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渋谷栄一校訂(C)

  

浮舟

薫君の大納言時代二十六歳十二月から二十七歳の春雨の降り続く三月頃までの物語

 [主要登場人物]

 薫<かおる>
呼称---右大将・大将殿・大将・殿・君、源氏の子
 匂宮<におうのみや>
呼称---兵部卿宮・宮、今上帝の第三親王
 今上帝<きんじょうてい>
呼称---帝・内裏、朱雀院の第一親王
 明石中宮<あかしのちゅうぐう>
呼称---大宮・后の宮・宮、源氏の娘
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---右大臣・右の大殿・大臣・殿、源氏の長男
 女一の宮<おんないちのみや>
呼称---姫宮・一品の宮、今上帝の第一内親王
 女二の宮<おんなにのみや>
呼称---二の宮・女宮・帝の御女、今上帝の第二内親王
 中君<なかのきみ>
呼称---宮の上・宮の御方・対の御方・上・女君、八の宮の二女
 浮舟<うきふね>
呼称---女君・御前・君・女、八の宮の三女
 中将の君<ちゅうじょうのきみ>
呼称---母君・母・親、浮舟の母
 弁尼君<べんのあまぎみ>
呼称---尼君・尼
 浮舟の乳母<うきふねのめのと>
呼称---おとど・乳母
 時方<ときかた>
呼称---時方朝臣・左衛門大夫・出雲権守・守の君、匂宮の従者
 大内記<だいないき>
呼称---道定朝臣・道定・内記・式部少輔・少輔、匂宮の家来
 大蔵大輔<おおくらのたいふ>
呼称---仲信・家司、薫の家司、道定の妻の父親
 右近<うこん>
呼称---右近・大輔が娘、大輔君の子
 随身<ずいじん>
呼称---御随身・舎人、薫の随身
 使者<ししゃ>
呼称---男、匂宮の使者

第一章 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る

  1. 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む---宮、なほ、かのほのかなりし夕べを思し忘るる世なし
  2. 薫、浮舟を宇治に放置---かの人は、たとしへなくのどかに思しおきてて
  3. 薫と中君の仲---すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど
  4. 正月、宇治から京の中君への文---睦月の朔日過ぎたるころ渡りたまひて
  5. 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す---ことにらうらうじきふしも見えねど
  6. 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る---わが御方におはしまして、「あやしうもあるかな
  7. 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ---「いとうれしくも聞きつるかな」と思ほして
第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む
  1. 匂宮、宇治行きを大内記に相談---ただそのことを、このころは思ししみたり
  2. 匂宮、馬で宇治へ赴く---御供に、昔もかしこの案内知れりし者、二、三人
  3. 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る---やをら昇りて、格子の隙あるを見つけて
  4. 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む---「何ばかりの親族にかはあらむ
  5. 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る---夜は、ただ明けに明く。御供の人来て声づくる
  6. 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す---右近出でて、このおとなふ人に
  7. 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる---日高くなれば、格子など上げて
  8. 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす---例は暮らしがたくのみ、霞める山際を
  9. 翌朝、匂宮、京へ帰る---夜さり、京へ遣はしつる大夫参りて、右近に会ひたり
第三章 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す
  1. 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める---二条の院におはしまし着きて、女君
  2. 明石中宮からと薫の見舞い---内裏より大宮の御文あるに、驚きたまひて
  3. 二月上旬、薫、宇治へ行く---月もたちぬ。かう思し知らるれど、おはしますことは
  4. 薫と浮舟、それぞれの思い---「造らする所、やうやうよろしうしなしてけり
  5. 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す---山の方は霞隔てて、寒き洲崎に立てる鵲の姿
第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す
  1. 二月十日、宮中の詩会催される---如月の十日のほどに、内裏に文作らせたまふとて
  2. 匂宮、雪の山道の宇治へ行く---かの人の御けしきにも、いとど驚かれたまひければ
  3. 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す---夜のほどにて立ち帰りたまはむも
  4. 匂宮、浮舟に心奪われる--日さし出でて、軒の垂氷の光りあひたるに
  5. 匂宮、浮舟と一日を過ごす---人目も絶えて、心やすく語らひ暮らしたまふ
  6. 匂宮、京へ帰り立つ---御物忌、二日とたばかりたまへれば、心のどかなるままに
  7. 匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す---かやうの帰さは、なほ二条にぞおはします
第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う
  1. 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く---雨降り止まで、日ごろ多くなるころ
  2. その同じ頃、薫からも手紙が届く---これかれと見るもいとうたてあれば
  3. 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る---女宮に物語など聞こえたまひてのついでに
  4. 浮舟の母、京から宇治に来る---大将殿は、卯月の十日となむ定めたまへりける
  5. 浮舟の母、弁の尼君と語る---暮れて月いと明かし。有明の空を思ひ出づる
  6. 浮舟、母と尼の話から、入水を思う---「あな、むくつけや。帝の御女を持ちたてまつり
  7. 浮舟の母、帰京す---悩ましげにて痩せたまへるを、乳母にも言ひて
第六章 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う
  1. 薫と匂宮の使者同士出くわす---殿の御文は今日もあり。悩ましと聞こえたりしを
  2. 薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る---かどかどしき者にて、供にある童を
  3. 薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる---夜更けて、皆出でたまひぬ。大臣は、宮を先に立て
  4. 薫、帰邸の道中、思い乱れる---道すがら、「なほ、いと恐ろしく、隈なくおはする宮なりや
  5. 薫、宇治へ随身を遣わす---「我、すさまじく思ひなりて、捨て置きたらば
  6. 右近と侍従、右近の姉の悲話を語る---まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを
  7. 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う---「いさや。右近は、とてもかくても、事なく
第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す
  1. 内舎人、薫の伝言を右近に伝える---殿よりは、かのありし返り事をだにのたまはで
  2. 浮舟、死を決意して、文を処分す---君は、「げに、ただ今いと悪しくなりぬべき身なめり
  3. 三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く---二十日あまりにもなりぬ。かの家主
  4. 匂宮、宇治へ行く---宮、「かくのみ、なほ受け引くけしきもなくて
  5. 匂宮、浮舟に逢えず帰京す---宮は、御馬にてすこし遠く立ちたまへるに
  6. 浮舟の今生の思い---右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに
  7. 京から母の手紙が届く---宮は、いみじきことどもをのたまへり
  8. 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す---寺へ人遣りたるほど、返り事書く

【出典】
【校訂】

 

第一章 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る

 [第一段 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む]

 宮、なほ、かのほのかなりし夕べを思し忘るる世なし。「ことことしきほどにはあるまじげなりしを、人柄のまめやかにをかしうもありしかな」と、いとあだなる御心は、「口惜しくてやみにしこと」と、ねたう思さるるままに、女君をも、

 「かう、はかなきことゆゑ、あながちに、かかる筋のもの憎みしたまひけり。思はずに心憂し」

 と、恥づかしめ怨みきこえたまふ折々は、いと苦しうて、「ありのままにや聞こえてまし」と思せど、

 「やむごとなきさまにはもてなしたまはざなれど、浅はかならぬ方に、心とどめて人の隠し置きたまへる人を、物言ひさがなく聞こえ出でたらむにも、さて聞き過ぐしたまふべき御心ざまにもあらざめり。

 さぶらふ人の中にも、はかなうものをものたまひ触れむと思し立ちぬる限りは、あるまじき里まで尋ねさせたまふ御さまよからぬ御本性るに、さばかり月日を経て、思ししむめるあたりは、ましてかならず見苦しきこと取り出でたまひてむ。他より伝へ聞きたまはむはいかがはせむ。

 いづ方ざまにもいとほしくこそはありとも、防ぐべき人の御心ありさまならねば、よその人よりは聞きにくくなどばかりぞおぼゆべき。とてもかくても、わがおこたりにてはもてそこなはじ」

 と思ひ返したまひつつ、いとほしながらえ聞こえ出でたまはず、異ざまにつきづきしくは、え言ひなしたまはねば、おしこめてもの怨じしたる、世の常の人になりてぞおはしける。

 [第二段 薫、浮舟を宇治に放置]

 かの人は、たとしへなくのどかに思しおきてて、「待ち遠なりと思ふらむ」と、心苦しうのみ思ひやりたまひながら、所狭き身のほどを、さるべきついでなくて、かやしく通ひたまふべき道ならねば、神のいさむるりもわりなし。されど、

 「今いとよくもてなさむ、とす。山里の慰めと思ひおきてし心あるを、すこし日数も経ぬべきことども作り出でて、のどやかに行きても見む。さて、しばしは人の知るまじき住み所して、やうやうさる方に、かの心をものどめおき、わがためにも、人のもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ。

 にはかに、何人ぞ、いつより、など聞きとがめられむも、もの騒がしく、初めの心に違ふべし。また、宮の御方の聞き思さむことも、もとの所を際々しう率て離れ、昔を忘れ顔ならむ、いと本意なし」

 など思し静むるも、例の、のどけさぎたる心からなるべし。渡すべきところ思しまうけて、忍びてぞ造らせたまひける。

 [第三段 薫と中君の仲]

 すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど、宮の御方には、なほたゆみなく心寄せ仕うまつりたまふこと同じやうなり。見たてまつる人もあやしきまで思へれど、世の中をやうやう思し知り、人のありさまを見聞きたまふままに、「これこそはまことに昔を忘れぬ心長さの、名残さへ浅からぬためしなめれ」と、あはれも少なからず。

 ねびまさりたまふままに、人柄もおぼえも、さま殊にものしたまへば、宮の御心のあまり頼もしげなき時々は、

 「思はずなりける宿世かな。故姫君の思しおきてしままにもあらで、かくもの思はしかるべき方にしもかかりそめけむよ」

 と思す折々多くなむ。されど、対面したまふことは難し。

 年月もあまり昔を隔てゆき、うちうちの御心を深う知らぬ人は、なほなほしきただ人こそ、さばかりのゆかり尋ねたる睦びをも忘れぬに、つきづきしけれ、なかなか、かう限りあるほどに、例に違ひたるありさまも、つつましければ、宮の絶えず思し疑ひたるも、いよいよ苦しう思し憚りたまひつつ、おのづから疎きさまになりゆくを、さりとても絶えず、同じ心の変はりたまはぬなりけり。

 宮も、あだなる御本性こそ、見まうきふしも混じれ、若君のいとうつくしうおよすけたまふままに、「他にはかかる人も出で来まじきにや」と、やむごとなきものに思して、うちとけなつかしき方には、人にまさりてもてなしたまへば、ありしよりはすこしもの思ひ静まりて過ぐしたまふ。

 [第四段 正月、宇治から京の中君への文]

 睦月の朔日過ぎたるころ渡りたまひて、若君の年まさりたまへるを、もて遊びうつくしみたまふ昼つ方、小さき童、緑の薄様なる包み文の大きやかなるに、小さき鬚籠を小松につけたる、また、すくすくしき立文とり添へて、奥なく走り参る。女君にたてまつれば、宮、

 「それは、いづくよりぞ」

 とのたまふ。

 「宇治より大輔のおとどにとて、もてわづらひはべりつるを、例の、御前にてぞ御覧ぜむとて、取りはべりぬる」

 と言ふも、いとあわたたしきけしきにて、

 「この籠は、金を作りて色どりたる籠なりけり。松もいとよう似て作りたる枝ぞとよ」

 と、笑みて言ひ続くれば、宮も笑ひたまひて、

 「いで、我ももてはやしてむ」

 と召すを、女君、いとかたはらいたく思して、

 「文は、大輔がりやれ」

 とのたまふ。御顔の赤みたれば、宮、「大将のさりげなくしなしたる文にや、宇治の名のりもつきづきし」と思し寄りて、この文を取りたまひつ。

 さすがに、「それならむ時に」と思すに、いとまばゆければ、

 「開けて見むよ。怨じやしたまはむとする」

 とのたまへば、

 「見苦しう。何かは、その女どちのなかに書き通はしたらむうちとけ文をば、御覧ぜむ」

 とのたまふが、騒がぬけしきなれば、

 「さは、見むよ。女の文書きは、いかがある」

 とて開けたまへれば、いと若やかなる手にて、

 「おぼつかなくて、年も暮れはべりにける。山里のいぶせさこそ、峰の霞も絶え間なくて」

 とて、端に、

 「これも若宮の御前に。あやしうはべるめれど」

 と書きたり。

 [第五段 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す]

 ことにらうらうじきふしも見えねど、おぼえなき、御目立てて、この立文を見たまへば、げに女の手にて、

 「年改まりて、何ごとかさぶらふ。御私にも、いかにたのしき御よろこび多くはべらむ。

 ここには、いとめでたき御住まひの心深さを、なほ、ふさはしからず見たてまつる。かくてのみ、つくづくと眺めさせたまふよりは、時々は渡り参らせたまひて、御心も慰めさせたまへ、と思ひはべるに、つつましく恐ろしきものに思しとりてなむ、もの憂きことに嘆かせたまふめる。

