euphoric place

−Naho and Me. 06−

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06. euphoric place
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euphoric place

−Naho and Me. 06−

斎木 直樹

 

「なら、貸りていくか?」
「え、持ってるんですか?」
 明日から始まる講義で使用するので買ってこい、と指定された本が生協で売切れてしまい、困っていると言ったら、あっけなくそう応えが返ってきた。
「私も、あの授業をおととし受けたからな。もう読まないから進呈しよう」
と、苦笑気味に言う奈穂先輩。つまらない授業の上、自分の著書を買わせる教授への皮肉が込められている。その授業をこれから受けざるを得ない身分としては、へこみ気味になってしまう。あれ?でも、借りて……いく?
 ぼくが立ち止まったのにしばらく気づかず、奈穂先輩は一人歩き続けていたが、十歩ぐらい離れて気づいたようで、振り向いた。
「どうした、いらないのか?」
「要ります!要ります、けど……」
 ぼくより背の低い奈穂先輩を上目遣いで見るのは、非常に技術が必要だった。
「明日、何時限目なんだ」
「一時限目です」
 即答。奈穂先輩は朝が弱い。持ちうる技術を駆使して、一時限目の講義は避けていると聞いていた。
 奈穂先輩は、ひとつため息をついた。
「なら、今から取りに来い」
 アニメならきゃぴっという効果音がつきかねないほどに顔を上げてしまったぼくだが、少し不安だった。奈穂先輩は、一人暮らしだ。
「ああ、その心配ならしないでいい」
 少し、首をかしげたぼくに、奈穂先輩はにーっこりと笑った。あ、なんか黒いこと考えてる笑みだ。
「お前が私に何かしたら、どんな報復をしてやるかが楽しみだ」
 あ、本気だ。この人今、本気で考えてる。
「……とでも言っておけば、怖くて何もできないだろう?」
 まあ、事実です。身に染みてわかっているぼくは、つばを飲み込んだ。
「少し歩くぞ」
 ぼくの知らない道へと分け入っていく足取りは、非常にゆっくりだ。
「どのくらいなんですか」
「十五分」
「けっこう遠いんですね」
 ああ、と奈穂先輩は笑った。
「一人で歩いている時間が好きなんだ。不要ではないが、頭は何もする必要がない時間。必要のないことを考えられる時間が、毎日あることが好きでな」
 自動車があまり通らない道を、通学路にしているのだろう。静かな住宅街には、花が咲いていたり、犬が寝ていたり、いろいろだ。つくりの変わった家を眺めて、楽しんでいる奈穂先輩が思い浮かぶ。
「雨が降っているときなんか絶好だな」
 単調な雨音と、傘の部分だけ視覚が限られることから、自らの考えに没頭できるということだろう。いつになく、奈穂先輩は饒舌だった。よほど好きなんだな。
 二人が歩く道には、車はもちろん、誰もやってこなかった。午後の、ちょうど一息ついた時間なのだろう。風は冷たくなく、歩き続けていると少し暑いくらいだ。遠くで、犬が吠えているのが聞こえてくる。隣家の壁一面に張り付いた蔦状の花の香りがただよってきて、すぐに消える。
 今、奈穂先輩は何を考えているんだろう。隣にいる、ぼくのことだったらありがたいけど、まあ、そうではないことは想像がつく。でも、そうだとしても。
 ぼくは、ぎっと左手を握る。こういうときに、奈穂先輩の手を握れたら、どんなに嬉しいことだろう。ぼくが、そんなことを思っているなんて、奈穂先輩はきっと思いもよらないに違いない。今もきっと、たわいもない、けれど先輩にとっては大事なことを考えているに違いない。
「広海」
「は、はいっ」
 思いがけなく声をかけられたぼくは、すっとんきょうな声を出してしまった。奈穂先輩は苦笑している。
「例の講義は、とほうもなく眠いから覚悟しておけ。試験にノートは必須だぞ」
 奈穂先輩が、ぼくの考えていることなんて想像していなくても。
「はい、がんばってコピーの調達先を取り揃えます」
「始まる前からコピーの心配か」
 奈穂先輩が、いつも一人で歩いている道をぼくが隣で歩いていることが嫌でなくて。
「なにせ一時限目ですから、自信なくて」
「まあ、私も人のことは言えないが」
 少しでも、ぼくのことを考えてくれることがあるなら。
 奈穂先輩は、何かを思い出しているのか、一人でくく、と笑った。
 奈穂先輩の、「幸せ」を、奈穂先輩の側で感じ取ることができるなら。
 それが、ぼくの「幸せ」だ。
 

 例え、ささやか過ぎる「幸せ」であっても。

 

    おわり

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Last modified 2009.6.15.
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