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渋谷栄一校訂(C)

  

夕霧

光る源氏の准太上天皇時代五十歳秋から冬までの物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---六条の院・院、五十歳
 朱雀院<すざくいん>
呼称---山の帝・院、源氏の兄
 女三の宮<おんなさんのみや>
呼称---入道の宮・三の宮、源氏の正妻
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---大将殿・大将の君・大将・殿・男・男君、源氏の長男
 雲居雁<くもいのかり>
呼称---北の方・三条殿・三条の姫君・三条の君・大殿の君・女君・母君・上、夕霧大将の北の方
 落葉宮<おちばのみや>
呼称---一条の宮・宮・女、朱雀院の女二の宮
 一条御息所<いちじょうのみやすどころ>
呼称---御息所・上・故御息所・故上・亡き人、朱雀院更衣、落葉宮の母

第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問

  1. 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る---まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将
  2. 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問---八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきも
  3. 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる---宮は、奥の方にいと忍びておはしませど
  4. 夕霧、山荘に一晩逗留を決意---日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに
  5. 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む---さて、「道いとたどたどしければ、このわたりに
  6. 夕霧、落葉宮をかき口説く---聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまで
  7. 迫りながらも明け方近くなる---風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も
  8. 夕霧、和歌を詠み交わして帰る---月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れず
第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口
  1. 夕霧の後朝の文---かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に
  2. 律師、御息所に告げ口---もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど
  3. 御息所、小少将君に問い質す---律師立ちぬる後に、小少将の君を召して
  4. 落葉宮、母御息所のもとに参る---渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたる
  5. 御息所の嘆き---苦しき御心地にも、なのめならずかしこまり
第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸
  1. 御息所、夕霧に返書---かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも
  2. 雲居雁、手紙を奪う---大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける
  3. 手紙を見ぬまま朝になる---とかく言ひしろひて、この御文はひき隠し
  4. 夕霧、手紙を見る---ひぐらしの声におどろきて、「山の蔭いかに
  5. 御息所の嘆き---かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを
  6. 御息所死去す---いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ
  7. 朱雀院の弔問の手紙---所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も
  8. 夕霧の弔問---ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし
  9. 御息所の葬儀---今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため
第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧
  1. 夕霧、返事を得られず---山下ろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて
  2. 雲居雁の嘆きの歌---女君、なほこの御仲のけしきを、「いかなるにかありけむ
  3. 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問---九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だに
  4. 板ばさみの小少将君---この人も、ましていみじう泣き入りつつ、「その夜の
  5. 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅---道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月
  6. 落葉宮の返歌が届く---日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて
第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る
  1. 源氏や紫の上らの心配---六条院にも聞こし召して、いとおとなしう
  2. 夕霧、源氏に対面---大将の君、参りたまへるついでありて、思ひたまへらむ
  3. 父朱雀院、出家希望を諌める---かくて御法事に、よろづとりもちてせさせたまふ
  4. 夕霧、宮の帰邸を差配---大将も、「とかく言ひなしつるも、今はあいなし
  5. 落葉宮、自邸へ向かう---集りて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる
  6. 夕霧、主人顔して待ち構える---おはしまし着きたれば、殿のうち悲しげもなく
  7. 落葉宮、塗籠に籠る---かく心ごはけれど、今は、堰かれたまふべきならねば
第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
  1. 夕霧、花散里へ弁明---六条院にぞおはして、やすらひたまふ。東の上
  2. 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う---日たけて、殿には渡りたまへり。入りたまふより
  3. 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す---昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参り
  4. 塗籠の落葉宮を口説く---かしこには、なほさし籠もりたまへるを、人々
  5. 夕霧、塗籠に入って行く---「さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむことも
  6. 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ---かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ
第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語
  1. 雲居雁、実家へ帰る---かくせめても見馴れ顔に作りたまふほど、三条殿
  2. 夕霧、雲居雁の実家へ行く---寝殿になむおはするとて、例の渡りたまふ方は
  3. 蔵人少将、落葉宮邸へ使者---大臣、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに
  4. 藤典侍、雲居雁を慰める---いとどしく心よからぬ御けしき、あくがれ惑ひ

【出典】
【校訂】

 

第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問

 [第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る]

 まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将、この一条の宮の御ありさまを、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。

 御息所も、「あはれにありがたき御心ばへにもあるかな」と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えず訪づれたまふに、慰めたまふことども多かり。

 初めより懸想びても聞こえたまはざりしに、

 「ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」

 と思ひつつ、さるべきことにつけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。みづからなど聞こえたまふことはさらになし。

 「いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む」

 と思しわたるに、御息所、もののけにいたう患ひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。早うより御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、山籠もりして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり。

 御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれたまへるを、なかなか昔の近きゆかりの君たちは、ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。

 弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことの外なる御もてなしなりけるには、しひてえ参でとぶらひたまはずなりにたり。

 この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。悩みたまふ人は、え聞こえたまはず。

 「なべての宣旨書きは、ものしと思しぬべく、ことことしき御さまなり」

 と、人びと聞こゆれば、宮ぞ御返り聞こえたまふ。

 いとをかしげにて、ただ一行りなど、おほどかなる書きざま、言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ。

 「なほ、つひにあるやうあるべきやう御仲らひなめり」

 と、北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど、とみにえ出で立ちたまはず。

 [第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問]

 八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、

 「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所の患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」

 と、おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興もまさりてぞ見ゆるや。

 はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。寝殿とおぼしき東の放出に、修法の檀塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおはします。

 御もののけむつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでか離れたてまつらむと、慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを懼ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつりたまはず。

 客人のゐたまふべき所のなければ、宮の御方の御簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人びと、御消息聞こえ伝ふ。

 「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。もしかひなくなり果てはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでやと、思ひたまふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」

 と、聞こえ出だしたまへり。

 「渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ。日ごろも、そこはかとなく紛るることはべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの、苦しうはべる」

 など、聞こえたまふ。

 [第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる]

 宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、ことことしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ御衣の音なひ、さばかりななりと、聞きゐたまへり。

 心も空におぼえて、あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙に、例の少将の君など、さぶらふ人びとに物語などしたまひて、

 「かう参り来馴れ承ることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨めしさなむ。かかる御簾の前にて、人伝ての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。いかに古めかしきさまに、人びとほほ笑みたまふらむと、はしたなくなむ。

 齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしう、おれて年経る人は、たぐひあらじかし」

 とのたまふ。げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつれば、さればよと、

 「なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは、恥づかしう」

 などつきしろひて、

 「かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり」

 と、宮に聞こゆれば、

 「みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに、代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを、見あつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかの心地になりてなむ、え聞こえぬ」

 とあれば、

 「こは、宮の御消息か」とゐ直りて、「心苦しき御悩みを、身に代ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと、推し量りきこえさするによりなむ。ただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心地なむ」

 と聞こえたまふ。「げに」と、人びとも聞こゆ。

 [第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意]

 日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭小暗き心地するに、ひぐらしの鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子、うちなびける色もをかしう見ゆ。

 前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。

 所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれにもの思ひ続けらる。出でたまはむ心地もなし。律師も、加持する音して、陀羅尼いと尊く読むなり。

 いと苦しげにしたまふなりとて、人びともそなたに集ひて、おほかたも、かかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮は眺めたまへり。しめやかにて、「思ふこともうち出でつべき折かな」と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、

 「まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、

 「山里のあはれを添ふる夕霧に
  立ち出でむ空もなき心地して」

 と聞こえたまへば、

 「山賤の籬をこめて立つ霧も
  心そらなる人はとどめず」

 ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。

 「中空なるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ち止るべうもあらず遣らはせたまふ。つきなき人は、かかることこそ」

 などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて怨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、「また、かかる折ありなむや」と、思ひめぐらしたまふ。

 「情けなうあはつけきものには思はれたてまつるとも、いかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたてまつらむ」

 と思ひて、人を召せば、御司の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、

 「この律師にかならず言ふべきことのあるを。護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりに泊りて、初夜の時果てむほどに、かのゐたる方にものせむ。これかれ、さぶらはせよ。随身などの男どもは、栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。かやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」

 とのたまふ。あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。

 [第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む]

