First updated 09/20/1996
Last updated 04/03/2024
渋谷栄一校訂(C)

  

須磨

 [凡例]
 大島本「須磨」(「大島本源氏物語」影印版・DVD-ROM版)を底本とし、その本行本文と一筆の本文訂正跡を基に本文整定した。

 [主要登場人物]

 光る源氏(ひかるげんじ)
呼称---大将・殿・主人の君・源氏の光君・君・殿・主人、二十六歳から二十七歳
 頭中将(とうのちゅうじょう)
呼称---三位中将・宰相、故葵の上の兄
 桐壺院(きりつぼのいん)
呼称---院・帝・国王、光る源氏の父
 朱雀帝(すざくてい)
呼称---主上・帝・内裏の上・内裏、光る源氏の兄
 弘徽殿大后(こきでんのおおぎさき)
呼称---后の宮・宮、朱雀帝の母后
 藤壺の宮(ふじつぼのみや)
呼称---入道の宮・宮、桐壺帝の后、東宮の母
 紫の上(むらさきのうえ)
呼称---西の対・姫君・女君・姫君・二条院の君・二条院の姫君、光る源氏の妻
 朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)
呼称---尚侍君・尚侍・女君・女、右大臣の娘、弘徽殿大后の妹
 明石入道(あかしのにゅうどう)
呼称---入道・父君・父入道、明石の君の父
光る源氏の二十六歳春三月下旬から二十七歳春三月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語

第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語

  1. 源氏、須磨退去を決意---世の中、いとわづらはしく
  2. 左大臣邸に離京の挨拶---三月二十日あまりのほどになむ
  3. 二条院の人々との離別---殿におはしたれば、わが御方の人びとも
  4. 花散里邸に離京の挨拶---花散里の心細げに思して
  5. 旅生活の準備と身辺整理---よろづのことどもしたためさせたまふ
  6. 藤壺に離京の挨拶---明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふ
  7. 桐壺院の御墓に離京の挨拶---月待ち出でて出でたまふ
  8. 東宮に離京の挨拶---明け果つるほどに帰りたまひて
  9. 離京の当日---その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らし
第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
  1. 須磨の住居---おはすべき所は、行平の中納言の
  2. 京の人々へ手紙---やうやう事静まりゆくに、長雨のころ
  3. 伊勢の御息所へ手紙---まことや、騒がしかりしほどの紛れに
  4. 朧月夜尚侍参内する---尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを
第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
  1. 須磨の秋---須磨には、いとど心尽くしの秋風に
  2. 配所の月を眺める---月のいとはなやかにさし出でたるに
  3. 筑紫五節と和歌贈答---そのころ、大弐は上りける
  4. 都の人々の生活---都には、月日過ぐるままに
  5. 須磨の生活---かの御住まひには、久しくなるままに
  6. 明石入道の娘---明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば
第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
  1. 須磨で新年を迎える---須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに
  2. 上巳の祓と嵐---弥生の朔日に出で来たる巳の日

【定家注釈】
【校訂付記】

 

第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語

 [第一段 源氏、須磨退去を決意]

 世の中、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもや」と思しなりぬ。
 「かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」など聞きたまへど、「人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを」、人悪くぞ思し乱るる。

 よろづのこと、来し方行く末、思ひ続けたまふに、悲しきこといとさまざまなり。憂きものと思ひ捨てつる世も、今はと住み離れなむことを思すには、いと捨てがたきこと多かるなかにも、姫君の、明け暮れにそへては、思ひ嘆きたまへるさまの、心苦しうあはれなるを、「行きめぐりても、また逢ひ見むことをかならず」と、思さむにてだに、なほ一、二日のほど、よそよそに明かし暮らす折々だに、おぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、「幾年そのほどと限りある道にもあらず、逢ふを限りに隔たりゆかむも、定めなき世に、やがて別るべき門出にもや」と、いみじうおぼえたまへば、「忍びてもろともにもや」と、思し寄る折あれど、さる心細からむ海づらの、波風よりほかに立ちまじる人もなからむに、かくらうたき御さまにて、引き具したまへらむ(校訂01)も、いとつきなく、わが心にも、「なかなか、もの思ひのつまなるべきを」など思し返すを、女君は、「いみじからむ道にも、後れきこえずだにあらば」と、おもむけて、恨めしげに思いたり。

 かの花散里にも、おはし通ふことこそまれなれ、心細くあはれなる御ありさまを、この御蔭に隠れてものしたまへば、思し嘆きたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかに見たてまつり通ひたまひし所々、人知れぬ心をくだきたまふ人ぞ多かりける。

 入道の宮よりも、「ものの聞こえや、またいかがとりなさむ」と、わが御ためつつましけれど、忍びつつ御とぶらひ常にあり。「昔、かやうに相思し、あはれをも見せたまはましかば」と、うち思ひ出でたまふにも、「さも、さまざまに、心をのみ尽くすべかりける人の御契りかな」と、つらく思ひきこえたまふ。

 [第二段 左大臣邸に離京の挨拶]

 三月二十日あまりのほどになむ、都を離れたまひける。人にいつとしも知らせたまはず、ただいと近う仕うまつり馴れたる限り、七、八人ばかり御供にて、いとかすかに出で立ちたまふ。さるべき所々に、御文ばかりうち忍びたまひしにも、あはれと忍ばるばかり尽くいたまへるは、見どころもありぬべかりしかど、その折の、心地の紛れに、はかばかしうも聞き置かずなりにけり。

 二、三日かねて、夜に隠れて、大殿に渡りたまへり。網代車のうちやつれたるにて、女車のやうにて隠ろへ入り(校訂02)たまふも、いとあはれに、夢とのみ見ゆ。御方、いと寂しげにうち荒れたる心地して、若君の御乳母ども、昔さぶらひし人のなかに、まかで散らぬ限り、かく渡りたまへるをめづらしがりきこえて(校訂03)、参う上り集ひて見たてまつるにつけても、ことにもの深からぬ若き人びとさへ、世の常なさ思ひ知られて、涙にくれたり。
 若君はいとうつくしうて、され走りおはしたり。
 〔源氏〕「久しきほどに、忘れぬこそ、あはれなれ」
 とて、膝に据ゑたまへる御けしき、忍びがたげなり。

 大臣、こなたに渡りたまひて、対面したまへり。
 〔左大臣〕「つれづれに籠もらせたまへらむほど、何とはべらぬ昔物語も、参りて、聞こえさせむと思うたまへれど、身の病重きにより、朝廷にも仕うまつらず、位をも返し(校訂04)たてまつりてはべるに、私ざまには腰のべてなむと、ものの聞こえひがひがしかるべきを、今は世の中憚るべき(校訂05)身にもはべらねど、いちはやき世のいと恐ろしうはべるなり。かかる御ことを見たまふる(校訂06)につけて、命長きは心憂く思うたまへらるる世の末にもはべるかな。天の下をさかさまになしても、思うたまへ寄らざりし御ありさまを見たまふれば、よろづいとあぢきなくなむ」
 と聞こえたまひて、いたうしほたれたまふ。

