Fantasist

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 Fantasist (最終回)

                            Green-Blue tales

                              斎木 直樹

 半日ごとにくるくると黒猫と姿を代える女の子は、またいつものように笑って言っ
た。
「今まで色々とどうもありがとう。私、明日弥生が目覚めたときにはいないわ」
 月曜の朝だった。俺は学校へと歩きながら、ファンタジストには見えるように姿を
消したニャーオの言葉を聞いた。彼女は、最初に見たときの黒服に戻っていた。
「そうか。結局、試験はどうだったんだ」
 ニャーオは、肩をすくめただけだった。どういうことなのだろう。結果待ち、かな。
「大丈夫、私は受かるわ。それより、弥生」
「何だよ」
 ニャーオは、黒猫のようにふふと笑った。
「今までのお礼に、一つだけ弥生の願いを叶えてあげる。私にできることならね。魔
力が自在に使えるうちにしたいから、昼休みにプールで待ってるわ」
 うちの学校には水泳部がないので、季節外れならばプールの辺りには人はいないは
ずだった。しっかし、何でこいつがそんなこと知ってるんだよ。
 ニャーオに聞こうと思って顔を上げると、彼女の姿は既になかった。俺はため息を
つくと、空を見上げた。
 俺は、他の奴等とは違う。ずっとそう思っていた。けれど、ニャーオを見ていると、
本当にそうなのかと思う時があった。俺は、確かに普通ではないと思う。マンガはジ
ャンプよりサンデーが好きだし、男の子らしくない本ばかり読む、とよく親に言われ
たものだ。そして何よりも、俺はファンタジストだ。俺は、変わっている。
 だが、それだけだろうか。俺は、学校に行く。制服を着て行く。決められた席に着
いて、静かに勉強を遊びつつする。給食を食べる。食後には居眠りをする。家に帰る。
ファミコンで遊ぶ。テレビを見て、笑う。マンガを読む。風呂に入る。ラジオを聴く。
寝る。それは、「普通の中学生」そのものの生活ではないのか。
 ニャーオは、全く違う。彼女は妖精で、魔女だ。幻想界という世界に住み、魔法を
使って暮らしている。昨日、疑問を発し続ける彼女を見て、この世界を見る彼女の目
を見て、よく判った。ニャーオは、ここの人間ではない。
 それだけじゃない。二歳年上なだけなのに、彼女はとても大人びて見える。俺だけ
ではなく、他の同年代の奴等よりもずっと。それは、科学が発達していない世界では
しばしばそうであるように、早く大人になることを要求されているためなのだろうか。
 彼女は、まだ俺たちが知らない辛さを、どうにもならない仕方のないことは存在す
るということを、知っているような気がする。その哀しさを、知っているような気が
する。
 俺は、汚い空を眺めすぎて首が痛くなってしまった。
 願い事か。何にしようかな。
 ニャーオを見つめる角度に、首が上がった。