 さて、

 「道いとたどたどしけれ、このわたりに宿借りはべる。同じうは、この御簾のもとに許されあらなむ。阿闍梨の下るるほどまで」

 など、つれなくのたまふ。例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、「うたてもあるかな」と、宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひ渡りたまふは、人もさま悪しき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の影につきて、入りたまひぬ。

 まだ夕暮の、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたるほどなり。あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。

 御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、障子は、あなたより鎖すべき方なかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。

 人びともあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。こなたよりこそ鎖す錠などもあれ、いとわりなくて、荒々しくは、え引きかなぐるべくはたものしたまはねば、

 「いとあさましう。思たまへ寄らざりける御心のほどになむ」

 と、泣きぬばかりに聞こゆれど、

 「かばかりにてさぶらはむが、人よりけに疎ましう、めざましう思さるべきにやは。数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ」

 とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。

 [第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く]

 聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思すことのみ、やる方なければ、のたまはむことはたましておぼえたまはず。

 「いと心憂く、若々しき御さまかな。人知れぬ心にあまりぬる好き好きしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに御心許されでは御覧ぜられじ。いかばかり、千々に砕けべる思ひに堪へぬぞや。

 さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ知らせはべらむとばかりなり。言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、いとかたじけなければ」

 とて、あながちに情け深う、用意したまへり。

 障子を押さへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、引きも開けず。

 「かばかりのけぢめをと、しひて思さるらむこそあはれなれ」

 と、うち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらず。人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひたまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、気近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。

 [第七段 迫りながらも明け方近くなる]

 風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめがたう、ものあはれなり。

 「なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ。

 あまりこよなく思し貶したるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」

 と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。

 世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、

 「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」

 と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、

 「我のみや憂き世を知れるためしにて
  濡れそふ袖の名を朽たすべき」

 とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと、思さるるに、

 「げに、悪しう聞こえつかし」

 など、ほほ笑みたまへるけしきにて、

 「おほかたは我濡衣を着せずとも
  朽ちにし袖の名やは隠るる

 ひたぶるに思しなりねかし」

 とて、月明き方に誘ひきこゆるも、あさまし、と思す。心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、

 「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、さらに、さらに」

 と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。

 [第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る]

 月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は、ほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむかたなくなまめきたまへり。

 故君の御こともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。さすがになほ、かの過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ。御心の内にも、

 「かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、誰れ誰れも御許しありけるに、おのづからもてなされて、見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世のそしりをばさらにもいはず、院にもいかに聞こし召し思ほされむ」

 など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心一つに、

 「かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならむ。御息所の知りたまはざらむも、罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼く、と思しのたまはむ」もわびしければ、

 「明かさでだに出でたまへ」

 と、やらひきこえたまふより外の言なし。

 「あさましや。ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ。なほ、さらば思し知れよ。をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、知らぬとと、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」

 とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば、「いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ」など思いて、誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり。

 「荻原や軒端の露にそぼちつつ
  八重立つ霧を分けぞ行くべき

 濡衣なほえ干させたまはじ。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは」

 と聞こえたまふ。げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「心の問はむだに、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ。

 「分け行かむ草葉の露をかことにて
  なほ濡衣をかけむとや思ふ

 めづらかなることかな」

 と、あはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。年ごろ、人に違へる心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の露けさも、いと所狭し。

 

第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口

 [第一段 夕霧の後朝の文]

 かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に、をかしうも心尽くしにもおぼえつつ、殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎めたまひぬべければ、六条院の東の御殿に参うでたまひぬ。まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかに、と思しやる。

 「例ならぬ歩きありけり」

 と、人びとはささめく。しばしうち休みたまひて、御衣脱ぎ替へたまふ。常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。御粥など参りて、御前に参りたまふ。

 かしこに御文たてまつりたまへれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむことも、いと恥づかしう、また、かかることやとかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、

 「人びとありしままに聞こえ漏らさなむ。憂しと思すともいかがはせむ」と思す。

 親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひ交はしたまへる。よその人は漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは、昔の物語にもあめれど、さはた思されず。人びとは、

 「何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに、心苦し」

 など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開けさせたまはねば、心もとなくて、

 「なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく、若々しきやうにぞはべらむ」

 など聞こえて、広げたれば、

 「あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。え見ずとを言へ」

 と、ことのほかにて、寄り臥させたまひぬ。

 さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、

 「魂をつれなき袖留めおきて
  わが心から惑はるるかな

 ほかなるものはか、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、さらに行く方知らずみなむ」

 など、いと多かめれど、人はえまほにも見ず。例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず。人びとは、御けしきもいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、

 「いかなる御ことにかはあらむ。何ごとにつけても、ありがたうあはれなる御心ざまはほど経ぬれど」

 「かかる方に頼みきこえては、見劣りやしたまはむ、と思ふも危ふく」

 など、睦ましうさぶらふ限りは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知りたまはず。

 [第二段 律師、御息所に告げ口]

 もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙もありてなむ、ものおぼえたまふ。日中の御加持果てて、阿闍梨一人とどまりて、なほ陀羅尼読みたまふ。よろしうおはします、喜びて、

 「大日如来虚言したまはずは。などてか、かくなにがしが心を致して仕うまつる御修法、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」

 と、声はかれて怒りたまふ。いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、

 「そよや。この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ」

 と問ひ申したまふ。御息所、

 「さることもはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふを訪らひにとて、立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」

 と聞こえたまふ。

 「いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝、後夜に参う上りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、『大将殿の出でたまふなりけり』と、『昨夜も御車も返して泊りたまひにける』と、口々申しつる。

 げに、いと香うばしき香の満ちて頭痛きまでありつれば、げにさなりけりと、思ひあはせはべりぬる。常にいと香うばしうものしたまふ君なり。このこと、いと切にもあらぬことなり。人はいと有職にものしたまふ。

 なにがしらも、童にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法をなむ、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承るところなれど、いと益なし。本妻強くものしたまふ。さる、時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは、七、八人になりたまひぬ。

 え皇女の君圧したまはじ。また、女人の悪しき身をうけ、長夜の闇に惑ふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報いをも受くるものなる。人の御怒り出で来なば、長きほだしとなりなむ。もはら受けひかず」

 と、頭振りて、ただ言ひに言ひ放てば、

 「いとあやしきことなり。さらにさるけしきにも見えたまはぬ人なり。よろづ心地の惑ひにしかば、うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ち止まりたまへると、ここなる御達言ひしを、さやうにて泊りたまへるにやあらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ人を」

 と、おぼめいたまひながら、心のうちに、

 「さることもやありけむ。ただならぬ御けしきは、折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことははぶき捨て、うるはしだちたまへるに、たはやすく心許されぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやしたまへりけむ」と思す。

 [第三段 御息所、小少将君に問い質す]

 律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、

 「かかることなむ聞きつる。いかなりしことぞ。などかおのれには、さなむ、かくなむとは聞かせたまはざりける。さしもあらじと思ひながら」

 とのたまへば、いとほしけれど、初めよりありしやうを、詳しう聞こゆ。今朝の御文のけしき、宮もほのかにのたまはせつるやうなど聞こえ、

 「年ごろ、忍びわたりたまひける心の内を、聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。ありがたう用意ありてなむ、明かしも果てで出でたまひぬるを、人はいかに聞こえはべるにか」。

 律師とは思ひも寄らで、忍びて人の聞こえけると思ふ。ものものたまはで、いと憂く口惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。見たてまつるも、いといとほしう、「何に、ありのままに聞こえつらむ。苦しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。

 「障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こえなせど、

 「とてもかくても、さばかりに、何の用意もなく、軽らかに人に見えたまひけむこそ、いといみじけれ。うちうちの御心きようおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童べなどは、まさに言ひ残してむや。人には、いかに言ひあらがひ、さもあらぬことと言ふべきにかあらむ。すべて、心幼き限りしも、ここにさぶらひて」

 とも、えのたまひやらず。いと苦しげなる御心地に、ものを思しおどろきたれば、いといとほしげなり気高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず思し嘆かる。

 「かうすこしものおぼゆる隙に、渡らせたまうべう聞こえよ。そなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでなむ。見たてまつらで、久しうなりぬる心地すや」