 若宮の御前にとて、卯槌まゐらせたまふ。大き御前の御覧ぜざらむほどに、御覧ぜさせたまへ、とてなむ」

 と、こまごまと言忌もえしあへず、もの嘆かしげなるさまのかたくなしげなるも、うち返しうち返し、あやしと御覧じて、

 「今は、のたまへかし。誰がぞ」

 とのたまへば、

 「昔、かの山里にありける人の娘の、さるやうありて、このころかしこにあるとなむ聞きはべりし」

 と聞こえたまへば、おしなべて仕うまつるとは見えぬ文書きを心得たまふに、かのわづらはしきことあるに思し合はせつ。

 卯槌をかしう、つれづれなりける人のしわざと見えたり。またぶりに、山橘作りて、貫き添へたる枝に、

 「まだ古りぬ物にはあれど君がため
  深き心に待つと知らなむ」

 と、ことなることなきを、「かの思ひわたる人のにや」と思し寄りぬるに、御目とまりて、

 「返り事したまへ。情けなし。隠いたまふべき文にもあらざめるを。など、御けしきの悪しき。まかりなむよ」

 とて、立ちたまひぬ。女君、少将などして、

 「いとほしくもありつるかな。幼き人の取りつらむを、人はいかで見ざりつるぞ」

 など、忍びてのたまふ。

 「見たまへましかば、いかでかは、参らせまし。すべて、この子は心地なうさし過ぐしてはべり。生ひ先見えて、人は、おほどかなるこそをかしけれ」

 など憎めば、

 「あなかま。幼き人、な腹立てそ」

 とのたまふ。去年の冬、人の参らせたる童の、顔はいとうつくしかりければ、宮もいとらうたくしたまふなりけり。

 [第六段 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る]

 わが御方におはしまして、

 「あやしうもあるかな。宇治に大将の通ひたまふことは、年ごろ絶えずと聞くなかにも、忍びて夜泊りたまふ時もあり、と人の言ひしを、いとあまりなる人の形見とて、さるまじき所に旅寝したまふらむこと、と思ひつるは、かやうの人隠し置きたまへるなるべし」

 と思し得ることもありて、御書のことにつけて使ひたまふ大内記なる人の、かの殿に親しきたよりある思し出でて、御前に召す。参れり。

 「韻塞すべき、集ども選り出でて、こなたなる厨子に積むべきこと」

 などのたまはせて、

 「右大将の宇治へいますること、なほ絶え果てずや。寺をこそ、いとかしこく造りたなれ。いかでか見るべき」

 とのたまへば、

 「寺いとかしこく、いかめしく造られて、不断の三昧堂など、いと尊くおきてられたり、となむ聞きたまふる。通ひたまふことは、去年の秋ごろよりは、ありしよりも、しばしばものしたまふなり。

 下の人びとの忍びて申ししは、『女をなむ隠し据ゑさせたまへる、けしうはあらず思す人なるべし。あのわたりに領じたまふ所々の人、皆仰せにて参り仕うまつる。宿直にさし当てなどしつつ、京よりもいと忍びて、さるべきことなど問はせたまふ。いかなる幸ひ人の、さすがに心細くてゐたまへるならむ』となむ、ただこの師走のころほひ申す、と聞きたまへし」

 と聞こゆ。

 [第七段 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ]

 「いとうれしくも聞きつるかな」と思ほして、

 「たしかにその人とは、言はずや。かしこにもとよりある尼ぞ、訪らひたまふと聞きし」

 「尼は、廊になむ住みはべるなる。この人は、今建てられたるになむ、きたなげなき女房などもあまたして、口惜しからぬけはひにてゐてはべる」

 と聞こゆ。

 「をかしきことかな。何心ありて、いかなる人をかは、さて据ゑたまひつらむ。なほ、いとけしきありて、なべての人に似ぬ御心なりや。

 右の大臣など、『この人のあまりに道心に進みて、山寺に、夜さへともすれば泊りたまふなる、軽々し』ともどきたまふと聞きしを、げに、などかさしも仏の道には忍びありくらむ。なほ、かの故里に心をとどめたると聞きし、かかることこそはりけれ。

 いづら、人よりはまめなるとさかしがる人しも、ことに人の思ひいたるまじき隈ある構へよ」

 とのたまひて、いとをかしと思いたり。この人は、かの殿にいと睦ましく仕うまつる家司の婿になむありければ、隠したまふことも聞くなるべし。

 御心の内には、「いかにして、この人を、見し人かとも見定めむ。かの君の、さばかりにて据ゑたるは、なべてのよろし人にはあらじ。このわたりには、いかで疎からぬにかはあらむ。心を交はして隠したまへりけるも、いとねたう」おぼゆ。

 

第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

 [第一段 匂宮、宇治行きを大内記に相談]

 ただそのことを、このころは思ししみたり。賭弓、内宴など過ぐして、心のどかなるに、司召など言ひて、人の心尽くすめる方は、何とも思さねば、宇治へ忍びておはしまさむことをのみ思しめぐらす。この内記は、望むことありて、夜昼、いかで御心に入らむと思ふころ、例よりはなつかしう召し使ひて、

 「いと難きことなりとも、わが言はむことは、たばかりてむや」

 などのたまふ。かしこまりてさぶらふ。

 「いと便なきことなれど、かの宇治に住むらむ人は、はやうほのかに見し人の、行方も知らずなりにしが、大将に尋ね取られにける、と聞きあはすることこそあれ。たしかには知るべきやうもなきを、ただ、ものより覗きなどして、それかあらぬかと見定めむ、となむ思ふ。いささか人に知るまじき構へは、いかがすべき」

 とのたまへば、「あな、わづらはし」と思へど、

 「おはしまさむことは、いと荒き山越えになむはべれど、ことにほど遠くはさぶらはずなむ。夕つ方出でさせおはしまして、亥子の時にはおはしまし着きなむ。さて、暁にこそは帰らせたまはめ。人の知りはべらむことは、ただ御供にさぶらひはべらむこそは。それも、深き心はいかでか知りはべらむ」

 と申す。

 「さかし。昔も、一度二度、通ひし道なり。軽々しきもどき負ひぬべきが、ものの聞こえのつつましきなり」

 とて、返す返すあるまじきことに、わが御心にも思せど、かうまでうち出でたまへれば、え思ひとどめたまはず。

 [第二段 宮、馬で宇治へ赴く]

 御供に、昔もかしこの案内知れりし者、二、三人、この内記、さては御乳母子の蔵人よりかうぶり得たる若き人、睦ましき限りを選りたまひて、「大将、今日明日よにおはせじ」など、内記によく案内聞きたまひて、出で立ちたまふにつけても、いにしへを思し出づ。

 「あやしきまで心を合はせつつ率てありきし人のために、うしろめたきわざにもあるかな」と、思し出づることもさまざまなるに、京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。

 法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。急ぎて、宵過ぐるほどにおはしましぬ。内記、案内よく知れるかの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄らで、葦垣し籠めたる西表を、やをらすこしこぼちて入りぬ。

 我もさすがにまだ見ぬ御住まひなれば、たどたどしけれど、人しげうなどしあらねば、寝殿の南表にぞ、火ほの暗う見えて、そよそよとする音する。参りて、

 「まだ、人は起きてはべるべし。ただ、これよりおはしまさむ」

 と、しるべして入れたてまつる。

 [第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る]

 やをら昇りて、格子の隙あるを見つけて寄りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつつまし。新しうきよげに造りたれど、さすがに粗々しくて隙ありけるを、誰れかは来て見むとも、うちとけて、穴も塞たがず、几帳の帷子うちかけておしやりたり。

 火明う灯して、もの縫ふ人、三、四人居たり。童のをかしげなる、糸をぞ縒る。これが顔、まづかの火影に見たまひしそれなり。うちつけ目かと、なほ疑はしきに、右近と名のりし若き人もあり。君は、腕を枕にて、火を眺めたるまみ、髪のこぼれかかりたる額つき、いとあてやかになまめきて、対の御方にいとようおぼえたり。

 この右近、物折るとて、

 「かくて渡らせたまひなば、とみにしもえ帰り渡らせたまはじを、殿は、『この司召のほど過ぎて、朔日ころにはかならずおはしましなむ』と、昨日の御使も申しけり。御文には、いかが聞こえさせたまへりけむ」

 と言へど、いらへもせず、いともの思ひたるけしきなり。

 「折しも、はひ隠れさせたまへるやうならむが、見苦しさ」

 と言へば、向ひたる人、

 「それは、かくなむ渡りぬると、御消息聞こえさせたまへらむこそよからめ。軽々しう、いかでかは、音なくては、はひ隠れさせたまはむ。御物詣での後は、やがて渡りおはしましねかし。かくて心細きやうなれど、心にまかせてやすらかなる御住まひにならひて、なかなか旅心地すべしや」

 など言ふ。またあるは、

 「なほ、しばし、かくて待ちきこえさせたまはむぞ、のどやかにさまよかるべき。京へなど迎へたてまつらせたまへらむ後、おだしくて親にも見えたてまつらせたまへかし。このおとどの、いと急にものしたまひて、にはかにかう聞こえなしたまふなめりかし。昔も今も、もの念じしてのどかなる人こそ、幸ひは見果てたまふなれ」

 など言ふなり。右近、

 「などて、この乳母をとどめたてまつらずなりにけむ。老いぬる人は、むつかしき心のあるにこそ」

 と憎むは、乳母やうの人をそしるなめり。「げに、憎き者ありかし」と思し出づるも、夢の心地ぞする。かたはらいたきまで、うちとけたることどもを言ひて、

 「宮の上こそ、いとめでたき御幸ひなれ。右の大殿の、さばかりめでたき御勢ひにて、いかめしうののしりたまふなれど、若君生れたまひて後は、こよなくぞおはしますなる。かかるさかしら人どものおはせで、御心のどかに、かしこうもてなしておはしますにこそはあめれ」

 と言ふ。

 「殿だに、まめやかに思ひきこえたまふこと変はらずは、劣りきこえたまふべきことかは」

 と言ふを、君、すこし起き上がりて、

 「いと聞きにくきこと。よその人にこそ、劣らじともいかにとも思はめ、かの御ことなかけても言ひそ。漏り聞こゆるやうもあらば、かたはらいたからむ」

 など言ふ。

 [第四段 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む]

 「何ばかりの親族にかはあらむ。いとよくも似かよひたるけはひかな」と思ひ比ぶるに、「心恥づかしげにてあてなるところは、かれはいとこよなし。これはただらうたげにこまかなるところぞいとをかしき」。よろしう、なりあはぬところを見つけたらむにてだに、さばかりゆかしと思ししめたる人を、それと見て、さてやみたまふべき御心ならねば、まして隈もなく見たまふに、「いかでかこれをわがものにはなすべき」と、心も空になりたまひて、なほまもりたまへば、右近、

 「いとねぶたし。昨夜もすずろに起き明かしてき。明朝のほどにも、これは縫ひてむ。急がせたまふとも、御車は日たけてぞあらむ」

 と言ひて、しさしたるものどもとり具して、几帳にうち掛けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。君もすこし奥に入りて臥す。右近は北表に行きて、しばしありてぞ来たる。君のあと近く臥しぬ。

 ねぶたしと思ひければ、いととう寝入りぬるけしきを見たまひて、またせむやうもなければ、忍びやかにこの格子をたたきたまふ。右近聞きつけて、

 「誰そ」

 と言ふ。声づくりたまへば、あてなるしはぶきと聞き知りて、「殿のおはしたるにや」と思ひて、起きて出でたり。

 「まづ、これ開けよ」

 とのたまへば、

 「あやしう。おぼえなきほどにもはべるかな。夜はいたう更けはべりぬらむものを」

 と言ふ。

 「ものへ渡りたまふべかなりと、仲信が言ひつれば、驚かれつるままに出で立ちて。いとこそわりなかりつれ。まづ開けよ」

 とのたまふ声、いとようまねび似せたまひて、忍びたれば、思ひも寄らず、かい放つ。

 「道にて、いとわりなく恐ろしきことのありつれば、あやしき姿になりてなむ。火暗うなせ」

 とのたまへば、

 「あな、いみじ」

 とあわてまどひて、火は取りやりつ。

 「我、人に見すなよ。来たりとて、人驚かすな」

 と、いとらうらうじき御心にて、もとよりもほのかに似たる御声を、ただかの御けはひにまねびて入りたまふ。「ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿ならむ」といとほしくて、我も隠ろへて見たてまつる。

 いと細やかになよなよと装束きて、香の香うばしきことも劣らず。近う寄りて、御衣ども脱ぎ、馴れ顔にうち臥したまへれば、

 「例の御座にこそ」

 など言へど、ものものたまはず。御衾参りて、寝つる人びと起こして、すこし退きて皆寝ぬ。御供の人など、例の、ここには知らぬならひにて、

 「あはれなる、夜のおはしましざまかな」

 「かかる御ありさまを、御覧じ知らぬよ」

 など、さかしらがる人もあれど、

 「あなかま、たまへ。夜声は、ささめくしもぞ、かしかましき」

 など言ひつつ寝ぬ。

 女君は、「あらぬ人なりけり」と思ふに、あさましういみじけれど、声をだにせさせたまはず。いとつつましかりし所にてだに、わりなかりし御心なれば、ひたぶるにあさまし。初めよりあらぬ人と知りたらば、いかがいふかひもあるべきを、夢の心地するに、やうやう、その折のつらかりし、年月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮と知りぬ。