 体育館から、ボールが床にぶつかる音とかけ声が聞こえる。体育会系特有の、あの
連帯感を味あわせる妙なやつだ。昼休みにも、彼らは練習しているのだろうか。
 俺は、プールの更衣室の横を通り抜け、プールへと入っていった。鍵は開いていた。
いつも開けているはずはない、ニャーオが開けたのだろう。
 ニャーオは、緑色の水がよどんでいるプールサイドに座り、水を見つめていた。
 ニャーオと目が会い、どんな顔をしたらいいのか俺が戸惑っていると、ニャーオは
いつものようににっこりと笑いかけてきた。俺はほっとして、それに答えた。
「決まった?」
 俺は、つばを飲み込んだ。なぜだろう、これが儀式のような気がする。何か重大な
ことのような。ニャーオはやってきて、去っていく。当然のことじゃないか。彼女は、
ここの人間じゃない、妖精なんだ。
 そうか。これは、別れの儀式なんだ。
「俺、背を高くして欲しいんだ」
 こう言うのには、とても勇気がいった。自分のコンプレックスをさらけ出している
だけだからだ。
 けれど、ニャーオはすげなく答えた。
「それはできないわ、弥生」
「何でさ。何でもできるんだろう、魔法を使えるんだから」
 俺は怒っていた。何でも叶えてくれるって言ったから、ニャーオだから言ったのに。
 俺は、生まれたのは東京だが、弟の泉弥が生まれて少しして、ばあちゃんのところ
へ母さんと三人で引っ越した。そこはかなりの田舎で、父さんはいわゆる単身赴任を
することになった。
 その理由は二つあって、まず、泉弥の身体。今は元気になったが、泉弥は生まれた
頃は気管支系が弱く、もっと空気のきれいなところへ行った方がいいと言われた。そ
して二つ目は、住む家がないということ。子ども二人はだめだ、と最初に言われてい
たそうだ。その頃家には余り金がなかった。
 そういう訳で俺は子ども時代を田舎で過ごしたが、それ自体は結構気に入っていた。
俺はけんかに強く運動神経も良かったので、地元のガキ大将らしきものになっていた。
俺たちは、そこら中を駆け回って長い毎日を過ごしていた。
 ところが、高学年になるにつれてそれが変わってきた。俺は、周りの奴等に比べて、
背が高くなるのがとても遅かった。相変わらずけんかには負けなかったが、段々とつ
いてくる奴等はいなくなっていった。ある日、俺は好きだった女の子が話しているの
を聞いた。
「吉川君?だってあの人、ちびじゃん。やっぱり背は高くなくっちゃねー」
 俺は誰とも話さなくなっていき、卒業式の後、東京の両親念願のマイホームに引っ
越した。
 どんどんここに馴染んでいく泉弥が憎かった。悔しかった。あいつがいなければ、
もともと引っ越さずにすんだのに、と思ったりもした。
「何でもなんて、できないわ」
 俺は、はっと顔を上げた。泣いているように聞こえたが、ニャーオは泣いていなか
った。ただ、とても哀しそうだった。
「ニャーオ」
「魔女はね、そりゃあ普通の人間や妖精よりは、ずっとたくさんのことができる。で
も、何かものを生み出したり、そのものを変えることはできないの。ただ、ものを動
かしたり暗示をかけたり、幻覚をみせたりするくらいしかできないの」
 だが、俺はそんなニャーオに優しい言葉をかけられるほど大人ではなかった。やば
いと思いつつも、怒りにまかせて言葉を投げつけた。
「じゃあ、俺の背が高いという幻覚をみせればいい」
 ニャーオは一瞬目をさまよわせ、口を固く結んで俺を見つめた。
「弥生。たとえ外見を変えても、中は何も変わらないの。それはまやかしよ」
「外見で近づく奴等はごろごろいる」
 黒服を纏った魔女は、しばらくうつむいていたが、思い切ったように顔を上げた。
今度は、心底真剣な顔だった。
「いいわ。見せてあげる、弥生には」
