明治45年に逓信省入省、大正9年に同省を辞し独立して以後は、服部時計店(現・和光)(S7年),日本劇場 (S8年),東京帝室博物館(現・東京国立博物館)(S12年),第一生命相互館(S13年),原邸(現・原美術館) (S13年)など、様々なデザインを巧みに操る手腕の持ち主として知られていた。旧・燃料研究所(T10)は独立 して間もない頃の設計であった。また民間事務所として早稲田小学校(S3)の設計も請け負っている。 しかし、逓信省時代の建築は高輪電話局と日本橋電話局が彼の担当であったと伝えられるのみで設計活動の 詳細は明らかではない。大正後期以後のデザインの源泉を知る上での参考として主に1910年代の作である渡 辺仁の作品をここでは取り上げた。 (2006年 記) |
勾配屋根,などを持ち細かい装飾に彩られた建築だったことがわかる。 (2006年 記) |
パラペットの連続した緩やかなカーブが特徴。ハンガリーの建築家エデン・レヒネルの郵便貯金局 (1901年)の軒に見られるカーブの参照であろうか?。 この緩いカーブは、渡辺が逓信省を去って以後も岩元禄の青山電話局などにもみられる。 (2006年 記) |
この建物の設計者は特定されていないが、渡辺の設計とされる日本橋電話局と同様の連続したカーブを持 ち立面の構成もはほぼこれと同じであることから渡辺仁の設計ではないかと独自に推定した。 渡辺は退省した大正9年に聖徳記念絵画館の設計競技に2案応募しいずれも入選を果たしているが、応募 案の外壁面の意匠を見ると窓や柱型などの扱い方がこの建物や日本橋電話局と類似している。 付け加えると、この建物に隣接して昭和2年には中山広吉担当による同名称建物が建った。また大正14 年には山田守の東京中央電信局も同じ区域に建っていた。 (2006年 記) |