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渋谷栄一校訂(C)

  

宿木

薫君の中、大納言時代二十四歳夏から二十六歳夏四月頃までの物語

 [主要登場人物]

 薫<かおる>
呼称---中納言源朝臣・中納言朝臣・源中納言・中納言・中納言の君・権大納言・右大将・大将殿・大将の君、源氏の子
 匂宮<におうのみや>
呼称---兵部卿宮・宮・三の宮、今上帝の第三親王
 今上帝<きんじょうてい>
呼称---帝・内裏・主上、朱雀院の第一親王
 明石中宮<あかしのちゅうぐう>
呼称---中宮・后・后の宮、源氏の娘
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---右大臣・右大臣殿・右の大殿・大臣、源氏の長男
 紅梅大納言<こうばいのだいなごん>
呼称---按察使大納言・大納言・按察使、致仕大臣の二男
 女三の宮<おんなさんのみや>
呼称---母宮・尼宮・入道の宮、薫の母
 麗景殿女御<れいけいでんのにょうご>
呼称---藤壺・故左大臣殿の女御・女御・母女御、今上帝の女御
 女二の宮<おんなにのみや>
呼称---女宮・藤壺の宮、今上帝の第二内親王
 六の君<ろくのきみ>
呼称---六の君・女君、夕霧の娘
 中君<なかのきみ>
呼称---二条院の対の御方・兵部卿宮の北の方・宮の御方・対の御方・宮、八の宮の二女
 浮舟<うきふね>
呼称---常陸前司殿の姫君
 弁尼君<べんのあまぎみ>
呼称---尼君・弁・老い人・朽木

第一章 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話

  1. 藤壺女御と女二の宮---そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御に
  2. 藤壺女御の死去と女二の宮の将来---十四になりたまふ年、御裳着せたてまつりたまはむとて
  3. 帝、女二の宮を薫に降嫁させようと考える---御前の菊移ろひ果てて盛りなるころ
  4. 帝、女二の宮や薫と碁を打つ---御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに
  5. 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う---かかることを、右の大殿ほの聞きたまひて
第二章 中君の物語 中君の不安な思いと薫の同情
  1. 匂宮の婚約と中君の不安な心境---女二の宮も、御服果てぬれば
  2. 中君、匂宮の子を懐妊---宮は、常よりもあはれになつかしく、起き臥し
  3. 薫、中君に同情しつつ恋慕す---中納言殿も、「いといとほしきわざかな」と
  4. 薫、亡き大君を追憶す---かの人をむなしく見なしきこえたまうてし後
  5. 薫、二条院の中君を訪問---人召して、「北の院に参らむに、ことことしからぬ
  6. 薫、中君と語らう---もとよりも、けはひはやりかに男々しく
  7. 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶---「秋の空は、今すこし眺めのみまさりはべり
  8. 薫と中君の故里の宇治を思う---「世の憂きよりはなど、人は言ひしをも
  9. 薫、二条院を退出して帰宅---日さし上がりて、人びと参り集まりなどすれば
第三章 中君の物語 匂宮と六の君の婚儀
  1. 匂宮と六の君の婚儀---右の大殿には、六条院の東の御殿磨きしつらひて
  2. 中君の不安な心境---「幼きほどより心細くあはれなる身どもにて
  3. 匂宮、六の君に後朝の文を書く---宮は、いと心苦しく思しながら
  4. 匂宮、中君を慰める---されど、見たまふほどは変はるけぢめもなきにや
  5. 後朝の使者と中君の諦観---海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれたるを
  6. 匂宮と六の君の結婚第二夜---宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまに
  7. 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴---その日は、后の宮悩ましげにおはしますとて
第四章 薫の物語 中君に同情しながら恋慕の情高まる
  1. 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる---中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざやかならぬや
  2. 薫と按察使の君、匂宮と六の君---例の、寝覚がちなるつれづれなれば、按察使の君とて
  3. 中君と薫、手紙を書き交す---かくて後、二条院に、え心やすく渡りたまはず
  4. 薫、中君を訪問して慰める---さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる
  5. 中君、薫に宇治への同行を願う---女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で語らひ
  6. 薫、中君に迫る---女、「さりや、あな心憂」と思ふに、何事かは言はれむ
  7. 薫、自制して退出する---近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男の
第五章 中君の物語 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す
  1. 翌朝、薫、中君に手紙を書く---昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかりつる
  2. 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く---宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ
  3. 匂宮、中君の素晴しさを改めて認識---またの日も、心のどかに大殿籠もり起きて
  4. 薫、中君に衣料を贈る---中納言の君は、かく宮の籠もりおはするを聞くにしも
  5. 薫、中君をよく後見す---誰かは、何事をも後見かしづききこゆる人のあらむ
  6. 薫と中君の、それぞれの苦悩---「かくて、なほ、いかでうしろやすく大人しき人にてやみなむ
第六章 薫の物語 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く
  1. 薫、二条院の中君を訪問---男君も、しひて思ひわびて、例の、しめやかなる夕つ方
  2. 薫、亡き大君追慕の情を訴える---何事につけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる
  3. 薫、故大君に似た人形を望む---外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに
  4. 中君、異母妹の浮舟を語る---「年ごろは、世にやあらむとも知らざりつる人の
  5. 薫、なお中君を恋慕す---「さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つ
第七章 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く
  1. 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる---宇治の宮を久しく見たまはぬ時は
  2. 薫、宇治の阿闍梨と面談す---阿闍梨召して、例の、かの忌日の経仏などのこと
  3. 薫、弁の尼と語る---「このたびばかりこそ見め」と思して、立ちめぐりつつ
  4. 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる---さて、もののついでに、かの形代のことを
  5. 薫、二条院の中君に宇治訪問の報告---明けぬれば帰りたまはむとて
  6. 匂宮、中君の前で琵琶を弾く---枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の
  7. 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る---御琴ども教へたてまつりなどして
第八章 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁
  1. 新年、薫権大納言兼右大将に昇進---正月晦日方より、例ならぬさまに悩みたまふを
  2. 中君に男子誕生---からうして、その暁、男にて生まれたまへるを
  3. 二月二十日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す---かくて、その月の二十日あまりにぞ
  4. 中君の男御子、五十日の祝い---宮の若君の五十日になりたまふ日数へ取りて
  5. 薫、中君の若君を見る---若君を切にゆかしがりきこえたまへば
  6. 藤壺にて藤の花の宴催される---「夏にならば、三条の宮塞がる方になりぬべし
  7. 女二の宮、三条宮邸に渡御す---按察使大納言は、「我こそかかる目も見むと思ひしか
第九章 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う
  1. 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅---賀茂の祭など、騒がしきほど過ぐして
  2. 薫、浮舟を垣間見る---若き人のある、まづ降りて、簾うち上ぐめり
  3. 浮舟、弁の尼と対面---尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ出だしたりけれど
  4. 薫、弁の尼に仲立を依頼---日暮れもていけば、君もやをら出でて

