分離派建築博物館--瀧澤眞弓--

計画案


山岳倶楽部 設計:瀧澤眞弓 .........................................................................年代:1920(大正9)年

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山岳倶楽部(分離派建築会 宣言と作品 1920)より


瀧澤の卒業制作。在学中に訪れた青島の総督府建物の強い影響下で計画したと言われる。
まるでフランス啓蒙期の幻視の建築家にも迫る幻想性を感じさせる。

村役場試案 設計:瀧澤眞弓 .........................................................................年代:1920(大正9)年


村役場試案(分離派建築会 宣言と作品 1920)より


帝大を卒業した大正9年に、こうした四角いフラットルーフの建物が出展された。
アドルフ・ロースの影響だろうか?。最新の西欧の建築事情を学んでいた様子が窺えるが、
ザッハリッヒな指向よりはロマンチックな雰囲気を感じる。

山の家 設計:瀧澤眞弓 .........................................................................年代:1921(大正10)年



山の家 (分離派建築会作品 第二 1921)より


瀧澤が「音楽と建築」(第2回展)に語ったところからすれば、この計画案も時間の
次元を持つ音楽のリズムや流動性などを造形のヒントにしていたのではないかと思わ
ずにいられない。
こうした内面性を表出するような曲面に彩られた分離派の作品を指して周囲から(山
田守の建築では特に顕著)「ドイツ表現主義の流れを汲む」と言われてきた。確かに
メンデルゾーンの建築などの影響は疑いないようだ。しかし分離派は日本の建築界の
文脈から発生しその課題に呼応する目的で生じたのであって、ドイツ表現主義建築家
の方法を表現のレベルで参照しながら分離派としてのひとつの対応の仕方としていた
と見るべきであろう。

またこの「山の家」の模型に代表されるように、分離派には実施を前提としないドゥ
ローイングや模型自体が独立した作品となるよう意図されたと思しきものがある。建
てる手段としての図面や模型の概念を拡張し、作家の主張を可視化する媒体を作品と
する試みは今日でこそよく行われているが、意識的,戦略的に行ったのは恐らく日本
では分離派が最初だったのではなかろうか。

公館 設計:瀧澤眞弓 .....................................................................................年代:1923(大正12)年(設計競技応募)


公館 (分離派建築会作品 第三 1924)より


震災後に急速に普及した鉄筋コンクリート造は、当時先端を行く構造技術であり、その
可塑的な特性はこのような曲面に満ちた表現をも可能にした。


瀧澤の応募案 (『記念大講堂競技設計図集』(1923))


これは早稲田大学の記念大講堂の設計競技への応募案であり、設計競技が行われたのは
震災の年1923年であった。
結果は選外であったが、しかしこれを不満とする佐藤武夫の評が『建築新潮』(T13.6)
に寄せられている。それによれば、コンクリートの可塑性を活かした空想として会心の
作であり分離派の良い面を代表する、といった賛辞が贈られた。実際に今日ある大隈講
堂も、関与した佐藤の胸中に瀧澤案が秘められつつ設計が進められたことになろうか。
そして1924年の帝都復興創案展覧会にも改めて展示された。
                                 (2011.1追記)