現在の長野県現上田市に農民美術研究所を設立した山本鼎(*1)は、その本拠建物の設計を長野出身の
瀧澤に依頼した。『評伝 山本鼎』によれば、山本は平和記念東京博への農民美術の出品の機会に瀧
澤の存在を知り白羽の矢を立てたとされ、瀧澤と会った際に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」
という話に山本は耳を傾けたという。
瀧澤が設計した図面には1922年7月22日との日付と署名が記されており、建物は翌年に竣工した。戦
後に建物は失われたが、図面は現在でも一式保存されている。
急勾配の茅葺き農家風の建物は、竣工時点では北欧風の印象を与えたと記されている。日本風の印象
は薄く民芸運動の柳宗悦は後にその点を批判した。瀧澤が工事中に現場への指示として送った書簡に
も正面の独立柱など木部露出部の一部を「赤黒塗料」で着色するように指示しており、そのことから
も外国の民家風のイメージを持っていたものと想像できる。それは恐らく山本からの要請すなわち海
外で先行する農民美術を範としつつ日本の農民美術を表象しようとしたためではないかと推察される。
また一般的な民家と比較して建物全体(特に茅葺き部分)は直線的であり、開口部は四角形や三角形
などの幾何学形状が際立つように縁取られている。幾何学的な近代性は瀧澤の独自性を示す部分であ
ろう。
結局この作品は瀧澤にとって実質的な処女作であったにも拘らず分離派展などで公に発表されること
もなく最近まで忘れ去られていたが、しかし実はそこに本質的な意味が隠されているのではなかろう
か。
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