遊びに加わりなどして、殊にこの人に勝る人もない名人なので、恨み言を言いたい気分でいたところから、とてもしみじみと聞こえて来る。

 〔源典侍〕「瓜作り人にでもなってしまいましょうかしら」

 と、声はとても美しく歌うのが、ちょっと気に食わない。「鄂州にいたという昔の人も、このように興趣を引いたのだろうか」と、耳を止めてお聞きになる。弾き止んで、とても深く思い悩んでいる様子である。君が、「東屋」を小声で歌ってお近づきになると、

 〔源典侍〕「押し開いていらっしゃいませ」

 と、後を続けて歌うのも、普通の女とは違った気がする。

 〔源典侍〕「誰も訪れて来て濡れる人もいない東屋に、嫌な雨垂れが落ちて来ます」

 と嘆くのを、自分一人が怨み言を負う筋ではないが、「嫌になるな。何をどうしてこんなに嘆くのだろう」と、思われなさる。

 〔源典侍〕「人妻はもう面倒です、あまり親しくなるまいと思います」

 と言って、通り過ぎたいが、「あまりに無愛想では」と思い直して、相手によるので、少し軽薄な冗談などを言い交わして、これも珍しい経験だとお思いになる。

 頭中将は、この源氏の君がたいそう真面目ぶっていて、いつも非難なさるのが癪なので、何食わぬ顔でこっそりお通いの所があちこちに多くあるらしいのを、「何とか発見してやろう」とばかり思い続けていたところ、この現場を見つけた気分、まこと嬉しい。「このような機会に、少し脅かし申して、お心をびっくりさせて、これに懲りたか、と言ってやろう」と思って、油断をおさせ申す。

 風が冷たく吹いて来て、次第に夜も更けゆくころに、少し寝込んだろうかと思われる様子なので、静かに入って来ると、君は、安心してお眠りになれない気分なので、ふと聞きつけて、この頭中将とは思いも寄らず、「いまだ未練のあるという修理大夫であろう」とお思いになると、年配の人に、このような似つかわしくない振る舞いをして、見つけられるのは何とも照れくさいので、

 〔源氏〕「ああ、厄介な。帰りますよ。『あの人が後から来る』ということは、分かっていましたから。ひどいな、おだましになるとは」

 と言って、直衣だけを取って、屏風の後ろにお入りになった。頭中将は、おかしさを堪えて、お引き廻らしになってある屏風のもとに近寄って、ばたばたと畳み寄せて、大げさに振る舞ってあわてさせると、典侍は、年取っているが、ひどく上品ぶった艶っぽい女で、以前にもこのようなことがあって、肝を冷やしたことが度々あったので、馴れていて、ひどく気は動転していながらも、「この君をどうなされてしまうのか」と心配で、震えながらしっかりと取りすがっている。「誰とも分からないように逃げ出そう」とお思いになるが、だらしない恰好で、冠などをひん曲げて逃げて行くような後ろ姿を思うと、「まことに醜態であろう」と、おためらいなさる。

 頭中将は、「何とかして自分だとは知られ申すまい」と思って、何とも言わない。ただひどく怒った形相を作って、太刀を引き抜くと、女は、

 〔源典侍〕「あなた様、あなた様」

 と、向かって手を擦り合わせて拝むので、あやうく笑い出してしまいそうになる。好ましく若づくりして振る舞っている表面だけは、まあ見られたものであるが、五十七、八歳の女が、着物をきちんと付けず何か言ってあわてている様子、実に素晴らしい二十代の若者たちの間にはさまれて怖がっているのは、何ともみっともない。このように別人のように装って、恐ろしい様子を見せるが、かえってはっきりとお見破りになって、「わたしだと知ってわざとやっているのだな」と、馬鹿らしくなった。「あの男のようだ」とお分かりになると、とてもおかしかったので、太刀を抜いている腕をつかまえて、とてもきつくおつねりになったので、悔しいと思いながらも、堪え切れずに笑ってしまった。

 〔源氏〕「ほんと、正気の沙汰かね。冗談事も出来ないね。さあ、この直衣を着よう」

 とおっしゃるが、しっかりとつかんで、全然お放し申さない。

 〔源氏〕「それでは、一緒に」

 と言って、中将の帯を解いてお脱がせになると、脱ぐまいと抵抗するのを、何かと引っ張り合ううちに、開いている所からびりびりと破れてしまった。中将は、

 〔頭中将〕「隠している浮名も洩れ出てしまいましょう、引っ張り合って破れてしまった二人の仲の衣から

 上に着たら、明白でしょうよ」

 と言う。君は、

 〔源氏〕「この女との仲まで知られてしまうのを承知の上でやって来て夏衣を着るとは、何と薄情で浅薄なお気持ちかと思いますよ」

 と詠み返して、恨みっこなしのだらしない恰好に引き破られて、揃ってお出になった。

 [第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう]

 源氏の君は、「実に残念にも見つけられてしまったことよ」と思って、臥せっていらっしゃった。典侍は、情けないことと思ったが、落としていった御指貫や、帯などを、翌朝お届け申した。