【出典】
【校訂】

 

第一章 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話

 [第一段 藤壺女御と女二の宮]

 そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける。まだ春宮と聞こえさせし時、人より先に参りたまひにしかば、睦ましくあはれなる方の御思ひは、ことにものしたまふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、中宮には、宮たちさへあまた、ここら大人びたまふめるに、さやうのこともすくなくて、ただ女宮一所をぞ持ちたてまつりたまへりける。

 わがいと口惜しく、人におされたてまつりぬる宿世、嘆かしくおぼゆる代はりに、「この宮をだに、いかで行く末の心も慰むばかりにて見たてまつらむ」と、かしづききこえたまふことおろかならず。御容貌もいとをかしくおはすれば、帝もらうたきものに思ひきこえさせたまへり。

 女一の宮を、世にたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほかたの世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、うちうちの御ありさまは、をさをさ劣らず。父大臣の御勢ひ、厳しかりし名残、いたく衰へねば、ことに心もとなきことなどなくて、さぶらふ人びとのなり姿よりはじめ、たゆみなく、時々につけつつ、調へ好み、今めかしくゆゑゆゑしきさまにもてなしたまへり。

 [第二段 藤壺女御の死去と女二の宮の将来]

 十四になりたまふ年、御裳着せたてまつりたまはむとて、春よりうち始めて、異事なく思し急ぎて、何事もなべてならぬさまにと思しまうく。

 いにしへより伝はりたりける宝物ども、この折にこそはと、探し出でつつ、いみじく営みたまふに、女御、夏ごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなく亡せたまひぬ。言ふかひなく口惜しきことを、内裏にも思し嘆く。