 と、涙を浮けてのたまふ。参りて、

 「しかなむ聞こえさせたまふ」

 とばかり聞こゆ。

 [第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る]

 渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたる、ひきつくろひ、単衣の御衣ほころびたる、着替へなどしたまひても、とみにもえ動いたまはず。

 「この人びともいかに思ふらむ。まだえ知りたまはで、後にいささかも聞きたまふことあらむに、つれなくてありしよ」

 と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、また臥したまひぬ。

 「心地のいみじう悩ましきかな。やがて直らぬさまにもありなむ、いとめやすかりぬべくこそ。脚の気の上りたる心地す」

 と、押し下させたまふ。ものをいと苦しう、さまざまに思すには、気ぞ上がりける。

 少将、
 「上に、この御ことほのめかし聞こえける人こそはべけれ。いかなりしことぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこしこと添へて、けざやかに聞こえさせつる。もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」
 と申す。

 嘆いたまへるけしきは聞こえ出でず。「さればよ」と、いとわびしくて、ものものたまはぬ御枕より、雫ぞ落つる。

 「このことにのみもあらず、身のはずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせたてまつること」

 と、生けるかひなく思ひ続けたまひて、「この人は、かうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう、聞き苦しかるべう」、よろづに思す。「まいて、いふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさまし」

 など、すこし思し慰むる方はあれど、「かばかりになりぬる高き人の、かくまでも、すずろに人に見ゆるやうはあらじかし」と、宿世憂く思し屈して、夕つ方ぞ、

 「なほ、渡らせたまへ」

 とあれば、中の塗籠の戸開けあはせて、渡りたまへる。

 [第五段 御息所の嘆き]

 苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。常の御作法あやまたず、起き上がりたまうて、

 「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも心苦しうてなむ。この二、三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月の心地するも、かつはいとはかなくなむ。後、かならずしも、対面のはべるべきにもはべらざめり。まためぐり参るとも、かひやははべるべき。

 思へば、ただ時の間に隔たりぬべき世の中を、あながちにならひはべりにけるも、悔しきまでなむ」

 など泣きたまふ。

 宮も、もののみ悲しう取り集め思さるれば、聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。ものづつみをいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども、問ひきこえたまはず。

 大殿油など急ぎ参らせて、御台など、こなたにて参らせたまふ。もの聞こし召さずと聞きたまひて、とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど、触れたまふべくもあらず。ただ御心地のよろしう見えたまふぞ、胸すこしあけたまふ。

 

第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸

 [第一段 御息所、夕霧に返書]

 かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、

 「大将殿より、少将の君にとて、御使ひあり」

 と言ふぞ、またわびしきや。少将、御文は取りつ。御息所、

 「いかなる御文にか」

 と、さすがに問ひたまふ。人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騷ぎして、

 「いで、その御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人の御名を善さまに言ひ直す人は難きものなり。そこに心きよう思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそ良からめ。あいなき甘えたるさまなるべし」

 とて、召し寄す。苦しけれどたてまつりつ。

 「あさましき御心のほどを見たてまつり表いてこそ、なかなか心やすく、ひたぶる心もつきはべりぬべけれ。

  せくからに浅さぞ見えむ山川の
  流れての名をつつみ果てずは」

 と言葉も多かれど、見も果てたまはず。

 この御文も、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵つれなきを、いといみじと思す。

 「故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに、世には心もゆかざりしを。あな、いみじや。大殿のわたりに思ひのたまはむこと」

 と思ひしみたまふ。

 「なほ、いかがのたまふと、けしきをだに見む」と、心地のかき乱りくるるやうにしたまふ目、おし絞りて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。

 「頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ。

  女郎花萎るる野辺をいづことて
  一夜ばかりの宿を借りけむ」

 と、ただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。御もののけのたゆめけるにやと、人びと言ひ騒ぐ。

 例の、験ある限り、いと騒がしうののしる。宮をば、

 「なほ、渡らせたまひね」

 と、人びと聞こゆれど、御身の憂きままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。

 [第二段 雲居雁、手紙を奪う]

 大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける、今宵立ち返り参でたまはむに、「ことしもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし」など念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひねて嘆きたまふ。

 北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて、君達もて遊び紛らはしつつ、わが昼の御座に臥したまへり。

 宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。

 「あさましう。こは、いかにしたまふぞ。あな、けしからず。六条の東の上の御文なり。今朝、風邪おこりて悩ましげにしたまへるを、院の御前にはべりて、出でつるほど、またも参うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間いかにと、聞こえたりつるなり。見たまへよ、懸想びたる文のさまか。さても、なほなほしの御さまや。年月に添へて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。思はむところを、むげに恥ぢたまはぬよ」

 とうちうめきて、惜しみ顔にもひこしろひたまはねば、さすがに、ふとも見で持たまへり。

 「年月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり」

 とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、

 「そは、ともかくもあらむ。世の常のことなり。またあらじかし、よろしうなりぬる男の、かく紛ふ方なく、一つ所を守らへて、もの懼ぢしたる鳥の兄鷹やうのもののやうなるは。いかに人笑ふむ。さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。

 あまたが中に、なほ際まさり、ことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、わが心地もなほ古りがたく、をかしきこともあはれなるすぢも絶えざらめ。かく翁のなにがし守りけむやうに、おれ惑ひたれば、いとぞ口惜しき。いづこの栄えかあらむ」

 と、さすがに、この文のけしきなくをこつり取らむ心にて、欺き申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、

 「ものの映え映えしさ作り出でたまふほど、古りぬる人苦しや。いと今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなりける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはしまはで」

 とかこちたまふも、憎くもあらず。

 「にはかにと思すばかりには、何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈かな。よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。なほ、かの緑の袖の名残、あなづらはしきにことづけて、もてなしたてまつらむと思ふやうあるにや。いろいろ聞きにくきことどもほのめくめり。あいなき人の御ためにも、いとほしう」

 などのたまへど、つひにあるべきことと思せば、ことにあらがはず。大輔の乳母、いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。

 [第三段 手紙を見ぬまま朝になる]

 とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめても漁り取らで、つれなく大殿籠もりぬれば、胸はしりて「いかで取りてしがな」と、「御息所の御文なめり。何ごとありつらむ」と、目も合はず思ひ臥したまへり。

 女君の寝たまへるに、昨夜の御座の下などに、さりげなくて探りたまへど、なし。隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。

 女君は、君達におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、われも今起きたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。女はかく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、「げに、懸想なき御文なりけり」と、心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作り、拾ひ据ゑて遊びたまふ、書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし、小さき稚児這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。

 男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむと思すに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、「見ぬさまならむも、散らしてけると推し量りたまふべし」など、思ひ乱れたまふ。

 誰れも誰れも御台参りなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、

 「昨夜の御文は、何ごとかありし。あやしう見せたまはで。今日も訪らひ聞こゆべし。悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。何ごとかありけむ」

 とのたまふが、いとさりげなければ、「文は、をこがましう取りてけり」とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、

 「一夜の深山風に、あやまりたまへる悩ましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし」

 と聞こえたまふ。

 「いで、このひがこと、な常にのたまひそ。何のをかしきやうかある。世人になずらへたまふこそ、なかなか恥づかしけれ。この女房たちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほ笑むらむものを」

 と、戯れ言に言ひなして、

 「その文よ。いづら」

 とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れにけり。

 [第四段 夕霧、手紙を見る]

 ひぐらしの声におどろきて、「山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ。あさましや。今日この御返事をだに」と、いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、眺めおはする。

 御座の奥のすこし上がりたる所を、試みにひき上げたまへれば、「これにさし挟みたまへるなりけり」と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。胸つぶれて、「一夜のことを、心ありて聞きたまうける」と思すに、いとほしう心苦し。

 「昨夜だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。今日も、今まで文をだに」

 と、言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、

 「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ」

 と、言ふべき方のなければ、女君ぞ、いとつらう心憂き。

 「すずろに、かく、あだへ隠して。いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに身もつらく、すべて泣きぬべき心地したまふ。

 やがて出で立ちたまはむとするを、

 「心やすく対面もあらざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。坎日にもありけるを、もしたまさかに思ひ許したまはば、悪しからむ。なほ吉からむことをこそ」

