分離派建築博物館・・・展示室・・・

瀧澤 眞弓 (1896〜1983)


 瀧澤眞弓は長野県の出身、帝大卒業後は葛西万司事務所を経てすぐに平和記念東京博
の技術員となる。また堀越三郎建築事務所に在籍して数件の建築を担当してそれ以降は
教職者の道を歩んだ。
 建築の実施作は昭和初期までの限られた期間に建てられており、私が調べた範囲では
現存建物は皆無であったが、しかし初期のこれまで全くといってよい程知られていなか
った建築作品が存在していたことが分かり(日本農民美術研究所)その図面や書簡を目
にすることが出来たことは予想外の収穫であった。
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 瀧澤は分離派の活動を通して、建築非芸術論に対抗して建築の芸術性究明を目的とし
た考察に熱心であった。例えば音楽と建築の類縁性,ゴシック建築,日本建築,そして
ギリシャ古典(パルテノン神殿)などに幅広く言及し、また震災復興時期に行ったバラ
ック装飾社の今和次郎との論争では建築誌上に登場し案外論客的な側面を持ち合わせて
いたようだ。(註1,2) 
 分離派は総じて歴史様式模倣の惰性的な姿勢に強く異議を唱えたが、しかし過去の歴
史様式そのものを否定していたわけではない。例えばギリシャ古典様式を扱った点では
瀧澤のみならず森田慶一とも題材が重なりむしろ森田はこの研究で著名である。
また堀口捨己は日本の伝統建築たる数寄屋を中心とした研究で金字塔を打ち立てた。  
 今日、瀧澤は戦後に連なる研究と分離派時代初期の幻想性さえ感じさせる優れた計画
案を残した割りに他の分離派同志に比べて目立たぬ存在だったのはどういうわけだろう
か。彼の全容もあまり明らかにされてはいない。どうも建築作品が少なく分離派以後は
研究者として地道な活動に身を投じたからだけでは説明の付かぬ、運動の盛衰を経験し
簡単に次の活躍に移行することにはためらいを感じた者の翳を漠然と感ずる。以下にこ
の点について私なりに素描してみた。
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 分離派は、当初疲弊した建築観から一旦脱して自ら模索して新しい建築のあり方を見
出そうと結集した。分離派は若輩同士の反乱にも似た行動としての受難はあったが、と
もあれ西欧の新情報がさほど伝わらない中で、こうした主体的な行動姿勢は画期的なこ
ととして歓迎された。
 しかし第一次大戦の終結以後しばらくすると、新しい情報が入り込み日本にバウハウ
スやコルビジュエなど西欧の新しい建築の動向が伝えられた。石本や堀口らは洋行して
貪欲にそうした動きを吸収しており、瀧澤も果たせなかったものの洋行を考えていた。
しかし自らが新しい建築を希求する分離派にとってみれば、モダニズム建築の動向さえ
も過去の建築同様ある程度自らの芸術創作上の観点から捉え直すべき対象だったではな
かろうか。特に結成時の分離派メンバーにその傾向が顕著に窺われる。例えば石本はド
イツ建築の動向を整理し、森田慶一はコルビュジエの建築を冷めた目で分析している。
少なくとも流行の衣の如き受け入れ方などは論外であり、この点で矢田茂が自らによっ
て建築の本質を掴むことが肝要であるとして若手に警鐘を発している(註3)。
 その一方で、分離派よりも数年若い世代(主に戦後の日本のモダニズム建築の担い手
となった世代)が育ち始める。彼らはモダニズムを迷い無く受容するところから出発で
きた世代である。これを軸として他の建築を客観視することも彼らには可能であった。
 こうしてみると時代が昭和に移り変わると、分離派と新しい波を咀嚼する若い世代と
の間にどうしても払拭しがたい溝(モダニズムの受け入れ方の違い)が横たわる、そん
な図式が見え始める。(註4)
 当時はモダニズムを捉えるならば建築を社会の新たな変革(あるいはイデオロギー)
に即して「構成」することが課題とされたが、しかし分離派の大方は当初掲げた建築の
芸術性追究の範囲内に留まりあくまでも純粋に芸術的フォルム獲得のために時間を費や
した。(例えば瀧澤の「形の習作」、他にも山田守は曲面美に拘り続け、森田慶一はコ
ルビュジエの作風を検証するが如き姿勢で病院を設計して以後はギリシャ古典の研究に
没頭した。)しかも瀧澤の場合は、衒学的とも思える位に各分野の言を引いては模索す
る姿ばかりが目につく。まさに暗中模索的な「迷い」(註5)の胸中だったのであろう。
 ところで各人の自由意思が尊重される分離派において、石本喜久治は比較的機を見て
敏なる行動的な性質もあり日本のモダニズム建築運動の連携的拡大を目論んでいた。そ
んなある日、その石本と瀧澤とが衝突し石本は脱会、瀧澤は分離派の抱える問題を苦悩
として負う破目になった。(註6)昭和3年の第7回展後に若い世代の俊英谷口吉郎が発
した「現実よりの「分離」」とした「分離派批判」(註7)についてはもはや甘受せざ
るを得ない状態であり、これは致命的な追い討ちとなった。結果的に分離派は建築の新
しい波から取り残される道を歩んだあげく消散したことになる。
 瀧澤を語ろうと試みるほど、なぜか翳り行く分離派の道程と重なる。これは若き日の
情熱を人一倍傾けたからこそ盛衰とも一心同体の思いであったからに他ならないのであ
ろう。そして、運動の終焉に有りがちな自ら沈潜したいという思いにかられ敗北感とも
ども背負い込んでしまったような気がしてならない。そう考えれば作家の道を自ら閉ざ
し時代の流れそのものから距離を置くことの出来る研究者となった気持ちが分からぬで
もない。
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 瀧澤真弓の戦後の業績のひとつに明治時代の建築物の調査があり、また日本建築協会
の近代建築調査委員会の委員長として日本の近代建築の評価を行ったとされる。実は分
離派の瀧澤が既に日本の近代建築史研究のパイオニアのひとりだったとも言えよう。
 自らがレールを敷いた分野において、そろそろ瀧澤自身の登場する出番が巡って来る
予感がしてならない。

註記と主な参考文献
・(註1)「不平録(第1回展)」,「音楽と建築(第2回展)」,「日本建築を想う(第6回展)」など
     分離派展掲載小論滝沢眞弓)
・(註2)「建築美のために―今和次郎氏に問ふ―」(滝沢眞弓)
     (「建築世界」VOL.18 大正13年2月号)
・(註3)「断片感想録」(矢田茂)(「建築新潮」昭和3年11月号)
・(註4)「分離派建築会編集者の手記」(堀口捨己)(「建築新潮」昭和3年11月号)に、分離派
     を過去のものとする見方への反論がある。
・(註5)「滝沢真弓とその建築理念に関する研究」(H13年建築学会近畿支部研究報告,松原紀之,
     足立裕司,中江研)に、「迷い」という言葉が用いられた。
・(註6)「建築記録/東京中央電信局」 座談会(東海大学出版)に様子が記録されている。
・(註7)「分離派批判」(谷口吉郎)(「建築新潮」昭和3年12月号)

                              (2007年4月記)


音楽堂模型(「建築画報」1924(大正13)年12月より)

計画案から
-1-山岳倶楽部
村役場試案
山の家
公館

初期実施作
-1-平和記念東京博覧会―陳列館,野外音楽堂現存しない
日本農民美術研究所現存しない
土橋邸現存しない

堀越建築事務所における担当作
-1- 宝来屋現存しない
高久洋服店現存しない