 心ばへ情け情けしく、なつかしきところおはしつる御方なれば、殿上人どもも、「こよなくさうざうしかるべきわざかな」と、惜しみきこゆ。おほかたさるまじき際の女官などまで、しのびきこえぬはなし。

 宮は、まして若き御心地に、心細く悲しく思し入りたるを、聞こし召して、心苦しくあはれに思し召さるれば、御四十九日過ぐるままに、忍びて参らせたてまつらせまへり。日々に、渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ。

 黒き御衣にやつれておはするさま、いとどらうたげにあてなるけしきまさりたまへり。心ざまもいとよく大人びたまひて、母女御よりも今すこしづしやかに、重りかなるところはまさりたまへるを、うしろやすくは見たてまつらせたまへど、まことには、御母方とても、後見と頼ませたまふべき、叔父などやうのはかばかしき人もなし。わづかに大蔵卿、修理大夫などいふは、女御にも異腹なりける。

 ことに世のおぼえ重りかにもあらず、やむごとなからぬ人びとを頼もし人ておはせむに、「女は心苦しきこと多かりぬべきこそいとほしけれ」など、御心一つなるやうに思し扱ふも、やすからざりけり。

 [第三段 帝、女二の宮を薫に降嫁させようと考える]

 御前の菊移ろひ果てて盛りなるころ、空のけしきのあはれにうちしぐるるにも、まづこの御方に渡らせたまひて、昔のことなど聞こえさせたまふに、御いらへなども、おほどかなるものから、いはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつくしく思ひきこえさせたまふ。

 かやうなる御さまを見知りぬべからむ人の、もてはやしきこえむも、などかはあらむ、朱雀院の姫宮を、六条の院に譲りきこえたまひし折の定めどもなど、思し召し出づるに、

 「しばしは、いでや、飽かずもあるかな。さらでもおはしなまし、と聞こゆることどもありしかど、源中納言の、人よりことなるありさまにて、かくよろづを後見たてまつるにこそ、そのかみの御おぼえ衰へず、やむごとなきさまにてはながらへたまふめれ。さらずは、御心より外なる事どもも出で来て、おのづから人に軽められたまふこともやあらまし」

 など思し続けて、「ともかくも、御覧ずる世にや思ひ定めまし」と思し寄るには、やがて、そのついでのままに、この中納言より他に、よろしかるべき人、またなかりけり。

 「宮たちの御かたはらにさし並べたらむに、何事もめざましくはあらじを。もとより思ふ人持たりて、聞きにくきことうちまずまじくはた、あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ。さらぬ先に、さもやほのめかしてまし」

 など、折々思し召しけり。

 [第四段 帝、女二の宮や薫と碁を打つ]

 御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに、時雨をかしきほどに、花の色も夕映えしたるを御覧じて、して、

 「ただ今、殿上には誰れ誰れか」

 と問はせたまふに、

 「中務親王、上野親王、中納言源朝臣さぶらふ」

 と奏す。

 「中納言朝臣こなたへ」

 と仰せ言ありて参りたまへり。げに、かく取り分きて召し出づるもかひありて、遠くより薫れる匂ひよりはじめ、人に異なるさましたまへり。

 「今日の時雨、常よりことにのどかなるを、遊びなどすさまじき方にて、いとつれづれなるを、いたづらに日を送る戯れて、これなむよかるべき」

 とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。いつもかやうに、気近くならしまつはしたまふにならひにたれば、「さにこそは」と思ふに、

 「好き賭物はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」

 などのたまはする御けしき、いかが見ゆらむ、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。

 さて、打たせたまふに、三番につ負けさせたまひぬ。

 「ねたきわざかな」とて、「まづ、今日は、この花一枝許す

 とのたまはすれば、御いらへ聞こえさせで、下りておもしろき枝を折りて参りたまへり。

 「世の常の垣根に匂ふ花ならば
  心のままに折りて見ましを」

 と奏したまへる、用意あさからず見ゆ。

 「霜にあへず枯れにし園の菊なれど
  残りの色はあせずもあるかな」

 とのたまはす。

 かやうに、折々ほのめかさせたまふ御けしきを、人伝てならず承りながら、例の心の癖なれば、急がしくしもおぼえず。

 「いでや、本意にもあらず。さまざまにいとほしき人びとの御ことどもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを、今さらに聖のものの、世に帰り出でむ心地すべきこと」

 と思ふも、かつはあやしや。

 「ことさらに心を尽くす人だにこそあなれ」とは思ひながら、「后腹におはせばも」とおぼゆる心の内ぞ、あまりおほけなかりける。

 [第五段 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う]