 と、うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。

 「いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御咎めをなむ。いかに聞こし召したることにか。

  秋の野の草の茂みは分けしかど
  仮寝の枕結びやはせし

 明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪は、ひたやごもりにや」

 とあり。宮には、いと多く聞こえたまて、御厩に足疾き御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞたてまつれたまふ。

 「昨夜より、六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」

 とて、言ふべきやう、ささめき教へたまふ。

 [第五段 御息所の嘆き]

 かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。

 なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、

 「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに心幼くて人のもどきを負ひたまふべきことを。取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほさる心したまへ。

 数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命もとどめまほしうなむ。

 ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。

 院より始めたてまつりて、思しなびき、この父大臣にも許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」

 と、つぶつぶと泣きたまふ。

 [第六段 御息所死去す]

 いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、

 「あはれ、何ごとかは、人に劣りたまへる。いかなる御宿世にて、やすからず、ものを深く思すべき契り深かりけむ」

 などのたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。もののけなども、かかる弱目に所得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。律師も騷ぎたちたまうて、願など立てののしりたまふ。

 深き誓ひにて、今は命を限りける山籠もりを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの、面目なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。宮の泣き惑ひたまふこと、いとことわりなりかし。

 かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れたる、ほのかに聞きたまひて、今宵もおはすまじきなめり、とうち聞きたまふ。

 「心憂く。世のためしにも引かれたまふべきなめり。何に我さへさる言の葉を残しけむ」

 と、さまざま思し出づるに、やがて絶え入りたまひぬ。あへなくいみじと言へばおろかなり。昔より、もののけには時々患ひたまふ。限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持参り騒げど、今はのさま、しるかりけり。

 宮は、後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。人びと参りて、

 「今は、いふかひなし。いとかう思すとも、限りある道は、帰りおはすべきことにもあらず。慕ひきこえたまふとも、いかでか御心にはかなふべき」

 と、さらなることわりを聞こえて、

 「いとゆゆしう。亡き御ためにも、罪深きわざなり。今は去らせたまへ」

 と、引き動かいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。

 修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、片へこそちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。

 [第七段 朱雀院の弔問の手紙]

 所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚きたまうて、まづ聞こえたまへり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞こえたまふ。山の帝も聞こし召して、いとあはれに御文書いたまへり。宮は、この御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。

 「日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も篤しうのみ聞きはべりつるならひに、うちたゆみてなむ。かひなきことをばさるものにて、思ひ嘆いたまふらむありさま推し量るなむ、あはれに心苦しき。なべての世のことわりに思し慰めたまへ」

 とあり。目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。

 常にさこそあらめとのたまひけることとて、今日やがてをさめたてまつるとて、御甥の大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこえける。

 骸をだにしばし見たてまつらむとて、宮は惜しみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆いそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、大将おはしたる。

 「今日より後、日ついで悪しかりけり」

 など、人聞きにはのたまひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて、

 「かくしも急ぎわたりたまふべきことならず」

 と、人びといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。

 [第八段 夕霧の弔問]

 ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし。ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠して、この西面に入れたてまつる。大和守出で来て、泣く泣くかしこまりきこゆ。妻戸の簀子におし掛かりたまうて、女房呼び出でさせたまふに、ある限り、心も収まらず、物おぼえぬほどなり。

 かく渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。物もえのたまひやらず。涙もろにおはせぬ心強さなれど、所のさま、人のけはひなどを思しやるも、いみじうて、常なき世のありさまの、人の上ならぬも、いと悲しきなりけり。ややためらひて、

 「よろしうおこたりたまふさまに承りしかば、思うたまへたゆみたりしほどに。夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」

 と聞こえたまへり。「思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにしたまはず。

 「いかに聞こえさせたまふとか、聞こえはべるべき」
 「いと軽らかならぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思し分かぬやうならむも、あまりにはべりぬべし」

 と、口々聞こゆれば、

 「ただ、推し量りて。我は言ふべきこともおぼえず」

 とて、臥したまへるもことわりにて、

 「ただ今は、亡き人と異ならぬ御ありさまにてなむ。渡らせたまへるよしは、聞こえさせはべりぬ」

 と聞こゆ。この人びともむせかへるさまなれば、

 「聞こえやるべき方もなきを今すこしみづからも思ひのどめ、また静まりたまひなむに、参り来む。いかにしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」

 とのたまへば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片端づつ聞こえて、

 「かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。今日は、いとど乱りがはしき心地どもの惑ひに、聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。さらば、かく思し惑へる御心地も、限りあることにて、すこし静まらせたまひなむほどに、聞こえさせ承らむ」

 とて、我にもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたがりて、

 「げにこそ、闇に惑へる心地すれ。なほ、聞こえ慰めたまひて、いささかの御返りもあらばなむ」

 などのたまひおきて、立ちわづらひたまふも、軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。

 [第九段 御息所の葬儀]

 今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどなく際々しきを、いとあへなしと思いて、近き御荘の人びと召し仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出でたまひぬ。事のにはかなれば、削ぐやうなりつることども、いかめしう、人数なども添ひてなむ。大和守も、

 「ありがたき殿の御心おきて」

 など、喜びかしこまりきこゆ。「名残だになくあさましきこと」と、宮は臥しまろびたまへど、かひなし。親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。見たてまつる人びとも、この御事を、またゆゆしう嘆ききこゆ。大和守、残りのことどもしたためて、

 「かく心細くては、えおはしまさじ。いと御心の隙あらじ」

 など聞こゆれど、なほ、峰の煙をだに、気近くて思ひ出できこえむと、この山里に住み果てなむと思いたり。

 御忌に籠もれる僧は、東面、そなたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。西の廂をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思し分かねど、月ごろ経ければ、九月になりぬ。

 

第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧

 [第一段 夕霧、返事を得られず]

 山下ろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじきほどなれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなく思し嘆き、「命さへ心にかなはず」と、厭はしういみじう思す。さぶらふ人びとも、よろづにもの悲しう思ひ惑へり。

 大将殿は、日々に訪らひきこえたまふ。寂しげなる念仏の僧など、慰むばかり、よろづの物を遣はし訪らはせたまひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして怨みきこえ、かつは、尽きもせぬ御訪らひを聞こえたまへど、取りてだに御覧ぜず、すずろにあさましきことを、弱れる御心地に、疑ひなく思ししみて、消え失せたまひにしことを思し出づるに、「後の世の御罪にさへやなるらむ」と、胸に満つ心地して、この人の御ことをだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる。人びとも聞こえわづらひぬ。

 一行の御返りをだにもなきを、「しばしは心惑ひしたまへる」など思しけるに、あまりにほど経ぬれば、

 「悲しきことも限りあるを。などか、かく、あまり見知りたまはずはあるべき。いふかひなく若々しきやうに」と恨めしう、「異事の筋に、花や蝶やと書けばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしき方ざまのことを、いかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそおぼゆれ。

 大宮の亡せたまへりしを、いと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々しき作法ばかりのことを孝じたまひしに、つらく心づきなかりしに、六条院の、なかなかねむごろに、後の御事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりしその折に、故衛門督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。

 人柄のいたう静まりて、物をいたう思ひとどめたりし心に、あはれもまさりて、人より深かりしが、なつかしうおぼえし」

 など、つれづれとものをのみ思し続けて、明かし暮らしたまふ。

 [第二段 雲居雁の嘆きの歌]

 女君、なほこの御仲のけしきを、

 「いかなるにかりけむ。御息所とこそ、文通はしも、こまやかにしたまふめりしか」

 など思ひ得がたくて、夕暮の空を眺め入りて臥したまへるところに、若君してたてまつれたまへる。はかなき紙の端に、

 「あはれをもいかに知りてか慰めむ
  あるや恋しき亡きや悲しき

 おぼつかなきこそ心憂けれ」

 とあれば、ほほ笑みて、

 「先ざきもかく思ひ寄りてのたまふ、似げなの、亡きがよそへや」
 と思す。いとどしく、ことなしびに、

 「いづれとか分きて眺めむ消えかへる
  露も草葉のうへと見ぬ世を

 おほかたにこそ悲しけれ」

 と書いたまへり。「なほ、かく隔てたまへること」と、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆きつつおはす。

 なほ、かくおぼつかなく思しわびて、また渡りたまへり。「御忌など過ぐしてのどやかに」と思し静めけれど、さまでもえ忍びたまはず、

 「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」

 と、思したばかりにければ、北の方の御思ひやりを、あながちにもあらがひきこえたまはず。

 正身は強う思し離るとも、かの一夜ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、「えしも、すすぎ果てたまはじ」と、頼もしかりけり。

 [第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問]

 九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だに、ただにやはおぼゆる。山風に堪へぬ木々の梢も、峰の葛葉、心あわたたしう争ひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払ひたるに、鹿はただ籬のもとにたたずみつつ、山田の引板にもおどろかず、色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも、愁へ顔なり。

 滝の声は、いとどもの思ふ人をおどろかし顔に、耳かしかましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、龍胆の、われひとりのみ心長うはひ出でて、露けく見ゆるなど、皆例のこのころのことなれど、折から所からにやいと堪へがたきほどの、もの悲しさなり。

 例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがて眺め出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣に、色こまやかなる御衣の擣目、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを」と、見たてまつる。

 もの思ひの慰めにしつべく、笑ましき顔の匂ひにて、少将の君を、取り分きて召し寄す。簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。

 「なほ近くて。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」

 とて、わざとも見入れぬさまに、山の方を眺めて、「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の几帳を、簾のつまよりすこしおし出でて、裾をひきそばめつつゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。

 「かく尽きせぬ御ことは、さるものにて、聞こえなむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれ果てて、見る人ごとに咎められはべれば、今はさらに忍ぶべき方なし」

 と、いと多く恨み続けたまふ。かの今はの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。

 [第四段 板ばさみの小少将君]

 この人も、ましていみじう泣き入りつつ、

 「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御もののけの引き入れたてまつる、となむ見たまへし。

 過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし」

 など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。

 「そよやそもあまりにおぼめかしう、いふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひきこえたまはむ。御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難し。

 いとかく心憂き御けしき、聞こえ知らせたまへ。よろづのこと、さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは」

 など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたく鳴くを、「われ劣らめやとて、

 「里遠み小野の篠原わけて来て
  我も鹿こそ声も惜しまね」

 とのたまへば、

 「藤衣露けき秋の山人は
  鹿の鳴く音に音をぞ添へつる」

 よからねど、折からに、忍びやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。

 御消息とかう聞こえたまへど、

 「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」

 とのみ、すくよかに言はせたまふ。「いみじういふかひなき御心なりけり」と、嘆きつつ帰りたまふ。

 [第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅]

 道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山たどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。

 いとどうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばると下ろし籠めて、人影も見えず。月のみ遣水の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうし折々を、思ひ出でたまふ。

 「見し人の影澄み果てぬ池水に
  ひとり宿守る秋の夜の月」

 と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあくがれたまへり。

 「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」

 と、御達も憎みあへり。上は、まめやかに心憂く、

 「あくがれたちぬる御心なめり。もとよりさる方にならひたまへる六条の院の人びとを、ともすればめでたきためしにひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや。我も、昔よりしかならひなましかば、人目も馴れて、なかなか過ごしてまし。世のためしにしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ」

 など、いといたう嘆いたまへり。

 夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書きたまふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたまはず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。

 「いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の
  夢覚めてとか言ひしひとこと
 上より落つる

 とや書いたまひつらむ、おし包みて、名残も、「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。人召して賜ひつ。「御返り事をだに見つけてしがな。なほ、いかなることぞ」と、けしき見まほしう思す。

 [第六段 落葉宮の返歌が届く]

 日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ、例の聞こえたる。ただ同じさまに、かひなきよしを書きて、

 「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさびたまへるを盗みたる」

 とて、中にひき破りて入れたる、「目には見たまうてけり」と、思すばかりのうれしさぞ、いと人悪ろかりける。そこはかとなく書きたまへるを、見続けたまへれば、

 「朝夕に泣く音を立つる小野山は
  絶えぬ涙や音無の滝」

 とや、とりなすべからむ、古言など、もの思はしげに書き乱りたまへる、御手なども見所あり。

 「人の上などにて、かやうの好き心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心ならぬことに見聞きしかど、身のことにては、げにいと堪へがたかるべきわざなりけり。あやしや。など、かうしも思ふべき心焦られぞ」

 と思ひ返したまへど、えしもかなはず。

 

第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る

 [第一段 源氏や紫の上らの心配]

 六条院にも聞こし召して、いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐしたまふを、おもだたしう、わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなる名を取りたまうし面起こしに、うれしう思しわたるを、

 「いとほしう、いづ方にも心苦しきことのあるべきこと。さし離れたる仲らひにてだにあらで、大臣なども、いかに思ひたまはむ。さばかりのこと、たどらぬにはあらじ。宿世といふもの、逃れわびぬることなり。ともかくも口入るべきことならず」

 と思す。女のためのみにこそ、いづ方にもいとほしけれと、あいなく聞こしめし嘆く。

 紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かうやうためしを聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう思ひきこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、「心憂く、さまで後らかしたまふべきにや」と思したり。

 「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、折をかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経る映えばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。

 おほかた、ものの心を知らず、いふかひなきものにならひたらむも、生ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。

 心にのみ籠めて、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、悪しきこと善きことを思ひ知りながら、埋もれなむも、いふかひなし。わが心ながらも、良きほどには、いかで保つべきぞ」

 と思しめぐらすも、今はただ女一の宮の御ためなり。

 [第二段 夕霧、源氏に対面]

 大将の君、参りたまへるついでありて、思ひたまへらむけしきもゆかしければ、

 「御息所の忌果てぬらむな。昨日今日と思ふほどに、三年よりあなたのことになる世にこそあれ。あはれに、あぢきなしや。夕べの露かるほどのむさぼりよ。いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てむと思ふを、さものどやかなるやうにても過ぐすかな。いと悪ろきわざなりや」

 とのたまふ。

 「まことに惜しげなき人だにこそ、はべめれ」など聞こえて、「御息所の四十九日のわざなど、大和守なにがしの朝臣、一人扱ひはべる、いとあはれなるわざなりや。はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かかる世の果てこそ、悲しうはべりけれ」

 と、聞こえたまふ。

 「院よりも弔らはせたまふらむ。かの皇女、いかに思ひ嘆きたまふらむ。はやう聞きしよりは、この近き年ごろ、ことに触れて聞き見るに、この更衣こそ、口惜しからずめやすき人のうちなりけれ。おほかたの世につけて、惜しきわざなりや。さてもありぬべき人の、かう亡せゆくよ。

 院も、いみじう驚き思したりけり。かの皇女こそは、ここにものしたまふ入道の宮よりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。人ざまもよくおはすべし」

 とのたまふ。

 「御心はいかがものしたまふらむ。御息所は、こともなかりし人のけはひ、心ばせになむ。親しううちとけたまはざりしかど、はかなきことのついでに、おのづから人の用意はあらはなるものになむはべる」

 と聞こえたまひて、宮の御こともかけず、いとつれなし。

 「かばかりのすくよけ心に思ひそめてむこと、諌めむにかなはじ。用ゐざらむものから、我賢しに言出でむもあいなし」

 と思して止みぬ。

 [第三段 父朱雀院、出家希望を諌める]

 かくて御法事に、よろづとりもちてせさせたまふ。事の聞こえ、おのづから隠れなければ、大殿などにも聞きたまひて、「さやはあるべき」など、女方の心浅きやうに思しなすぞ、わりなきや。かの昔の御心あれば、君達、参で訪らひたまふ。

 誦経など、殿よりもいかめしうせさせたまふ。これかれも、さまざま劣らずしたまへれば、時の人のかやうのわざに劣らずなむありける。

 宮は、かくて住み果てなむと思し立つことありけれど、院に、人の漏らし奏しければ、

 「いとあるまじきことなり。げに、あまた、とざまかうざまに身をもてなしたまふべきことにもあらねど、後見なき人なむ、なかなかさるさまにて、あるまじき名を立ち、罪得がましき時、この世後の世、中空にもどかしき咎負ふわざなる。

