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渋谷栄一訳(C)

  

夕 顔

光る源氏の十七歳夏から立冬の日までの物語

第一章 夕顔の物語 夏の物語

  1. 源氏、五条の大弐乳母を見舞う---六条辺りのお忍び通いのころ
  2. 数日後、夕顔の宿の報告---惟光、数日して参上した
第二章 空蝉の物語
 空蝉の夫、伊予国から上京す---ところで、あの空蝉のあきれるほど冷淡だったのを

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
 霧深き朝帰りの物語---秋にもなった。誰のせいからでもなく、自ら求めて

第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語

  1. 源氏、夕顔の宿に忍び通う---それはそうと、あの惟光の管理人の偵察は
  2. 八月十五夜の逢瀬---君も、「このように無心に油断させて隠れてしまったなら
  3. なにがしの院に移る---ためらっている月のように、出し抜けに行く先も分からず出かけることを
  4. 夜半、もののけ現われる---宵を過ぎるころ、少し寝入りなさった時に
  5. 源氏、二条院に帰る---ようやくのことで、惟光朝臣が参上した
  6. 十七日夜、夕顔の葬送---日が暮れて、惟光が参上した。これこれの穢れがあるとおっしゃって
  7. 忌み明ける---九月二十日のころに、病状がすっかりご回復なさって
第五章 空蝉の物語(2)
 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答---あの、伊予介の家の小君は、参上する折はあるが

第六章 夕顔の物語(3)
 四十九日忌の法要---あの人の四十九日忌を、人目を忍んで比叡山の法華堂において

第七章 空蝉の物語(3)
 空蝉、伊予国に下る---伊予介は、神無月の朔日ころに下る

 

第一章 夕顔の物語 夏の物語

 [第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う]

 六条辺りのお忍び通いのころ、内裏からご退出なさる休息所に、大弍の乳母がひどく病んで尼になっていたのを見舞おうとして、五条にある家を尋ねていらっしゃった。

 お車が入るべき正門は施錠してあったので、供人に惟光を呼ばせて、お待ちあそばす間、むさ苦しげな大路の様子を見渡していらっしゃると、この家の隣に、桧垣という板垣を新しく作って、上方は半蔀を四、五間ほどずらりと吊り上げて、簾などもとても白く涼しそうなところに、美しい額つきをした簾の透き影がたくさん見えてこちらを覗いている。立ち動き回っているらしい下半身を想像すると、やたらに背丈の高い感じがする。どのような者が集まっているのだろうと、一風変わった様子にお思いになる。

 お車もひどく地味になさり、先払いもおさせにならず、自分を誰と分かろうかと気をお許しなさって、窓から少し顔を出して御覧になっていると、門は蔀のような扉を押し上げてあって、その奥行きもなくささやかな住まいを、しみじみと、「どの住まいを指してもこの世はみな仮の宿だ」とお考えになってみると、立派な御殿も同じことである。

 切懸の板塀みたいな物に、とても青々とした蔓草が気持ちよさそうに這いまつわっているところに、白い花が、自分だけひとり楽しげに微笑んで咲いている。

 「遠方の人にお尋ね申す、そこに咲いている花は」

 と独り言をおっしゃると、御随身がひざまずいて、

 「あの白く咲いている花を、夕顔と申します。花の名は人並のようでいて、このような賤しい垣根に咲くのでございます」

 と申し上げる。なるほどとても小さい家が多くて、むさ苦しそうな界隈で、この家もかの家もみな見苦しくちょっと傾いて、頼りなさそうな軒の端などに這いまつわっているのを、

 「気の毒な花の運命よ。一房手折ってまいれ」

 とおっしゃるので、御随身がこの押し上げてある門から入っていって手折る。
 粗末な家とは言うものの、しゃれた遣戸口に、黄色い生絹の単重袴を長く着こなした女童でかわいらしげな子が出て来て、ちょっと手招をきする。白い扇でたいそう香を薫きしめたのを差し出して、

 「これに載せて差し上げなさいね。枝も風情なさそうな花ですもの」

 と言って与えたところに、ちょうど門を開けて惟光朝臣が出て来たので、随身は惟光に取り次がせてを差し上げさせる。

 「鍵を置き忘れまして、大変にご迷惑をお掛けいたしました。どなた様と分別申し上げられる者もおりませぬ辺りですが、ごみどみした大路にお立ちあそばして」とお詫び申し上げる。

 車を門内に引き入れてお降りになる。惟光の兄の阿闍梨や、娘婿の三河守、娘などが寄り集まっているところに、このように源氏の君がお越しあそばされたお礼を、この上ないことと恐縮して申し上げる。

 尼君も起き上がって、

 「惜しくもない身の上ですが、この世を捨てがたく存じておりましたことは、ただ、このように生きていてお目に入れられることが、これまで通りとは変わってしまいますことが残念に存じられてためらっておりましたが、受戒の効果があって生き返って、このようにお越しあそばされましたのを、お目にかかれましたので、今は阿弥陀様のご来迎も心残りなく待つことができましょう」

 などと申し上げて、弱々しく泣く。

 「いく日も思わしくなくおられるのを、案じて心痛めていましたが、このように世を捨てた尼姿でいらっしゃると、まことに悲しく残念です。長生きをして、さらにわたしの位が高くなるのなども御覧下さい。そうしてから九品浄土の最上位にも差し障りなくお生まれ変わりなさい。この世に少しでも執着が残るのは悪いことと聞いております」などと、涙ぐんでおっしゃる。

 不出来な子でさえも、乳母のようなかわいがるはずの人にはあきれるくらいに完全無欠に思い込むものを、ましてまことに光栄にも親しくお世話申し上げたわが身も、労わしくもったいなく思われるようなので、わけもなく涙に濡れるのである。

 乳母の子供たちは、とてもみっともないと思って、「捨てたこの世に未練があるようで、ご自身から泣き顔をお目にかけていなさる」と言って、突き合い目配せし合う。

 源氏の君は、とてもしみじみと感じられて、

 「わたしが幼かったころに、かわいがってくれるはずの方々が亡くなってしまわれた後は、養育してくれる人々はたくさんいたようでしたが、親しく甘えられる人は他にいなく思われました。成人して後は、きまりがあるので、朝に夕にというようにもお目にかかれず、思い通りにお訪ね申すことはなかったが、やはり久しくお会いしていない時は心細く思われましたが、『避けられない別れなどはあってほしくないものだ』と思われます」

 と、懇ろにお話なさって、お拭いになった袖の匂いも、とても辺り狭しと薫り満ちているので、なるほどほんとうに考えてみれば、並々でない運命の方であったと、尼君を非難がましく見ていた子供たちも、皆涙ぐんだ。

 修法などを、再び重ねて始めるべき事などをお命じあそばして、お立ちになろうとして、惟光に紙燭を持って来させて、先程の扇を御覧になると、使い慣らした主人の移り香がとても深く染み込んで慕わしくて、美しく書き流してある。

 「当て推量に貴方さまでしょうかと思います
  白露の光を加えて美しい夕顔の花は」

 誰とも分からないように書き紛らわしているのも上品に教養が見えるので、とても意外に興味を惹かれなさる。惟光に、

 「この家の西にある家にはどんな者が住んでいるのか。尋ね聞いているか」

 とお尋ねになると、いつもの厄介なお癖とは思うが、そうは申し上げず、

 「この五、六日この家におりますが、病人のことを心配して看護しております時なので、隣のことは聞けません」

 などと、無愛想に申し上げるので、

 「気に入らないと思っているな。けれど、この扇について尋ねなければならない理由がありそうに思われるのですよ。やはり、この界隈の事情を知っていそうな者を呼んで尋ねよ」

 とおっしゃるので、奥に入って行って、この家の管理人の男を呼んで尋ねる。

 「揚名介である人の家だそうでございました。男は地方に下向していて、妻は若く派手好きで、その姉妹などが宮仕え人として行き来している、と申します。詳しいことは、下人にはよく分からないのでございましょう」と申し上げる。

 「それでは、その宮仕人のようだ。得意顔になれなれしく詠みかけてきたものよ」と、「きっと興覚めしそうな身分ではなかろうか」とお思いになるが、名指して詠みかけてきた気持ちが、憎からず見過ごしがたいのが、例によって、こういった方面には、重々しくないご性分なのであろう。君の御畳紙にまったく別人の筆跡にお書きになって、

 「もっと近寄ってどなたかとはっきり見ましょう
  黄昏時にぼんやりと見えた美しい花の夕顔を」

 先程の御随身をお遣わしになる。

 まだ見たことのないお姿であったが、まことにはっきりと推察されなさる君のおん横顔を見過ごさないで、さっそく詠みかけてきた行為に対して、返歌を下さらないで時間が長く過ぎたので、何となく体裁悪く思っていたところに、このようにわざわざ返歌をくれたというふうだったので、いい気になって、「ではまた何と申し上げましょう」などと言い合っているようだが、生意気なと思って随身は帰参した。

