分離派建築博物館・・・展示室・・・

瀧澤 眞弓 (1896〜1983)


 瀧澤眞弓は長野県の出身、帝大を業後葛西万司事務所に入所、しかしほどなくして平
和記念東京博の技術員としてパビリオンの設計を行った。その後堀越三郎建築事務所に
在籍して数件の建築を担当したが、神戸に赴きその後は教職と研究の道を歩んだ。
 計画案を含瀧澤のめ建築作品は少なく現存建築も皆無である。しかし大正11年に山本
鼎が興した農民美術運動の本拠「日本農民美術研究所」の設計を行っていたことが判明、
建物は戦後に解体されたものの図面や書簡などが保存されていることを発見した。この
建物は分離派展に出品されることはなかったが、未発表とされた理由も含めて大正期の
瀧澤の建築への思考を知る上での鍵となる建築であろうと睨んでいる。

 分離派時代の瀧澤は一貫して建築の芸術性を希求しそのことに関連した論考を発表、
バラック装飾社の今和次郎と論争を行うなど論客でもあった。しかし大正期末には、関
西で「日本インターナショナル建築会」との合同を目指す石本喜久治から右傾化との指
摘を受け論争が昂じて石本は分離派を脱会した。この諍いは分離派の衰退の契機となっ
た感がある。
 結局のところ、西欧からモダニズム建築の理念が流入する中において、分離派の行動
原理でもあった芸術至上主義との間で顕在化するズレへの批判を一身に受けたのは瀧澤
であったように思われる。すなわち見方を変えれば、瀧澤を知ることが分離派の本質に
迫ることにつながるとも考えられる。
                               (2017年5月記)



音楽堂模型(「建築画報」1924(大正13)年12月より)

計画案から
-1-山岳倶楽部
村役場試案
山の家
公館

初期実施作
-1-平和記念東京博覧会―陳列館,野外音楽堂現存しない
日本農民美術研究所現存しない
土橋邸現存しない

堀越建築事務所における担当作
-1- 宝来屋現存しない
高久洋服店現存しない