 いよいよ恥づかしく、かの上の御ことなど思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。

 [第五段 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る]

 夜は、ただ明けに明く。御供の人来て声づくる。右近聞きて参れり。出でたまはむ心地もなく、飽かずあはれなるに、またおはしまさむことも難ければ、「京には求め騒がるとも、今日ばかりはかくてあらむ。何事も生ける限りのためそあれ」。ただ今出でおはしまさむは、まことに死ぬべく思さるれば、この右近を召し寄せて、

 「いと心地なしと思はれぬべけれど、今日はえ出づまじうなむある。男どもは、このわたり近からむ所に、よく隠ろへてさぶらへ。時方は、京へものして、『山寺に忍びてなむ』とつきづきしからむさまに、いらへなどせよ」

 とのたまふに、いとあさましくあきれて、心もなかりける夜の過ちを思ふに、心地も惑ひぬべきを、思ひ静めて、

 「今は、よろづにおぼほれ騒ぐとも、かひあらじものから、なめげなり。あやしかりし折に、いと深う思し入れたりしも、かう逃れざりける御宿世にこそありけれ。人のしたるわざかは」

 と思ひ慰めて、

 「今日、御迎へにとはべりしを、いかにせさせたまはむとする御ことにか。かう逃れきこえさせたまふまじかりける御宿世は、いと聞こえさせはべらむ方なし。折こそいとわりなくはべれ。なほ、今日は出でおはしまして、御心ざしはべらば、のどかにも」

 と聞こゆ。「およすけても言ふかな」と思して、

 「我は、月ごろ思ひつるに、ほれ果てにければ、人のもどかむも言はむもられず、ひたぶるに思ひなりにたり。すこしも身のことを思ひ憚からむ人の、かかるありきは思ひ立ちなむや。御返りには、『今日は物忌』など言へかし。人に知らるまじきことを、誰がためにも思へかし。異事はかひなし」

 とのたまひて、この人の、世に知らずあはれに思さるるままに、よろづのそしりも忘れたまひぬべし。

 [第六段 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す]

 右近出でて、このおとなふ人に、

 「かくなむのたまはするを、なほ、いとかたはならむ、とを申させたまへ。あさましうめづらかなる御ありさまは、さ思しめすとも、かかる御供人どもの御心にこそあらめ。いかで、かう心幼うは率てたてまつりたまふこそ。なめげなることを聞こえさする山賤などもはべらましかば、いかならまし」

 と言ふ。内記は、「げに、いとわづらはしくもあるかな」と思ひ立てり。

 「時方と仰せらるるは、誰れにか。さなむ」

 と伝ふ。笑ひて、

 「勘へたまふことどもの恐ろしければ、さらずとも逃げてまかでぬべし。まめやかには、おろかならぬ御けしきを見たてまつれば、誰れも誰れも、身を捨ててなむ。よしよし、宿直人も、皆起きぬなり」

 とて急ぎ出でぬ。

 右近、「人に知らすまじうは、いかがはたばかるべき」とわりなうおぼゆ。人びと起きぬるに、

 「殿は、さるやうありて、いみじう忍びさせたまふけしき見たてまつれば、道にていみじきことのありけるなめり。御衣どもなど、夜さり忍びて持て参るべくなむ、仰せられつる」

 など言ふ。御達、

 「あな、むくつけや。木幡山は、いと恐ろしかなる山ぞかし。例の、御前駆も追はせたまはず、やつれておはしましけむに、あな、いみじや」

 と言へば、

 「あなかま、あなかま。下衆などの、ちりばかりも聞きたらむに、いといみじからむ」

 と言ひゐたる、心地恐ろし。あやにくに、殿の御使のあらむ時、いかに言はむと、

 「初瀬の観音、今日なくて暮らしたまへ」

 と、大願をぞ立てける。

 石山に今日詣でさせむとて、母君の迎ふるなりけり。この人びともみな精進し、きよまはりてあるに、

 「さらば、今日は、え渡らせたまふまじきなめり。いと口惜しきこと」

 と言ふ。

 [第七段 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる]

 日高くなれば、格子など上げて、右近ぞ近くて仕うまつりける。母屋の簾は皆下ろしわたして、「物忌」など書かせて付けたり。母君もやみづからおはするとて、「夢見騒がしかりつ」と言ひなすなりけり。御手水など参りたるさまは、例のやうなれど、まかなひめざましう思されて、

 「そこに洗はせたまはば」

 とのたまふ。女、いとさまよう心にくき人を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべしと思し焦がるる人を、「心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」と思ひ知らるるにも、「あやしかりける身かな。誰れも、ものの聞こえあらば、いかに思さむ」と、まづかの上の御心を思ひ出できこゆれど、

 「知らぬを、返す返すいと心憂し。なほ、あらむままにのたまへ。いみじき下衆といふとも、いよいよなむあはれなるべき」

 と、わりなう問ひたまへど、その御いらへは絶えてせず。異事は、いとをかしくけぢかきさまにいらへきこえなどして、なびきたるを、いと限りなうらうたしとのみ見たまふ。

 日高くなるほどに、迎への人来たり。車二つ、馬なる人びとの、例の、荒らかなる七、八人。男ども多く、例の、品々しからぬけはひ、さへづりつつ入り来たれば、人びとかたはらいたがりつつ、

 「あなたに隠れよ」

 と言はせなどす。右近、「いかにせむ。殿なむおはする、と言ひたらむに、京にさばかりの人のおはし、おはせず、おのづから聞きかよひて、隠れなきこともこそあれ」と思ひて、この人びとにも、ことに言ひ合はせず、返り事書く。

 「昨夜より穢れさせたまひて、いと口惜しきことを思し嘆くめりしに、今宵、夢見騒がしく見えさせたまひつれば、今日ばかり慎ませたまへとてなむ、物忌にてはべる。返す返す、口惜しく、ものの妨げのやうに見たてまつりはべる」

 と書きて、人びとに物など食はせてやりつ。尼君にも、

 「今日は物忌にて、渡りたまはぬ」

 と言はせたり。

 [第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす]

 例は暮らしがたくのみ、霞める山際を眺めわびたまふに、暮れ行くはわびしくのみ思し焦らるるに惹かれたてまつりて、いとはかなう暮れぬ。紛るることなくのどけき春の日に、見れども見れども飽かずそのことぞとおぼゆる隈なく、愛敬づきなつかしくをかしげなり。

 さるは、かの対の御方には似劣りなり。大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたりにては、こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、「また知らずをかし」とのみ見たまふ。

 女はまた、大将殿を、いときよげに、またかかる人あらむやと見しかど、「こまやかに匂ひきよらなることは、こよなくおはしけり」と見る。

 硯ひき寄せて、手習などしたまふ。いとをかしげに書きすさび、絵などを見所多く描きたまへれば、若き心地には、思ひも移りぬべし。

 「心より外に、え見ざらむほどは、これを見たまへよ」

 とて、いとをかしげなる男女、もろともに添ひ臥したる画を描きたまひて、

 「常にかくてあらばや」

 などのたまふも、涙落ちぬ。

 「長き世を頼めてもなほ悲しきは
  ただ明日知らぬ命なりけり

 いとかう思ふこそ、ゆゆしけれ。心に身をもさらにえまかせず、よろづにたばからむほど、まことに死ぬべくなむおぼゆる。つらかりし御ありさまを、なかなか何に尋ね出でけむ」

 などのたまふ。女、濡らしたまへる筆を取りて、

 「心をば嘆かざらまし命のみ
  定めなき世と思はましかば」

 とあるを、「変はらむをば恨めしう思ふべかりけり」と見たまふにも、いとらうたし。

 「いかなる人の心変はりを見ならひて」

 など、ほほ笑みて、大将のここに渡し初めたまひけむほどを、返す返すゆかしがりたまひて、問ひたまふを、苦しがりて、

 「え言はぬことを、かうのたまふこそ」

 と、うち怨じたるさまも、若びたり。おのづからそれは聞き出でてむ、と思すものから、言はせまほしきぞわりなきや。

 [第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る]

 夜さり、京へ遣はしつる大夫参りて、右近に会ひたり。

 「后の宮よりも御使参りて、右の大殿もむつかりきこえさせたまひて、『人に知られさせたまはぬ御ありきは、いと軽々しく、なめげなることもあるを、すべて、内裏などに聞こし召さむことも、身のためなむいとからき』といみじく申させたまひけり。東山に聖御覧じにとなむ、人にはものしはべりつる」

 など語りて、

 「女こそ罪深うおはするものはあれ。すずろなる眷属の人をさへ惑はしたまひて、虚言をさへせさせたまふよ」

 と言へば、

 「聖の名をさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。私の罪も、それにて滅ぼしたまふらむ。まことに、いとあやしき御心の、げに、いかでならはせたまひけむ。かねてかうおはしますべしと承らましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを。奥なき御ありきにこそは」

 と、扱ひきこゆ。

 参りて、「さなむ」とまねびきこゆれば、「げに、いかならむ」と、思しやるに、

 「所狭き身こそわびしけれ。軽らかなるほどの殿上人などにて、しばしあらばや。いかがすべき。かうつつむべき人目も、え憚りあふまじくなむ。

 大将もいかに思はむとすらむ。さるべきほどとは言ひながら、あやしきまで、昔より睦ましき仲に、かかる心の隔ての知られたらむ時、恥づかしう、またいかにぞや。

 世のたとひに言ふこともあれば、待ち遠なるわがおこたりをも知らず、怨みられたまはむをさへなむ思ふ。夢にも人に知られたまふまじきさまにて、ここならぬ所に率て離れたてまつらむ」

 とぞのたまふ。今日さへかくて籠もりゐたまふべきならねば、出でたまひなむとするにも、袖の中にぞ留めまひつらむかし。

 明け果てぬ前にと、人びとしはぶき驚かしきこゆ。妻戸にもろともに率ておはして、え出でやりたまはず。

 「世に知らず惑ふべきかな先に立つ
  涙も道をかきくらしつつ」

 女も、限りなくあはれと思ひけり。

 「涙をもほどなき袖にせきかねて
  いかに別れをとどむべき身ぞ」

 風の音もいと荒ましく、霜深き暁に、おのが衣々冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど、引き返すやうにあさましけれど、御供の人びと、「いと戯れにくしと思ひて、ただ急がしに急がし出づれば、我にもあらで出でたまひぬ。

 この五位二人なむ、御馬の口にはさぶらひける。さかしき山越え出でてぞ、おのおの馬には乗る。みぎはの氷を踏みならす馬の足音さへ、心細くもの悲し。昔もこの道にのみこそは、かかる山踏みはしたまひしかば、「あやしかりける里の契りかな」と思す。

 

第三章 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す

 [第一段 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める]

 二条の院におはしまし着きて、女君のいと心憂かりし御もの隠しもつらければ、心やすき方に大殿籠もりぬるに、寝られたまはず、いと寂しきに、もの思ひまされば、心弱く対に渡りたまひぬ。

 何心もなく、いときよげにておはす。「めづらしくをかしと見たまひし人よりも、またこれはなほありがたきさまはしたまへりかし」と見たまふものから、いとよく似たるを思ひ出でたまふも、胸塞がれば、いたくもの思したるさまにて、御帳に入りて大殿籠もる。女君も率て入りきこえたまひて、

 「心地こそいと悪しけれ。いかならむとするにかと、心細くなむある。まろは、いみじくあはれと見置いたてまつるとも、御ありさまはいととく変はりなむかし。人の本意は、かならずかなふなれば」

 とのたまふ。「けしからぬことをも、まめやかにさへのたまふかな」と思ひて、

 「かう聞きにくきことの漏りて聞こえたらば、いかやうに聞こえなしたるにかと、人も思ひ寄りたまはむこそ、あさましけれ。心憂き身には、すずろなることもいと苦しく」

 とて、背きたまへり。宮も、まめだちたまひて、

 「まことにつらしと思ひきこゆることもあらむは、いかが思さるべき。まろは、御ためにおろかなる人かは。人も、ありがたしなど、とがむるまでこそあれ。人にはこよなう思ひ落としたまふべかめり。誰れもさべきにこそはと、ことわらるるを、隔てたまふ御心の深きなむ、いと心憂き」

 とのたまふにも、「宿世のおろかならで、尋ね寄りたるぞかし」と思し出づるに、涙ぐまれぬ。まめやかなるを、「いとほしう、いかやうなることを聞きたまへるならむ」と驚かるるに、いらへきこえたまはむ言もなし。

 「ものはかなきさまにて見そめたまひしに、何ごとをも軽らかに推し量りたまふにこそはあらめ。すずろなる人をしるべにて、その心寄せを思ひ知り始めなどしたる過ちばかりに、おぼえ劣る身にこそ」と思し続くるも、よろづ悲しくて、いとどらうたげなる御けはひなり。

 「かの人見つけたることは、しばし知らせたてまつらじ」と思せば「異ざまに思はせて怨みたまふを、ただこの大将の御ことをまめまめしくのたまふ」と思すに、「人や虚言をたしかなるやうに聞こえたらむ」など思す。ありやなしやを聞かぬ間は、見えたてまつらむも恥づかし。