 御前駆の松明を弱く照らして、とてもひっそりとお出になる。半蔀は既に下ろされていた。隙間隙間から見える灯火の明りは、蛍よりもさらに微かでしみじみとした思いである。

 お目当ての所では、木立や前栽などが、世間一般の所とは違い、とてもゆったりと奥ゆかしく住んでいらっしゃる。気の置けるご様子などが他の人とは格別なので、先程の垣根の女などはお思い出されるはずもない。

 翌朝、少しお寝過ごしなさって、日が差し出るころにお帰りになる。朝帰りの姿は、なるほど世間の人がお褒め申し上げるようなのも、ごもっともなお美しさであった。

 今日もこの半蔀の前をお通り過ぎになる。今までにも通り過ぎなさった辺りであるが、わずかちょっとしたことでお気持ちを惹かれて、「どのような女が住んでいる家なのだろうか」と思っては、行き帰りにお目が止まるのであった。

 [第二段 数日後、夕顔の宿の報告]

 惟光が、それから数日して参上した。

 「患っております者が、依然として弱そうでございましたので、いろいろと看病いたしておりまして」

 などと、ご挨拶申し上げて、近くに上ってお話申し上げる。

 「仰せ言のございました後に、隣のことを知っております者を呼んで尋ねさせましたが、はっきりとは申しません。『ごく内密に、五月のころからおいでの方があるようですが、誰それとは全然その家の内の人にさえ知らせていません』と申します。
 時々、中垣から覗き見いたしますと、なるほど、若い女たちの透き影が見えます。褶めいた物を申しわけ程度にひっかけているので、仕えている主人がいるようでございます。
 昨日、夕日がいっぱいに射し込んでいました時に、手紙を書こうとして座っていました女人の顔がとてもようございました。憂えに沈んでいるような感じがして、側にいる女房たちも涙を隠して泣いている様子などが、はっきりと見えました」

 と申し上げる。源氏の君はにっこりなさって、「知りたいものだ」とお思いになった。

 ご声望こそ重々しいはずのご身分であるが、お若いご年齢のほどや、女性たちがお慕いしお褒め申し上げている様子などを考えると、色恋ごとに興味をお感じにならないのも風情がなくきっと物足りない気がするだろうが、世間の人が承知しない身分の者でさえ、やはり、しかるべき身分の人には、興味をそそられるものだから、と思っている。

 「もしや、何か発見いたすこともありましょうかと、ちょっとした機会を作って、手紙などを出してみました。書きなれている筆跡で、素早く返事など寄こしました。たいして悪くはない若い女房たちがいるようでございます」

 と申し上げると、

 「さらに近づいてみよ。突き止めないでは、きっと物足りない気がしよう」とおっしゃる。

 あの、下層の最下層だと、頭中将が見下した住まいであるが、その中にも、意外に結構な女を見つけたらばと、心惹かれてお思いになるのであった。

 

第二章 空蝉の物語

 [第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す]

 ところで、あの空蝉のあきれるほど冷淡だったのを、今の世間一般の女性とは違っているとお思いになると、素直であったならば、気の毒な過ちをしたと思ってやめられようが、まことに悔しく、振られて終わってしまいそうなのが、気にならない時がない。このような並の女性までは、お思いにならなかったのだが、先日の「雨夜の品定め」の後は、興味をお持ちになった階層それぞれの女がいることに、ますます残る隈なくご関心をお持ちになったようであるよ。

 疑いもせずに君をお待ち申しているもう一人の女を、いじらしいとお思いにならないわけではないが、何くわぬ顔で聞いていたろうことが恥ずかしいので、「まずは、この女の気持ちを見定めてから」とお思いになっているうちに、伊予介が上京してきた。

 介はまっさきに急いで参上した。船路のせいで、少し黒く日焼けしている旅姿は、とてもぶこつで気に入らない。けれど、人品も相当な血筋で、容貌などは年をとってはいるが、小綺麗で、普通の人とは違って、風雅のたしなみなどがそなわっているのであった。

 任国の話などを申し上げるので、「伊予の湯の湯桁はいくつあるか」と、お尋ねしたくお思いになるが、わけもなく正視できなくて、お心の中に思い出されることもさまざまである。

 「実直な年配者を、このように思うのも、いかにも馬鹿らしく後ろ暗いことであるよ。いかにも、これが、尋常ならざる不埒なことだった」と、左馬頭の忠告をお思い出しになって、気の毒なので、「女の冷淡な気持ちは憎いが、夫のためには、立派だ」とお考え直しになる。

 「娘を適当な人に縁づけて、北の方を連れて任国に下るつもりだ」と、お聞きになると、あれやこれやと気持ちが落ち着かなくて、「もう一度逢うことができないものだろうか」と、小君に相談なさるが、たとい相手が同意したようなことでさえ、軽々とお忍びになるのは難しいのに、まして、相応しくない関係と思って、今さら見苦しかろうと、思い絶っていた。

 だがそうは言っても女は、すっかりお忘れになられることも、まことにつまらなく、嫌にちがいないことと思って、しかるべき折々のお返事などには、親しく度々差し上げては、その何気ない書きぶりに詠み込まれた返歌などは、不思議とかわいらしげに、お目に止まるようなことを書き加えなどして、恋しく思わずにはいられない人の様子なので、源氏の君は冷淡で癪な女と思うものの、忘れがたい人とお思いになっている。

 もう一人は、たとい夫が決まったとしても、変わらず心を許しそうに見えたのを当てにして、いろいろと噂をお聞きにはなるが、お心も動かさないのであった。

 

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語

 [第一段 霧深き朝帰りの物語]

 秋にもなった。誰のせいからでもなく、自ら求めての物思いに心を尽くされることどもがあって、大殿邸には、と絶えがちのお通いなので、恨めしくばかりお思い申し上げていらっしゃった。

 六条辺りの御方にも、気の置けたころのご様子をお靡かせ申し上げてから後は、うって変わって、通り一遍なお扱いのようなのは気の毒である。けれど、他人でいたころのご執心のように、無理無体なことがないのも、どうしたことかと思われた。

 この女性は、たいそうものごとを度を越すほどに、深くお思い詰めなさるご性格なので、年齢も釣り合わず、人が漏れ聞いたら、ますますこのような辛い君のお越しにならない夜な夜なの寝覚めに、お悩み悲しまれることが、とてもあれこれと多いのである。

 霧のたいそう深い朝、ひどくせかされなさって、眠そうな様子で溜息をつきながら部屋をお出になるのを、中将のおもとが御格子を一間上げて、源氏の君をお見送りなさいませ、という心遣いらしく御几帳を引き開けたので、女君は御頭をもち上げて外の方へ目をお向けになっていらっしゃる。

 前栽の花が色とりどりに咲き乱れているのを、見過ごしがたそうにためらっていらっしゃる姿が、評判どおり二人といない美しさである。渡廊の方へいらっしゃるので、中将の君がお供申し上げる。紫苑色で季節に適った薄絹の裳、それをくっきりと結んだ腰つきは、しなやかで優美である。

 源氏の君は振り返りなさって、隅の間の高欄に少しの間、中将の君をお座らせになった。きちんとした態度、黒髪のかかり具合、見事なものよ、と君は御覧になる。

 「美しく咲いている花のようなそなたに心を移したという評判は憚られますが
  やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です
 どうしたらよかろうか」

 と言って、中将の君の手を捉えなさると、まことに物馴れたふうに素早く、

 「朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので
 朝顔の花に心を止めていないものと思われます」

 と、主人のことにしてお返事申し上げる。

 かわいらしい男童で、姿が目安く格別の格好をしているのが、指貫の裾を露っぽく濡らして、花の中に入り混じって朝顔を手折って差し上げるところなどは、絵に描きたいほどである。

 通り一遍にちょっと拝見する人でさえ、源氏の君に心を止め申さない者はない。物の情趣を解さない樵人も、花の下ではやはり休息したいものではないか、このお美しさを拝する人びとは、身分身分に応じて、自分のかわいいと思う娘をご奉公に差し上げたいと願い、あるいは恥ずかしくないと思う姉妹などを持っている人は、下仕えであってもやはりこのお方の側にご奉公させたいと、思わない者はいなかった。

 まして、何かの折のお言葉でも、優しいお姿を拝する人で、少し物の情趣を解せる人は、どうしていい加減にお思い申し上げよう。そうした源氏の君が一日中くつろいだご様子でおいでではないのを、物足りなく不満なことと思うようである。

 

第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語

 [第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う]

 それはそうと、あの惟光が受け持ちの偵察は、とても詳しく事情を探ってご報告する。

 「誰であるかは、まったく分かりません。世間にひどく隠れ潜んでいる様子に見えますが、所在なさにまかせて、南側の半蔀のある長屋に移って来ては、牛車の音がすると、若い女房たちが覗き見などをするようですが、この主人と思われる女も、そろそろと来る時があるようでございまして。容貌は、ぼんやりとではありますが、とてもかわいらしゅうございます。

