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渋谷栄一校訂(C)

  

花散里

 [凡例]
 定家本「花散里」(『源氏物語(青表紙本) 花散里』原装影印古典籍覆製叢刊 昭和53年11月)を底本とし、本文整定した。


 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大将殿(二十五歳 参議兼近衛右大将)
 花散里<はなちるさと>
呼称---三の君(麗景殿女御の妹 源氏の恋人)
 麗景殿女御<れいけいでんのにょうご>
呼称---麗景殿、女御(故桐壺院の女御)
 惟光<これみつ>
呼称---惟光(源氏の乳母子)
  1. 花散里訪問を決意---人知れぬ、御心づからのもの思はしさは
  2. 中川の女と和歌を贈答---何ばかりの御よそひなく、うちやつして
  3. 姉麗景殿女御と昔を語る---かの本意の所は、思しやりつるもしるく
  4. 花散里を訪問---西面には、わざとなく
光る源氏の二十五歳夏、近衛大将時代の物語

【定家注釈】
【校訂付記】

 

花散里の物語

 [第一段 花散里訪問を決意]

 人知れぬ、御心づからのもの思はしさは、いつとなきことなめれど(校訂01)、かくおほかたの世につけてさへ、わづらはしう思し乱るることのみまされば、もの心細く、世の中なべて厭はしう思しならるるに、さすがなること多かり。

 麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院隠れさせたまひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠されて、過ぐしたまふなるべし。

 御おとうとの三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れも果てたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くし果てたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには、思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。

 [第二段 中川の女と和歌を贈答]

 何ばかりの御よそひなく、うちやつして、御前などもなく、忍びて、中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。

 御耳とまりて、門近なる所なれば、すこしさし出でて、見入れたまへば、大きなる桂の木の追ひ風に、祭のころ思し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、「ただ一目見たまひし宿りなり」と見たまふ。ただならず、「ほど経にける、おぼめかしくや」と、つつましけれど、過ぎがてにやすらひたまふ、折しも、ほととぎす鳴きて渡る。もよほしきこえ顔なれば、御車おし返させて、例の、惟光入れたまふ。

 〔源氏〕「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎすほの語らひし宿の垣根に」

 寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、おぼめくなるべし。

 〔女〕「ほととぎす言問ふ声はそれなれどあなおぼつかな五月雨の空」

 ことさらたどると見れば、
 〔惟光〕「よしよし、植ゑし垣根も」
 とて出づるを、人知れぬ心には、ねたうもあはれにも思ひけり。
 〔源氏〕「さも、つつむべきことぞかし。ことわりにもあれば、さすがなり。かやうの際に、筑紫の五節が、らうたげなりしはや」
 と、まづ思し出づ。

 いかなるにつけても、御心の暇なく苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情け過ぐしたまはぬにしも、なかなか、あまたの人のもの思ひぐさなり。

 [第三段 姉麗景殿女御と昔を語る]

 かの本意の所は、思しやりつるもしるく、人目なく、静かにておはするありさまを見たまふも、いとあはれなり。まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。
 二十日の月さし出づるほどに、いとど木高き蔭ども、木暗く見えわたりて、近き橘の薫りなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。

 〔源氏〕「すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、むつましうなつかしき方には思したりしものを」
 など、思ひ出できこえたまふにつけても、昔のことかきつらね思されて、うち泣きたまふ。

 ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。「慕ひ来にけるよ」と、思さるるほども、艶なりかし。「いかに知りてか(付箋01)」など、忍びやかにうち誦んじたまふ。

 〔源氏〕橘の香をなつかしみ(付箋02)ほととぎす花散る里をたづねてぞとふ

 いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るることも、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人、少なうなりゆくを、まして、つれづれも紛れなく思さるらむ」

 と聞こえたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思し続けたる御けしきの浅からぬも、人の御さまからにや、多くあはれぞ添ひにける。

 〔女御〕「人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ」

 とばかりのたまへる、「さはいへど、人にはいとことなりけり」と、思し比べらる。

 [第四段 花散里を訪問]

 西面には、わざとなく、忍びやかにうち振る舞ひたまひて、覗きたまへるも、めづらしきに添へて、世に目なれぬ御さまなれば、つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしく語らひたまふも、思さぬことにあらざるべし。

 かりにも見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも、「ことわりの、世のさが」と、思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにて、ありさま変はりにたるあたりなりけり。

 【定家注釈】
底本:定家本の付箋注記を記載した。

付箋01 いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか鳴く声のする(古今六帖2804)
付箋02 橘の香をなつかしみほととぎす語らひしつつ鳴かぬ日ぞなき(出典未詳)

 【校訂付記】
底本:定家本の本行本文の訂正跡に従った。

校訂01 なめれど--な(+め)れと

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