 [第二段 明石中宮からと薫の見舞い]

 内裏より大宮の御文あるに、驚きたまひて、なほ心解けぬ御けしきにて、あなたに渡りたまひぬ。

 「昨日のおぼつかなさを。悩ましく思されたなる、よろしくは参りたまへ。久しうもなりにけるを」

 などやうに聞こえたまへれば、騒がれたてまつらむも苦しけれど、まことに御心地も違ひたるやうにて、その日は参りたまはず。上達部など、あまた参りたまへど、御簾の内にて暮らしたまふ。

 夕つ方、右大将参りたまへり。

 「こなたにを」

 とて、うちとけながら対面したまへり。

 「悩ましげにおはします、とはべりつれば、宮にもいとおぼつかなく思し召してなむ。いかやうなる御悩みにか」

 と聞こえたまふ。見るからに、御心騷ぎのいとどまされば、言少なにて、「聖だつと言ひながら、こよなかりける山伏心かな。さばかりあはれなる人を、さて置きて、心のどかに月日を待ちわびさすらむよ」と思す。

 例は、さしもあらぬことのついでにだに、我はまめ人ともてなし名のりたまふを、ねたがりたまひて、よろづにのたまひ破るを、かかること見表はいたるを、いかにのたまはまし。されど、さやうの戯れ事もかけたまはず、いと苦しげに見えたまへば、

 「不便なるわざかな。おどろおどろしからぬ御心地の、さすがに日数経るは、いと悪しきわざにはべり。御風邪よくつくろはせたまへ」

 など、まめやかに聞こえおきて出でたまひぬ。「恥づかしげなる人なりかし。わがありさまを、いかに思ひ比べけむ」など、さまざまなることにつけつつも、ただこの人を、時の間忘れず思し出づ。

 かしこには、石山も停まりて、いとつれづれなり。御文には、いといみじきことを書き集めたまひて遣はす。それだに心やすからず、「時方」と召しし大夫の従者の、心も知らぬしてなむやりける。

 「右近が古く知れりける人の、殿の御供にて尋ね出でたる、さらがへりてねむごろがる」

 と、友達には言ひ聞かせたり。よろづ右近ぞ、虚言しならひける。

 [第三段 二月上旬、薫、宇治へ行く]

 月もたちぬ。かう思し知らるれど、おはしますことはいとわりなし。「かうのみものを思はば、さらにえながらふまじき身なめり」と、心細さを添へて嘆きたまふ。

 大将殿、すこしのどかになりぬるころ、例の、忍びておはしたり。寺に仏など拝みたまふ。御誦経せさせたまふ僧に、物賜ひなどして、夕つ方、ここには忍びたれど、これはわりなくもやつしたまはず。烏帽子直衣の姿、いとあらまほしくきよげにて、歩み入りたまふより、恥づかしげに、用意ことなり。

 女、いかで見えたてまつらむとすらむと、空さへ恥づかしく恐ろしきに、あながちなりし人の御ありさま、うち思ひ出でらるるに、また、この人に見えたてまつらむを思ひやるなむ、いみじう心憂き。

 「『われは年ごろ見る人をも、皆思ひ変はりぬべき心地なむする』とのたまひしを、げに、そののち御心地苦しとて、いづくにもいづくにも、例の御ありさまならで、御修法など騒ぐなるを聞くに、また、いかに聞きて思さむ」と思ふもいと苦し。

 この人はた、いとけはひことに、心深く、なまめかしきさまして、久しかりつるほどのおこたりなどのたまふも、言多からず、恋し愛しとおり立たねど、常にあひ見ぬ恋の苦しさを、さまよきほどにうちのたまへる、いみじく言ふにはまさりていとあはれと人の思ひぬべきさまをしめたまへる人柄なり。艶なる方はさるものにて、行く末長く人の頼みぬべき心ばへなど、こよなくまさりたまへり。

 「思はずなるさまの心ばへなど、漏り聞かせたらむ時も、なのめならずいみじくこそあべけれ。あやしううつし心もなう思し焦らるる人を、あはれと思ふも、それはいとあるまじく軽きことぞかし。この人に憂しと思はれて、忘れたまひなむ」心細さは、いと深うしみにければ、思ひ乱れたるけしきを、「月ごろに、こよなうものの心知り、ねびまさりにけり。つれづれなる住み処のほどに、思ひ残すことはあらじかし」と見たまふも、心苦しければ、常よりも心とどめて語らひたまふ。

 [第四段 薫と浮舟、それぞれの思い]

 「造らする所、やうやうよろしうしなしてけり。一日なむ、見しかば、ここよりは気近き水に、花も見たまひつべし。三条の宮も近きほどなり。明け暮れおぼつかなき隔ても、おのづからあるまじきを、この春のほどに、さりぬべくは渡してむ」

 と思ひてのたまふも、「かの人の、のどかなるべき所思ひまうけたりと、昨日ものたまへりしを、かかることも知らで、さ思すらむよ」と、あはれながらも、「そなたになびくべきにはあらずかし」と思ふからに、ありし御さまの、面影におぼゆれば、「我ながらも、うたて心憂の身や」と、思ひ続けて泣きぬ。

 「御心ばへの、かからでおいらかなりしこそ、のどかにうれしかりしか。人のいかに聞こえ知らせたることかある。すこしもおろかならむ心ざしにては、かうまで参り来べき身のほど、道のありさまにもあらぬを」

 など、朔日ごろの夕月夜に、すこし端近く臥して眺め出だしたまへり。男は、過ぎにし方のあはれをも思し出で、女は、今より添ひたる身の憂さを嘆き加へて、かたみにもの思はし。

 [第五段 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す]

 山の方は霞隔てて、寒き洲崎に立てる鵲姿も、所からはいとをかしう見ゆるに、宇治橋のはるばると見わたさるるに、柴積み舟の所々に行きちがひたるなど、他にて目馴れぬことどものみとり集めたる所なれば、見たまふたびごとに、なほそのかみのことのただ今の心地して、いとかからぬ人を見交はしたらむだに、めづらしき仲のあはれ多かるべきほどなり。

 まいて、恋しき人にそへられたるもこよなからず、やうやうものの心知り、都馴れゆくありさまのをかしきも、こよなく見まさりしたる心地したまふに、女は、かき集めたる心のうちに、催さるる涙、ともすれば出でたつを、慰めかねたまひつつ、

 「宇治橋の長き契りは朽ちせじを
  危ぶむ方に心騒ぐな

 今見たまひてむ」

 とのたまふ。

 「絶え間のみ世には危ふき宇治橋を
  朽ちせぬものとなほ頼めとや」

 さきざきよりもいと見捨てがたく、しばしも立ちとまらまほしく思さるれど、人のもの言ひのやすからぬに、「今さらなり。心やすきさまにてこそ」など思しなして、暁に帰りたまひぬ。「いとようもおとなびたりつるかな」と、心苦しく思し出づること、ありしにまさりけり。

 

第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 [第一段 二月十日、宮中の詩会催される]

 如月の十日のほどに、内裏に文作らせたまふとて、この宮も大将も参りあひたまへり。折に合ひたる物の調べどもに、宮の御声はいとめでたくて、「梅が枝」など謡ひたまふ。何ごとも人よりはこよなうまさりたまへる御さまにて、すずろなること思し焦らるるのみなむ、罪深かりける。

 雪にはかに降り乱れ、風など烈しければ、御遊びとくやみぬ。この宮の御宿直所に、人びと参りたまふ。もの参りなどして、うち休みたまへり。

 大将、人にもののたまはむとて、すこし端近く出でたまへるに、雪のやうやう積もるが、星の光におぼおぼしきを、「闇はあやなしとおぼゆる匂ひありさまにて、

 「衣片敷き今宵もや

 と、うち誦じたまへるも、はかなきことを口ずさびにのたまへるも、あやしくあはれなるけしき添へる人ざまにて、いともの深げなり。

 言しもこそあれ、宮は寝たるやうにて、御心騒ぐ。

 「おろかには思はぬなめりかし。片敷く袖を、我のみ思ひやる心地しつるを、同じ心なるもあはれなり。侘しくもあるかな。かばかりなる本つ人をおきて、我が方にまさる思ひは、いかでつくべきぞ」

 とねたう思さる。

 明朝、雪のいと高う積もりたるに、文たてまつりたまはむとて、御前に参りたまへる御容貌、このころいみじく盛りにきよげなり。かの君も同じほどにて、今二つ、三つまさるけぢめにや、すこしねびまさるけしき用意などぞ、ことさらにも作りたらむ、あてなる男の本にしつべくものしたまふ。「帝の御婿にて飽かぬことなし」とぞ、世人もことわりける。才なども、おほやけおほやけしき方も、後れずぞおはすべき。

 文講じ果てて、皆人まかでたまふ。宮の御文を、「すぐれたり」と誦じののしれど、何とも聞き入れたまはず、「いかなる心地にて、かかることをもし出づらむ」と、そらにのみ思ほしほれたり。

 [第二段 匂宮、雪の山道の宇治へ行く]

 かの人の御けしきにも、いとど驚かれたまひければ、あさましうたばかりておはしましたり。京には、友待つばかり消え残りたる雪山深く入るままに、やや降り埋みたり。

 常よりもわりなきまれの細道分けたまふほど、御供の人も、泣きぬばかり恐ろしう、わづらはしきことをさへ思ふ。しるべの内記は、式部少輔なむ掛けたりける。いづ方もいづ方も、ことことしかるべきながら、いとつきづきしく、引き上げなどしたる姿もをかしかりけり。

 かしこには、おはせむとありつれど、「かかる雪には」とうちとけたるに、夜更けて右近に消息したり。「あさましう、あはれ」と、君も思へり。右近は、「いかになり果てたまふべき御ありさまにか」と、かつは苦しけれど、今宵はつつましさも忘れぬべし。言ひ返さむ方もなければ、同じやうに睦ましくおぼいたる若き人の、心ざまも奥なからぬを語らひて、

 「いみじくわりなきこと。同じ心に、もて隠したまへ」

 と言ひてけり。もろともにれたてまつる。道のほどに濡れたまへる香の、所狭う匂ふも、もてわづらひぬべけれど、かの人の御けはひに似せてなむ、もて紛らはしける。

 [第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す]

 夜のほどにて立ち帰りたまはむも、なかなかなべければ、ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせたまひて、「川より遠方なる人の家に率ておはせむ」と構へたりければ、先立てて遣はしたりける、夜更くるほどに参れり。

 「いとよく用意してさぶらふ」

 と申さす。「こは、いかにしたまふことにか」と、右近もいと心あわたたしければ、寝おびれて起きたる心地も、わななかれて、あやし。童べの雪遊びしたるけはひのやうにぞ、震ひ上がりにける。

 「いかでか」

 なども言ひあへさせたまはず、かき抱きて出でたまひぬ。右近はこの後見にとまりて、侍従をぞたてまつる。

 いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、いとらうたしと思す。

 有明の月澄み昇りて、水の面も曇りなきに、

 「これなむ、橘の小島

 と申して、御舟しばしさしとどめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、されたる常磐木の蔭茂れり。

 「かれ見たまへ。いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを」

 とのたまひて、

 「年経とも変はらむものか橘の
  小島の崎に契る心は」

 女も、めづらしからむ道のやうにおぼえて、

 「橘の小島の色は変はらじを
  この浮舟ぞ行方知られぬ」

 折から、人のさまに、をかしくのみ何事も思しなす。

 かの岸にさし着きて降りたまふに、人に抱かせたまはむは、いと心苦しければ、抱きたまひて、助けられつつ入りたまふを、いと見苦しく、「何人を、かくもて騷ぎたまふらむ」と見たてまつる。時方が叔父の因幡守なるが領ずる荘に、はかなう造りたる家なりけり。

 まだいと粗々しきに、網代屏風など、御覧じも知らぬしつらひにて、風もことに障らず、垣のもとに雪むら消えつつ、今もかき曇りて降る。

 [第四段 匂宮、浮舟に心奪われる]

 日さし出でて、軒の垂氷の光りあひたるに、人の御容貌もまさる心地す。宮も、所狭き道のほどに、軽らかなるべきほどの御衣どもなり。女も、脱ぎすべさせたまひてしかば、細やかなる姿つき、いとをかしげなり。ひきつくろふこともなくうちとけたるさまを、「いと恥づかしく、まばゆきできよらなる人にさしむかひたるよ」と思へど、紛れむ方もなし。

 なつかしきほどなる白き限りを五つばかり、袖口、裾のほどまでなまめかしく、色々にあまた重ねたらむよりも、をかしう着なしたり。常に見たまふ人とても、かくまでうちとけたる姿などは見ならひたまはぬを、かかるさへぞ、なほめづらかにをかしう思されける。

 侍従も、いとめやすき若人なりけり。「これさへかかるを残りなう見るよ」と、女君は、いみじと思ふ。宮も、

 「これはまた誰そ。わが名漏らすな

 と口がためたまふを、「いとめでたし」と思ひきこえたり。ここの宿守にて住みける者、時方を主と思ひてかしづきありけば、このおはします遣戸を隔てて、所得顔に居たり。声ひきしじめ、かしこまりて物語しをるを、いらへもえせず、をかしと思ひけり。

