分離派建築博物館--瀧澤眞弓 --

初期実施作


平和記念東京博覧会

設計:瀧澤眞弓 .............................................場所:東京都台東区...................................建築年代:1922(大正11)年................................................現存しない



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野外音楽堂(左)(「分離派建築会の作品 第二」から),化学工業館(右)(当時の写真絵葉書)


陳列館図面(「分離派建築会の作品 第二」から)


平和記念東京博では技術員として堀口捨己,蔵田周忠らと共にいくつかのパビリオンの設計に携わっ
た。陳列館はバタフライ屋根のシンプルな造形、野外音楽堂は瀧澤が好んだモチーフであり、短期間
ではあるが卒業後初めての建物として実際に建てられた。

日本農民美術研究所

設計:瀧澤眞弓 .............................................場所:長野県上田市..................................建築年代:1923(大正12)年...................................................現存しない




竣工時の外観...(山本鼎記念館所蔵(掲載許諾済2007年5月))


現在の長野県現上田市に農民美術研究所を設立した山本鼎(*1)は、その本拠建物の設計を長野出身の
瀧澤に依頼した。『評伝 山本鼎』によれば、山本は平和記念東京博への農民美術の出品の機会に瀧
澤の存在を知り白羽の矢を立てたとされ、瀧澤と会った際に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」
という話に山本は耳を傾けたという。
瀧澤が設計した図面には1922年7月22日との日付と署名が記されており、建物は翌年に竣工した。戦
後に建物は失われたが、図面は現在でも一式保存されている。

急勾配の茅葺き農家風の建物は、竣工時点では北欧風の印象を与えたと記されている。日本風の印象
は薄く民芸運動の柳宗悦は後にその点を批判した。瀧澤が工事中に現場への指示として送った書簡に
も正面の独立柱など木部露出部の一部を「赤黒塗料」で着色するように指示しており、そのことから
も外国の民家風のイメージを持っていたものと想像できる。それは恐らく山本からの要請すなわち海
外で先行する農民美術を範としつつ日本の農民美術を表象しようとしたためではないかと推察される。
また一般的な民家と比較して建物全体(特に茅葺き部分)は直線的であり、開口部は四角形や三角形
などの幾何学形状が際立つように縁取られている。幾何学的な近代性は瀧澤の独自性を示す部分であ
ろう。

結局この作品は瀧澤にとって実質的な処女作であったにも拘らず分離派展などで公に発表されること
もなく最近まで忘れ去られていたが、しかし実はそこに本質的な意味が隠されているのではなかろう
か。


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立面図(青焼き図面データをネガポジ反転加工)...(山本鼎記念館所蔵(掲載許諾済2007年5月))


*1:山本鼎(1822-1946)、洋画家兼版画家。石井柏亭らと雑誌「方寸」を発刊する。渡欧するがロシアで得た知見をもとに
  児童自由画運動と農民美術運動を行い美術の一般への普及に努めた。


土橋邸

設計:瀧澤眞弓 .............................................場所:東京都新宿区..................................建築年代:1927(昭和2)年...................................................現存しない



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外観及び内観(「建築画報」1927(昭和2)年1月号)


この木造住宅が竣工した昭和2年に第6回分離派展が催され、瀧澤は「日本建築を想う」と題す
る論考を寄せた。埴輪や神社の千木,勝男木,鳥居の洗練された美から書院造りや茶室建築に
至り、渡来の造形を「道」にまで高める日本独自の趣味性など、古来の日本建築の芸術性への
回帰を示した。
土橋邸では強調された直線ラインなどから、日本建築に近代的な表現を融合させて再構成しよ
うとする意思が感じられる。