 先日、先払いをして通る牛車がございましたのを覗き見て、女童が急いで、『右近の君さん、早く御覧なさい。中将殿が、ここをお通り過ぎになってしまいます』と言うと、もう一人の見苦しくない女房が出て来て、『お静かに』と、手で制しながらも、『どうしてそうと分かりましたか、どれ、見てみましょう』と言って、渡って来ます。打橋のようなものを通路にして、行き来するのでございます。急いで来ると、なんとまあ大変、衣の裾を何かに引っ掛けてよろよろと倒れて、打橋から落ちてしまいそうになったので、『まあ、この葛城の神は、何とも危なっかしく拵えたこと』と文句を言って、覗き見の興味も冷めてしまったようでした。『頭の君は、直衣姿で、御随身たちもいましたが。あの人は誰、この人は誰』と数えたのは、頭中将の随身や、その小舎人童を、証拠に言っていたのです」などと申し上げると、

 「確かにその車を見たのならよかったのに」

 とおっしゃって、「もしや、あの頭中将が愛しく忘れ難かった女であろうか」と、思いつかれるにつけても、とても知りたげなご様子を見て、

 「わたくし自身の懸想も首尾よく致しまして、家の内情もすっかり存じておりますが、相手の女は、ただ、同じ同輩どうしの女がいるだけだと思わせて、話しかけてくる若い近習がございますので、わたしも空とぼけたふりして、こっそりと隠れて通っています。とてもうまく隠していると思って、小さい子供などのございますのが言い間違いそうになるのも、ごまかして、別に主人のいない様子を無理に装っております」などと、話して笑う。

 「尼君のお見舞いに伺った折に、垣間見させよ」とおっしゃるのであった。

 一時的であるにせよ、住んでいる家の程度を思うと、「これこそ、あの左馬頭が判定して、貶んだ下の品であろう。その中に予想外におもしろい事があったら」などと、お思いになるのであった。

 惟光は、どんな些細なことでも君のお心に違うまいと思うが、自分も抜けめのない好色人なので、大変に策を労しあちこち段取りをつけて、しゃにむに君をお通わし始めさせたのであった。この辺の事情は、こまごまと煩わしくなるので、例によって省略した。

 源氏の君は、女をはっきり誰とお確かめになれないので、ご自分も名乗りをなさらず、ひどくむやみに粗末な身なりをなさっては、いつもと違って直接に身を入れてお通いになるのは、並々ならぬご執心なのであろう、と惟光は考えると、自分の馬を差し上げて、お供して走りまわる。

 「懸想人のひどく人げない徒ち歩き姿を、見つけられましては、辛いものですね」とこぼすが、誰にもお知らせなさらないことにして、あの夕顔の案内をした随身だけ、その他には顔をまったく知られてないはずの童一人だけを、連れていらっしゃるのであった。「万一思い当たる気配もあろうか」と慮って、隣の大弐宅にお立ち寄りさえなさらない。

 女の方も、とても不審に合点のゆかない気ばかりがして、お文使いに跡を付けさせたり、夜明けの帰り道を尾行させて、お住まいを探らせようと追跡するが、どこと分からなく晦まし晦ましして、しかいそうは言っても、かわいく逢わないではいられず、この女がお心に掛かっている離れないので、不都合で軽々しい行為だと、反省してはお困りながらも、とても頻繁にお通いになる。

 このような方面では、実直な男も乱れる時があるものだが、君はとても見苦しくなく自重なさって、人が非難申し上げるような振る舞いはなさらなかったが、不思議なまでに、今朝の分かれてきた合い間、昼間の逢わないでいる合い間も、気が気でないほどに逢いたくお思い悩みになるので、他方では、ひどく気違いじみており、それほど熱中するに相応しいことではないと、つとめて熱をお冷ましになろうとするが、女の感じは、とても驚くほど従順でおっとりとしていて、物事に思慮深く慎重な方面は少なくて、一途に子供っぽいようでいながら、男女の仲を知らないでもない。たいして高い身分ではあるまい、どこにひどくこうまで心惹かれるのだろうか、と繰り返しお思いになる。

 とてもわざとらしくして、ご装束も粗末な狩衣をお召しになり、姿を変えて、顔も少しもお見せにならず、深夜ごろに、人の寝静まるのを待ってお出入りなどなさるので、昔あったという変化の者じみて、女は気味悪く嘆息されるが、男性のご様子は、そうは言うものの、手触りでも分かることができたので、「いったい、どなたであろうか。やはりあの好色人が手引きして始まったことらしい」と、惟光大夫を疑ってみるが、つとめて何くわぬ顔を装って、まったく知らない様子に、せっせと色恋に励んでいるので、どのようなことかとわけが分からず、女の方でも不思議な一風変わった物思いをするのであった。

 [第二段 八月十五夜の逢瀬]

 源氏の君も、「このように無心なように油断させてそっと隠れてしまったなら、どこを目当てにしてか、わたしも尋ねられよう。一時の隠れ家と、また一方では思われるので、どこへともどこへとも、移って行くような日を、いつとも分からないだろう」とお思いになると、跡を追っているうちに見失って、どうでもよく諦めがつくものなら、ただこのような遊び事で終わっても済まされることなのに、まったくそうして過そうとはお思いになれない。

 人目をお憚りになって、お通いになれない夜な夜ななどは、とても我慢ができず、苦しいまでに思われなさるので、「やはり誰とも知らせずに二条院に迎えてしまおう。もし世間に評判になって不都合なことであっても、そうなるはずの運命なのだ。我ながら、ひどくこう女に惹かれることはなかったのに、どのような宿縁であったのだろうか」などとお考え至りになる。

 「さあ、とても気楽な所で、のんびりとお話し申すことにしよう」

 などと、お誘いになると、

 「やはり、変でございすわ。そうおっしゃいますが、普通とは違ったお持てなしなので、何となく空恐ろしい気がしますわ」

 と、とても子供っぽく言うので、「なるほど」と、思わずにっこりなさって、

 「なるほど、どちらが狐でしょうかね。ただ、化かされていらっしゃいな」

 と、優しそうにおっしゃると、女もすっかりその気になって、そうであってもいいと思っている。「世間に例のない、不都合なことであっても、一途に従順な心は、実にかわいい女だ」と、ご覧になると、やはり、あの頭中将の常夏の女かと疑われて、話された性質、それをまっさきにお思い出さずにはいらっしゃれないが、「きっと隠すような事情があるのだろう」と、むやみにお聞き出しなさらない。

 表情に現して、不意に逃げ隠れするような性質などはないので、「夜離れに、絶え間を置いたような折には、そのように気を変えることもあろうが、むしろ女のほうに少し浮気することがあったほうがかえって愛情も増さるであろう」とまで、お思いになった。

 八月十五日夜の、満月の光が、隙間の多い板葺きの家に、すっかり射し込んで来て、ご経験のない住居の様子も珍しいが、夜明け近くなったのであろう、隣の家々から、賤しい男たちの声々が、目を覚まして、

 「ああ、ひどく寒いことよ」

 「今年は、商売も当てになる所も少なく、田舎への行き来も望めないから、ひどく心細いなあ。北隣さん、お聞きなさるか」

 などと、言い交わしているのも聞こえる。

 まことにほそぼそとした各自の生計のために起き出して、ざわめいているのも間近なのを、女はとても恥ずかしく思っている。

 風流ぶって気取りたがるような人には、消え入りたいほどの住居の様子のようである。けれでも、のんびりと、辛いことも嫌なことも気恥ずかしいことも、苦にしている様子でなく、自身の態度や様子は、とても上品でおっとりして、またとないくらい下品な隣家のぶしつけさを、どのようなこととも知っている様子でないので、かえって恥ずかしがり赤くなるよりは、罪がないように思われるのであった。

 ごろごろと鳴る雷よりも騒がしく、踏み轟かす唐臼の音も枕元のように聞こえる。「ああ、やかましい」と、これには閉口されなさる。何の響きともお分りにならず、とても不思議で耳障りな音だとばかりお聞きになる。ごたごたしたことばかり多かった。

 衣を打つ砧の音も、かすかにあちらこちらからと聞こえて来て、空を飛ぶ雁の声も、一緒になって、堪えきれない情趣が多い。端近いご座所だったので、遣戸を引き開けて、一緒に外を御覧になる。広くもない庭に、しゃれた呉竹や、前栽の露は、やはりこのような所も同じように光っていた。虫の声々が入り乱れ、壁の内側のこおろぎでさえ、時たまお聞きになっているお耳に、じかに押し付けたように鳴き乱れているのを、かえって違った感じにお思いなさるのも、女へのお気持ちの深さゆえに、すべての欠点が許されるのであろうよ。