 「いと恐ろしく占ひたる物忌により、京の内をさへ去りて慎むなり。他の人、寄すな」

 と言ひたり。

 [第五段 匂宮、浮舟と一日を過ごす]

 人目も絶えて、心やすく語らひ暮らしたまふ。「かの人のものしたまへりけむに、かくて見えてむかし」と、思しやりて、いみじく怨みたまふ。二の宮をいとやむごとなくて、持ちたてまつりたまへるありさまなども語りたまふ。かの耳とどめたまひし一言は、のたまひ出でぬぞ憎きや。

 時方、御手水、御くだものなど、取り次ぎて参るを御覧じて、

 「いみじくかしづかるめる客人の主、さてな見えそや」

 と戒めたまふ。侍従、色めかしき若人の心地に、いとをかしと思ひて、この大夫とぞ物語して暮らしける。

 雪の降り積もれるに、かのわが住む方を見やりたまへれば、霞の絶え絶えに梢ばかり見ゆ。山は鏡を懸けたるやうに、きらきらと夕日に輝きたるに、昨夜、分け来し道のわりなさなど、あはれ多う添へて語りたまふ。

 「峰の雪みぎはの氷踏み分けて
  君にぞ惑ふ道は惑はず

 木幡の里に馬はあれど

 など、あやしき硯召し出でて、手習ひたまふ。

 「降り乱れみぎはに凍る雪よりも
  中空にてぞ我は消ぬべき」

 と書き消ちたり。この「中空」をとがめたまふ。「げに、憎くも書きてけるかな」と、恥づかしくて引き破りつ。さらでだに見るかひある御ありさまを、いよいよあはれにいみじと、人の心にしめられむと、尽くしたまふ言の葉、けしき、言はむ方なし。

 [第六段 匂宮、京へ帰り立つ]

 御物忌、二日とたばかりたまへれば、心のどかなるままに、かたみにあはれとのみ、深く思しまさる。右近は、よろづに例の、言ひ紛らはして、御衣などたてまつりたり。今日は、乱れたるこし削らせて、濃き衣に紅梅の織物など、あはひをかしく着替へてゐたまへり。侍従も、あやしき褶着たりしを、あざやぎたれば、その裳を取りたまひて、君に着せたまひて、御手水参らせたまふ。

 「姫宮にこれをたてまつりたらば、いみじきものにしたまひてむかし。いとやむごとなき際の人多かれど、かばかりのさましたるは難くや」

 と見たまふ。かたはなるまで遊び戯れつつ暮らしたまふ。忍びて率て隠してむことを、返す返すのたまふ。「そのほど、かの人に見えたらば」と、いみじきことどもを誓はせたまへば、「いとわりなきこと」と思ひて、いらへもやらず、涙さへ落つるけしき、「さらに目の前にだに思ひ移らぬなめり」と胸痛う思さる。怨みても泣きてもよろづのたまひ明かして、夜深く率て帰りたまふ。例の、抱きたまふ。

 「いみじく思すめる人は、かうは、よもあらじよ。見知りたまひたりや」

 とのたまへば、げに、と思ひて、うなづきて居たる、いとらうたげなり。右近、妻戸放ちて入れたてまつる。やがて、これより別れて出でたまふも、飽かずいみじと思さる。

 [第七段 匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す]

 かやうの帰さは、なほ二条にぞおはします。いと悩ましうしたまひて、物など絶えてきこしめさず、日を経て青み痩せたまひ、御けしきも変はるを、内裏にもいづくにも、思ほし嘆くに、いとどもの騒がしくて、御文だにこまかには書きたまはず。

 かしこにも、かのさかしき乳母、娘の子産む所に出でたりける、帰り来にければ、心やすくえ見ず。かくあやしき住まひを、ただかの殿のもてなしたまはむさまをゆかしく待つことにて、母君も思ひ慰めたるに、忍びたるさまながらも、近く渡してむことを思しなりにければ、いとめやすくうれしかるべきことに思ひて、やうやう人求め、童のめやすきなど迎へておこせたまふ。

 わが心にも、「それこそは、あるべきことに、初めより待ちわたれ」とは思ひながら、あながちなる人の御ことを思ひ出づるに、怨みたまひしさま、のたまひしことども、面影につと添ひて、いささかまどろめば、夢に見えまひつつ、いとうたてあるまでおぼゆ。

 

第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う

 [第一段 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く]

 雨降り止まで、日ごろ多くなるころ、いとど山路思し絶えてわりなく思されければ、「親のかふこは所狭きのにこそ」と思すもかたじけなし。尽きせぬことども書きたまひて、

 「眺めやるそなたの雲も見えぬまで
  空さへ暮るるころのわびしさ」

 筆にまかせて書き乱りたまへるしも、見所あり、をかしげなり。ことにいと重くなどはあらぬ若き心地に、

 「いとかかる心を思ひもまさりぬべけれど、初めより契りたまひしさまも、さすがに、かれは、なほいともの深う、人柄のめでたきなども、世の中を知りにし初めなればにやかかる憂きこと聞きつけて、思ひ疎みたまひなむ世には、いかでかあらむ。

 いつしかと思ひ惑ふ親にも、思はずに、心づきなしとこそは、もてわづらはれめ。かく心焦られしたまふ人、はた、いとあだなる御心本性とのみ聞きしかば、かかるほどこそあらめ、またかうながらも、京にも隠し据ゑたまひ、ながらへても思し数まへむにつけては、かの上の思さむこと。よろづ隠れなき世なりければ、あやしかりし夕暮のしるべばかりにだに、かう尋ね出でたまふめり。

 まして、わがありさまのともかくもあらむを、聞きたまはぬやうはありなむや」

 と思ひたどるに、「わが心も、きずありて、かの人に疎まれたてまつらむ、なほいみじかるべし」と思ひ乱るる折しも、かの殿より御使あり。

 [第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く]

 これかれと見るもいとうたてあれば、なほ言多かりつるを見つつ、臥したまへれば、侍従、右近、見合はせて、

 「なほ、移りにけり」

 など、言はぬやうにて言ふ。

 「ことわりぞかし。殿の御容貌を、たぐひおはしまさじと見しかど、この御ありさまはいみじかりけり。うち乱れたまへる愛敬よ。まろならば、かばかりの御思ひを見る見る、えかくてあらじ。后の宮にも参りて、常に見たてまつりてむ」

 と言ふ。右近、

 「うしろめた御心のほどや。殿の御ありさまにまさりたまふ人は、誰れかあらむ。容貌などは知らず、御心ばへけはひなどよ。なほ、この御ことは、いと見苦しきわざかな。いかがならせたまはむとすらむ」

 と、二人して語らふ。心一つに思ひしよりは、虚言もたより出で来にけり。

 後の御文には、

 「思ひながら日ごろになること。時々は、それよりも驚かいたまはむこそ、思ふさまならめ。おろかなるにやは」

 など、端書きに、

 「水まさる遠方の里人いかならむ
  晴れぬ長雨にかき暮らすころ

 常よりも、思ひやりきこゆることまさりてなむ」

 と、白き色紙にて立文なり。御手もこまかにをかしげならねど、書きざまゆゑゆゑしく見ゆ。宮は、いと多かるを、小さく結びなしたまへる、さまざまをかし。

 「まづ、かれを、人見ぬほどに」

 と聞こゆ。

 「今日は、え聞こゆまじ」

 と恥ぢらひて、手習に、

 「里の名をわが身に知れば山城の
  宇治のわたりぞいとど住み憂き」

 宮の描きたまへりし絵を、時々見て泣かれけり。「ながらへてあるまじきことぞ」と、とざまかうざまに思ひなせど、他に絶え籠もりてやみなむは、いとあはれにおぼゆべし。

 「かき暮らし晴れせぬ峰の雨雲に
  浮きて世をふる身をもなさばや
 混じりなば

 と聞こえたるを、宮は、よよと泣かれたまふ。「さりとも恋しと思ふらむかし」と思しやるにも、もの思ひてゐたらむさまのみ面影に見えたまふ。

 まめ人は、のどかに見たまひつつ、「あはれ、いかに眺むらむ」と思ひやりて、いと恋し。

 「つれづれと身を知る雨小止まねば
  袖さへいとどみかさまさりて」

 とあるを、うちも置かず見たまふ。

 [第三段 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る]

 女宮に物語など聞こえたまひてのついでに、

 「なめしともや思さむと、つつましながら、さすがに年経ぬる人のはべるを、あやしき所に捨て置きて、いみじくもの思ふなるが心苦しさに、近う呼び寄せて、と思ひはべる。昔より異やうなる心ばへはべりし身にて、世の中を、すべて例の人ならで過ぐしてむと思ひはべりしを、かく見たてまつるにつけて、ひたぶるにも捨てがたければ、ありと人にも知らせざりし人の上さへ、心苦しう、罪得ぬべき心地してなむ」

 と、聞こえたまへば、

 「いかなることに心置くものとも知らぬを」

 と、いらへたまふ。

 「内裏になど、悪しざまに聞こし召さする人やはべらむ。世の人のもの言ひぞ、いとあぢきなくけしからずはべるや。されど、それは、さばかりの数にだにはべるまじ」

 など聞こえたまふ。

 「造りたる所に渡してむ」と思し立つに、「かかる料なりけり」など、はなやかに言ひなす人やあらむなど、苦しければ、いと忍びて、障子張らすべきことなど、人しもこそあれ、この内記が知る人の親、大蔵大輔なるものに、睦ましく心やすきままに、のたまひつけたりければ、聞きつぎて、宮には隠れなく聞こえけり。

 「絵師どもなども、御随身どもの中にある、睦ましき殿人などを選りて、さすがにわざとなむせさせたまふ」

 と申すに、いとど思し騷ぎて、わが御乳母の、遠き受領の妻にて下る家、下つ方にあるを、

 「いと忍びたる人、しばし隠いたらむ」

 と、語らひたまひければ、「いかなる人にかは」と思へど、大事と思したるに、かたじけなければ、「さらば」と聞こえけり。これをまうけたまひて、すこし御心のどめたまふ。この月の晦日方に、下るべければ、「やがてその日渡さむ」と思し構ふ。

 「かくなむ思ふ。ゆめゆめ」

 と言ひやりたまひつつ、おはしまさむことは、いとわりなくあるうちにも、ここにも、乳母のいとさかしければ、難かるべきよしを聞こゆ。

 [第四段 浮舟の母、京から宇治に来る]

 大将殿は、卯月の十日となむ定めたまへりける。「誘ふ水あらばとは思はず、いとあやしく、「いかにしなすべき身にかあらむ」と浮きたる心地のみすれば、「母の御もとにしばし渡りて、思ひめぐらすほどあらむ」と思せど、少将の妻、子産むべきほど近くなりぬとて、修法、読経など、隙なく騒げば、石山にもえ出で立つまじ、母ぞこち渡りたまへる。乳母出で来て、

 「殿より、人びとの装束なども、こまかに思しやりてなむ。いかできよげに何ごとも、と思うたまふれど、乳母が心一つには、あやしくのみぞし出ではべらむかし」

 など言ひ騒ぐが、心地よげなるを見たまふにも、君は、

 「けしからぬことどもの出で来て、人笑へならば、誰れも誰れもいかに思はむ。あやにくにのたまふ人、はた、八重立つ山籠もるとも、かならず尋ねて、我も人もいたづらになりぬべし。なほ、心やすく隠れむことを思へと、今日ものたまへるを、いかにせむ」

 と、心地悪しくて臥したまへり。

 「などか、かく例ならず、いたく青み痩せたまへる」

 と驚きたまふ。

 「日ごろあやしくのみなむ。はかなきものも聞こしめさず、悩ましげにせさせたまふ」

 と言へば、「あやしきことかな。もののけなどにやあらむ」と、

 「いかなる御心地ぞと思へど、石山停まりたまひにきかし

 と言ふも、かたはらいたければ、伏目なり。

 [第五段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う]

 暮れて月いと明かし。有明の空を思ひ出づる、「涙のいと止めがたきは、いとけしからぬ心かな」と思ふ。母君、昔物語などして、あなたの尼君呼び出でて、故姫君の御ありさま、心深くおはして、さるべきことも思し入れたりしほどに、目に見す見す消え入りたまひにしことなど語る。

 「おはしまさましかば、宮の上などのやうに、聞こえ通ひたまひて、心細かりし御ありさまどもの、いとこよなき御幸ひにぞはべらましかし」

 と言ふにも、「わが娘は異人かは。思ふやうなる宿世のおはし果てば、劣らじを」など思ひ続けて、

 「世とともに、この君につけては、ものをのみ思ひ乱れしけしきの、すこしうちゆるびて、かくて渡りたまひぬべかめれば、ここに参り来ること、かならずしもことさらには、え思ひ立ちはべらじ。かかる対面の折々に、昔のことも、心のどかに聞こえ承らまほしけれ」