「何を」
 ニャーオは軽く目をつぶり、一回首を振った。結ばれていた髪がほどけ、髪がなび
く。
「これが、私の本当の姿。今は精神体だから、これも幻覚だけれど」
 ニャーオの髪は、見事な金の色をしていた。
「……綺麗じゃないか。すごく、綺麗だ。どうして隠してるんだ」
 彼女は哀しそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。でもね、魔女の中では金髪は嫌われるの」
「何でさ」
 くす、とニャーオは笑った。でもその青い瞳は、今にも泣き出しそうだった。
「判らないわ――判らないの。今まで、ずっと考えてきたけれど。きっと、私の髪は
みんなに嫌なことを思い出させるのね」
「ニャーオ」
「おかしいのよ。魔女はね、妖精にとても嫌われているの。汚らわしい者だって。そ
の魔女たちが嫌いなものは、どんなに汚いものなのかしら」
 くすくすという笑い声が止まった。もう、彼女は哀しそうな目はしていない。どん
な不当な辛い目に遭ってもまっすぐ前を見つめ、理由を求める。歯を食いしばって立
ち上がり、問い続ける。
 疑問を発し続けるニャーオ。質問はないか、と先生に聞かれてしんとする教室。そ
の中には、俺もいた。なぜ不思議に思わないのか。それは、今の暮らしに満足してい
るから。そして一旦不思議に思えば、その満足が失われてしまうから。ニャーオは、
その満足を与えられなかった。
「私の母は、髪のせいでとても酷い目に遭ったらしいの。だから、私は生まれたとき
からずっと染めているの」
 俺は、そんな不当な仕打ちに遭ったことがあるだろうか。確かに、ガキ大将として
の地位はなくした。けれど、友達はいた。その友達を、俺は自分から捨てたんじゃな
いのか。自分から一人になった。一人でいる方が、いいと思った。
「染めてたってそうでなくったって、私は私なのにね」
「ニャーオ、俺」
 ニャーオは、軽く首を振った。
「いいの。もう、いいの。ただ、弥生に言いたかったの。そんなことを気にして、み
んなを遠ざけないで欲しい、みんなから遠ざかられてはいないのだから。私には、そ
んなこと言う資格ないのにね」
 みんな、親と先生の言うことをいい子に聞いている、と思った。だが、俺もそうじ
ゃなかったか。心で思うだけではなく、一度でも実際に嫌だと思ったきまりを変えよ
うと努力したことがあるか。説得したことがあったか。みんな同じなのよ、というニ
ャーオの声が聞こえた。みんな、少しは規則が嫌だと思ったことがある。だが、殆ど
の奴等は、俺は、変えようとはしなかった。
 みんな、同じ。誰も、誰かに側にいて欲しい時がある。一緒に楽しくやりたい時が
ある。一人になりたい時があるように。今の社会では、誰とも関わらずに生きていく
ことなどできない。そんなことは判っていた。ただ、判らないふりをしていた。
 俺は、自分が他の奴等とは違うから孤立していたのではなかった。同じだから、孤
立していたんだ。俺は、他の奴等とは違うから一人でいようと思っていた。でも、そ
うじゃなかった。俺は、他の人から避けられるのが怖かった。だから、一人でいよう
とした。
 みんな、一人でいたくはないから。怯えているから。だから、みんなでいるのだ。
みんなは一人でいたくがないために一人でい、俺は一人にされないために一人でいた。
それが違うだけだったんだ。俺は、みんなと同じだった。
 ニャーオが振り向いて、尋ねる。今はもう、いつものニャーオに戻っている。
「ごめんね、弥生。他の願い事にしてくれる」
 俺は、黒髪の魔女を見下ろして、にっこりと笑った。
「俺に、ニャーオの本当の身体を見せてくれ」
 初めてニャーオに困った顔をさせてやれただけで、俺は満足だった。