 白い袷、薄紫色の柔らかい衣を重ね着て、地味な姿態は、とてもかわいらしげに華奢な感じがして、どこそこと取り立てて優れた所はないが、か細くしなやかな感じがして、何かちょっと言った感じは、「ああ、いじらしい」と、ただもうかわいく思われる。気取ったところをもう少し加えたらと、御覧になりながら、なおもくつろいで逢いたく思われなさるので、

 「さあ、ちょっとこの辺の近い所で、気楽に夜を明かそう。こうしてばかりいては、とても辛いなあ」とおっしゃると、

 「とてもそんな。急でしょう」

 と、とてもおっとりと言ってじっとしている。この世だけでない来世の約束などまで相手に期待させなさると、心を許してくる心根などが、不思議に普通と違って、世慣れた女とも思われないので、他人がどう思うかを慮ることもおできになれず、右近を召し出して、随身をお呼ばせになって、お車を引き入れさせなさる。この家の女房たちも、このようなお気持ちが並大抵でないことが分かるので、不安に思いながらも、期待をかけ申していた。

 夜明けも近くなってしまった。鶏の声などは聞こえないで、御嶽精進であろうか、ただ老人めいた声で礼拝するのが聞こえる。立ったり座ったりの様子、難儀そうに勤行する。たいそうしみじみと、「朝の露と違わないはかないこの世なのに、何を欲張ってわが身の利益を祈るのだろうか」と、お聞きになる。「南無当来導師、弥勒菩薩」と言って拝んでいるようだ。

 「あれを、お聞きなさい。この世だけとは思っていないのだね」と、しみじみと感じられて、

 「優婆塞が勤行しているのを道しるべにして
  来世にも深い約束に背かないで下さい」

 長生殿の昔の例は縁起が悪いので、翼を交そうとは言わずに、弥勒菩薩が出現する未来までの愛を約束なさる。そのような長いお約束とは、まことに大げさである。

 「前世の宿縁の拙さが身につまされるので
  来世まではとても頼りかねます」

 このような返歌のし方なども、実のところ、心細いようである。

 [第三段 なにがしの院に移る]

 ためらっている月のように、出し抜けに行く先も分からず出かけることを、女は躊躇し、いろいろと説得なさるうちに、急に雲に隠れて、明け行く空は実に美しい。体裁の悪くなる前にと、いつものように急いでお出ましになって、軽々とお乗せになったので、右近が一緒に乗った。

 その辺りに近い某院にお着きあそばして、管理人をお呼び出しになる間、荒れた門の忍草が生い茂っていて見上げられるのが、譬えようなく木暗い。霧も深く、露っぽいところに、車の簾までを上げていらっしゃるので、お袖もひどく濡れてしまった。

 「まだこのようなことを経験しなかったが、いろいろと気をもむことであるなあ。

  昔の人もこのように恋の道に迷ったのだろうか
  わたしには経験したことのない明け方の道だ

 ご経験なさいましたか」

 とおっしゃる。女は、恥ずかしがって、

 「山の端をどことも知らないで随って行く月は
  途中で光が消えてしまうのではないでしょうか
 心細くて」

 と言って、何となく怖がって気味悪そうに思っているので、「あの建て込んでいる小家に住み慣れているからだろう」と、おもしろくお思いになる。

 お車を院内に引き入れさせて、西の対にご座所などを準備する間、高欄にお車の轅を掛けて待っていらっしゃる。右近は、心浮き立つ優美な心地がして、過去のことなども、一人思い出すのであった。管理人が一生懸命に奔走している様子から、この君のご身分をすっかり知った。

 ほのかに物が見えるころに、車からお降りになったようである。仮ごしらえだが、こざっぱりと設けてある。

 「お供にどなたもお仕えいたしておりませんな。不都合なことですな」と言って、親しい下家司で、大殿にも仕えている者だったので、参り寄って、「適当な人を、お呼びなさるべきではありませんか」などと、申し上げさせるが、

 「特に人の来ないような隠れ家を求めたのだ。決して他人には言うな」と口封じさせなさる。

 お粥などを準備して差し上げたが、取り次ぐお給仕が揃わない。まだ経験のないご外泊に、「鳰鳥の息長川」のようにいつまでも長くとお約束なさること以外ない。

 日が高くなったころにお起きになって、格子を自らお上げになる。とてもひどく荒れて、人影もなく広々と見渡されて、木立がとても気味悪く鬱蒼と古びている。側近くの草木などは、格別見所もなく、すっかり秋の野原となって、池も水草に埋もれているので、まことに恐ろしくなってしまった所であるよ。別納の方に、部屋などを設えて、番人が住んでいるようだが、こちらは離れている。

 「気味悪そうになってしまった所だね。いくら何でも、鬼などもわたしならきっと見逃すだろう」とおっしゃる。

 お顔は依然として隠していらっしゃるが、女がとても辛いと思っているので、「なるほど、これ程深い仲になって隠しているようなのも、男女のあるべきさまと違っている」とお思いになって、

 「夕べの露を待って花開いて顔をお見せするのは
  道で出逢った縁からなのですよ
 露の光はどうですか」

 とおっしゃると、流し目に見やって、

 「光輝いていると見ました夕顔の上露は
  たそがれ時の見間違いでした」

 とかすかに言う。おもしろいとお思いになる。なるほど、うちとけていらっしゃる君のご様子は、またとなく、場所が場所ゆえ、いっそう不吉なまでにお美しくお見えになる。

 「いつまでも隠していらっしゃる辛さに、顔を顕すまいと思っていたが。せめて今からでもお名乗り下さい。とても気味が悪い」

 とおっしゃるが、「卑しい海人の子なので」と言って、依然としてうちとけない態度は、とても甘え過ぎている。

 「それでは、これも『われから』のようだ」と、怨みまた一方では睦まじく語り合いながら、一日お過ごしになる。

 惟光が、お探し申して、お菓子などを差し上げさせる。右近が文句言うことは、やはり気の毒なので、お側に伺候することもできない。「こんなにまでご執心でいられるのは、魅力的で、きっとそうに違いない様子なのだろう」と推量するにつけても、「自分がうまく言い寄ろうと思えばできたのを、お譲り申して、なんと寛大なことよ」などと、失敬なことを考えている。

 譬えようもなく静かな夕方の空をお眺めになって、奥の方は暗く何となく気味が悪いと、女は思っているので、端の簾を上げて、添い臥していらっしゃる。夕映えのお顔を互いに見交わして、女も、このような出来事を、意外に不思議な気持ちがする一方で、すべての嘆きを忘れて、少しずつ打ち解けていく様子は、実にかわいい。ぴったりとお側に一日中添ったままで、何かをとても怖がっている様子は、子供っぽくいじらしい。格子を早くお下ろしになって、大殿油を点灯させて、「すっかり深い仲となったご様子でいて、依然として心の中に隠し事をなさっているのが辛い」と、お恨みになる。

 「主上には、どんなにかお探しあそばしているだろうから、人々はどこを探しているだろうか」と、思いをおはせになって、また一方では、「不思議な気持ちだ。六条辺りでも、どんなにお思い悩んでいらっしゃることだろう。怨まれることも、辛いことだし、もっともなことだ」と、おいたわしい方としては、まっさきにお思い出し申し上げなさる。無心に向かい合って座っているこの女を、かわいいとお思いになるにつれて、「あの方の、あまりに思慮深く、対座するわたしまでが息が詰るようなご様子を、少しは取り除いてほしいものだ」と、ついご比較されるのであった。

 [第四段 夜半、もののけ現われる]

 宵を過ぎるころ、少し寝入りなさった頃に、おん枕上に、とても美しそうな女が座って、

 「わたしがあなたをとても素晴らしいとお慕い申し上げているそのわたしには、お訪ねもなさらず、このような、特に優れたところもない女をお連れになって、かわいがっていらっしゃるのは、まことに癪にさわって恨めしい」

 と言って、自分のお側の人を引き起こそうとしているる、と御覧になる。

 魔物に襲われるような気持ちがして、目をお覚ましになると、灯火も消えていた。気持ち悪くお思いになるので、太刀を引き抜いて、傍にお置きになって、右近をお起こしになる。この人も怖がっている様子で、参り寄った。

 「渡殿にいる宿直人を起こして、『紙燭をつけて参れ』と言いなさい」とおっしゃると、

 「どうして行けましょうか。暗くて」と言うので、

 「ああ、子供みたいな」と、ちょっとお笑いになって、手をお叩きになると、こだまが応える音、まことに気味が悪い。誰も聞きつけないで参上しないので、この女君は、ひどくふるえ脅えて、どうしてよいか分からなく思っている。汗もびっしょりになって、正気を失った様子である。

 「むやみにお怖がりあそばすご性質ですから、どんなにかお怖がりのことでしょうか」と、右近も申し上げる。「ほんとうにか弱くて、昼も空ばかり見ていたものだな、気の毒に」とお思いになって、