 など語らふ。

 「ゆゆしき身とのみ思うたまへしみにしかば、こまやかに見えたてまつり聞こえさせむも、何かは、つつましくて過ぐしはべりつるを、うち捨てて、渡らせたまひなば、いと心細くなむはべるべけれど、かかる御住まひは、心もとなくのみ見たてまつるを、うれしくもはべるべかなるかな。世に知らず重々しくおはしますべかめる殿の御ありさまにて、かく尋ねきこえさせたまひしも、おぼろけならじと聞こえおきはべりにし、浮きたることにやは、はべりける」

 など言ふ。

 「後は知らねど、ただ今は、かく思し離れぬさまにのたまふにつけても、ただ御しるべをなむ思ひ出できこゆる。宮の上の、かたじけなくあはれに思したりしも、つつましきことなどの、おのづからはべりしかば、中空に所狭き御身なり、と思ひ嘆きはべりて」

 と言ふ。尼君うち笑ひて、

 「この宮の、いと騒がしきまで色におはしますなれば、心ばせあらむ若き人、さぶらひにくげになむ。おほかたは、いとめでたき御ありさまなれど、さる筋のことにて、上のなめしと思さむなむわりなきと、大輔が娘の語りはべりし」

 と言ふにも、「さりや、まして」と、君は聞き臥したまへり。

 [第六段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う]

 「あな、むくつけや。帝の御女を持ちたてまつりたまへる人なれど、よそよそにて、悪しくも善くもあらむは、いかがはせむと、おほけなく思ひなしはべる。よからぬことをひき出でたまへらましかば、すべて身には悲しくいみじと思ひきこゆとも、また見たてまつらざらまし」

 など、言ひ交はすことどもに、いとど心肝もつぶれぬ。「なほ、わが身を失ひてばや。つひに聞きにくきことは出で来なむ」と思ひ続くるに、この水の音の恐ろしげに響きて行くを、

 「かからぬ流れもありかし。世に似ず荒ましき所に、年月を過ぐしたまふを、あはれと思しぬべきわざになむ」

 など、母君したり顔に言ひゐたり。昔よりこの川の早く恐ろしきことを言ひて、

 「先つころ渡守が孫の童、棹さし外して落ち入りはべりにける。すべていたづらになる人多かる水にはべり」

 と、人びとも言ひあへり。君は、

 「さても、わが身行方も知らずなりなば、誰れも誰れも、あへなくいみじと、しばしこそ思うたまはめ。ながらへて人笑へに憂きこともあらむは、いつかそのもの思ひの絶えむとする」

 と、思ひかくるには、障りどころもあるまじく、さはやかによろづ思ひなさるれど、うち返しいと悲し。親のよろづに思ひ言ふありさまを、寝たるやうにてつくづくと思ひ乱る。

 [第七段 浮舟の母、帰京す]

 悩ましげにて痩せたまへるを、乳母にも言ひて、

 「さるべき御祈りなどせさせたまへ。祭祓などもすべきやう」

 など言ふ。御手洗川に禊まほしげなるを、かくも知らでよろづに言ひ騒ぐ。

 「人少ななめり。よくさるべからむたりを訪ねて。今参りはとどめたまへ。やむごとなき御仲らひは、正身こそ、何事もおいらか思さめ、好からぬ仲となりぬるあたりは、わづらはしきこともありぬべし。隠し密めて、さる心したまへ」

 など、思ひいたらぬことなく言ひおきて、

 「かしこにわづらひはべる人も、おぼつかなし」

 とて帰るを、いともの思はしく、よろづ心細ければ、「またあひ見でもこそ、ともかくもなれ」と思へば、

 「心地の悪しくはべるにも、見たてまつらぬが、いとおぼつかなくおぼえはべるを、しばしも参り来まほしくこそ」

 と慕ふ。

 「さなむ思ひはべれど、かしこもいともの騒がしくはべり。この人びとも、はかなきことなどえしやるまじく、狭くなどはべればなむ。武生の国府移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを。なほなほしきのほどは、かかる御ためこそ、いとほしくはべれ」

 など、うち泣きつつのたまふ。

 

第六章 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

 [第一段 薫と匂宮の使者同士出くわす]

 殿の御文は今日もあり。悩ましと聞こえたりしを、「いかが」と、訪らひたまへり。

 「みづからと思ひはべるを、わりなき障り多くてなむ。このほどの暮らしがたさこそ、なかなか苦しく」

 などあり。宮は、昨日の御返りもなかりしを、

 「いかに思しただよふぞ。風のなびかむ方うしろめたくなむ。いとどほれまさりて眺めはべる」

 など、これは多く書きたまへり。

 雨降りし日、来合ひたりし御使どもぞ、今日も来たりける。殿の御随身、かの少輔が家にて時々見る男なれば、

 「真人は、何しに、ここにはたびたびは参るぞ」

 と問ふ。

 「私に訪らふべき人のもとに参うで来るなり」

 と言ふ。

 「私の人にや、艶なる文はさし取らする、けしきある真人かな。もの隠しはなぞ」

 と言ふ。

 「まことは、この守の君の、御文、女房にたてまつりたまふ」

 と言へば、言違ひつつあやしと思へど、ここにて定め言はむも異やうなべければ、おのおの参りぬ。

 [第二段 薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る]

 かどかどしき者にて、供にある童を、

 「この男に、さりげなくて目つけよ。左衛門大夫の家にや入る」

 と見せければ、

 「宮に参りて、式部少輔になむ、御文は取らせはべりつる」

 と言ふ。さまで尋ねむものとも、劣りの下衆は思はず、ことの心をも深う知らざりければ、舎人の人に見現されにけむぞ、口惜しきや。

 殿に参りて、今出でたまはむとするほどに、御文たてまつらす。直衣にて、六条の院、后の宮の出でさせたまへるころなれば、参りたまふなりければ、ことことしく、御前などあまたもなし。御文参らする人に、

 「あやしきことのはべりつる。見たまへ定めむとて、今までさぶらひつる」

 と言ふを、ほの聞きたまひて、歩み出でたまふままに、

 「何ごとぞ」

 と問ひたまふ。この人の聞かむもつつましと思ひて、かしこまりてをり。殿もしか見知りたまひて、出でたまひぬ。

 宮、例ならず悩ましげにおはすとて、宮たちも皆参りたまへり。上達部など多く参り集ひて、騒がしけれど、ことなることもおはしまさず。

 かの内記は、政官なれば、遅れてぞ参れる。この御文もたてまつるを、宮、台盤所におはしまして、戸口に召し寄せて取りたまふを、大将、御前の方より立ち出でたまふ、側目に見通したまひて、「せちにも思すべかめる文のけしきかな」と、をかしさに立ちとまりたまへり。

 「引き開けて見たまふ、紅の薄様に、こまやかに書きたるべし」と見ゆ。文に心入れて、とみにも向きたまはぬに、大臣も立ちて外ざまにおはすれば、この君は、障子より出でたまふとて、「大臣出でたまふ」と、うちしはぶきて、驚かいたてまつりたまふ。

 ひき隠したまへるにぞ、大臣さし覗きたまへる。驚きて御紐さしたまふ。殿つい居たまひて、

 「まかではべりぬべし。御邪気の久しくおこらせたまはざりつるを、恐ろしきわざなりや。山の座主、ただ今請じに遣はさむ」

 と、急がしげにて立ちたまひぬ。

 [第三段 薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる]

 夜更けて、皆出でたまひぬ。大臣は、宮を先に立てたてまつりたまひて、あまたの御子どもの上達部、君たちをひき続けて、あなたに渡りたまひぬ。この殿は遅れて出でたまふ。

 随身けしきばみつる、あやしと思しければ、御前など下りて火灯すほどに、随身召し寄す。

 「申しつるは、何ごとぞ」

 と問ひたまふ。

 「今朝、かの宇治に、出雲権守時方朝臣のもとにはべる男の、紫の薄様にて、桜につけたる文を、西の妻戸に寄りて、女房に取らせはべりつる。見たまへつけて、しかしか問ひはべりつれば、言違へつつ、虚言のやうに申しはべりつるを、いかに申すぞ、とて、童べして見せはべりつれば、兵部卿宮に参りはべりて、式部少輔道定朝臣になむ、その返り事は取らせはべりける」

 と申す。君、あやしと思して、

 「その返り事は、いかやうにしてか、出だしつる」

 「それは見たまへず。異方より出だしはべりにける。下人の申しはべりつるは、赤き色紙の、いときよらなる、となむ申しはべりつる」

 と聞こゆ。思し合はするに、違ふことなし。さまで見せつらむを、かどかどしと思せど、人びと近ければ、詳しくものたまはず。

 [第四段 薫、帰邸の道中、思い乱れる]

 道すがら、「なほ、いと恐ろしく、隈なくおはする宮なりや。いかなりけむついでに、さる人ありと聞きたまひけむ。いかで言ひ寄りたまひけむ。田舎びたるあたりにて、かうやうの筋の紛れは、えしもあらじ、と思ひけるこそ幼けれ。さても、知らぬあたりにこそ、さる好きごとをものたまはめ、昔より隔てなくて、あやしきまでしるべして、率てありきたてまつりし身にしも、うしろめたく思し寄るべしや」

 と思ふに、いと心づきなし。

 「対の御方の御ことを、いみじく思ひつつ、年ごろ過ぐすは、わが心の重さ、こよなかりけり。さるは、それは、今初めてさま悪しかるべきほどにもあらず。もとよりのたよりにもよれるを、ただ心のうちの隈あらむが、わがためも苦しかるべきによりこそ、思ひ憚るもをこなるわざなりけれ

 このころかく悩ましくしたまひて、例よりも人しげき紛れに、いかではるばると書きやりたまふらむ。おはしやそめにけむ。いと遥かなる懸想の道なりや。あやしくて、おはし所尋ねられたまふ日もあり、と聞こえきかし。さやうのことに思し乱れて、そこはかとなく悩みたまふなるべし。昔を思し出づるにも、えおはせざりしほどの嘆き、いといとほしげなりきかし」

 と、つくづくと思ふに、女のいたくもの思ひたるさまなりしも、片端心得そめたまひては、よろづ思し合はするに、いと憂し。

 「ありがたきものは、人の心にもあるかな。らうたげにおほどかなりとは見えながら、色めきたる方は添ひたる人ぞかし。この宮の御具にては、いとよきあはひなり」

 と思ひも譲りつべく、退く心地したまへど、

 「やむごとなく思ひそめ始めし人ならばこそあらめ、なほさるものにて置きたらむ。今はとて見ざらむ、はた、恋しかるべし」

 と人悪ろく、いろいろ心の内に思す。

 [第五段 薫、宇治へ随身を遣わす]

 「我、すさまじく思ひなりて、捨て置きたらば、かならず、かの宮、呼び取りたまひてむ。人のため、後のいとほしさをも、ことにたどりたまふまじ。さやうに思す人こそ、一品宮の御方に人、二、三人参らせたまひたなれ。さて、出で立ちたらむを見聞かむ、いとほしく」

 など、なほ捨てがたく、けしき見まほしくて、御文遣はす。例の随身召して、御手づから人間に召し寄せたり。

 「道定朝臣は、なほ仲信が家にや通ふ」

 「さなむはべる」と申す。

 「宇治へは、常にやこのありけむ男は遣るらむ。かすかにて居たる人なれば、道定も思ひかくらむかし」

 と、うちうめきたまひて、

 「人に見えでをまかれ。をこなり」

 とのたまふ。かしこまりて、少輔が常にこの殿の御こと案内し、かしこのこと問ひしも思ひあはすれど、もの馴れてえ申し出でず。君も、「下衆に詳しくは知らせじ」と思せば、問はせたまはず。

 かしこには、御使の例よりしげきにつけても、もの思ふことさまざまなり。ただかくぞのたまへる。

 「波越ゆるろとも知らず末の松
  待つらむとのみ思ひけるかな

 人に笑はせたまふな」

 とあるを、いとあやしと思ふに、胸ふたがりぬ。御返り事を心得顔に聞こえむもいとつつまし、ひがことにてあらむもあやしければ、御文はもとのやうにして、

 「所違へのやうに見えはべればなむ。あやしく悩ましくて、何事も」

 と書き添へてたてまつれつ。見たまひて、

 「さすがに、いたくもしたるかな。かけて見およばぬ心ばへよ」

 とほほ笑まれたまふも、憎しとは、え思し果てぬなめり。

 [第六段 右近と侍従、右近の姉の悲話を語る]

 まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを、かしこにはいとど思ひ添ふ。「つひにわが身は、けしからずあやしくなりぬべきなめり」と、いとど思ふところに、右近来て、

 「殿の御文は、などて返したてまつらせたまひつるぞ。ゆゆしく、忌みはべるなるものを」

 「ひがことのあるやうに見えつれば、所違へかとて」

 とのたまふ。あやしと見ければ、道にて開けて見けるなりけり。よからずの右近がさまやな。見つとは言はで、

 「あな、いとほし。苦しき御ことどもにこそはべれ。殿はもののけしき御覧じたるべし」

 と言ふに、面さと赤みて、ものものたまはず。文見つらむと思はねば、「異ざまにて、かの御けしき見る人の語りたるにこそは」と思ふに、

 「誰れか、さ言ふぞ」

 などもえ問ひたまはず。この人びとの見思ふらむことも、いみじく恥づかし。わが心もてありそめしことならねども、「心憂き宿世かな」と思ひ入りて寝たるに、侍従と二人して、