 ここにかく世を捨てたるに、三の宮の同じごと身をやつしたまへる、すべなきやうに人の思ひ言ふも、捨てたる身には、思ひ悩むべきにはあらねど、かならずさしも、やうのことと争ひたまはむも、うたてあるべし。

 世の憂きにつけて厭ふは、なかなか人悪ろきわざなり。心と思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め心澄ましてこそ、ともかうも」

 とたびたび聞こえたまうけり。この浮きたる御名をぞ聞こし召したるべき。「さやうのことの思はずなるにつけて倦じたまへる」と言はれたまはむことを思すなりけり。さりとて、また、「表はれてものしたまはむもあはあはしう、心づきなきこと」と、思しながら、恥づかしと思さむもいとほしきを、「何かは、我さへ聞き扱はむ」と思してなむ、この筋は、かけても聞こえたまはざりける。

 [第四段 夕霧、宮の帰邸を差配]

 大将も、
 「とかく言ひなしつるも、今はあいなし。かの御心に許したまはむことは、難げなめり。御息所の心知りなりけりと、人には知らせむ。いかがはせむ。亡き人にすこし浅き咎は思はせて、いつありそめしことぞともなく、紛らはしてむ。さらがへりて、懸想だち、涙を尽くしかかづらはむも、いとうひうひしかるべし」

 と思ひ得たまうて、一条に渡りたまふべき日、その日ばかりと定めて、大和守召して、あるべき作法のたまひ、宮のうち払ひしつらひ、さこそいへども、女どちは、草茂う住みなしたまへりしを、磨きたるやうにしつらひなして、御心づかひなど、あるべき作法めでたう、壁代、御屏風、御几帳、御座などまで思し寄りつつ、大和守にのたまひて、かの家にぞ急ぎ仕うまつらせたまふ。

 その日、我おはしゐて、御車、御前などたてまつれたまふ。宮は、さらに渡らじと思しのたまふを、人びといみじう聞こえ、大和守も、

 「さらに承らじ。心細く悲しき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは、堪ふるに従ひて仕うまつりぬ。

 今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。宮の内のことも、見たまへ譲るべき人もはべらず。いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、かくよろづに思しいとなむを、げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、多くはべれ。

 一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。いと幼くおはしますことなり。たけう思すとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりしたため、顧みたまふべきやうかあらむ。なほ、人のあがめかしづきたまへらむに助けられてこそ、深き御心のかしこき御おきても、それにかかるべきものなり。

 君たちの聞こえ知らせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじきことをも、御心どもに仕うまつりそめたまうて」

 と、言ひ続けて、左近、少将を責む。

 [第五段 落葉宮、自邸へ向かう]

 集りて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる御衣ども、人びとのたてまつり替へさするも、われにもあらず、なほ、いとひたぶるに削ぎ捨てまほしう思さるる御髪を、かき出でて見たまへば、六尺ばかりにて、すこし細りたれど、人はかたはにも見たてまつらず、みづからの御心には、

 「いみじの衰へや。人に見ゆべきありさまにもあらず。さまざまに心憂き身を」

 と思し続けて、また臥したまひぬ。

 「時違ひぬ。夜も更けぬべし」

 と、皆騒ぐ。時雨いと心あわたたしう吹きまがひ、よろづにもの悲しければ、

 「のぼりにし峰の煙にたちまじり
  思はぬ方になびかずもがな」

 心ひとつには強く思せど、そのころは、御鋏などやうのものは、皆とり隠して、人びとの守りきこえければ、

 「かくもて騒がざらむにてだに、何の惜しげある身にてか、をこがましう、若々しきやうにはひき忍ばむ。人聞きもうたて思すまじかべきわざを」

 と思せば、その本意のごともしたまはず。

 人びとは、皆いそぎ立ちて、おのおの、櫛、手筥、唐櫃、よろづの物を、はかばかしからぬ袋やうの物なれど、皆さきだてて運びたれば、一人止まりたまふべうもあらで、泣く泣く御車に乗りたまふも、傍らのみまもられたまて、こち渡りたまうし時、御心地の苦しきにも、御髪かき撫でつくろひ、下ろしたてまつりたまひしを思し出づるに、目も霧りていみじ。御佩刀に添へて経筥を添へたるが、御傍らも離れねば、

 「恋しさの慰めがたき形見にて
  涙にくもる玉の筥かな」

 黒きもまだしあへさせたまはず、かの手ならしたまへりし螺鈿の筥なりけり。誦経にせさせたまひしを、形見にとどめたまへるなりけり。浦島の子が心地なむ。

 [第六段 夕霧、主人顔して待ち構える]

 おはしまし着きたれば、殿のうち悲しげもなく、人気多くて、あらぬさまなり。御車寄せて降りたまふを、さらに、故里とおぼえず、疎ましううたて思さるれば、とみにも下りたまはず。いとあやしう、若々しき御さまかなと、人びとも見たてまつりわづらふ。殿は、東の対の南面を、わが御方を、仮にしつらひて、住みつき顔におはす。三条殿には、人びと、

 「にはかにあさましうもなりたまひぬるかな。いつのほどにありしことぞ」

 と、驚きけり。なよらかにをかしばめることを、好ましからず思す人は、かくゆくりかることぞうちまじりたまうける。されど、年経にけることを、音なくけしきも漏らさで過ぐしたまうけるなり、とのみ思ひなして、かく、女の御心許いたまはぬと、思ひ寄る人もなし。とてもかうても、宮の御ためにぞいとほしげなる。

 御まうけなどさま変はりて、もののはじめゆゆしげなれど、もの参らせなど、皆静まりぬるに、渡りたまて、少将の君をいみじう責めたまふ。

 「御心ざしまことに長う思されば、今日明日を過ぐして聞こえさせたまへ。なかなか、立ち帰りてもの思し沈みて、亡き人のやうにてなむ臥させたまひぬる。こしらへきこゆるをも、つらしとのみ思されたれば、何ごとも身のためこそはべれ。いとわづらはしう、聞こえさせにくくなむ」

 と言ふ。

 「いとあやしう。推し量りきこえさせしには違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ」

 とて、思ひ寄れるさま、人の御ためも、わがためにも、世のもどきあるまじうのたまひ続くれば、

 「いでや、ただ今は、またいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。あが君、とかくおしたちて、ひたぶるなる御心なつかはせたまひそ」

 と手をする。

 「いとまだ知らぬ世かな。憎くめざましと、人よりけに思し落とすらむ身こそいみじけれ。いかで人にもことわらせむ」

 と、いはむかたもなしと思してのたまへば、さすがにいとほしうもあり、

 「まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人はべらむとすらむ」

 と、すこしうち笑ひぬ。

 [第七段 落葉宮、塗籠に籠る]

 かく心ごはけれど、今は、堰かれたまふべきならねば、やがてこの人をひき立てて、推し量りに入りたまふ。

 宮は、「いと心憂く、情けなくあはつけき人の心なりけり」と、ねたくつらければ、「若々しきやうには言ひ騒ぐとも」と思して、塗籠に御座ひとつ敷かせたまて、うちより鎖して大殿籠もりにけり。「これもいつまでにかは。かばかりに乱れ立ちにたる人の心どもは、いと悲しう口惜しう」思す。

 男君は、めざましうつらしと思ひきこえたまへど、かばかりにては、何のもて離るることかはと、のどかに思して、よろづに思ひ明かしたまふ。山鳥の心地したまうける。からうして明け方になりぬ。かくてのみ、ことといへば、直面なべければ、出でたまふとて、

 「ただ、いささかの隙をだに」

 と、いみじう聞こえたまへど、いとつれなし。

 「怨みわび胸あきがたき冬の夜に
  また鎖しまさる関の岩門

 聞こえむ方なき御心なりけり」

 と、泣く泣く出でたまふ。

 

第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮

 [第一段 夕霧、花散里へ弁明]

 六条の院にぞおはして、やすらひたまふ。東の上、

 「一条の宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御ことにかは」

 と、いとおほどかにのたまふ。御几帳添へたれど、側よりほのかには、なほ見えたてまつりたまふ。

 「さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。故御息所は、いと心強う、あるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに、御心地の弱りけるに、また見譲るき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりしことにて、かく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人扱ひはべらむかし。さしもあるまじきをも、あやしう人こそ、もの言ひさがなきものにあれ」

