分離派建築博物館--瀧澤眞弓--

計画案


山岳倶楽部 設計:瀧澤眞弓 .........................................................................年代:1920(大正9)年



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山岳倶楽部(分離派建築会 宣言と作品 1920)より

瀧澤の卒業制作。在学中に訪れて感銘を受けた青島の総督府建物の影響のもとで計画した
ことを、後に自ら語った。



村役場試案 設計:瀧澤眞弓 .........................................................................年代:1920(大正9)年




村役場試案(分離派建築会 宣言と作品 1920)より

帝大を卒業した大正9年に、こうした四角いフラットルーフの建物が出展された。最新の
西欧建築の情報を得ていたのであろうか。合理主義的な造形とともにロマンチックな雰囲
気も感じさせる。



山の家 設計:瀧澤眞弓 .........................................................................年代:1921(大正10)年





山の家 (分離派建築会作品 第二 1921)より

瀧澤が論考「音楽と建築」(第2回展)における音楽芸術を建築に翻案する試みは、この
模型によって実体化されたものと考えられる。模型を一周するように視線を移動させると
確かに音楽のように多様な表情の曲線や曲面が流麗かつリズミカルに現れては消える。上
記の論考には以下のように記されている。

 「音楽は直ちに、美しき線の交錯となり、奇しき立体の集団となり、互いに縺れ合ひ、
  ひしめき合ひ、而も尚その其奇麗な組織を失う事なく無限の空間に躍る様に感ぜら
  れます。」

しかし論考の後半では、音楽の数学的な芸術性をつまり幾何学立体による形式性が強調さ
れている。こうした発想が唐突に持ち出された背景として、瀧澤が兄事する思想家土田杏
村の言葉を見出したこと、すなわち「すべての芸術は音楽の方向へ憧憬れている。」(192
1,「第二ルネッサンスと芸術」)における純粋理想図形すなわち数学的形式性への憧憬に
触れた記事に触れていたこととの関連が推察される。

この「山の家」の模型に代表されるように、分離派は実施を前提としないドローイングや
模型を提出し、作家の主張や心情を可視化する媒体として彫刻的オブジェのような独立し
た作品として展示することを試みた。こうした試みは分離派が初めて行ったことのひとつ
ではなかろうかか。




公館 設計:瀧澤眞弓 .....................................................................................年代:1923(大正12)年(設計競技応募)




公館 (分離派建築会作品 第三 1924)より

震災後に急速に普及した鉄筋コンクリート造は、当時先端を行く構造技術であり、その
可塑的な特性はこのような曲面に満ちた表現をも可能にした。



瀧澤の応募案 (『記念大講堂競技設計図集』(1923))

これは早稲田大学の記念大講堂の設計競技への応募案であり、設計競技が行われたのは
震災の年1923年であった。
結果は選外であったが、しかしこれを不満とする佐藤武夫の評が『建築新潮』(T13.6)
に寄せられている。それによれば、コンクリートの可塑性を活かした空想として会心の
作であり分離派の良い面を代表する、といった賛辞が贈られた。実際に今日ある大隈講
堂も、関与した佐藤の胸中に瀧澤案が秘められつつ設計が進められたことになろうか。
そして1924年の帝都復興創案展覧会にも改めて展示された。
                                 (2011.1追記)