 〔源氏〕「とあることも、かかることも、前の世の報いにこそはべるなれば、言ひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになむはべる。さして、かく、官爵を取られず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは、咎重きわざに人の国にもしはべるなるを、遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さま異なる罪に当たるべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせて、つれなく過ぐしはべらむも、いと憚り多く、これより大きなる恥にのぞまぬさきに、世を逃れなむと思うたまへ立ちぬる」
 など、こまやかに聞こえたまふ。

 昔の御物語、院の御こと、思しのたまはせし御心ばへなど聞こえ出でたまひて、御直衣の袖もえ引き放ちたまはぬに、君も、え心強くもてなしたまはず。若君の何心なく紛れありきて、これかれに馴れきこえたまふを、いみじと思いたり。

 〔左大臣〕「過ぎはべりにし人を、世に思うたまへ忘るる世なくのみ、今に悲しびはべるを、この御ことになむ、もしはべる世ならましかば、いかやうに思ひ嘆きはべらまし。よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、思うたまへ慰めはべり。幼くものしたまふが、かく齢過ぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日や隔たりたまはむと思ひたまふるをなむ、よろづのことよりも、悲しうはべる。いにしへの人も、まことに犯しあるにてしも、かかることに当たらざりけり。なほさるべきにて、人の朝廷にもかかるたぐひ多うはべりけり。されど、言ひ出づる節ありてこそ、さることもはべりけれ、とざまかうざまに、思ひたまへ寄らむかたなくなむ」
 など(校訂07)、多くの御物語聞こえたまふ。

 三位中将も参りあひたまひて、大御酒など参りたまふに、夜更けぬれば、泊まりたまひて、人びと御前にさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。人よりはこよなう忍び思す中納言の君、言へばえに悲しう思へるさまを、人知れずあはれと思す。人皆静まりぬるに、とりわきて語らひたまふ。これにより泊まりたまへるなるべし。

 明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかなる木蔭の、いと白き庭に薄く霧りわたりたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜のあはれにおほくたちまされり。隅の高欄におしかかりて、とばかり、眺めたまふ。

 中納言の君、見たてまつり送らむとにや、妻戸おし開けてゐたり。
 〔源氏〕「また対面あらむことこそ、思へばいと難けれ。かかりける世を知らで、心やすくもありぬべかりし月ごろ、さしも急がで、隔てしよ」
 などのたまへば、ものも聞こえず泣く。

 若君の御乳母の宰相の君して、宮の御前より御消息聞こえたまへり。
 〔大宮〕「身づから聞こえまほしきを、かきくらす乱り心地ためらひはべるほどに、いと夜深う出でさせたまふなるも、さま変はりたる心地のみしはべるかな。心苦しき人のいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」
 と聞こえたまへれば、うち泣きたまひて、

 〔源氏〕「鳥辺山燃えし煙もまがふやと
  海人の塩焼く浦見にぞ行く」

 御返りともなくうち誦じたまひて、
 〔源氏〕「暁の別れは、かうのみや心尽くしなる。思ひ知りたまへる人もあらむかし」
 とのたまへば、
 〔宰相君〕「いつとなく、別れといふ文字こそうたてはべるなるなかにも、今朝はなほたぐひあるまじう思うたまへらるるほどかな」
 と、鼻声にて、げに浅からず思へり。

 〔源氏〕「聞こえさせまほしきことも、返す返す思うたまへながら、ただに結ぼほれはべるほど、推し量らせたまへ。いぎたなき人は、見たまへむにつけても、なかなか、憂き世逃れがたう思うたまへられぬべければ、心強う思うたまへなして、急ぎまかではべり」
 と聞こえたまふ。

 出でたまふほどを、人びと覗きて見たてまつる。
 入り方の月いと明かきに、いとどなまめかしうきよらにて、ものを思いたるさま、虎、狼だに泣きぬべし。まして、いはけなくおはせしほどより見たてまつりそめてし人びとなれば、たとしへ(校訂08)なき御ありさまをいみじと思ふ。
 まことや、御返り、

 〔大宮〕「亡き人の別れやいとど隔たらむ
  煙となりし雲居ならでは」

 取り添へて、あはれのみ尽きせず、出でたまひぬる名残、ゆゆしきまで泣きあへり。

 [第三段 二条院の人々との離別]

 殿におはしたれば、わが御方の人びとも、まどろまざりけるけしきにて、所々に群れゐて、あさましとのみ世を思へるけしきなり。侍には、親しう仕まつる限りは、御供に参るべき心まうけして、私の別れ惜しむほどにや、人もなし。さらぬ人は、とぶらひ参るも重き咎めあり、わづらはしきことまされば、所狭く集ひし馬、車の方もなく、寂しきに、「世は憂きものなりけり」と、思し知らる。
 台盤なども、かたへは塵ばみて、畳、所々引き返したり。「見るほどだにかかり。ましていかに荒れゆかむ」と思す。

 西の対に渡りたまへれば、御格子も参らで、眺め明かしたまひければ、簀子などに、若き童女、所々に臥して、今ぞ起き騒ぐ。宿直姿どもをかしうてゐるを見たまふにも、心細う、「年月経ば、かかる人びとも、えしもあり果てでや、行き散らむ」など、さしもあるまじきこと(校訂09)さへ、御目のみとまりけり。

 〔源氏〕「昨夜は、しかしかして夜更けにしかばなむ。例の思はずなるさまにや思しなしつる。かくてはべるほどだに御目離れずと思ふを、かく世を離るる際には、心苦しきことのおのづから多かりける、ひたやごもりにてやは。常なき世に、人にも情けなきものと心おかれ(校訂10)果てむと、いとほしうてなむ」
 と聞こえたまへば、
 〔紫君〕「かかる世を見るよりほかに、思はずなることは、何ごとにか」
 とばかりのたまひて、いみじと思し入れたるさま、人よりことなるを、ことわりぞかし、父親王、いとおろかにもとより思しつきにけるに、まして、世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを、継母の北の方などの、
 〔継母北方〕「にはかなりし幸ひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。思ふ人、方々につけて別れたまふ人かな」
 とのたまひけるを、さる便りありて漏り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、これよりも絶えて訪れきこえたまはず。また頼もしき人もなく、げにぞ、あはれなる御ありさまなる。