 夜中の二時に、ニャーオは俺を起こした。そのために八時にはベッドに寝転がった
のだが、最初は寝つかれず、まだ眠かった。
 ニャーオは、玄関から持ってきておいた靴を履いた俺を窓から降ろすと、先導した。
電灯の明かりの下、真夜中の道を歩くのはさすがに薄気味悪かった。ニャーオは黙々
と、音も立てずに俺を先導していく。
「どこに行くんだ」
 黒猫の姿をした少女は、すぐそこの木があるところだと答えた。
 そこは、ある会社の社宅だった。飛び降り自殺があったという噂もある、九階建て
の大きな灰色の不気味な建物が二つ並んでいて、その周りには少々多すぎるような木
木がある。そこは昼でも暗く、夜は女の人ならば少し怖いほどだった。その木立の中
に、黒髪の魔女は黒猫の格好で二本足で立っていた。
 そしてニャーオは、俺に持っていろと言った袋から、緑色の石を取り出した。それ
は、前にクラスの奴等に聞いていた石に違いなかった。見つけたんだ。
 黒猫は、その石を念力で木立に触れそうなほど高くひゅうと、振り上げた前足と共
に上げると、勢いよく振り落とした。
「わっ」
 鈍い音がして、石は割れていた。
 ニャーオの方を振り返ると、黒猫は揺れていた。身体全体が煙のように薄くなり、
揺らめいていた。
「ニャーオっ」
 手を伸ばすと、彼女の姿はかき消えてしまった。
 俺は何を言えず、何もできず、ただ呆然としていた。姿を消したわけじゃない。消
えた。いなくなった。ニャーオが。ニャーオは失敗したのか。死ん、だ?
 背後で、何かが動く音がした。ぎくっとして振り向くと、
「やっほ、弥生」
 黒髪を後ろで一つに束ねた、女の子がいた。俺よりも少し年上に見えるその子は、
深い青の瞳を持っていた。黒い長衣こそ着ていないで、中世ヨーロッパの村娘のよう
な格好だけれど、これはニャーオだ。ニャーオだ。
 ニャーオは、精神体の時と変わらない笑顔を浮かべた。
「あの長衣は、本当は魔女にならないと着られないの」
「死んだのかと思った。失敗したのかと」
 ふん、とニャーオは鼻で笑った。
「この私が、失敗するわけないでしょう」
 うん。自信とそれに見合う実力を持っていて、自分の思うことを言う。それがニャ
ーオだ。
「それもそうよね。本当なら、五日前にもできたのだから」
 いつの間にか、ニャーオの隣に女の人が立っていた。黒髪を結い上げた、ニャーオ
のいつもの黒服を着た美人は、ニャーオを軽く睨むとわざとらしくため息を洩らした。
 ニャーオは、ぺろっと舌をのぞかせた。どうやら、この人は知り合いらしい。おそ
らく魔女なのだろう。
「ばれてましたか、S・リーザ」
 五日前って、もしかして俺と逢った日のことか?
「当たり前でしょう。ご丁寧に、私が監視している時は封印を探しているふりまでし
て。普通の試験官ならともかく、あなたを見習い以前から知っている私はだまされま
せんよ。あなたは、ずっと楽しい悪戯をしているような顔でしたしね」
 ニャーオは、ごまかすように笑っていた。また何だって、そんなまねを。
 リーザとかいう人は、諦めたように苦笑いをしていた。今度は、少し優しい顔だっ
た。
「今度こういうことをしたら、すぐに資格剥奪ですよ」
「じゃ、ニャーオは」
「もちろん、合格よ」
 俺は飛び上がって喜んだが、ニャーオはなぜか沈んだ表情を見せていた。ニャーオ
の教官は、一区切りつけるように息をついた。
「では、ミオ・ウィッチ。あなたには、しなくてはいけないことがあります。判りま
すね」
「はい」
「ファンタジストといえど、例外はありません。これは幻想界の秘密を守るため、そ
して私達が生きるための掟です。実行した後、戻りますよ」
 女の人はにこりと笑い、帰ったらお祝いよと言い残すと、すっと消えてしまった。
テレポートなのかもしれない。
「ニャーオ、しなくてはいけないことって何々だ」
 ニャーオは、まっすぐに前を向いたまま、静かに言った。
「私と言葉を交わした人、全ての記憶を消すの」
「……俺も?」
 ぎりっと唇を噛みしめるのが見える。
「そうよ。例外はない」
「そんな、だって」
 殴りつけるように、ニャーオは言った。
「きまりなのよ、弥生。私達がいることがここの世界の人々にばれたら、どんなこと
になるか。仕方がないの。判ってちょうだい」
「きまりは変えればいいって、ニャーオが言ったんじゃないか」
「いいえ。変えられる嫌なきまりは、変えればいいと言ったの。これは、変えられな
いきまり。そして、そうあるべきだと私も思うわ」
 彼女は、とても辛そうだった。彼女を責める筋合いのことじゃない。でも。俺はう
つむいた。
「俺は、嫌だ。忘れたくない。ニャーオが教えてくれたこと。ニャーオのこと」
「大丈夫。すぐに忘れられるわ。そして、二度と思い出せない」
「忘れないよ――忘れない。忘れても、思い出す」
 ニャーオは、微かに笑った。俺はほっとした。哀しい顔など、見たくない。
「いいえ。あなたは忘れる。そしてファンタジストでもなくなる」
「忘れないよ。忘れても、いつかきっと、思い出す。ファンタジストでもいる……ニ
ャーオ」
 ニャーオは優しく、何、と聞いた。
 少しずつ、意識が薄れていた。視界が白くなってきていた。けれど、俺は俺だった。
 ならば、大丈夫だ。俺は、きっと覚えている。ニャーオのこと。ニャーオの教えて
くれたこと。ニャーオと出会った俺のこと。たとえ忘れても、心の底では覚えている。
そしてまたいつか、きっと思い出す。絶対に思い出す。
「俺、バスケ部に入るよ。前からそうしたかったんだ。背が伸びるんだって」
「そう、良かった。頑張ってね」
「ああ。そうしたら、ニャーオを、追い越す、よ。ニャ……オ……」
 真っ白な意識に声が聞こえてきたが、俺はその意味を理解できなかった。ただ音声
だけが、頭を通り抜けていった。
「さようなら、弥生。ありがとう」