 「右近が姉の、常陸にて人二人見はべりしを、ほどほどにつけては、ただかくぞかし。これもかれも劣らぬ心ざしにて、思ひ惑ひてはべりしほどに、女は、今の方にいますこし心寄せまさりてぞはべりける。それに妬みて、つひに今のをば殺してしぞかし。

 さて我も住みはべらずなりにき。国にも、いみじきあたら兵一人失ひつ。また、この過ちたるも、よき郎等なれど、かかる過ちしたる者を、いかでかは使はむ、とて、国の内をも追ひ払はれ、すべて女のたいだいしきぞとて、館の内にも置いたまへらざりしかば、東の人になりて、乳母も、今に恋ひ泣きはべるは、罪深くこそ見たまふれ。

 ゆゆしきついでのやうにはべれど、上も下も、かかる筋のことは、思し乱るるは、いと悪しきわざなり。御命まだにはあらずとも、人の御ほどほどにつけてはべることなり。死ぬるにまさる恥なることも、よき人の御身には、なかなかはべるなり。一方に思し定めてよ。

 宮も御心ざしまさりて、まめやかにだに聞こえさせたまはば、そなたざまにもなびかせたまひて、ものないたく嘆かせたまひそ。痩せ衰へさせたまふもいと益なし。さばかり上の思ひいたづききこえさせたまふものを、乳母がこの御いそぎに心を入れて、惑ひゐてはべるにつけても、それよりこなたに、と聞こえさせたまふ御ことこそ、いと苦しく、いとほしけれ」

 と言ふに、いま一人、

 「うたて、恐ろしきまでな聞こえさせたまひそ。何ごとも御宿世にこそあらめ。ただ御心のうちに、すこし思しなびかむ方を、さるべきに思しならせたまへ。いでや、いとかたじけなく、いみじき御けしきなりしかば、人のかく思しいそぐめりし方にも御心も寄らず。しばしは隠ろへても、御思ひのまさらせたまはむに寄らせたまひね、とぞ思ひえはべる」

 と、宮をいみじくめできこゆる心なれば、ひたみちに言ふ。

 [第七段 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う]

 「いさや。右近は、とてもかくても、事なく過ぐさせたまへと、初瀬、石山などに願をなむ立てはべる。この大将殿の御荘の人びとといふ者は、いみじき無道の者どもにて、一類この里に満ちてはべるなり。おほかた、この山城、大和に、殿の領じたまふ所々の人なむ、皆この内舎人といふ者のゆかりかけつつはべるなる。

 それが婿の右近大夫といふ者を元として、よろづのことをおきて仰せられたるななり。よき人の御仲どちは、情けなきことし出でよ、と思さずとも、ものの心得ぬ田舎人どもの、宿直人にて替り替りさぶらへば、おのが番に当りて、いささかなることもあらせじなど、過ちもしはべりなむ。

 ありし夜の御ありきは、いとこそむくつけく思うたまへられしか。宮は、わりなくつつませたまふとて、御供の人も率ておはしまさず、やつれてのみおはしますを、さる者の見つけたてまつりたらむは、いといみじくなむ」

 と、言ひ続くるを、君、「なほ、我を、宮に心寄せたてまつりたると思ひて、この人びとの言ふ。いと恥づかしく、心地にはいづれとも思はず。ただ夢のやうにあきれて、いみじく焦られたまふをば、などかくしも、とばかり思へど、頼みきこえて年ごろになりぬる人を、今はともて離れむと思はぬによりこそ、かくいみじとものも思ひ乱るれ。げに、よからぬことも出で来たらむ時」と、つくづくと思ひゐたり。

 「まろは、いかで死なばや。世づかず心憂かりける身かな。かく、憂きことあるためしは、下衆などの中にだに多くやはあなる」

 とて、うつぶし臥したまへば、

 「かくな思し召しそ。やすらかに思しなせ、とてこそ聞こえさせはべれ。思しぬべきことをも、さらぬ顔にのみ、のどかに見えさせたまへるを、この御事ののち、いみじく心焦られをせさせたまへば、いとあやしくなむ見たてまつる」

 と、心知りたる限りは、皆かく思ひ乱れ騒ぐに、乳母、おのが心をやりて、物染めいとなみゐたり。今参り童などのめやすきを呼び取りつつ、

 「かかる人御覧ぜよ。あやしくてのみ臥させたまへるは、もののけなどの、妨げきこえさせむとするにこそ」と嘆く。

 

第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す

 [第一段 内舎人、薫の伝言を右近に伝える]

 殿よりは、かのありし返り事をだにのたまはで、日ごろ経ぬ。この脅しし内舎人といふ者ぞ来たる。げに、いと荒々しく、ふつつかなるさましたる翁の、声かれ、さすがにけしきある、

 「女房に、ものとり申さむ」

 と言はせたれば、右近しも会ひたり。

 「殿に召しはべりしかば、今朝参りはべりて、ただ今なむ、まかり帰りはんべりつる。雑事ども仰せられつるついでに、かくておはしますほどに、夜中、暁のことも、なにがしらかくてさぶらふと思ほして、宿直人わざとさしたてまつらせたまふこともなきを、このころ聞こしめせば、

 『女房の御もとに、知らぬ所の人通ふやうになむ聞こし召すことある。たいだいしきことなり。宿直にさぶらふ者どもは、その案内聞きたらむ。知らでは、いかがさぶらふべき』

 と問はせたまひつるに、承らぬことなれば、

 『なにがしは身の病重くはべりて、宿直仕うまつることは、月ごろおこたりてはべれば、案内もえ知りはんべらず。さるべき男どもは、解怠なく催しさぶらはせはべるを、さのごとき非常のことのさぶらはむをば、いかでか承らぬやうははべらむ』

 となむ申させはべりつる。用意してさぶらへ。便なきこともあらば、重く勘当せしめたまふべきよしなむ、仰せ言はべりつれば、いかなる仰せ言にかと、恐れ申しはんべる」

 と言ふを聞くに、梟の鳴かむよりも、いともの恐ろし。いらへもやらで、

 「さりや。聞こえさせしに違はぬことどもを聞こしめせ。もののけしき御覧じたるなめり。御消息もはべらぬよ」

 と嘆く。乳母は、ほのうち聞きて、

 「いとうれしく仰せられたり。盗人多かんなるわたりに、宿直人も初めのやうにもあらず。皆、身の代はりぞと言ひつつ、あやしき下衆をのみ参らすれば、夜行をだにえせぬに」と喜ぶ。

 [第二段 浮舟、死を決意して、文を処分す]

 君は、「げに、ただ今いと悪しくなりぬべき身なめり」と思すに、宮よりは、

 「いかに、いかに」

 と、苔の乱るるりなさをのたまふ、いとわづらはしくてなむ。

 「とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてあることは出で来なむ。わが身一つの亡くなりなむのみこそめやすからめ。昔は、懸想する人のありさまの、いづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ。ながらへば、かならず憂きこと見えぬべき身の、亡くならむは、なにか惜しかるべき。親もしばしこそ嘆き惑ひたまはめ、あまたの子ども扱ひに、おのづから忘草摘みむ。ありながらもてそこなひ、人笑へるさまにてさすらへむは、まさるもの思ひなるべし」

 など思ひなる。児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、気高う世のありさまをも知る方すくなくて、思し立てたる人にあれば、すこしおずかるきことを、思ひ寄るなりけむかし。

 むつかしき反故など破りて、おどろおどろしく一度にもしたためず、灯台の火に焼き、水に投げ入れさせなど、やうやう失ふ。心知らぬ御達は、「ものへ渡りたまふべければ、つれづれなる月日を経て、はかなくし集めたまへる手習などを、破りたまふなめり」と思ふ。侍従などぞ、見つくる時は、

 「など、かくはせさせたまふ。あはれなる御仲に、心とどめて書き交はしたまへる文は、人にこそ見せさせたまはざらめ、ものの底に置かせたまひて御覧ずるなむ、ほどほどにつけては、いとあはれにはべる。さばかりめでたき御紙使ひ、かたじけなき御言の葉を尽くさせたまへるを、かくのみ破らせたまふ、情けなきこと」

 と言ふ。

 「何か。むつかしく。長かるまじき身にこそあめれ。落ちとどまりて、人の御ためもいとほしからむ。さかしらにこれを取りおきけるよなど、漏り聞きたまはむこそ、恥づかしけれ」

 などのたまふ。心細きことを思ひもてゆくには、またえ思ひ立つまじきわざなりけり。親をおきて亡くなる人は、いと罪深かなるものをなど、さすがに、ほの聞きたることをも思ふ。

 [第三段 三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く]

 二十日あまりにもなりぬ。かの家主、二十八日に下るべし。宮は、

 「その夜かならず迎へむ。下人などに、よくけしき見ゆまじき心づかひしたまへ。こなたざまよりは、ゆめにも聞こえあるまじ。疑ひたまふな」

 などのたまふ。「さて、あるまじきさまにておはしたらむに、今一度ものをもえ聞こえず、おぼつかなくて返したてまつらむことよ。また、時の間にても、いかでかここには寄せたてまつらむとする。かひなく怨みて帰りたまはむ」さまなどを思ひやるに、例の、面影離れず、堪へず悲しくて、この御文を顔におし当てて、しばしはつつめども、いといみじく泣きたまふ。

 右近、

 「あが君、かかる御けしき、つひに人見たてまつりつべし。やうやう、あやしなど思ふ人はべるべかめり。かうかかづらひ思ほさで、さるべきさまに聞こえさせたまひてよ。右近はべらば、おほけなきこともたばかり出だしはべらば、かばかり小さき御身一つは、空より率てたてまつらせたまひなむ」

 と言ふ。とばかりためらひて、

 「かくのみ言ふこそ、いと心憂けれ。さもありぬべきこと、と思ひかけばこそあらめ、あるまじきこと、と皆思ひとるに、わりなく、かくのみ頼みたるやうにのたまへば、いかなることをし出でたまはむとするにかなど、思ふにつけて、身のいと心憂きなり」

 とて、返り事も聞こえたまはずなりぬ。

 [第四段 匂宮、宇治へ行く]

 宮、「かくのみ、なほ受け引くけしきもなくて、返り事さへ絶え絶えになるは、かの人の、あるべきさまに言ひしたためて、すこし心やすかるべき方に思ひ定まりぬるなめり。ことわり」と思すのから、いと口惜しくねたく、

 「さりとも、我をばあはれと思ひたりしものを。あひ見ぬとだえに、人びとの言ひ知らする方に寄るならむかし」

 など眺めたまふに、行く方しらず、むなしき空に満ちぬる地したまへば、例の、いみじく思し立ちておはしましぬ。

 葦垣の方を見るに、例ならず、

 「あれは、誰そ」

 と言ふ声々、いざとげなり。立ち退きて、心知りの男を入れたれば、それをさへ問ふ。前々のけはひにも似ず。わづらはしくて、

 「京よりとみの御文あるなり」

 と言ふ。右近は徒者の名を呼びて会ひたり。いとわづらはしく、いとどおぼゆ。

 「さらに、今宵は不用なり。いみじくかたじけなきこと」

 と言はせたり。宮、「など、かくもて離るらむ」と思すに、わりなくて、

 「まづ、時方入りて、侍従に会ひて、さるべきさまにたばかれ」

 とて遣はす。かどかどしき人にて、とかく言ひ構へて、訪ねて会ひたり。

 「いかなるにかあらむ。かの殿ののたまはすることありとて、宿直にある者どもの、さかしがりだちたるころにて、いとわりなきなり。御前にも、ものをのみいみじく思しためるは、かかる御ことのかたじけなきを、思し乱るるにこそ、と心苦しくなむ見たてまつる。さらに、今宵は。人けしき見はべりなば、なかなかにいと悪しかりなむ。やがて、さも御心づかひせさせたまひつべからむ夜、ここにも人知れず思ひ構へてなむ、聞こえさすべかめる」

 乳母のいざときことなども語る。大夫、

 「おはします道のおぼろけならず、あながちなる御けしきに、あへなく聞こえさせむなむ、たいだいしき。さらば、いざ、たまへ。ともに詳しく聞こえさせたまへ」といざなふ。

 「いとわりなからむ」

 と言ひしろふほどに、夜もいたく更けゆく。

 [第五段 匂宮、浮舟に逢えず帰京す]

 宮は、御馬にてすこし遠く立ちたまへるに、里びたる声したる犬どもの出で来てののしる、いと恐ろしく、人少なに、いとあやしき御ありきなれば、「すずろならむものの走り出で来たらむも、いかさまに」と、さぶらふ限り心をぞ惑はしける。

 「なほ、とくとく参りなむ」

 と言ひ騒がして、この侍従を率て参る。髪脇より掻い越して様体いとをかしき人なり。馬に乗せむとすれど、さらに聞かねば、衣の裾をとりて、立ち添ひて行く。わが沓を履かせて、みづからは、供なる人のあやしき物を履きたり。

 参りて、「かくなむ」と聞こゆれば、語らひたまふべきやうだになければ、山賤の垣根のおどろ葎の蔭に、障泥といふものを敷きて降ろしたてまつる。わが御心地にも、「あやしきありさまかな。かかる道にそこなはれて、はかばかしくは、えあるまじき身なめり」と、思し続くるに、泣きたまふこと限りなし。