 〔源氏〕「なほ世に許されがたうて、年月を経ば、巌の中にも迎へたてまつらむ。ただ今は、人聞きのいとつきなかるべきなり。朝廷にかしこまりきこゆる人は、明らかなる月日の影をだに見ず、安らかに身を振る舞ふことも、いと罪重かなり。過ちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめと思ふに、まして思ふ人具するは、例なきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしき世にて、立ちまさることもありなむ」
 など聞こえ知らせたまふ。

 日たくるまで大殿籠もれり。帥宮、三位中将などおはしたり。対面したまはむとて、御直衣などたてまつる。
 〔源氏〕「位なき人は」
 とて、無紋の(校訂11)直衣、なかなか、いとなつかしきを着たまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、面痩せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、
 〔源氏〕「こよなうこそ、衰へにけれ。この影のやうにや痩せてはべる。あはれなるわざかな」
 とのたまへば、女君、涙一目うけて、見おこせたまへる、いと忍びがたし。

 〔源氏〕「身はかくてさすらへぬとも君があたり
  去らぬ鏡の影は離れじ」

 と、聞こえたまへば、

 〔紫君〕「別れても影だにとまるものならば
  鏡を見ても慰めてまし」

 柱隠れにゐ隠れて、涙を紛らはしたまへるさま、「なほ、ここら見るなかにたぐひなかりけり」と、思し知らるる人の御ありさま(校訂12)なり。
 親王は、あはれなる御物語聞こえたまひて、暮るるほどに帰りたまひぬ。

 [第四段 花散里邸に離京の挨拶]

 花散里の心細げに思して、常に聞こえたまふもことわりにて、「かの人も、今ひとたび見ずは、つらしとや思はむ」と思せば、その夜は、また出でたまふものから、いともの憂くて、いたう更かしておはしたれば、女御、
 〔麗景殿女御〕「かく数まへたまひて、立ち寄らせたまへること」
 と、よろこびきこえたまふさま、書き続けむもうるさし。
 いといみじう心細き御ありさま、ただ御蔭に隠れて過ぐいたまへる年月、いとど荒れまさらむほど思しやられて、殿の内、いとかすかなり。
 月おぼろにさし出でて、池広く、山木深きわたり、心細げに見ゆるにも、住み離れたらむ巌のなか、思しやらる。

 西面は、「かうしも渡りたまはずや」と、うち屈して思しけるに、あはれ添へたる月影の、なまめかしうしめやかなるに、うち振る舞ひたまへるにほひ、似るものなくて、いと忍びやかに入りたまへば、すこしゐざり出でて、やがて月を見ておはす。またここに御物語のほどに、明け方近うなりにけり。

 〔源氏〕「短夜のほどや。かばかりの対面も、またはえしもやと思ふこそ、ことなしにて過ぐしつる年ごろも悔しう、来し方行く先のためしになるべき身にて、何となく心のどまる世なくこそありけれ」

 と、過ぎにし方のことどものたまひて、鶏もしばしば鳴けば、世につつみて急ぎ出でたまふ。例の、月の入り果つるほど、よそへられて、あはれなり。女君の濃き御衣に映りて、げに、漏るる顔(朱筆行間注記01)なれば、

 〔花散里〕「月影の宿れる袖はせばくとも
  とめても見ばやあかぬ光を」

 いみじと思いたるが、心苦しければ、かつは慰めきこえたまふ。

 〔源氏〕「行きめぐりつひにすむべき月影の
  しばし雲らむ空な眺めそ

 思へば、はかなしや。ただ、知らぬ涙のみこそ、心を昏らすものなれ」
 などのたまひて、明けぐれのほどに出でたまひぬ。

 [第五段 旅生活の準備と身辺整理]

 よろづのことどもしたためさせたまふ。親しう仕まつり、世になびかぬ限りの人びと、殿の事とり行なふべき上下、定め置かせたまふ。御供に慕ひきこゆる限りは、また選り出でたまへり。

 かの山里の御住みかの具は、えさらずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども『文集』など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。所狭き御調度、はなやかなる御よそひなど、さらに具したまはず、あやしの(校訂13)山賤めきてもてなしたまふ。

 さぶらふ人びとよりはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえわたしたまふ。領じたまふ御荘、御牧よりはじめて、さるべき所々、券など、みなたてまつり置きたまふ。それよりほかの御倉町、納殿などいふことまで、少納言をはかばかしきものに見置きたまへれば、親しき家司ども具して、知ろしめすべきさまどものたまひ預く。
 

 わが御方の中務、中将などやうの人びと、つれなき御もてなしながら、見たてまつるほどこそ慰めつれ、「何ごとにつけてか」と思へども、
 〔源氏〕「命ありてこの世にまた帰るやうもあらむを、待ちつけむと思はむ人は、こなたにさぶらへ」
 とのたまひて、上下、皆参う上らせたまふ。

 若君の御乳母たち、花散里なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき筋に思し寄らぬことなし。

 尚侍の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。
 〔源氏〕「問はせたまはぬも、ことわりに思ひたまへながら、今はと、世を思ひ果つるほどの(校訂14)憂さもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。

  逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや
  流るる澪の初めなりけむ

 と思ひたまへ出づるのみなむ、罪逃れがたうはべりける」
 道のほども危ふければ、こまかには聞こえたまはず。
 女、いといみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまるも所狭うなむ。

 〔朧月夜〕「涙河浮かぶ水泡も消えぬべし
  流れて後の瀬をも待たずて」

 泣く泣く乱れ書きたまへる御手、いとをかしげなり。今ひとたび対面なくやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、憂しと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。

 [第六段 藤壺に離京の挨拶]

 明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山へ詣でたまふ。暁かけて月出づるころなれば、まづ、入道の宮に参うでたまふ。近き御簾の前に御座参りて、御みづから聞こえさせたまふ。春宮の御事をいみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ。

 かたみに心深きどちの御物語は、よろづあはれまさりけむかし。なつかしうめでたき御けはひの昔に変はらぬに、つらかりし御心ばへ(校訂15)も、かすめきこえさせまほしけれど、今さらにうたてと思さるべし、わが御心にも、なかなか今ひときは乱れまさりぬべければ、念じ返して、ただ、
 〔源氏〕「かく思ひかけぬ罪に当たりはべるも、思うたまへあはすることの一節になむ、空も恐ろしうはべる。惜しげなき身はなきになしても、宮の御世にだに、ことなくおはしまさば」
 とのみ聞こえたまふぞ、ことわりなるや。

 宮も、みな思し知らるることにしあれば、御心のみ動きて、聞こえやりたまはず。大将、よろづのことかき集め思し続けて、泣きたまへるけしき、いと尽きせずなまめきたり。
 〔源氏〕「御山に参りはべるを、御言つてや」
 と聞こえたまふに、とみにものも聞こえたまはず、わりなくためらひたまふ御けしきなり。

