岩元の遺作。本来の計画では巨大な付け柱の上に女体像が載る予定であったが、上司が許可しなかったと言わ れている。また女体像の現物取付けが不調だったため取りやめたという話もある。結果は不調であったが、西 陣電話局と同様、新しい時代の彫刻と建築の融合の試みであった。 岩元が逓信省を去った後の逓信省建築にもドリス式の列柱並ぶデザインがみられるようになったが、(下関市 第一別館のように)これとの関連は不明である。 |
■「この柱頭部にのるべき裸体のトルソウは、岩元禄の最初の設計にあったし、また彼の アトリエで原形を示すための模型もつくられたのであった・・・・・」 −−−向井覚(「建築家・岩元禄」より) ■「トルソウはひざ上からの六分像で、デフォルメされ、簡略化されたボリュウムの美しさ は現場に並べられたらどんなに素晴らしいだろうとほんとに楽しみでした」 −−−山口文象の言(同上「建築家・岩元禄」より) ■「ぼくはあったような記憶があります。電車の中から女の白い彫刻を見たような覚えがあ るんです。」 −−−堀口捨己の言(同上「建築家・岩元禄」より) |
こうした証言を頼りに、岩元による当初の外観の再現を試みた(↓)。 |
全景外観 (51KB) |
柱頂部詳細 (44KB) |