 「わたしが、誰かを起こそう。手を叩くと、こだまが応える、まことにうるさい。こちらに、しばらくは、近くへ」

 と言って、右近を引き寄せなさって、西の妻戸に出て、戸を押し開けなさると、渡殿の火も既に消えていた。

 風がわずかに吹いているうえに、人気も少なくて、仕えている者は皆寝ていた。この院の管理人の子供で、親しくお使いになる若い男、それから殿上童一人と、いつもの随身だけがいるのであった。お呼び寄せになると、お返事して起きたので、

 「紙燭を点けて持って参れ。『随身にも、弦打ちをして、絶えず音を立てていよ』と命じよ。人気のない所に、気を許して寝ている者があるか。惟光朝臣が来ていたようなのは」と、お尋ねあそばすと、

 「控えていましたが、ご命令もない。早朝にお迎えに参上すべき旨を申して、退出してしまいました」と申し上げる。この、こう申す者は滝口の武士であったので、弓の弦をまことに手馴れた様子に打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の部屋の方角へ行ったようだ。内裏をお思いやりになって、「名対面は過ぎたろう、滝口の宿直奏しは、ちょうど今ごろか」と、ご推量になるのは、まだ、さほど夜も更けていないのであろう。

 君は部屋に入り戻って、お確かめになると、女君はそのままに臥していて、右近は傍らにうつ伏していた。

 「これはどうしたことか。何とも、気違いじみた怖がりようだ。荒れた所には、狐などのようなものが、人を脅かそうとして、怖がらせるのだろう。わたしがいるからには、そのようなものからは脅されないぞ」と言って引き起こしなさる。

 「とても気味が悪くて、取り乱している気分も悪うございますので、うつ伏しているのでございますよ。ご主人さまは、ひどく怖がっていらっしゃるでしょう」と言うので、

 「そうよ。どうしてこんなにまで」と言って、探って御覧になると、息もしていない。揺すって御覧になるが、ぐったりとして、正体もない様子なので、「ほんとうにひどく子供じみた人なので、魔性のものに魅入られてしまったらしい」と、なすべき方法もない気がなさる。

 紙燭を持って参った。右近も動ける状態でないので、近くの御几帳を引き寄せて、

 「もっと近くに持って参れ」

 とおっしゃる。いつもと違ったことなので、御前近くに参上できず、ためらっていて、長押にも上がれない。

 「もっと近くに持って来なさい。場所によるぞ」

 と言って、召し寄せて御覧になると、ちょうどこの枕上に、夢に現れた姿をしている女が、幻影のように現れて、ふっと消え失せた。

 「昔の物語などに、このようなことは聞くけれど」と、まことに珍しく気味が悪いが、まず、「この女はどのようになったのか」とお思いになる不安に、わが身の上の危険もお顧みにならず、添い臥して、「もし、もし」と、お起こしになるが、すっかりもう冷たくなっていて、息はとっくにこと切れてしまっていたのであった。どうすることもできない。頼りになる、どうしたらよいかとご相談できるような方もいない。法師などは、このような時の頼みになる人とはお思いになるが。それほどお強がりになるが、お若い考えで、空しく死んでしまったのを御覧になると、どうしようもなくて、ひしと抱いて、

 「おまえさま、生き返っておくれ。わたしをとても悲しい目に遭わせないでおくれ」

 とおっしゃるが、冷たくなっていたので、感じも気味が悪くなって行く。

 右近は、ただ「ああ、気味が悪い」と思っていた気持ちもすっかり冷めて、泣いて取り乱す様子はまことに大変である。

 南殿の鬼が、某大臣を脅かした例をお思い出しになって、気強く、

 「いくら何でも、死にはなさるまい。夜の声は大げさだ。静かに」

 とお諌めになって、まったく突然の事なので、茫然とした気持ちでいらっしゃる。

 先ほどの男を呼び寄せて、

 「ここに、まことに不思議に、魔性のものに魅入られた人が苦しそうなので、今すぐに、惟光朝臣の泊まっている家に行って、急いで参上するように言え、と命じなさい。某阿闍梨が、そこに居合わせていたら、ここに来るよう、こっそりと言いなさい。あの尼君などが聞こうから、大げさに言うな。このような忍び歩きは許さない人だ」

 などと、用件をおっしゃるようだが、胸が一杯で、この人を死なせてしまったらどうなることかとたまらなくお思いになるのに加えて、辺りの不気味さは、譬えようもない。

 夜中も過ぎたのだろうか、風がやや荒々しく吹いているのは。その上に、松風の響きが、木深く聞こえて、異様な鳥がしわがれ声で鳴いているのも、「梟」と言う鳥はこのことかと思われる。あれこれと考え廻らすと、あちらこちらと、何となく遠く気味が悪いうえに、人声はせず、「どうして、このような心細い外泊をしてしまったのだろう」と、後悔してもしようがない。

 右近は、何も考えられず、源氏の君にぴったりと寄り添い申して、震え死にそうである。「また、この人もどうなることだろうか」と、気も上の空で掴まえていらっしゃる。自分一人がしっかりした人で、途方に暮れていらっしゃるのであったことよ。

 灯火は微かにちらちらとして、母屋との境に立ててある屏風の上が、あちらこちらと陰って見えなさるうえに、魔性の物の足音が、みしみしと踏み鳴らしながら、後方から近寄って来る気がする。「惟光よ、早く来て欲しい」とお思いになる。居場所が定まらぬ者なので、あちこち探したうちに、夜の明けるまでの待ち遠しさは、千夜を過すような気がなさる。

 ようやくのことで、鶏の声が遠くで聞こえるにつけ、「危険を冒して、何の因縁で、このような辛い目に遭うのだろう。我ながら、このようなことで、大それたあってはならない恋心の報復として、このような、後にも先にも語り草となってしまいそうなことが起こったのだろう。隠していても、実際に起こった事は隠しきれず、主上のお耳に入るだろうことを始めとして、世人が推量し噂するだろうことは、良くない京童べの噂になりそうだ。あげくのはて、愚か者の評判を立てられるにちがいないなあ」と、ご思案される。

 [第五段 源氏、二条院に帰る]

 ようやくのことで、惟光朝臣が参上した。夜中、早朝の区別なく、御意のままに従う者が、今夜に限って控えていなくて、お呼び出しにまで遅れて参ったのを、憎らしいとお思いになるものの、呼び入れて、おっしゃろうとすることがあまりにもあっけないので、すぐには何もおっしゃれない。右近は、大夫の様子を聞くと、初めからのことが、つい思い出されて泣くと、源氏の君も我慢がおできになれず、自分一人気丈夫に抱いていらっしゃったところ、この人を見てほっとなさって、悲しい気持ちにおなりになるのであったが、しばらくは、まことに大変にとめどもなくお泣きになる。

 やっと気持ちを落ち着けて、「ここで、まことに奇妙な事件が起こったのだが、驚くと言っても言いようのないほどだ。このような危急のことには、誦経などをすると言うので、その手配をさせよう。願文なども立てさせようと思って、阿闍梨に来るようにと、言ってやったのは、どうなったか」とおっしゃると、

 「昨日、山に帰ってしまいました。それにしても、まことに奇妙なことでございますね。以前から、常とは違ってご気分のすぐれないことでもございましたのでしょうか」

 「そのようなこともなかった」と言って、お泣きになる様子、とても優美でいたわしく、拝見する人もほんとうに悲しくて、自分もおいおいと泣いた。

 そうは言っても、年も相当とり、世の中のあれやこれやと、経験を積んだ人は、非常の時には頼もしいものであるが、どちらもどちらも若い者同士で、どうしようもないが、

 「この院の管理人などに聞かせるようなことは、まことに不都合なことでしょう。この管理人一人は親密であっても、自然と口をすべらしてしまう身内も中にはいることでしょう。まずは、この院をお出なさいましね」と言う。

 「ところで、ここより人少なな所がどうしてあろうか」とおっしゃる。

 「なるほど、そうでございましょう。あの元の家は、女房などが、悲しみに耐えられず、泣き取り乱すでしょうし、隣家が多く、見咎める住人も多くございましょうから、自然と噂が立ちましょうが、山寺は、何と言ってもこのようなことも、自然ありがちで、目立たないことでございましょう」と言って、思案して、「昔、親しくしておりました女房で、尼になって住んでおります東山の辺に、お移し申し上げましょう。惟光めの父朝臣の乳母でございました者が、年老いて住んでいるのです。周囲は、人が多いようでございますが、とても閑静でございます」

 と申し上げて、夜がすっかり明けるころの騒がしさに紛れて、お車を寄せる。

 この女をお抱きになれそうもないので、上筵に包んで、惟光がお乗せ申す。とても小柄で、気味悪くもなく、かわいらしげである。しっかりとしたさまにもくるめないので、髪の毛がこぼれ出ているのを見るにつけ、目の前が真っ暗になって、何とも悲しい、とお思いになると、最後の様子を見届けたい、とお思いになるが、