 〔源典侍〕「恨んでも何の甲斐もありません、次々とやって来ては帰っていったお二人の波の後は

 『涙川の底もあらわになりました』でございます」

 とある。「臆面もないありさまだ」と御覧になるのも憎らしいが、困りきっていた様子もやはりかわいそうなので、

 〔源氏〕「荒々しく暴れた波――頭中将には驚かないが、それを寄せつけた磯――あなたをどうして恨まずにはいられようか」

 とだけあった。帯は、中将のものであった。ご自分の直衣よりは色が濃い、と御覧になると、端袖がないのであった。

 〔源氏〕「見苦しいことだ。夢中になって浮気に耽る人は、このとおり馬鹿馬鹿しい目を見ることも多いのだろう」と、ますます自重せずにはいらっしゃれない。

 中将が、宿直所から、「これを、まずはお縫い付けあそばせ」といって、包んで寄こしたのを、「どうやって、持って行ったのか」と憎らしく思う。「この帯を獲らなかったら、大変だった」とお思いになる。同じ色の紙に包んで、

 〔源氏〕「あなた方の仲が切れたらわたしのせいだと非難されようかと思ったが、この縹の帯などわたしには関係ありません」

 といって、お遣りになる。折り返し、

 〔頭中将〕「あなたにこのように取られてしまった帯ですから、こんな具合に仲も切れてしまったものとしましょうよ

 お逃れあそばすことはできませんよ」

 とある。

 日が高くなってから、それぞれ殿上の間に参内なさった。とても落ち着き払って、素知らぬ顔をしていらっしゃると、頭の君もとてもおかしかったが、公事を多く奏上し宣下する日なので、実に端麗に真面目くさっているのを見るのも、お互いについほほ笑んでしまう。人のいない隙に近寄って、

 〔頭中将〕「秘密事は懲りたでしょう」

 と言って、とても憎らしそうな横目づかいである。

 〔源氏〕「どうして、そんなことがありましょう。そのまま帰ってしまったあなたこそ、お気の毒だ。本当の話、『嫌なものだよ、男女の仲とは』ですよ」

 と言い交わして、「鳥籠の山にある川の名は漏らすな」と、互いに口固めしあう。

 さて、それから後、ともすれば何かの折毎に、話に持ち出す種とするので、ますますあの厄介な女のためにと、お思い知りになったであろう。女は、相変わらずまこと色気たっぷりに恨み言をいって寄こすが、興醒めだと逃げ回りなさる。

 中将は、妹の君にも申し上げず、ただ、「何かの時の脅迫の材料にしよう」と思っていた。高貴な身分の妃からお生まれになった親王たちでさえ、お上の御待遇がこの上ないのを憚って、とても御遠慮申し上げていらっしゃるのに、この中将は、「絶対に圧倒され申すまい」と、ちょっとした事柄につけても対抗心を燃やし上げなさる。

 この君一人が、姫君と同腹なのであった。帝のお子というだけだ、自分だって、同じ大臣と申すが、ご信望の格別な方が、内親王腹にもうけた子息として大事に育てられているのは、どれほども劣る身分とは、お思いにならないのであろう。人となりも、すべて整っており、どの面でも理想的で、満ち足りていらっしゃるのであった。このお二方の競争は、変わっているところがあった。けれども、煩わしいので省略する。

第五章 藤壺の物語(三) 秋、藤壺は中宮、源氏は宰相となる

 [第一段 七月に藤壺女御、中宮に立つ]

 七月に、后がお立ちになるようであった。源氏の君は、宰相におなりになった。帝は、御譲位あそばすご配慮が近くなってきて、この若宮を春宮に、とお考えあそばされるが、御後見なさるべき方がいらっしゃらない。御母方が、みな親王方で、皇族が政治を執るべき筋合ではないので、せめて母宮だけでも不動の地位におつけ申して、そのお力にとお考えあそばすのであった。

 弘徽殿女御が、ますますお心穏やかでないのは、道理である。けれども、

 〔帝〕「春宮の御世が、もう直ぐになったのだから、ゆるぎない皇太后の御地位である。ご安心されよ」

 とお慰め申し上げあそばすのであった。「なるほど、春宮の御母として二十余年におなりの女御を差し置き申して、先をお越し申されることは難しいことだ」と、例によって、穏やかならず世間の人も噂するのであった。

 参内なさる夜のお供に、源氏の宰相君もお仕え申し上げなさる。同じ宮と申し上げる中でも、后腹の内親王で、玉のように美しく光り輝いて、類ない御寵愛をさえ蒙っていらっしゃるので、世間の人々もとても特別に御奉仕申し上げた。言うまでもなく、切ないお心の中では、御輿の中も思いやられて、ますます手も届かない気持ちがなさると、じっとしてはいられないまでに思われた。

 〔源氏〕「尽きない恋の思いに何も見えない、はるかに高い地位につかれる方を仰ぎ見るにつけても」

 とだけ、独り言が口をついて出て、何につけ切なく思われる。

 皇子は、ご成長なさっていく月日につれて、とてもお見分け申しがたいほど似ていらっしゃるのを、宮は、まことに辛い、とお思いになるが、気付く人はいないらしい。なるほど、どのように作り変えたならば、負けないくらいの方がこの世にお生まれになろうか。月と日が似通って光り輝いているように、世人も思っていた。

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大島本

自筆本奥入