 〔藤壺〕「見しはなくあるは悲しき世の果てを
  背きしかひもなくなくぞ経る」

 いみじき御心惑ひどもに、思し集むることどもも、えぞ続けさせたまはぬ。

 〔源氏〕「別れしに悲しきことは尽きにしを
  またぞこの世の憂さはまされる」

 [第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶]

 月待ち出でて出でたまふ。御供にただ五、六人ばかり、下人もむつましき限りして、御馬にてぞおはする。さらなることなれど、ありし世の御ありきに異なり、皆いと悲しう思ふなり。なかに、かの御禊の日、仮の御随身にて仕うまつりし右近の将監の蔵人、得べきかうぶりもほど過ぎつるを、つひに御簡削られ、官も取られて、はしたなければ、御供に参るうちなり。
 賀茂の下の御社を、かれと見渡すほど、ふと思ひ出でられて、下りて、御馬の口を取る。

 〔右近将監〕「ひき連れて葵かざししそのかみを
  思へばつらし賀茂の瑞垣」

 と言ふを、「げに、いかに思ふらむ。人よりけにはなやかなりしものを」と思すも、心苦し。
 君も、御馬より下りたまひて、御社のかた拝みたまふ。神にまかり申したまふ。

 〔源氏〕「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ
  名をば糺の神にまかせて」

 とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあはれにめでたしと見たてまつる。

 御山に詣うでたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目の前のやうに思し出でらる。限りなきにても、世に亡くなりぬる人ぞ、言はむかたなく口惜しきわざなりける。よろづのことを泣く泣く申したまひても、そのことわりをあらはに承りたまはねば、「さばかり思しのたまはせしさまざまの御遺言は、いづちか消え失せにけむ」と、言ふかひなし。

 御墓は、道の草茂くなりて、分け入りたまふほど、いとど露けきに、月も隠れて、森の木立、木深く心すごし。帰り出でむ方もなき心地(校訂16)して、拝みたまふに、ありし御面影、さやかに見えたまへる、そぞろ寒きほどなり。

 〔源氏〕「亡き影やいかが見るらむよそへつつ
  眺むる月も雲隠れぬる」

 [第八段 東宮に離京の挨拶]

 明け果つるほどに帰りたまひて、春宮にも御消息聞こえたまふ。王命婦を御代はりにてさぶらはせたまへば、「その御局に(校訂17)」とて、

 〔源氏〕「今日なむ、都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなむ、あまたの憂へにまさりて思うたまへられはべる。よろづ推し量りて啓したまへ。

 いつかまた春の都の花を見む
 時失へる山賤にして」

 桜の散りすきたる枝につけたまへり。「かくなむ」と御覧ぜさすれば、幼き御心地にもまめだちておはします。
 〔王命婦〕「御返りいかがものしたまふらむ」
 と啓すれば、
 〔春宮〕「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」
 とのたまはす。「ものはかなの御返りや」と、あはれに見たてまつる。あぢきなきことに御心をくだきたまひし昔のこと、折々の御ありさま、思ひ続けらるるにも、もの思ひなくて我も人も過ぐいたまひつべかりける世を、心と思し嘆きけるを悔しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返りは、
 〔王命婦〕「さらに聞こえさせやりはべらず。御前には啓しはべりぬ。心細げに思し召したる御けしきもいみじくなむ」
 と、そこはかとなく、心の乱れけるなるべし。

 〔王命婦〕「咲きてとく散るは憂けれどゆく春は
  花の都を立ち帰り見よ
 時しあらば」

 と聞こえて、名残もあはれなる物語をしつつ、一宮のうち、忍びて泣きあへり。
 一目も見たてまつれる人は、かく思しくづほれぬる御ありさまを、嘆き惜しみきこえぬ人なし。まして、常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで、ありがたき御顧みの下なりつるを、「しばしにても、見たてまつらぬほどや経む」と、思ひ嘆きけり。

 おほかたの世の人も、誰かはよろしく思ひきこえむ。七つになりたまひしこのかた(校訂18)、帝の御前に夜昼さぶらひたまひて、奏したまふことの成らぬはなかりしかば、この御いたはりにかからぬ人なく、御徳をよろこばぬやはありし。やむごとなき上達部、弁官などのなかにも多かり。それより下は数知らぬを、思ひ知らぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき世を思ひ憚りて、参り寄るもなし。世ゆすりて惜しみきこえ(校訂19、下に朝廷をそしり、恨みたてまつれど、「身を捨ててとぶらひ参らむにも、何のかひかは」と思ふにや、かかる折は人悪ろく、恨めしき人多く、「世の中はあぢきなきものかな」とのみ、よろづにつけて思す。

 [第九段 離京の当日]

 その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の、夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の御よそひ(校訂20)、いたくやつしたまひて、

 〔源氏〕「月出でにけりな。なほすこし出でて、見だに送りたまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日、二日たまさかに隔たる折だに、あやしういぶせき心地するものを」

 とて、御簾巻き上げて、端にいざなひきこえたまへば、女君、泣き沈みたまへるを(校訂21)、ためらひて、ゐざり出でたまへる、月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり。「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、

 〔源氏〕「生ける世の別れを知らで契りつつ
  命を人に限りけるかな
 はかなし」

 など、あさはかに聞こえなしたまへば、

 〔紫君〕「惜しからぬ命に代へて目の前の
  別れをしばしとどめてしがな」

 「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

 道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、松ばかりぞしるしなる。

 〔源氏〕「唐国に名を残しける人よりも
  行方知られぬ家居をやせむ」

 渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、「うらやましくも」と、うち誦じたまへるさま、さる世の古言なれど、珍しう聞きなされ、悲しとのみ御供の人びと思へり。うち顧みたまへるに、来し方の山は霞はるかにて、まことに「三千里の外」の心地するに、櫂の雫も堪へがたし。

 〔源氏〕「故郷を峰の霞は隔つれど
  眺むる空は同じ雲居か」

 つらからぬものなくなむ。

 

第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語

 [第一段 須磨の住居]

 おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ(朱筆行間注記02)」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。
 垣のさまよりはじめて、めづらかに見たまふ。茅屋ども、葦葺ける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、やう変はりて、「かからぬ折ならば、をかしうもありなまし」と、昔の御心のすさび思し出づ。

 近き所々の御荘の司召して、さるべきことどもなど、良清朝臣、親しき家司にて、仰せ行なふもあはれなり。時の間に、いと見所ありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。国の守も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともなう、人騒がしけれども、はかばかしう物をものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、「いかで年月を過ぐさまし」と思しやらる。

 [第二段 京の人々へ手紙]

 やうやう事静まりゆくに、長雨のころになりて、京のことも思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、春宮の御事、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、ここかしこ思ひやりきこえたまふ。