 「早く、お馬で、二条院へお帰りあそばすのがよいでしょう。人騒がしくなりませぬうちに」

 と言って、右近を添えて乗せると、自分は徒歩で、源氏の君に馬はお譲り申して、裾を括り上げなどをして、かつ一方では、とても変で、奇妙な野辺送りだが、君のお悲しみの深いことを拝見すると、自分のことは考えずに行くが、源氏の君は何もお考えになれず、茫然自失の態で、お帰りになった。

 女房たちは、「どこから、お帰りあそばしましたのか。ご気分が悪そうにお見えあそばします」などと言うが、御帳台の内側にお入りになって、胸を押さえて思うと、まことに悲しいので、「どうして、自分も一緒に乗って行かなかったのか。もし生き返った場合、どのような気がするだろう。見捨てて行ってしまったと、辛く思うであろうか」と、気が動転しているうちにも、お思いやると、お胸のせき上げてくる気がなさる。お頭も痛く、身体も熱っぽい感じがして、とても苦しく、どうしてよいやら分からない気がなさるので、「こう元気がなくて、自分も死んでしまうのかも知れない」とお思いになる。

 日は高くなったが、起き上がりなさらないので、女房たちは不思議に思って、お粥などをお勧め申し上げるが、気分が悪くて、とても気弱くお思いになっているところに、内裏からお使者が来て、――昨日、お探し申し上げられなかったことで、主上が御心配あそばしていらっしゃる、ということで――、大殿の公達が参上なさったが、頭中将だけを、「立ったままで、ここにお入り下さい」とおっしゃって、御簾の内側のままでお話しなさる。

 「乳母でございます者で、この五月のころから、重く患っておりました者が、髪を切り受戒などをして、その甲斐があってか、生き返っていましたが、最近、再発して、弱くなっていますのが、『今一度、見舞ってくれ』と申していたので、幼いころから馴染んだ人が、今はの際に、薄情なと思うだろうと、存じて参っていたところ、その家にいた下人で、病気していた者が、急に暇をとる間もなく亡くなってしまったのを、恐れ遠慮して、日が暮れてから運び出したのを、聞きつけましたので、神事のあるころで、まことに不都合なこと、と存じまして謹慎し、参内できないのです。この早朝から、風邪でしょうか、頭がとても痛くて苦しうございますので、大変失礼したまま申し上げます次第で」

 などとおっしゃる。頭中将は、

 「それでは、そのような旨を奏上しましょう。昨夜も、管弦の御遊の折に、畏れ多くもお探し申しあそばされて、御機嫌お悪うございました」と申し上げなさって、また引き返して、「どのような穢れにご遭遇あそばしたのですか。ご説明なされたことは、本当とは存じられません」

 と言うので、胸がどきりとなさって、

 「このように、詳しくではなく、ただ、思いがけない穢れに触れた由を、奏上なさって下さい。まったく不都合なことでございます」

 と、さりげなくおっしゃるが、心中は、どうしようもなく悲しい事とお思いになるにつけ、ご気分もすぐれないので、誰ともお顔を合わせなさらない。蔵人の弁を呼び寄せて、きまじめにその旨を奏上させなさる。大殿などにも、これこれの事情があって、参上できないお手紙などを差し上げなさる。

 [第六段 十七日夜、夕顔の葬送]

 日が暮れて、惟光が参上した。これこれの穢れがあるとおっしゃったので、お見舞いの人々も、皆立ったままで退出するので、人目は多くない。呼び寄せて、

 「どうであったか。もうだめだと見えてしまったか」

 とおっしゃると同時に、袖をお顔に押し当ててお泣きになる。惟光も泣きながら、

 「もはやご最期のようでいらっしゃいます。いつまでも一緒に籠っておりますのも不都合なので、明日は、日柄がよろしゅうございますので、あれこれ葬儀のことを、大変に尊い老僧で、知っております者に、連絡をつけました」と申し上げる。

 「付き添っていた女はどうしたか」とおっしゃると、

 「その者も、同様に、生きてはいられそうにないようでございます。自分も死にたいと取り乱しまして、今朝は谷に飛び込みそうになったのを拝見しました。『あの前に住んでいた家の人に知らせよう』と申しますが、『今しばらく、落ち着きなさい、と。事情をよく考えてからに』と、宥めておきました」

 と、ご報告申すにつれて、とても悲しくお思いになって、

 「わたしも、とても気分が悪くて、どうなってしまうのであろうかと思われる」とおっしゃる。

 「何を、この上くよくよお考えあそばしますか。そうなる運命に、万事決まっていたのでございましょう。誰にも聞かせまいと存じますので、惟光めが身を入れて、万事始末いたします」などと申す。

 「そうだ。そのように何事も思ってはみるが、いい加減な遊び心から、人を死なせてしまった非難を受けねばならないのが、まことに辛いのだ。少将命婦などにも聞かせるな。尼君はましてこのようなことなど、お叱りになるから、恥ずかしい気がしよう」と、口封じなさる。

 「その他の法師たちなどにも、すべて、説明は別々にしてございます」

 と申し上げるので、頼りになさっている。

 わずかに会話を聞く女房などは、「変だわ、何事だろうか、穢れに触れた旨をおっしゃって、宮中へも参内なさらず、また、このようにひそひそと話して嘆いていらっしゃる」と、ぼんやり不思議がる。

 「重ねて無難に取り計らえ」と、葬式の作法をおっしゃるが、

 「いやいや、大げさにする必要もございません」

 と言って立つのが、とても悲しく思わずにはいらっしゃれないので、

 「きっと不都合なことと思うだろうが、今一度、あの亡骸を見ないのが、とても心残りだから、馬で行ってみたい」

 とおっしゃるので、厄介な事だとは思うが、

 「そのようにお思いになるならば、仕方ございません。早く、お出かけあそばして、夜が更けない前にお帰りあそばしませ」

 と申し上げるので、最近のお忍び用にお作りになった、狩衣のご衣装に着替えなどしてお出かけになる。

 お心はまっ暗闇で、大変に堪らないので、このような変な道に出かけようとするにつけても、危なかった懲り事のために、どうしようかとお悩みになるが、やはり悲しみの晴らしようがなく、「現在の亡骸を見ないでは、再び来世で生前の姿を見られようか」と、悲しみを堪えなさって、いつものように惟光大夫、随身を連れてお出掛けになる。

 道中が遠く感じられる。十七日の月がさし昇って、河原の辺りでは、御前駆の松明も仄かであるし、鳥辺野の方角などを見やった時など、何となく気味悪いのも、何ともお感じにならず、心乱れなさって、お着きになった。

 周囲一帯までがぞっとする所だが、板屋の隣にお堂を建ててお勤めしている尼の家は、まことにもの寂しい感じである。御灯明の光が、微かに隙間から見える。その家には、女の一人泣く声ばかりして、外の方に、法師たち二、三人が話をしいしい、特に声を立てない念仏を唱えている。寺々の初夜も、皆、お勤めが終わって、とても静かである。清水寺の方角は、光が多く見え、人の気配がたくさんあるのであった。この尼君の子である大徳が尊い声で、経を読んでいるので、涙も涸れんばかりに思わずにはいらっしゃれない。

 お入りになると、灯火を遺骸から背けて、右近は屏風を隔てて臥していた。どんなに侘しく思っているだろう、と御覧になる。気味悪さも感じられず、とてもかわいらしい様子をして、まだ少しも変わった所がない。手を握って、

 「わたしに、もう一度、声だけでもお聞かせ下さい。どのような前世からの因縁があったのだろうか、少しの間に、心の限りを尽くして愛しいと思ったのに、残して逝って、途方に暮れさせなさるのが、あまりのこと」

 と、声も惜しまず、お泣きになること、際限がない。

 大徳たちも、この方たちを誰とは知らないが、子細があると思って、皆、涙を落としたのだった。

 右近に、「さあ、二条へ」とおっしゃるが、

 「長年、幼うございました時から、片時もお離れ申さず、馴れ親しみ申し上げてきたお方に、急にお別れ申して、どこに帰ったらよいのでございましょう。どのようにおなりになったと、皆に申せましょう。悲しいことはさておいて、皆にとやかく言われましょうことが、辛いことで」と言って、泣き崩れて、「煙と一緒になって、後をお慕い申し上げたい」と言う。

 「ごもっともだが、世の中はそのようなものである。別れというもので、悲しくないものはない。先立つのも残されるのも、同じく寿命で定まったものである。気を取り直して、わたしを頼れ」と、お慰めになりながらも、「このように言う我が身こそが、生きながらえられそうにない気がする」

 とおっしゃるのも、頼りない話であるよ。

 惟光が、「夜は、明け方になってしまいましょう。早くお帰りあそばしますように」

 と申し上げるので、振り返り振り返りばかりされて、胸をひしと締め付けられた思いでお出になる。

 道中とても露っぽいところに、更に大変な朝霧で、どこだか分からないような気がなさる。生前の姿のままで横たわっていた様子、互いにお掛け合いになって寝たのや、その自分の紅のご衣装がそのまま着せ掛けてあったことなどが、どのような前世の因縁であったのかと、道すがらお思いにならずにはいらっしゃれない。お馬にも、しっかりとお乗りになることができそうにないご様子なので、再び、惟光が介添えしてお連れしていくと、堤の辺りで、馬からすべり下りて、ひどくご惑乱なさったので、