 かかることを、右の大殿の聞きたまひて、

 「六の君は、さりともこの君にこそは。しぶしぶなりとも、まめやかに恨み寄らば、つひには、えいなび果てじ」

 と思しつるを、「思ひの外のこと出で来ぬべかなり」と、ねたく思されければ、兵部卿宮はた、わざとにはあらねど、折々につけつつ、をかしきさまに聞こえたまふことなど絶えざりければ、

 「さはれ、なほざりの好きにはありとも、さるべきにて、御心とまるやうもなどかなからむ。水漏るまじくひ定めむとても、なほなほしき際に下らむはた、いと人悪ろく、飽かぬ心地すべし」

 など思しなりにたり。

 「女子うしろめたげなる世の末にて、帝だに婿求めたまふ世に、まして、ただ人の盛り過ぎむもあいなし」

 など、誹らはしげにのたまひて、中宮をもまめやかに恨み申したまふこと、たび重なれば、聞こし召しわづらひて、

 「いとほしく、かくおほなおほな思ひざして年経たまひぬるを、あやにくに逃れきこえたまはむも、情けなきやうならむ。親王たちは、御後見からこそ、ともかくもあれ。

 主上の、御代も末になり行くとのみ思しのたまふめるを、ただ人こそ、ひと事に定まりぬれば、また心を分けむことも難げなめれ。それだに、かの大臣のまめだちながら、こなたかなた羨みなくもてなしてものしたまはずやはある。まして、これは、思ひおきてきこゆることも叶はば、あまたもさぶらはむになどかあらむ」

 など、例ならず続けて、あるべかしく聞こえさせたまふを、

 「わが御心にも、もとよりもて離れて、はた、思さぬことなれば、あながちには、などてかはあるまじきさまにも聞こえさせたまはむ。ただ、いとことうるはしげなるあたりにとり籠められて、心やすくならひたまへるありさまの所狭からむことを、なま苦しく思すにもの憂きなれど、げに、この大臣に、あまり怨ぜられ果てむもあいなからむ」

 など、やうやう思し弱りにたるべし。あだなる御心なれば、かの按察使大納言の、紅梅の御方をも、なほ思し絶えず、花紅葉につけてもののたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。されど、その年は変はりぬ。

 

第二章 中君の物語 中君の不安な思いと薫の同情

 [第一段 匂宮の婚約と中君の不安な心境]

 女二の宮も、御服果てぬれば、「いとど何事にか憚りたまはむ。さも聞こえ出でば」と思し召したる御けしきなど、告げきこゆる人びともあるを、「あまり知らず顔ならむも、ひがひがしうなめげなり」と思し起こして、ほのめかしまゐらせたまふ折々もあるに、「はしたなきやうは、などてかはあらむ。そのほどに思し定めたなり」と伝てにも聞く、みづから御けしきをも見れど、心の内には、なほ飽かず過ぎたまひにし人の悲しさのみ、忘るべき世なくおぼゆれば、「うたて、かく契り深くものしたまひける人の、などてかは、さすがに疎くては過ぎにけむ」と心得がたく思ひ出でらる。

 「口惜しき品なりとも、かの御ありさまにすこしもおぼえたらむ人は、心もとまりなむかし。昔ありけむ香の煙につけてだに、今一度見たてまつるものにもがな」とのみおぼえて、やむごとなき方ざまに、いつしかなど急ぐ心もなし。

 右の大殿は急ぎたちて、「八月ばかりに」と聞こえたまひけり。二条院の対の御方には、聞きたまふに、

 「さればよ。いかでかは、数ならぬありさまなめれば、かならず人笑へに憂きこと出で来むものぞ、とは思ふ思ふごしつる世ぞかし。あだなる御心と聞きわたりしを、頼もしげなく思ひながら、目に近くては、ことにつらげなること見えず、あはれに深き契りをのみしたまへるを、にはかに変はりたまはむほど、いかがはやすき心地はすべからむ。ただ人の仲らひなどのやうに、いとしも名残なくなどはあらずとも、いかにやすげなきこと多からむ。なほ、いと憂き身なめれば、つひには、山住みに帰るべきなめり」

 と思すにも、「やがて跡絶えなましよりは、山賤の待ち思はむも人笑へなりかし。返す返すも、宮ののたまひおきしことに違ひて、草のもとを離れにける心軽さ」を、恥づかしくもつらくも思ひ知りたまふ。