 心弱き人は、ましていといみじく悲しと見たてまつる。いみじき仇を鬼につくりたりとも、おろかに見捨つまじき人の御ありさまなり。ためらひたまひて、

 「ただ一言もえ聞こえさすまじきか。いかなれば、今さらにかかるぞ。なほ、人びとの言ひなしたるやうあるべし」

 とのたまふ。ありさま詳しく聞こえて、

 「やがて、さ思し召さむ日を、かねては散るまじきさまに、たばからせたまへ。かくかたじけなきことどもを見たてまつりはべれば、身を捨てても思うたまへたばかりはべらむ」

 と聞こゆ。我も人目をいみじく思せば、一方に怨みたまはむやうもなし。

 夜はいたく更けゆくに、このもの咎めする犬の声絶えず、人びと追ひさけなどするに、弓引き鳴らし、あやしき男どもの声どもして、

 「火危ふし」

 など言ふも、いと心あわたたしければ、帰りたまふほど、言へばさらなり。

 「いづくにか身をばてむと白雲の
  かからぬ山も泣く泣くぞ行く
 さらば、はや」

 とて、この人を帰したまふ。御けしきなまめかしくあはれに、夜深き露にしめりたる御香香うばしさなど、たとへむ方なし。泣く泣くぞ帰り来たる。

 [第六段 浮舟の今生の思い]

 右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに、君は、いよいよ思ひ乱るること多くて臥したまへるに、入り来て、ありつるさま語るに、いらへもせねど、枕のやうやう浮きぬるを、かつはいかに見るらむ、とつつまし。明朝も、あやしからむまみを思へば、無期に臥したり。ものはかなげに帯などして経読む。「親に先だちなむ罪失ひたまへ」とのみ思ふ。

 ありし絵を取り出でて見て、描きたまひし手つき、顔の匂ひなどの、向かひきこえたらむやうにおぼゆれば、昨夜、一言をだに聞こえずなりにしは、なほ今ひとへまさりて、いみじと思ふ。「かの、心のどかなるさまにて見む、と行く末遠かるべきことをのたまひわたる人も、いかが思さむ」といとほし。

 憂きさまに言ひなす人もあらむこそ、思ひやり恥づかしけれど、「心浅く、けしからず人笑へならむを、聞かれたてまつらむよりは」など思ひ続けて、

 「嘆きわび身をば捨つとも亡き影に
  憂き名流さむことをこそ思へ」

 親もいと恋しく、例は、ことに思ひ出でぬ弟妹の醜やかなるも、恋し。宮の上を思ひ出できこゆるにも、すべて今一度ゆかしき人多かり。人は皆、おのおの物染めいそぎ、何やかやと言へど、耳にも入らず、夜となれば、人に見つけられず、出でて行くべき方を思ひまうけつつ、寝られぬままに、心地も悪しく、皆違ひにたり。明けたてば、川の方を見やりつつ、羊の歩みりもほどなき心地す。

 [第七段 京から母の手紙が届く]

 宮は、いみじきことどもをのたまへり。今さらに、人や見むと思へば、この御返り事をだに、思ふままにも書かず。

 「からをだに憂き世の中にとどめずは
  いづこをはかと君
恨みむ」

 とのみ書きて出だしつ。「かの殿にも、今はのけしき見せたてまつらまほしけれど、所々に書きおきて、離れぬ御仲なれば、つひに聞きあはせたまはむこと、いと憂かるべし。すべて、いかになりけむと、誰れにもおぼつかなくてやみなむ」とひ返す。

 京より、母の御文持て来たり。

 「寝ぬる夜の夢、いと騒がしくて見えたまひつれば、誦経所々せさせなどしはべるを、やがて、その夢の後、寝られざりつるけにや、ただ今、昼寝してはべる夢に、人の忌むといふことなむ、見えたまひつれば、驚きながらたてまつる。よく慎ませたまへ。

 人離れたる御住まひにて、時々立ち寄らせたまふ人の御ゆかりもいと恐ろしく、悩ましげにものせさせたまふ折しも、夢のかかるを、よろづになむ思うたまふる。

 参り来まほしきを、少将の方の、なほ、いと心もとなげに、もののけだちて悩みはべれば、片時も立ち去ること、といみじく言はれはべりてなむ。その近き寺にも御誦経せさせたまへ」

 とて、その料の物、文など書き添へて、持て来たり。限りと思ふ命のほどを知らで、かく言ひ続けたまへるも、いと悲しと思ふ。

 [第八段 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す]

 寺へ人遣りたるほど、返り事書く。言はまほしきこと多かれど、つつましくて、ただ、

 「後にまたあひ見むことを思はなむ
  この世の夢に心惑はで」

 誦経の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥したまふ。

 「鐘の音の絶ゆる響きに音を添へて
  わが世尽きぬと君に伝へよ」

 巻数て来たるに書きつけて、

 「今宵は、え帰るまじ」

 と言へば、物の枝に結ひつけて置きつ。乳母、

 「あやしく、心ばしりのするかな。夢も騒がし、とのたまはせたりつ。宿直人、よくさぶらへ」

 と言はするを、苦しと聞き臥したまへり。

 「物聞こし召さぬ、いとあやし御湯漬け」

 などよろづに言ふを、「さかしがるめれど、いと醜く老いなりて、我なくは、いづくにかあらむ」と思ひやりたまふも、いとあはれなり。「世の中にえあり果つまじきさまを、ほのめかして言はむ」など思すに、まづ驚かされて先だつ涙を、つつみたまひて、ものも言はれず。右近、ほど近く臥すとて、

 「かくのみものを思ほせば、もの思ふ人の魂は、あくがるるものなれば、夢も騒がしきならむかし。いづ方と思し定まりて、いかにもいかにも、おはしまさなむ」

 とうち嘆く。萎えたる衣を顔におしあてて、臥したまへり、となむ。

 【出典】
出典1 恋しくは来てもみよかし千早振る神のいさむる道ならなくに(伊勢物語-一三一)(戻)
出典2 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人の見まくほしけれ(拾遺集恋一-六八五 大伴百世)(戻)
出典3 春霞たなびく山の桜花見れども飽かぬ君にもあるかな(古今集恋四-六八四 紀友則)(戻)
出典4 飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する(古今集雑下-九九二 陸奥)(戻)
出典5 しののめのほがらほがらと明け行けばおのがきぬぎぬなるぞ悲しき(古今集恋三-六三七 読人しらず)(戻)
出典6 ありぬやとこころみがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず)(戻)
出典7 心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふにまされる(古今六帖五-二六四八)(戻)
出典8 蒼茫霧雨之霽初 寒汀鷺立 重畳煙嵐之断処 晩寺帰僧<蒼茫たる霧雨(うぶ)の霽(はれ)の初めに 寒汀に鷺立てり 重畳せる煙嵐の断えたる処に 晩寺に僧帰る>(和漢朗詠集下-六〇四 張読)(戻)
出典9 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集春上-四一 凡河内躬恒)(戻)
出典10 さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集恋四-六八九 読人しらず)(戻)
出典11 白雪の色分きがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる(家持集-二八四)(戻)
出典12 冬ごもり人も通はぬ山里のまれの細道ふたぐ雪かな(賀茂保憲女-一二三)(戻)
出典13 今もかも咲き匂ふらむ橘の小島の崎の山吹の花(古今集春下-一二一 読人しらず)(戻)
出典14 犬上やとこの山なるいさら川いさと答へて我が名漏らすな(古今六帖五-三〇六一)(戻)
出典15 山科の木幡の里に馬はあれど徒歩(かち)よりぞ来る君を思へば(拾遺集雑恋-一二四三 柿本人麿)(戻)
出典16 恨みても泣きても言はむ方ぞなき鏡に見ゆる影ならずして(古今集恋五-八一四 藤原興風)(戻)
出典17 思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを(古今集恋二-五五二 小野小町)(戻)
出典18 ふすまぢを引手の山に妹を置きて山路を行けば生けるともなし(万葉集巻二-二一二 柿本人麿)(戻)
出典19 たらちねの親のかふ蚕(こ)の繭ごもりいぶせくもあるかな妹(いも)に逢はずて(拾遺集恋四-八九五 柿本人麿)(戻)
出典20 白雲の晴れぬ雲居にまじりなばいづれかそれと君は思はむ(異本紫明抄所引-出典未詳)(戻)
出典21 つれづれの眺めにまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし(古今集恋三-六一七 藤原敏行)かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(古今集恋四-七〇五 在原業平)(戻)
出典22 侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ(古今集雑下-九三八 小野小町)(戻)
出典23 白雲の八重立つ山にこもるとも思ひ立ちなば尋ねざらめや(紫明抄所引-出典未詳)(戻)
出典24 恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずぞなりにけらしも(古今集恋一-五〇一 読人しらず)(戻)
出典25 道の口 武府の国府(こふ)に 我ありと 親には申したべ 心あひの風や さきむだちや(催馬楽-道の口)(戻)
出典26 須磨の海人(あま)の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり(古今集恋四-七〇八 読人しらず)(戻)
出典27 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪も越えなむ(古今集東歌-一〇九三 陸奥歌)(戻)
出典28 逢ふことをいつかその日と松の木の苔の乱れて恋ふるこのごろ(古今六帖六-三九六二)(戻)
出典29 忘れ草摘むほどとこそ思ひつれおぼつかなくて程の経つれば(和泉式部集-二四三)(戻)
出典30 我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集恋一-四八八 読人しらず)(戻)
出典31 守家一犬迎人吠 放野群牛引犢休<家を守る犬は人を迎へて吠ゆ 野に放てる群牛は犢(こうし)を引いて休む>(和漢朗詠集下-五六六 都良香)(戻)
出典32 いづくとも所定めぬ白雲のかからぬ山はあらじと思ふ(拾遺集雑恋-一二一七 読人しらず)(戻)
出典33 如因趣市歩歩近死地 如牽牛羊詣於屠所<因の市に趣きて歩歩死地に近づくが如く 牛羊を牽いて屠所に詣(いた)るが如し>(涅槃経)けふもまたむまのかひこそふきつなれ羊の歩み近づきぬらむ(千載集雑下-一二〇〇 赤染衛門)(戻)
出典34 空蝉は殻を見つつも慰めつ深草の山煙だに立て(古今集哀傷-八三一 勝延)今日過ぎば死なましものを夢にてもいづこをはかと君が問はまし(後撰集恋二-六四〇 中将更衣)(戻)
出典35 寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな(古今集恋三-六四四 在原業平)(戻)
出典36 物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る(後拾遺集神祇-一一六二 和泉式部)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 御本性--(/+御)本正(戻)
校訂2 のどけさ--のとけき(き/$)さ(戻)
校訂3 たよりある--たより(り/+ある)(戻)
校訂4 すべき--すす(す<後出>/$)へき(戻)
校訂5 こそは--こそ(そ/+は)(戻)
校訂6 言はむも--(/+いはんも)(戻)
校訂7 今日--けけ(け<後出>/#)ふ(戻)
校訂8 思し焦らるる--おほしはゝか(はゝか/$いら)るゝ(戻)
校訂9 思せば--おもへ(もへ/$ほせ)は(戻)
校訂10 恋しき人に--これ(れ/$ひ)しき人(人/+に)(戻)
校訂11 ことことしかるべき--こと/\しか(か/+る)へき(戻)
校訂12 もろともに--もろとと(と<前出>/$)もに(戻)
校訂13 まばゆき--ま(ま/+は)ゆき(戻)
校訂14 これさへ--これ(れ/+さ)へ(戻)
校訂15 髪--(/+か)み(戻)
校訂16 心やすく--心や(や/+すく)(戻)
校訂17 なればにや--なれは(は/+に)や(戻)
校訂18 うしろめた--*うしろめてた(戻)
校訂19 さりとも--さりとて(て/$)も(戻)
校訂20 隠れ--かくかく(かく<後出>/$)れ(戻)
校訂21 たまひにきかし--たまひに(に/+きか)し(戻)
校訂22 さるべからむ--さ(さ/+る)へからむ(戻)
校訂23 おいらか--(/+お)ひらか(戻)
校訂24 なほなほしき--なをゝ(ゝ/$/\)しき(戻)
校訂25 なりけれ--なるけり(り/$れ)(戻)
校訂26 常陸にて--ひたちも(も/$にて)(戻)
校訂27 さぶらふ--は(は/=さふらふ)(戻)
校訂28 人笑へ--ひとわらひ(ひ/$へ)(戻)
校訂29 人に--人な(な/$に)(戻)
校訂30 おずかる--た(た/$おすかる)(戻)
校訂31 思す--おほゆ(ゆ/$す)(戻)
校訂32 掻い越して--かいた(た/$こ)して(戻)
校訂33 御香--御かほ(ほ/$)(戻)
校訂34 誰れにもおぼつかなくてやみなむ」と--(/+誰にもおぼつかなくてやみなんと)(戻)
校訂35 巻数--(/+巻数)(戻)
校訂36 あやし--あ(あ/+や)し(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
明融臨模本
自筆本奥入