 「こんな道端で、野垂れ死んでしまうのだろうか。まったく、帰り着けそうにない気がする」

 とおっしゃるので、惟光も困惑して、「自分がしっかりしていたら、あのようにおっしゃっても、このような所にお連れ出し申し上げるべきではなかった」と反省すると、とても気ぜわしく落ち着いていられないので、鴨川の水で手を洗い清めて、清水の観音をお拝み申しても、どうしようもなく途方に暮れる。

 源氏の君も、無理に気を取り直して、心中に仏を拝みなさって、再び、あれこれ助けられなさって、二条院へお帰りになるのであった。

 奇妙な深夜のお忍び歩きを、女房たちは、「みっともないこと。近ごろ、いつもより落ち着きのないお忍び歩きが、うち続く中でも、昨日のご様子が、とても苦しそうでいらっしゃいましたが。どうしてこのように、ふらふらお出歩きなさるのでしょう」と、嘆き合っていた。

 ほんとうに、お臥せりになったままで、とてもひどくお苦しみになって、二、三日にもなったので、すっかり衰弱のようでいらっしゃる。帝におかせられても、お耳にあそばされ、嘆かれることはこの上ない。御祈祷を、方々の寺々にひっきりなしに大騒ぎにする。祭り、祓い、修法など、数え上げたらきりがない。この世にまたとなく美しいご様子なので、長生きあそばされないのではないかと、国中の人々の騷ぎである。

 苦しいご気分ながらも、あの右近を呼び寄せて、部屋などを近くにお与えになって、お仕えさせなさる。惟光は、気が気でなくどうしてよいかわからないでいるが、気を落ち着けて、この右近が主人を亡くして悲しんでいるのを、支え助けてやりながら仕えさせる。

 源氏の君は、少し気分のよろしく思われる時は、右近を呼び寄せてご用を言いつけたりなどなさるので、まもなく馴染んだ。喪服は、とても黒いのを着て、器量など良くはないが、不器量で見苦しいというほどでもない若い女性である。

 「不思議に短かったご宿縁に引かれて、わたしもこの世に生きていられないような気がする。長年の主人を亡くして、心細く思っていましょう、その慰めにも、もし生きながらえたら、いろいろと面倒を見たいと思ったが、まもなく自分も後を追ってしまいそうなのが、残念なことだなあ」

 と、ひっそりとおっしゃって、弱々しくお泣きになるので、今さら言ってもしかたないことはさて措いても、「はなはだもったいないことだ」とお思い申し上げる。

 お邸の人々は、足も地に着かないほどどうしてよいか分からないでいる。内裏から、御勅使が、雨脚よりも格段に頻繁にある。ご心配あそばされていらっしゃるのをお聞きになると、まことに恐れ多くて、無理に気を強くお持ちになる。大殿邸でも懸命にお世話なさって、左大臣が、毎日お越しになっては、さまざまな加持祈祷をおさせなさる、その効果があってか、二十余日間、ひどく重く患っていらっしゃったが、格別の余病もなく、回復された様子にお見えになる。

 死穢によって籠っていらっしゃった忌中明けの日が、病気回復の床上げの日と同日の夜になったので、御心配あそばされていらっしゃるお気持ちが、どうにも恐れ多いので、宮中のご宿直所に参内などなさる。大殿は、ご自分のお車でお迎え申し上げなさって、御物忌みや何やかやと、うるさくお慎みさせ申し上げなさる。ぼんやりとして、別世界にでも生き返ったように、暫くの間はお感じになっていた。

 [第七段 忌み明ける]

 九月二十日のころに、病状がすっかりご回復なさって、とてもひどく面やつれしていらっしゃるが、かえって、たいそう優美で、物思いに沈みがちに、声を立てて泣いてばかりいらっしゃる。拝見して怪しむ女房もいて、「お物の怪がお憑きのようだわ」などと言う者もいる。

 右近を呼び出して、気分もゆったりとした夕暮に、お話などなさって、

 「やはり、とても不思議だ。どうして誰とも知られまいと、お隠しになっていたのか。本当に賤しい身分であったとしても、あれほど愛しているのを知らず、隠していらっしゃったので、辛かった」とおっしゃると、

 「どうして、深くお隠し申し上げなさる必要がございましょう。いつの折にか、たいした名でもないお名前を申し上げなさることができましょう。初めから、不思議な思いもかけなかったご関係なので、『現実の事とは思えない』とおっしゃって、『お名前を隠していらしたのも、きっとあなた様でいらっしゃるからでしょう』と存じ上げてはいらっしゃりながら、『いい加減な遊び事として、お名前を隠していらっしゃるのだろう』と辛いことに、お思いになっていました」と申し上げるので、

 「つまらない意地の張り合いであったな。自分は、そのように隠しておく気はなかった。ただ、このように人から許されない忍び歩きは、まだ経験ないことなのだ。主上が御注意あそばすことを始め、憚ることの多い身で、ちょっと人に冗談を言っても、窮屈で、取り沙汰が大げさな身の上の有様なので、ふとした夕方の事から、妙に心に掛かって、無理算段してお通い申したのも、このような運命がおありだったのだろうと思うにつけても、お気の毒で。また反対に、恨めしく思われてならない。こう長くはない宿縁であったれば、どうして、あれほど心底から愛しく思われなさったのだろう。もう少し詳しく話せ。今はもう、何を隠す必要があろう。七日毎に仏画を描かせても、誰のためにと、心中にも祈ろうか」とおっしゃると、

 「どうして、お隠し申し上げましょう。しかしご自身が、お隠し続けていらしたことを、お亡くなりになった後に、口軽く言い洩らしてはいかがなものか、と存じおりますばかりです。

 ご両親は、早くお亡くなりになりました。三位中将と申しました。とてもかわいい娘とお思い申し上げられていましたが、ご自分の出世が思うにまかせぬのをお嘆きのようでしたが、お命までままならず亡くなってしまわれた後、ふとした縁で、頭中将殿が、まだ少将でいらした時に、お通い申し上げあそばすようになって、三年ほどの間は、ご誠意をもってお通いになりましたが、去年の秋ごろ、あの右大臣家から、とても恐ろしい事を言って寄こしたので、ものをむやみに怖がるご性質ゆえに、どうしてよいか分からなくお怖がりになって、西の京に、御乳母が住んでおります所に、こっそりとお隠れなさいました。そこもとてもむさ苦しい所ゆえ、お住まいになりにくくて、山里に移ってしまおうと、お思いになっていたところ、今年からは方塞がりの方角でございましたので、方違えしようと思って、賤しい家においでになっていたところを、お見つけ申されてしまった事と、お嘆きのようでした。世間の人と違って、引っ込み思案をなさって、他人から物思いしている様子を見られるのを、恥ずかしいこととお思いなさって、さりげないふうを装って、お目にかかっていらっしゃるようでございました」

 と、話し出すと、「そうであったのか」と、お思い合わせになって、ますます不憫さが増した。

 「幼い子を行く方知れずにしたと、頭中将が残念がっていたのは、そのような子でもいたのか」とお尋ねになる。

 「さようでございます。一昨年の春に、お生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしくて」と話す。

 「それで、どこに。誰にもそうとは知らせないで、わたしに下さい。あっけなく亡くなって、悲しいと思っている人のお形見として、どんなにか嬉しいことだろう」とおっしゃる。「あの中将にも伝えるべきだが、言っても始まらない恨み言を言われるだろう。あれこれにつけて、お育てするに不都合はあるまいからね。その一緒にいる乳母などにも違ったふうに言い繕って、連れて来てくれ」などと相談をもちかけなさる。

 「それならば、とても嬉しいことでございましょう。あの西の京でご成育なさるのは、不憫でございまして。これといった後見人もいないというので、あちらにいらっしゃいますが」などと申し上げる。

 夕暮の静かなころに、空の様子はとてもしみじみと感じられ、お庭先の前栽は枯れ枯れになり、虫の音も鳴き弱りはてて、紅葉がだんだん色づいて行くところが、絵に描いたように美しいのを見渡して、思いがけず結構な宮仕えをすることになったと、あの夕顔の宿を思い出すのも恥ずかしい。竹薮の中に家鳩という鳥が、太い声で鳴くのをお聞きになって、あの先日の院でこの鳥が鳴いたのを、とても怖いと思っていた様子が、まぶたにかわいらしくお思い出されるので、