 と、うち笑ひつつ、

 「かの正身なむ、なほ世に経じと深う思ひ立ちて、尼になりなむと思ひ結ぼほれたまふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、さやうに嫌疑離れても、また、かの遺言は違へじと思ひたまへて、ただかく言ひ扱ひはべるなり。

 院の渡らせたまへらむにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて、心づきなき心つかふと、思しのたまはむを憚りはべりつれど、げに、かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」

 と、忍びやかに聞こえたまふ。

 「人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは。皆世の常のことなれど、三条の姫君の思さむことこそ、いとほしけれ。のどやかに慣らひたまうて」

 と聞こえたまへば、

 「らうたげにものたまはせなす、姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてか、それをもおろかにはもてなしはべらむ。かしこけれど、御ありさまどもにても、推し量らせたまへ。

 なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚らるることあれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、ことの乱れ出で来ぬる後、我も人も、憎げに飽きたしや。

 なほ、南の御殿の御心もちゐこそ、さまざまにありがたう、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには、見たてまつり果てはべりぬれ」

 など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、

 「もののためしに引き出でたまふほどに、身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう。

 さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば、大事と思いて、戒め申したまふ。後言にも聞こえたまふめるこそ、賢しだつ人の、おのが上知らぬやうにおぼえはべれ」

 とのたまへば、

 「さなむ、常にこの道をしも戒め仰せらるる。さるは、かしこき御教へならでも、いとよくをさめてはべる心を」

 とて、げにをかしと思ひたまへり。

 御前に参りたまへれば、かのことは聞こし召したれど、何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもりたまへるに、

 「いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる御盛りなめれ。さるさまの好き事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず。鬼神も罪許しつべく、あざやかにものきよげに、若う盛りに匂ひを散らしたまへり。

 もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。女にて、などかめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」

 と、わが御子ながらも、思す。

 [第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う]

 日たけて、殿には渡りたまへり。入りたまふより、若君たち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。女君は、帳の内に臥したまへり。

 入りたまへれど、目も見合はせたまはず。つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にももてなしたまはず、御衣をひきやりたまへれば、

 「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」

 とのたまふ。

 「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」

 と、何心もなう言ひなしたまふも、心やましうて、

 「めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを」

 とて、起き上がりたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり。

 「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」

 と、戯れに言ひなしたまへど、

 「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」

 とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、

 「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」

 と、いとつれなく言ひて、何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへば、いと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、

 「かれも、いとわが心を立てて、強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」

 と思ふに、しばしはとだえ置くまじう、あわたたしき心地して、暮れゆくままに、「今日も御返りだになきよ」と思して、心にかかりつつ、いみじう眺めをしたまふ。

 [第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す]

 昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。

 「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。

 今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや。命こそ定めなき世なれ」

 とて、うち泣きたまふこともあり。女も、昔のことを思ひ出でたまふに、

 「あはれにもありがたかりし御仲の、さすがに契り深かりけるかな」

 と、思ひ出でたまふ。なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、灯影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、

 「馴るる身を恨むるよりは松島の
  海人の衣に裁ちやかへまし

 なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」

 と、独言にのたまふを、立ち止まりて、

 「さも心憂き御心かな。

  松島の海人の濡衣なれぬとて
  脱ぎ替へつてふ名を立ためやは」

 うち急ぎて、いとなほなほしや。

 [第四段 塗籠の落葉宮を口説く]

 かしこには、なほさし籠もりたまへるを、人びと、

 「かくてのみやは。若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」

 など、よろづに聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまはず。「戯れにくく、めづらかなり」と、聞こえ尽くしたまふ。人もいとほしと見たてまつる。

 「『いささかも人心地する折あらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえむ。この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ』となむ、深く思しのたまはするを、かくいとあやにくに、知らぬ人なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたまふ」

 と聞こゆ。

 「思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「例のやうにておはしまさば、物越などにても、思ふことばかり聞こえて、御心破るべきにもあらず。あまたの年月をも過ぐしつべくなむ」

 など、尽きもせず聞こえたまへど、

 「なほ、かかる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき。人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ」

 と、また言ひ返し恨みたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。

 [第五段 夕霧、塗籠に入って行く]

 「さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、

 「うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情けばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」

 など、この人を責めたまへば、げにとひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。

 いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。

 男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。

 「いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ。

 思ふにかなはぬ時、身を投ぐるためしもはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへまて、捨てつる身と思しなせ」

 と聞こえたまふ。単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、

 「いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、岩木よりけになびきがたき、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思すらむ」

 と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。

 [第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ]

 かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ、今日は泊りて、心のどかにおはす。かくさへひたぶるなるを、あさましと宮は思いて、いよいよ疎き御けしきのまさるを、をこがましき御心かなと、かつは、つらきもののあはれなり。

 塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃御厨子などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近うしつらひてぞおはしける。うちは暗き心地すれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、埋もれたる御衣ひきやり、いとうたて乱れたる御髪、かきやりなどして、ほの見たてまつりたまふ。

 いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。男の御さまは、うるはしだちたまへる時よりも、うちとけてものしたまふは、限りもなうきよげなり。

 「故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても見忍びなむや」と思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。

 ただかたはらいたう、ここもかしこも、人の聞き思さむことの罪さらむ方なきに、折さへいと心憂ければ慰めがたきなりけり。

 御手水、御粥など、例の御座の方に参れり。色異なる御しつらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染の御几帳など、ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひたり。大和守のしわざなりけり。

 人びとも、鮮やかならぬ色の、山吹、掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などを、とかく紛らはして、御台は参る。女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心とどめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、この人一人のみ扱ひ行ふ。

 かくおぼえぬやむごとなき客人のおはすると聞きて、もと勤めざりける家司など、うちつけに参りて、政所など言ふ方にさぶらひて営みけり。

 

第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語

 [第一段 雲居雁、実家へ帰る]

 かくせめても見馴れ顔に作りたまふほど、三条殿、

 「限りなめりと、さしもやはとこそ、かつは頼みつれ、まめ人の心変はるは名残なくなむと聞きしは、まことなりけり」

 と、世を試みつる心地して、「いかさまにしてこのなめげさを見じ」と思しければ、大殿へ、方違へむとて、渡りたまひにけるを、女御の里におはするほどなどに、対面したまうて、すこしもの思ひはるけどころに思されて、例のやうにも急ぎ渡りたまはず。

 大将殿も聞きたまひて、

 「さればよ。いと急にものしたまふ本性なり。この大臣もはた、おとなおとなしうのどめたるところ、さすがになく、いとひききりにはなやいたまへる人びとにて、めざまし、見じ、聞かじなど、ひがひがしきことどもし出でたまうつべき」

 と、驚かれたまうて、三条殿に渡りたまへれば、君たちも、片へは止まりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつりて、愁へ泣きたまふを、心苦しと思す。

 消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつれたまへど、御返りだになし。かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたまへど、大臣の見聞きたまはむところもあれば、暮らして、みづから参りたまへり。

 [第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く]

 寝殿になむおはするとて、例の渡りたまふ方は、御達のみさぶらふ。若君たちぞ、乳母に添ひておはしける。

 「今さらに若々しの御まじらひや。かかる人を、ここかしこに落しおきたまひて。など寝殿の御まじらひは。ふさはしからぬ御心の筋とは、年ごろ見知りたれど、さるべきにや、昔より心に離れがたう思ひきこえて、今はかく、くだくだしき人の数々あはれなるを、かたみに見捨つべきにやはと、頼みきこえける。はかなき一節に、かうはもてなしたまふべくや」

 と、いみじうあはめ恨み申したまへば、

 「何ごとも、今はと見飽きたまひにける身なれば、今はた、直るべきにもあらぬを、何かはとて。あやしき人びとは、思し捨てずは、うれしうこそはあらめ」

 と聞こえたまへり。

 「なだらかの御いらへや。言ひもていけば、誰が名か惜しき

 とて、しひて渡りたまへともなくて、その夜はひとり臥したまへり。

 「あやしう中空なるころかな」と思ひつつ、君たちを前に臥せたまひて、かしこにまた、いかに思し乱るらむさま、思ひやりきこえ、やすからぬ心尽くしなれば、「いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆらむ」など、物懲りしぬべうおぼえたまふ。