「ニャーオ」
「S・リーザ……」
 女の子と女の人の声がする。両方とも知らない声だ。女の子の方は、泣いているよ
うだった。なぜ泣いているの。
「あの子のことが、好きだった?」
「ええ、ちょっと」
「ちょっと?」
 女の人は、笑うように優しく言った。それに答えるように、女の子も少し笑った。
良かった。泣いている声など、聞きたくない。
「だいぶ、かも。あの子ね、私の髪をほめてくれたの。綺麗だよって」
「……大丈夫よ。いつか、元の色に戻せる日が来るわ。その日のために、あなたはも
っとつよくなるのよ。もっと、つよく」
 金の色が見えた。どっちを向いても、金色がさざめいていた。とても綺麗な色だっ
た。
 最後に、女の子が微かに聞こえてきた。金のさざめきにかき消されそうなその声は、
なぜかとても力強く聞こえた。
「私は忘れないわ、弥生。いつまでも、いつまでも。絶対に、忘れない。だから、頑
張って、あなたも。私も、いつかのために頑張るから。あなたに綺麗だと言われるよ
うになるために」
 その声は、本当に微かだった。




 俺は一階へ、制服を着て降りていった。食卓に既に着いていた母さんと泉弥に、お
はようと言う。
 何か強烈な夢を見たような気がしたけれど、思い出せないのがもどかしかった。そ
の夢の余韻で頭がぼうっとしている中で、ただ何となく朝飯を食っていた。
 何か、母さんが言ったような気がした。
「え、何か言った?」
「だから、あの猫のご飯はいらないのかって。あんた、飼うのはいいけど、ちゃんと
ご飯食べさせてるの。まあ、昼はいないみたいだけど」
「ねこ?」
 何のことだか判らない。
「あんたが拾ってきた黒猫よ。夕方になったら連れ帰ってた」
「ああ、あれ。あいつ、どっか行っちまったよ」
 母さんは、急に気味の悪いものを見るように目つきになって言った。
「……どうしたの」
「何が」
「どうして泣いてるの」
 泣いて……?
 顔へ手をやると、本当に俺は泣いていた。
 泉弥が俺の側へやってきて、ぽんぽんと手を叩いた。子どもの柔らかい手が心地よ
かった。  俺の中で、何かが囁いた。それはささやかだったが、強い力を持った声だった。俺
は、涙を拭わなかった。なぜか、そうしてはいけないような気がした。
「弥生、あんた大丈夫なの?」
「俺、やっぱバスケ部に入るよ」
 母さんは、呆気にとられた顔をしていた。そりゃあそうだよな。俺でさえ、よく判
らない。ただ、なぜか今そうしなくちゃいけないような気に、いや、そうしたくなっ
たんだ。とても。
「どうしてまた急に」
「決めたんだ」
 俺の顔を見て、母さんは納得はいかないが、まんざらでもない顔になった。
「そう。じゃあま、頑張りなさい」
 頑張ってね、ともう誰かに言われたような気がする。変なの。
 俺は鞄を持つと、行って来ますと家を出た。初夏のきつい日差しに、俺は思わず空
を見上げた。太陽が、眩しく金色に輝いていた。きっと今日は暑くなるだろう。俺は
歩き始めた。
 そしてもう一度、空を見上げた。そこには月はなく、太陽が一人、金色の光をまき
散らしていた。




     おわり

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