 京へ人出だし立てたまふ。二条院へたてまつりたまふと、入道の宮のとは、書きもやりたまはず、昏されたまへり。宮には、

 〔源氏〕「松島の海人の苫屋もいかならむ
  須磨の浦人しほたるるころ
 いつとはべらぬなかにも、来し方行く先かきくらし、『汀まさりて』なむ」

 尚侍の御もとに、例の、中納言の君の私事のやうにて、中なるに、

 〔源氏〕「つれづれと過ぎにし方の思ひたまへ出でらるるにつけても、
  こりずまの浦のみるめ(朱筆行間注記03)のゆかしきを
  塩焼く海人やいかが思はむ」

 さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし。
 大殿にも(校訂22)、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書きつかはす。

 京には、この御文、所々に見たまひつつ、御心乱れたまふ人びとのみ多かり。二条院の君は、そのままに起きも上がりたまはず、尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人びともこしらへわびつつ、心細う思ひあへり。

 もてならしたまひし御調度ども、弾きならしたまひし御琴、脱ぎ捨てたまひつる御衣の匂ひなどにつけても、今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、僧都に御祈りのことなど聞こゆ。二方に御修法などせさせたまふ。かつは、「思し嘆く御心静めたまひて、思ひなき世にあらせたてまつりたまへ」と、心苦しきままに祈り申したまふ。

 旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。かとりの御直衣、指貫、さま変はりたる心地するもいみじきに、「去らぬ鏡」とのたまひし面影の、げに身に添ひたまへるもかひなし。

 出で入りたまひし方、寄りゐたまひし真木柱などを見たまふにも、胸のみふたがりて、ものをとかう思ひめぐらし、世にしほじみぬる齢の人だにあり、まして、馴れむつびきこえ、父母にもなりて生ほし立てならはしたまへれば、恋しう思ひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすら世になくなりなむは、言はむ方なくて、やうやう忘れ草も生ひやすらむ、聞くほどは近けれど、いつまでと限りある御別れにもあらで、思すに尽きせずなむ。

 入道宮にも、春宮の御事により思し嘆くさま、いとさらなり。御宿世のほどを思すには、いかが浅く思されむ。年ごろはただものの聞こえなどのつつましさに、「すこし情けあるけしき見せば、それにつけて人のとがめ出づることもこそ」とのみ(校訂23)、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「かばかり憂き世の人言なれど、かけてもこの方には言ひ出づることなくて止みぬるばかりの、人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし」。あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ。御返りも、すこしこまやかにて、

 〔藤壺〕「このころは、いとど、
  塩垂るることをやくにて松島に
  年ふる海人も嘆きをぞつむ」

 尚侍君の御返りには、

 〔朧月夜〕「浦にたく海人だにつつむ恋なれば
  くゆる煙よ行く方ぞなき

 さらなることどもは、えなむ」
 とばかり、いささか書きて、中納言の君の中にあり。思し嘆くさまなど、いみじう言ひたり。あはれと思ひきこえたまふ節々もあれば、うち泣かれたまひぬ。

 姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返りなれば、あはれなること多くて、

 〔紫君〕「浦人の潮くむ袖に比べ見よ
  波路へだつる夜の衣を」

 ものの色、したまへるさまなど、いときよらなり。何ごともらうらうじう(校訂24)ものしたまふを、思ふさまにて、「今は他事に心あわたたしう、行きかかづらふ方もなく、しめやかにてあるべきものを」と思すに、いみじう口惜しう、夜昼面影におぼえて、堪へがたう(校訂25)思ひ出でられたまへば、「なほ忍びてや迎へまし」と思す。またうち返し、「なぞや、かく憂き世に、罪をだに失はむ」と思せば、やがて御精進にて、明け暮れ行なひておはす。

 大殿の若君の御事などあるにも、いと悲しけれど、「おのづから逢ひ見てむ。頼もしき人びとものしたまへば、うしろめたうはあらず」と、思しなさるるは、なかなか、子の道の惑はれぬにやあらむ。

 [第三段 伊勢の御息所へ手紙]

 まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりも、ふりはへ尋ね参れり。浅からぬことども(校訂26)書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。
 〔六条御息所〕「なほうつつとは思ひたまへられぬ御住ひをうけたまはるも、明けぬ夜の心惑ひかとなむ。さりとも、年月隔てたまはじと、思ひやりきこえさするにも、罪深き身のみこそ、また聞こえさせむこともはるかなるべけれ。

  うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ
  藻塩垂るてふ須磨の浦にて

 よろづに思ひたまへ乱るる世のありさまも、なほいかになり果つべきにか」
 と多かり。

 〔六条御息所〕「伊勢島や潮干の潟に漁りても
  いふかひなきは我が身なりけり」

 ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたまへる、白き唐の紙、四、五枚ばかりを巻き続けて(校訂27)、墨つきなど見所あり。

 「あはれに思ひきこえし人を、ひとふし憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひ倦じて別れたまひにし」と思せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえたまふ。折からの御文、いとあはれなれば、御使さへむつましうて、二、三日据ゑさせたまひて、かしこの物語などせさせて聞こしめす。

 若やかにけしきある侍の人なりけり。かくあはれなる御住まひなれば、かやうの人もおのづからもの遠からで、ほの見たてまつる御さま、容貌を、いみじうめでたし、と涙落しをりけり。御返り書きたまふ、言の葉、思ひやるべし。

 〔源氏〕「かく世を離るべき身と、思ひたまへましかば、同じくは慕ひきこえましものを、などなむ。つれづれと、心細きままに、

  伊勢人の波の上漕ぐ小舟にも
  うきめは刈らで乗らましものを
  海人がつむなげきのなかに塩垂れて
  いつまで須磨の浦に眺めむ

 聞こえさせむことの、いつともはべらぬこそ、尽きせぬ心地しはべれ」
 などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず聞こえかはしたまふ。

 花散里も、悲しと思しけるままに書き集めたまへる御心々見たまふ、をかしきも目なれぬ心地して、いづれもうち見つつ慰めたまへど、もの思ひのもよほしぐさなめり。

 〔花散里〕「荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ
  しげくも露のかかる袖かな」

 とあるを、「げに、葎よりほかの後見もなきさまにておはすらむ」と思しやりて、「長雨に築地所々崩れてなむ」と聞きたまへば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御荘の者などもよほさせて、仕うまつるべき由のたまはす。

 [第四段 朧月夜尚侍参内する]

 尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君にて、せちに、宮にも内裏にも奏したまひければ、「限りある女御、御息所にもおはせず、公ざまの宮仕へ」と思し直り、また、「かの憎かりしゆゑこそ、いかめしきことも出で来しか」。許されたまひて、参りたまふべきにつけても、なほ心に染みにし方ぞ、あはれにおぼえたまける。