 明けぬれば、
 「人の見聞かむも若々しきを、限りとのたまひ果てば、さて試みむ。かしこなる人びとも、らうたげに恋ひきこゆめりしを、選り残したまへる、やうあらむとは見ながら、思ひ捨てがたきを、ともかくももてなしはべりなむ」

 と、脅しきこえたまへば、すがすがしき御心にて、この君達をさへや、知らぬ所に率て渡したまはむ、と危ふし。姫君を、

 「いざ、たまへかし見たてまつりに、かく参り来ることもはしたなければ、常にも参り来じ。かしこにも人びとのらうたきを、同じ所にてだに見たてまつらむ」

 と聞こえたまふ。まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれと見たてまつりたまひて、

 「母君の御教へにな叶ひたまうそ。いと心憂く、思ひとる方なき心あるは、いと悪しきわざなり」

 と、言ひ知らせたてまつりたまふ。

 [第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者]

 大臣、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに思し嘆く。

 「しばしは、さても見たまはで。おのづから思ふところものせらるらむものを。女のかくひききりなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり。よし、かく言ひそめつとならば、何かは愚れて、ふとしも帰りたまふ。おのづから人のけしき心ばへは見えなむ」

 とのたまはせて、この宮に、蔵人少将の君を御使にてたてまつりたまふ。

 「契りあれや君を心にとどめおきて
  あはれと思ふ恨めしと聞く

 なほ、え思し放たじ」

 とある御文を、少将持ておはして、ただ入りに入りたまふ。

 南面の簀子に円座さし出でて、人びと、もの聞こえにくし。宮は、ましてわびしと思す。

 この君は、なかにいと容貌よく、めやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思ひ出でたるけしきなり。

 「参り馴れにたる心地して、うひうひしからぬに、さも御覧じ許さずやあらむ」

 などばかりぞかすめたまふ。御返りいと聞こえにくくて、

 「われはさらにえ書くまじ」

 とのたまへば、

 「御心ざしも隔て若々しきやうに。宣旨書き、はた聞こえさすべきにやは」

 と、集りて聞こえさすれば、まづうち泣きて、

 「故上おはせましかば、いかに心づきなし、と思しながらも、罪を隠いたまはまし」

 と思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地して、書きやりたまはず。

 「何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつを
  憂
しとも思ひかなしとも聞く」

 とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、おしつつみて出だしたまうつ。少将は、人びと物語して、

 「時々さぶらふに、かかる御簾の前は、たづきなき心地しはべるを、今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外なども許されぬべき、年ごろのしるし現はれはべる心地なむしはべる」

 など、けしきばみおきて出でたまひぬ。

 [第四段 藤典侍、雲居雁を慰める]

 いとどしく心よからぬ御けしき、あくがれ惑ひたまふほど、大殿の君は、日ごろ経るままに、思し嘆くことしげし。典侍、かかることを聞くに、

 「われを世とともに許さぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきことも出で来にけるを」

 と思ひて、文などは時々たてまつれば、聞こえたり。

 「数ならば身に知られまし世の憂さを
  人のためにも濡らす袖かな」

 なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、「かれもいとただにはおぼえじ」と思す片心ぞ、つきにける。

 「人の世の憂きをあはれと見しかども
  身にかへむとは思はざりしを」

 とのみあるを、思しけるままと、あはれに見る。

 この、昔、御中絶えのほどには、この内侍のみこそ、人知れぬものに思ひとめたまへりしか、こと改めて後は、いとたまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがに君達はあまたになりにけり。

 この御腹には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりに生ひ出でたまける。

 内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。三の君、次郎君は、東の御殿にぞ、取り分きてかしづきたてまつりたまふ。院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。

 この御仲らひのこと、言ひやるかたなく、とぞ。

 【出典】
出典1 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける(古今集秋上-二〇四 読人しらず)(戻)
出典2 あな恋ひし今も見てしか山賤の垣ほに咲ける大和撫子(古今集恋四-六九五 読人しらず)(戻)
出典3 夕闇は道たどたどし月待ちて帰れ我が背子その間にも見む(古今六帖一-三七一)(戻)
出典4 君恋ふる心は千々に砕くれど一つも失せぬものにぞありける(後拾遺集恋四-八〇一 和泉式部)(戻)
出典5 夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢はぬ君ゆゑ(古今六帖一-六三三)(戻)
出典6 なき名ぞと人には言ひてありぬべし心の問はばいかが答へむ(後撰集恋三-七二五 読人しらず)(戻)
出典7 飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する(古今集雑下-九九二 陸奥)(戻)
出典8 身を捨てて行きやしにけむ思ふより外なるものは心なりけり(古今集雑下-九七七 凡河内躬恒)(戻)
出典9 我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集恋一-四八八 読人しらず)(戻)
出典10 心には千重に思へど人に言はぬわが恋妻を見むよしもがな(古今六帖四-一九九〇 かさのにらう)(戻)
出典11 かねてより辛さを我にならはさでにはかに物を思はさぬかな(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典12 人に逢はむ月のなきには思ひおきて胸走り火に心焼けをり(古今集俳諧-一〇三〇 小野小町)(戻)
出典13 風早み峯の葛葉のともすればあやかりやすき人の心か(拾遺集雑恋-一二五一 読人しらず)(戻)
出典14 秋なれば山とよむまで鳴く鹿に我劣らめや独り寝る夜は(古今集恋二-五八二 読人しらず)(戻)
出典15 秋の夜の月の光し明かければ暗部の山も越えぬべらなり(古今集秋上-一九五 在原元方)(戻)
出典16 いかにしていかによるらむ小野山の上より落つる音無の滝(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典17 朝露貪名利 夕陽憂子孫(白氏文集二-七九「不致仕」)(戻)
出典18 足引きの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を独りかも寝む(拾遺集恋三-七七八 人麿)(戻)
出典19 身を捨てて深き淵にも入りぬべし底の心の知らまほしさに(後拾遺集恋一-六四七 源道済)(戻)
出典20 人非木石皆有情 不如不遇傾城色(白氏文集四-一六〇 「李夫人」)(戻)
出典21 言ひたてば誰が名か惜しき信濃なる木曽路の橋の踏みし絶えなば(奥入所引-出典未詳)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 うしろやすさ--うしろやすき(き/$さ<朱>)(戻)
校訂2 知らぬ--しか(しか/$し<朱>)らぬ(戻)
校訂3 例ならぬ--れ(れ/+い<朱>)ならぬ(戻)
校訂4 満ちて--みちに(に/$<朱>)て(戻)
校訂5 いとほしげなり--*いとほしけなる(戻)
校訂6 身の--身(身/+の)(戻)
校訂7 きこえたまひ--きこえ(え/+給<朱>)(戻)
校訂8 笑ふ--わつ(つ/$<朱>)らふ(戻)
校訂9 取らむ--*とゝむ(戻)
校訂10 今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなり--*いまめかしさも見ならはすなり(戻)
校訂11 女は--*女なは(戻)
校訂12 心幼くて--*をさなくて(戻)
校訂13 片へこそ--かたへに(に/$こ<朱>)そ(戻)
校訂14 なきを--な(な/+き)を(戻)
校訂15 いかなるにか--いかなるに(に/$<朱>)にか(戻)
校訂16 先ざきも--さま(ま/$き)/\も(戻)
校訂17 所からにや--所から(ら/+にや<朱>)(戻)
校訂18 そよや--そ(そ/+よ<朱>)や(戻)
校訂19 かうやう--か(か/+う<朱>)やう(戻)
校訂20 思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め--*おもひしつめ(戻)
校訂21 ゆくりか--ゆくる(る/$り<朱>)か(戻)
校訂22 見譲る--*ゆつる(戻)
校訂23 げにと--けにとも(も/$)(戻)
校訂24 御唐櫃--御からう(う/=ひ<朱>)つ(戻)
校訂25 心憂ければ--心うけれ(れ/+は<朱>)(戻)
校訂26 たまへかし--たまへり(り/$か<朱>)し(戻)
校訂27 ひとつを--ひとつに(に/$を<朱>)(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入