 「年はいくつにおなりだったか。不思議に普通の人と違って、か弱くお見えであったのも、このように長生きできなかったからなのだね」とおっしゃる。

 「十九歳におなりだったでしょうか。右近めは、亡くなった乳母があとに残して逝きましたので、父君の三位の君様がわたしをかわいがって下さって、お側離れず一緒に、お育て下さいましたのを思い出しますと、どうして生きておられましょう。『どうしてこう深く親しんだのだろう』と、悔やまれまして。気弱そうでいらっしゃいました女君のお気持ちを、頼むお方として、長年仕えてまいりましたことでございます」と申し上げる。

 「頼りなげな人こそ、女はかわいらしいのだ。利口で我の強い人は、とても好きになれないものだ。自分自身がてきぱきとしっかりしていない性情だから、女はただ素直で、うっかりすると男に欺かれてしまいそうなのが、そのくせ引っ込み思案で、男の心にはついていくのが、愛しくて、自分の思いのままに育てて一緒に暮らしたら、慕わしく思われることだろう」などと、おっしゃると、

 「こちらのお好みには、きっとお似合いだったでしょうと、存じられますにつけても、残念なことでございましたわ」と言って泣く。

 空が少し曇って、風も冷たく感じられる折柄、とても感慨深く物思いに沈んで、

 「契った人の火葬の煙をあの雲かと思って見ると
  この夕方の空も親しく思われるよ」

 と独り詠じられたが、ご返歌も申し上げられない。このように、生きていらしたならば、と思うにつけても、胸が一杯になる。耳障りであった砧の音を、お思い出しになるのまでが、恋しくて、「八月九月正に長き夜……」と口ずさんで、お臥せりになった。

 

第五章 空蝉の物語(2)

 [第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答]

 あの、伊予介の家の小君は、参上する折はあるが、特別に以前のような伝言もなさらないので、自分を嫌な女だとお見限りになられたのを、つらいと思っていた折柄、このようにご病気でいらっしゃるのを聞いて、やはり悲しい気がするのであった。遠くへ下るのなどが、何といっても心細い気がするので、お忘れになってしまったかと、試しに、

 「承りまして、案じておりますが、口に出しては、とても、

 お見舞いできませんことをなぜかとお尋ね下さらずに月日が経ましたが
 わたしもどんなにか思い悩んでいます
   『益田の池の生きている甲斐ない』とは本当のことで」

 と申し上げた。久しぶりにうれしいので、この女へも愛情はお忘れにならない。

 「生きている甲斐がないとは、誰が言ったらよい言葉でしょうか。

 あなたとのはかない仲は嫌なものと知ってしまいましたが
 またもあなたの言の葉に期待を掛けて生きていこうと思います
 何とも頼りないことよ」

 と、お手も震えなさるので、乱れ書きなさっているのが、ますます美しそうである。今だに、あの脱ぎ捨てた衣をお忘れにならないのを、気の毒にもおもしろくも思うのであった。

 このように愛情がなくはなく、文のやりとりをなさるが、身近にお逢いしようとは思ってもいないが、とはいえ、情趣を解さない女だと思われない格好で終わりにしたい、と思うのであった。

 あのもう一方の女は、蔵人少将を通わせていると、お聞きになる。「おかしなことだ。どう思っているだろう」と、少将の気持ちにも同情し、また、あの女にの様子も興味があるので、小君を使いにして、「死ぬほどに思っている気持ちは、お分かりでしょうか」と言っておやりになる。

 「一夜の逢瀬なりとも軒端の荻を結ぶ契りをしなかったら
  わずかばかりの恨み言も何を理由に言えましょうか」

 丈高い荻に結び付けて、「こっそりと」と小君におっしゃっていたが、「間違って、少将が見つけて、わたしだったのだと分かってしまったら、それでも、まあ許してくれよう」と思う、高慢なお気持ちは、困ったものである。

 少将のいない時に女に見せると、嫌なことと思うが、このように思い出してくださったのも、やはり嬉しくて、お返事を、早いのだけを申し訳にして与える。

 「ほのめかされるお手紙を見るにつけても霜にあたった下荻のような
  身分の賤しいわたしは、嬉しいながらも半ばは思い萎れています」

 筆跡は下手なのを、分からないようにしゃれて書いている様子は、品がない。灯火で見た顔を、自然と思い出されなさる。「気を許さず対座していたあの人は、今でも思い捨てることのできない様子をしていたな。この女は何の嗜みもありそうでなく、はしゃいで得意でいたことよ」とお思い出しになると、憎めなくなる。相変わらず、「性懲りも無く、また浮き名が立ってしまいそうな」という好色心のようである。

   

第六章 夕顔の物語(3)

 [第一段 四十九日忌の法要]

 あの人の四十九日忌を、人目を忍んで比叡山の法華堂において、略さずに、装束をはじめとして、お布施に必要な物どもを、心をこめて準備し、読経などをおさせになる。経巻や、仏像の装飾まで簡略にせず、惟光の兄の阿闍梨が、大変に高徳の僧なので、見事に催したのであった。

 学問のおん師で、親しくしておられる文章博士を呼んで、願文を作らせなさる。誰それと言わないで、愛しいと思っていた女性が亡くなってしまったのを、阿弥陀様にお譲り申す旨を、しみじみと下書きなさっていたので、

 「まったくこのままで、何も書き加えることはございませんようです」と申し上げる。

 堪えていらっしゃったが、お涙もこぼれて、ひどくお悲しみでいるので、

 「どのような方なのでしょう。誰それと噂にも上らないで、これほどにお嘆かせになるほどだったとは、宿運の高いことよ」

 と言うのであった。内々にお作らせになっていた布施の装束の袴をお取り寄させなさって、

 「泣きながら今日はわたしが結ぶ袴の下紐を
  いつの世にかまた再会して心打ち解けて下紐を解いて逢うことができようか」

 「この四十九日までは霊魂が中有に彷徨っているというが、どの道に定まって行くことのだろうか」とお思いやりになりながら、念誦をとても心こめてなさる。頭中将とお会いになる時にも、むやみに胸がどきどきして、あの撫子が成長している有様を、聞かせてやりたいが、非難されるのを警戒して、お口にはお出しにならない。

 あの夕顔の宿では、どこに行ってしまったのかと心配するが、そのままで尋ね当て申すことができない。右近までもが音信ないので、不思議だと思い嘆き合っていた。はっきりしないが、様子からそうではあるまいかと、ささめき合っていたので、惟光のせいにしたが、まるで問題にもせず、関係なく言い張って、相変わらず同じように通って来たので、ますます夢のような気がして、「もしや、受領の子息で好色な者が、頭の君に恐れ申して、そのまま、連れて下ってしまったのだろうか」と、想像するのだった。

 この家の主人は、西の京の乳母の娘なのであった。三人乳母子がいたが、右近は他人だったので、「分け隔てして、ご様子を知らせてくれないのだわ」と、泣き慕うのであった。右近は右近で、口やかましく非難されるだろうことを思って、源氏の君も今さら洩らすまいと、お隠しになっているので、若君の噂さえ聞けず、まるきり消息不明のまま過ぎて行く。

 源氏の君は、「せめて夢にでも逢いたい」と、お思い続けていると、この法事をなさった、次の夜に、ぼんやりと、あの某院そのままに、枕上に現れた女の様子も同じようにして見えたので、「荒れ果てた邸に棲んでいた魔物が、わたしに取りついたことで、こんなことになってしまったのだ」と、お思い出しになるにつけても、気味の悪いことである。

 

第七章 空蝉の物語(3)

 [第一段 空蝉、伊予国に下る]

 伊予介は、神無月の朔日ころに下る。女方が下って行くのでということで、源氏の君は餞別を格別に気を配っておさせになる。別に、内々にも特別になさって、きめ細かな美しい格好の櫛や、扇を、たくさん用意して、幣帛などを特別に大げさにして、あの小袿もお返しになる。

 「再び逢う時までの形見の品ぐらいに思って持っていましたが
  すっかり涙で朽ちるまでになってしまいました」

 こまごまとした事柄があるが、煩雑になるので書かない。

 お使いの者は、帰ったけれど、小君を使いにして、小袿のお礼だけは申し上げさせた。

 「蝉の羽の衣替えの終わった後の夏衣は
  返してもらっても自然と泣かれるばかりです」

 「考えても、不思議に人並みはずれた意志の強さで、振り切って行ってしまったなあ」と思い続けていらっしゃる。今日はちょうど立冬の日であったが、いかにもそれと、さっと時雨れて、空の様子もまことに物寂しい。一日中物思いに過されて、

 「亡くなった人も今日別れて行く人もそれぞれの道に
  どこへ行くのか知れない秋の暮れだなあ」

 やはり、このような秘密の恋は辛いものだと、お知りになったであろう。このような煩わしいことは、努めてお隠しになっていらしたのもお気の毒なので、みな書かないでおいたのに、「どうして、帝の御子であるからといって、それを知っている人までが、欠点がなく何かと褒めてばかりいる」と、作り話のように受け取る方がいらっしゃったので……。あまりにも慎みのないおしゃべりの罪は、免れがたいことで……。

源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
大島本
自筆本奥入