瀧澤眞弓は長野県の出身、帝大を業後葛西万司事務所に入所、しかしほどなくして平和記
念東京博の技術員としてパビリオンの設計に携わった。その後堀越三郎建築事務所に在籍し
て数件の建築を担当したが、神戸に赴きそれ以降は教職と研究の道を歩んだ。
計画案を含めて瀧澤の建築作品は少なく現存建築は皆無である。しかし山本鼎が興した農
民美術運動の本拠「日本農民美術研究所」の設計を大正11年に行ったことが判明、この建物
は戦後に解体されたものの図面や書簡などは保存されていた。これは分離派展に出品される
こともなく長い期間知られなかった建物だが、未発表とされた理由も含めて大正期の瀧澤の
建築への思考を知る上での鍵となる建築であろう。
分離派時代の瀧澤は、様々な角度から建築の芸術性を証することにほぼ全力を傾けたと言
える。バラック装飾社の今和次郎と論争も、そのこととの関連が推察される。しかし建築芸
術への強いこだわりは大正期末頃のモダニズム建築受容する動きからすれば保守的な態度と
見做されたようであり、分離派内部においても「日本インターナショナル建築会」との合同
を目指す石本喜久治との対立に発展し、結局石本は分離派を脱会した。瀧澤は社会の変化に
対応しない「芸術至上主義」と見做され(実際のところ、昭和期の分離派の計画案にはモダ
ニズムの思考に沿うものはいくつもみられるが)、その批判を一身に受ける役回りとなった
の感がある。つまり見方を変えれば、瀧澤を知ることは分離派消長の本質を知ることにもつ
ながるのではなかろうか。
(2019年9月記)
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