 七月になりて参りたまふ。いみじかりし名残なれば、人のそしりもしろしめされず、例の、主上につとさぶらはせたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ。
 御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど、思ひ出づることのみ多かる心のうちぞ、かたじけなき。御遊びのついでに、

 〔朱雀帝〕「その人のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思ふ人多からむ。何ごとも光なき心地するかな」とのたまはせて、「院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかし」

 とて、涙ぐませたまふに、え念じたまはず。

 〔朱雀帝〕「世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思ひ知るままに、久しく世にあらむものとなむ、さらに思はぬ。さもなりなむに、いかが思さるべき。近きほどの別れに思ひ落とされむこそ、ねたけれ。生ける世にとは、げに、よからぬ人の言ひ置きけむ」

 と、いとなつかしき御さまにて、ものをまことにあはれと思し入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、

 〔朱雀帝〕「さりや。いづれに落つるにか」

 とのたまはす。

 〔朱雀帝〕「今まで御子たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬことども出で来めれば、心苦しう」
 など、世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人びとのあるに、若き御心の、強きところなきほどにて、いとほしと思したることも多かり。

 

第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語

 [第一段 須磨の秋]

 須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「関吹き越ゆる(奥入01)」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、

 〔源氏〕「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は
  思ふ方より風や吹くらむ」

 と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。

 「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに、いみじくて、「いとかく思ひ沈むさまを、心細しと思ふらむ」と思せば、昼は何くれとうちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、色々の紙を継ぎつつ、手習ひをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざまの絵どもを描きすさびたまへる屏風の面どもなど、いとめでたく見所あり。

 人びとの語り聞こえし海山のありさまを、遥かに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく(校訂28)描き集めたまへり。

 〔供人〕「このころの上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵仕うまつらせばや」

 と、心もとながりあへり。なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う馴れ仕うまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞ、つとさぶらひける。

 前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所からは、ましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、
 「釈迦牟尼仏の弟子」
 と名のりて、ゆるるかに読みたまへる、また世に知らず聞こゆ。

 沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも、心細げなるに、雁の連ねて鳴く声、楫の音にまがへる(校訂29)を、うち眺めたまひて、涙こぼるるをかき払ひたまへる御手つき、黒き御数珠に映えたまへる、故郷の女恋しき人びと、心みな慰みにけり。

 〔源氏〕「初雁は恋しき人の列なれや
  旅の空飛ぶ声の悲しき」
 とのたまへば、良清、
 〔良清〕「かきつらね昔のことぞ思ほゆる
  雁はその世の友ならねども」
 民部大輔、
 〔民部大輔〕「心から常世を捨てて鳴く雁を
  雲のよそにも思ひけるかな」
 前右近将監、
 〔前右近将監〕「常世出でて旅の空なる雁がねも
  列に遅れぬほどぞ慰む
 友まどはしては、いかにはべらまし」

 と言ふ。親の常陸になりて、下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。

 [第二段 配所の月を眺める]

 月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。

 「二千里の外の故人の心(奥入02)
 と誦じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧や隔つる」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出でたまふに、よよと、泣かれたまふ。
 〔供人〕「夜更けはべりぬ」
 と聞こゆれど、なほ入りたまはず。

 〔源氏〕「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ
  月の都は遥かなれども」

 その夜、主上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも、恋しく思ひ出できこえたまひて、
 〔源氏〕恩賜の御衣は今此に在り(奥入03)
 と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身を放たず、かたはらに置きたまへり。

 〔源氏〕「憂しとのみひとへにものは思ほえで
  左右にも濡るる袖かな」

 [第三段 筑紫五節と和歌贈答]

 そのころ、大弐は上りける。いかめしく類広く、娘がちにて所狭かりければ、北の方は舟にて上る。浦づたひに逍遥しつつ来るに、他よりもおもしろきわたりなれば、心とまるに、「大将かくておはす」と聞けば、あいなう、好いたる若き娘たちは、舟の内さへ恥づかしう、心懸想せらる。まして、五節の君は、綱手引き過ぐるも口惜しきに、琴の声、風につきて遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ、取り集め、心ある限りみな泣きにけり。

 帥、御消息聞こえたり。
 〔大弐〕「いと遥かなるほどよりまかり上りては、まづいつしかさぶらひて、都の御物語もとこそ、思ひたまへはべりつれ、思ひの外に、かくておはしましける御宿をまかり過ぎはべる、かたじけなう悲しうもはべるかな。あひ知りてはべる人びと、さるべきこれかれ、参で来向ひてあまたはべれば、所狭さを思ひたまへ憚りはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらに参りはべらむ」
 など聞こえたり。子の筑前守ぞ参れる。この殿の、蔵人になし顧みたまひし人なれば、いとも悲し、いみじと思へども、また見る人びとのあれば、聞こえを思ひて、しばしもえ立ち止まらず。

 〔源氏〕「都離れて後、昔親しかりし人びと、あひ見ること難うのみなりにたるに、かくわざと立ち寄りものしたること」
 とのたまふ。御返りもさやうになむ。

 守、泣く泣く帰りて、おはする御ありさま語る。帥よりはじめ、迎への人びと、まがまがしう泣き満ちたり。五節は、とかくして聞こえたり。

 〔五節〕「琴の音に弾きとめらるる綱手縄
  たゆたふ心君知るらめや
 好き好きしさも、人な咎めそ」

 と聞こえたり。ほほ笑みて見たまふ、いと恥づかしげなり。

 〔源氏〕「心ありて引き手の綱のたゆたはば
  うち過ぎましや須磨の浦波
 いさりせむとは思はざりしはや」

 とあり。駅の長に句詩取らする(奥入04)人もありけるを、まして、落ちとまりぬべくなむおぼえける。

 [第四段 都の人々の生活]

 都には、月日過ぐるままに、帝を初めたてまつりて、恋ひきこゆる折ふし多かり。春宮は、まして、常に思し出でつつ忍びて泣きたまふ。見たてまつる御乳母、まして命婦の君は、いみじうあはれに見たてまつる。

 入道の宮は、春宮の御ことをゆゆしうのみ思ししに、大将もかくさすらへたまひぬるを、いみじう思し嘆かる。
 御兄弟の親王たち、むつましう聞こえたまひし上達部など、初めつ方はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文を作り交はし、それにつけても、世の中にのみめでられたまへば、后の宮聞こしめして、いみじうのたまひけり。

 〔弘徽殿大后〕「朝廷の勘事なる人は、心に任せてこの世のあぢはひをだに知ること難うこそあなれ。おもしろき家居して、世の中を誹りもどきて、かの鹿を馬と言ひけむ(奥入05)人のひがめるやうに追従する」

 など、悪しきことども聞こえければ、わづらはしとて、消息聞こえたまふ人なし。

 二条院の姫君は、ほど経るままに、思し慰む折なし。東の対にさぶらひし人びとも、みな渡り参りし初めは、「などかさしもあらむ」と思ひしかど、見たてまつり馴るるままに、なつかしうをかしき御ありさま、まめやかなる御心ばへも、思ひやり深うあはれなれば、まかで散るもなし。なべてならぬ際の人びとには、ほの見えなどしたまふ。「そこらのなかにすぐれたる御心ざしもことわりなりけり」と見たてまつる。

 [第五段 須磨の生活]

 かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、「我が身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具しては、つきなからむ」さまを思ひ返したまふ。所につけて、よろづのことさま変はり、見たまへ知らぬ下人のうへをも、見たまひ慣らはぬ御心地に、めざましうかたじけなう、みづから思さる。煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、

 〔源氏〕「山賤の庵に焚けるしばしばも
  言問ひ来なむ恋ふる里人」

 冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごく眺めたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔、横笛吹きて、遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、他物の声どもはやめて、涙をのごひあへり。

 昔、胡の国に遣しけむ女(奥入06)を思しやりて、「ましていかなりけむ。この世に我が思ひきこゆる人などをさやうに放ちやりたらむこと」など思ふも、あらむことのやうにゆゆしう(校訂30)て、
 〔源氏〕霜の後の夢(奥入06)
 と誦じたまふ。

 月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、
 〔源氏〕ただ是れ西に行くなり(奥入07)
 と、ひとりごちたまて、

 〔源氏〕「いづ方の雲路に我も迷ひ(校訂31)なむ
  月の見るらむことも恥づかし」

 とひとりごち(校訂32)たまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。

 〔源氏〕「友千鳥諸声に鳴く暁は
  ひとり寝覚の床も頼もし」

 また起きたる人もなければ、返す返すひとりごちて臥したまへり。

 夜深く御手水参り、御念誦(校訂33)などしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてまつり捨てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。

 [第六段 明石入道の娘]

 明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば、良清の朝臣、かの入道の娘を思ひ出でて、文など遣りけれど、返り事もせず、父入道ぞ、
 〔明石入道〕「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」
 と言ひけれど、「うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、むなしく帰らむ後手もをこなるべし」と、屈じいたうて行かず。

 世に知らず心高く思へるに、国の内は守の(校訂34)ゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめる心はさらにさも思はで年月を経けるに、この君かくておはすと聞きて、母君に語らふやう、

 〔明石入道〕「桐壺の更衣の御腹の、源氏の光る君こそ、朝廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君にをたてまつらむ」

 と言ふ。母、

 〔明石母君〕「あな、かたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ちたまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻さへあやまちたまひて、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山賤を、心とどめたまひてむや」

 と言ふ。腹立ちて、

 〔明石入道〕「え知りたまはじ。思ふ心ことなり。さる心をしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」

 と、心をやりて言ふもかたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。母君、

 〔明石母君〕「などか、めでたくとも、ものの初めに、罪に当たりて流されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。さても心をとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり」

 と言ふを、いといたくつぶやく。

 〔明石入道〕「罪に当たることは、唐土にも我が朝廷にも、かく世にすぐれ、何ごとも人にことになりぬる人の、かならずあることなり。いかにものしたまふ君ぞ。故母御息所は、おのが叔父にものしたまひし按察使大納言の娘なり。いとかうざくなる名をとりて、宮仕へに出だしたまへりしに、国王すぐれて時めかしたまふこと、並びなかりけるほどに、人の嫉み重くて亡せたまひにしかど、この君のとまりたまへる、いとめでたしかし。女は心高くつかふべきものなり。おのれ、かかる田舎人なりとて、思し捨てじ」
 など言ひゐたり。

 この娘、すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げに、やむごとなき人に劣るまじかりける。身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、
 〔明石君〕「高き人は、我を何の数にも思さじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。命長くて、思ふ人びとに後れなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむ」
 などぞ思ひける。
 父君、所狭く思ひかしづきて、年に二たび、住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける。

 

第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語

 [第一段 須磨で新年を迎える]

 須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり。

 二月二十日あまり、去にし年、京を別れし時、心苦しかりし人びとの御ありさまなど、いと恋しく、「南殿の桜、盛りになりぬらむ。一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。

 〔源氏〕「いつとなく大宮人の恋しきに
  桜かざしし今日も来にけり」

 いとつれづれなるに、大殿の三位中将は、今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世のおぼえ重くてものしたまへど、世の中あはれにあぢきなく、ものの折ごとに恋しくおぼえたまへば、「ことの聞こえありて罪に当たるともいかがはせむ」と思しなして、にはかに参うでたまふ。
 うち見るより、めづらしううれしきにも、ひとつ涙ぞこぼれける(奥入08)

 住まひたまへるさま、言はむかたなく唐めいたり。所のさま、絵に描きたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の階、松の柱(奥入09)、おろそかなるものから、めづらかにをかし。

 山賤めきて、ゆるし色の黄がちなるに、青鈍の狩衣、指貫、うちやつれて、ことさらに田舎びもてなしたまへるしも、いみじう、見るに笑まれてきよらなり。
 取り使ひたまへる調度も、かりそめにしなして、御座所もあらはに見入れらる。碁、双六盤、調度、弾棊の具など、田舎わざにしなして、念誦の具、行なひ勤めたまひけりと見えたり。もの参れるなど、ことさら所につけ、興ありてしなしたり。

 海人ども漁りして、貝つ物持て参れるを(校訂35)、召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、「心の行方は同じこと。何か異なる」と、あはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたまふを、生けるかひありと思へり。御馬ども近う立てて、見やりなる倉か何ぞなる稲取り出でて飼ふなど、めづらしう見たまふ。

 「飛鳥井」すこし歌ひて、月ごろの御物語、泣きみ笑ひみ、
 〔三位中将〕「若君の何とも世を思さでものしたまふ悲しさを、大臣の明け暮れにつけて思し嘆く」
 など語りたまふに、堪へがたく思したり。尽きすべくもあらねば、なかなか片端もえまねばず。

 夜もすがらまどろまず、文作り明かしたまふ。さ言ひながらも、ものの(校訂36)聞こえをつつみて、急ぎ帰りたまふ。いとなかなかなり。御土器参りて、
 「酔ひの悲しび涙そそく春の盃の裏(奥入10)
 と、諸声に誦じたまふ。御供の人も涙を流す。おのがじし(校訂37)、はつかなる別れ惜しむべかめり。

 朝ぼらけの空に雁連れて渡る。主人の君、

 〔源氏〕「故郷をいづれの春か行きて見む
  うらやましきは帰る雁がね」

 宰相、さらに立ち出でむ心地せで、

 〔三位中将〕「あかなくに雁の常世を立ち別れ
  花の都に道や惑はむ」

 さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御贈りにとて、黒駒たてまつりたまふ。
 〔源氏〕「ゆゆしう思されぬべけれど、風に当たりては、嘶えぬべければなむ」
 と申したまふ。世にありがたげなる御馬のさまなり。
 「形見に偲びたまへ」
 とて、いみじき笛の名ありけるなどばかり、人咎めつべきことは、かたみにえしたまはず。

 日やうやうさし上がりて、心あわたたしければ、顧みのみしつつ出でたまふを、見送りたまふけしき、いとなかなかなり。
 〔三位中将〕「いつまた対面は」
 と申したまふに、主人、

 〔源氏〕「雲近く飛び交ふ鶴も空に見よ
  我は春日の曇りなき身ぞ

 かつは頼まれながら、かくなりぬる人、昔のかしこき人だに、はかばかしう世にまたまじらふこと難くはべりければ、何か、都のさかひをまた見むとなむ思ひはべらぬ」

 などのたまふ。宰相、

 〔三位中将〕「たづかなき雲居にひとり音をぞ鳴く
  翼並べし友を恋ひつつ

 かたじけなく馴れきこえはべりて、いとしもと悔しう思ひたまへらるる折多く」
 など、しめやかにもあらで帰りたまひぬる名残、いとど悲しう眺め暮らしたまふ。

 [第二段 上巳の祓と嵐]

 弥生の朔日に出で来たる巳の日、
 〔供人〕「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、

 〔源氏〕「知らざりし大海の原に流れ来て
  ひとかたにやはものは悲しき」

 とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、

 〔源氏〕「八百よろづ神もあはれと思ふらむ
  犯せる罪のそれとなければ」

 とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。肱笠雨(朱筆行間注記04)とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。波いといかめしう立ちて、人びとの足をそらなり。海の面は、衾を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴りひらめく。落ちかかる心地して、からうしてたどり来て、
 〔供人〕「かかる目は見ずもあるかな」
 〔供人〕「風などは吹くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」
 と惑ふに、なほ止まず鳴りみちて、雨の脚当たる所、徹りぬべく、はらめき落つ。「かくて世は尽きぬるにや」と、心細く思ひ惑ふに、君は、のどやかに経うち誦じておはす。

 暮れぬれば、雷すこし鳴り止みて、風ぞ、夜も吹く。
 〔供人〕「多く立てつる願の力なるべし」
 〔供人〕「今しばし、かくあらば、波に引かれて入りぬべかりけり」
 〔供人〕「高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず」
 と言ひあへり。

 暁方、みなうち休みたり。君も(校訂38)いささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、
 〔龍王〕「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」
 とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、この住まひ堪へがたく思しなりぬ。

 【定家注釈】
大島本「須磨」の奥入と朱筆による行間注記を記載した。

奥入(「明石」巻から正しく移した)

01 せきふきこゆる<行平中納言哥可尋/能宣朝臣哥似之>
02 三五夜中新月色 二千里外故人心
03 去年今夜侍清涼 秋憶詩篇独断腸
  恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香
04 馬長無驚時変改 一葉一落是春秋
05 史記
  趙高指鹿謂馬<秦二世時>
06 王昭君
  翠黛紅顔錦繍粧 泣尋沙塞出家郷
  辺風吹断秋心緒 瀧水流添夜涙行
  胡角一声霜後夢 漢宮万里月前腸
  昭君若贈黄金賂 寔是終身奉帝王
07  たゝこれ西にゆくなり 未勘
08 うれしきもひとつなミたそこほれけり
09 文集 香鑪峯下社卜山居草堂
  五架之間新草堂 石階松柱竹編墻
  十年三月卅日別徽之於[水+豊]上
  十四年三月十一日遇徽之於峡中
  停舟夷陵三宿之別言不然者以詩終寔
  七言十七誼之中
  一別五年方見面 語到天明竟不眠
  生涯共寄蒼波上 郷国倶抛白日辺
  往事渺茫都似夢 旧遊零落半帰泉
10 酔悲灑涙春盃裏 吟苦支顛暁燭前

朱筆行間注記
01 逢ひに逢ひて物思ふころのわが袖に宿る月さへ濡るる顔なる(古今集756)
02 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶとこたへよ(古今集962)
03 白波は立ち騒ぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ(古今六帖1870)
04 婦が門行き過ぎかねつ肱笠の雨も降らなむ笠宿りせむ(出典未詳)

   

 【校訂付記】
底本:大島本 本行本文を尊重し、本文を改める際にはその訂正に依った。
校訂01 たまへらむ--給つ(つ$<朱>)らむ
校訂02 入り--参(参#い)り
校訂03 きこえて--□(□#<朱・墨>)こえて
校訂04 返し--かつ(つ$<朱>)し
校訂05 憚るべき--はかるへき 諸本に拠って「は」を補った
校訂06 たまふる--たまふ 諸本に拠って「る」を補った
校訂07 など--なに(に$<朱>)
校訂08 たとしへ--たとして(て$へ)
校訂09 こと--(+<朱>)と
校訂10 心おかれ--心をう(う#<朱・墨>)かれ
校訂11 無紋の--無紋(+<朱>)
校訂12 御ありさま--(+御)ありさま
校訂13 あやしの--あや(+し)の
校訂14 ほどの--ほう(う#<朱>)の
校訂15 御心ばへ--御(+<朱>)はへ
校訂16 心地--心 諸本に拠って「地」を補った
校訂17 御局に--御局(+に)
校訂18 このかた--このかみ 諸本に従って「かみ」を「かた」と改めた
校訂19 きこえ--きこええ(え$)
校訂20 御よそひ--御△(△#)よそひ
校訂21 たまへるを--たまへる(+を)
校訂22 大殿にも--大殿(+に)も
校訂23 とのみ--(+<朱>)のみ
校訂24 らうらうじう--よ(よ$ら)う/\しう
校訂25 堪へがたう--たえ(え$へ)かたう
校訂26 ことども--こと(+と)も
校訂27 続けて--つ(+<朱>)けて
校訂28 二なく--(+に)なく
校訂29 まがへる--ま(+か)へる
校訂30 ゆゆしう--ゆか(か$<朱>)しう
校訂31 迷ひ--まと(と$<朱>)ひ
校訂32 ひとりごち--ひとりこちたち(たち#)
校訂33 御念誦--(+御)ねんす
校訂34 守の--か(+み)の
校訂35 参れるを--まいれな(な$る)を
校訂36 ものの--もの(+<朱>)
校訂37 おのがじし--をのか(+しゝ)
校訂38 君も--きて(て$み)も

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ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入