 「故姫君の、いとしどけなげに、ものはかなきさまにのみ、何事も思しのたまひしかど、心の底のづしやかなるところは、こよなくもおはしけるかな。中納言の君の、今に忘るべき世なく嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、またかやうに思すことはありもやせまし。

 それを、いと深く、いかでさはあらじ、と思ひ入りたまひて、とざまかうざまに、もて離れむことを思して、容貌をも変へてむとしたまひしぞかし。かならずさるさまにてぞおはせまし。

 今思ふに、いかに重りかなる御心おきてならまし。亡き御影どもも、我をばいかにこよなきあはつけさと見たまふらむ」

 と恥づかしく悲しく思せど、「何かは、かひなきものから、かかるけしきをも見えたてまつらむ」と忍び返して、聞きも入れぬさまにて過ぐしたまふ。

 [第二段 中君、匂宮の子を懐妊]

 宮は、常よりもあはれになつかしく、起き臥し語らひ契りつつ、この世ならず、長きことをのみぞ頼みきこえたまふ。

 さるは、この五月ばかりより、例ならぬさまに悩ましくしたまふこともありけり。こちたく苦しがりなどはしたまはねど、常よりももの参ることいとどなく、臥してのみおはするを、まださやうなる人のありさま、よくも見知りたまはねば、「ただ暑きころなれば、かくおはするなめり」とぞ思したる。

 さすがにあやしと思しとがむることもありて、「もし、いかなるぞ。さる人こそ、かやうには悩むなれ」など、のたまふ折もあれど、いと恥づかしくしたまひて、さりげなくのみもてなしたまへるを、さし過ぎ聞こえ出づる人もなければ、たしかにもえ知りたまはず。

 八月になりぬれば、その日など、他よりぞ伝へ聞きたまふ。宮は、隔てむとにはあらねど、言ひ出でむほど心苦しくいとほしく思されて、さものたまはぬを、女君は、それさへ心憂くおぼえたまふ。忍びたることにもあらず、世の中なべて知りたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが恨めしからざらむ。

 かく渡りたまひにし後は、ことなることなければ、内裏に参りたまひても、夜泊ることはことにしたまはず、ここかしこの御夜離れなどもなかりつるを、にはかにいかに思ひたまはむと、心苦しき紛らはしに、このころは、時々御宿直とて参りなどしたまひつつ、かねてよりならはしきこえたまふをも、ただつらき方にのみぞ思ひおかれたまふべき。

 [第三段 薫、中君に同情しつつ恋慕す]

 中納言殿も、「いといとほしきわざかな」と聞きたまふ。「花心におはする宮れば、あはれとは思すとも、今めかしき方にかならず御心移ろひなむかし。女方も、いとしたたかなるわたりにて、ゆるびなく聞こえまつはしたまはば、月ごろも、さもならひたまはで、待つ夜多く過ごしたまはむこそ、あはれなるべけれ」

 など思ひ寄るにつけても、

 「あいなしや、わが心よ。何しに譲りきこえけむ。昔の人に心をしめてし後、おほかたの世をも思ひ離れて澄み果てたりし方の心も濁りそめにしかば、ただかの御ことをのみ、とざまかうざまには思ひながら、さすがに人の心許されであらむことは、初めより思ひし本意なかるべし」

 と憚りつつ、「ただいかにして、すこしもあはれと思はれて、うちとけたまへらむけしきをも見む」と、行く先のあらましごとのみ思ひ続けしに、人は同じ心にもあらずもてなして、さすがに、一方にもえさし放つまじく思ひたまへる慰めに、同じ身ぞと言ひなして、本意ならぬ方におもむけたまひしが、ねたく恨めしかりしかば、「まづ、その心おきてを違へむとて、急ぎせしわざぞかし」など、あながちに女々しくものぐるほしく率て歩き、たばかりきこえしほど思ひ出づるも、「いとけしからざりける心かな」と、返す返すぞ悔しき。

 「宮も、さりとも、そのほどのありさま思ひ出でたまはば、わが聞かむところをもすこしは憚りたまはじや」と思ふに、「いでや、今は、その折のことなど、かけてものたまひ出でざめりかし。なほ、あだなる方に進み、移りやすなる人は、女のためのみにもあらず、頼もしげなく軽々しき事もありぬべきなめりかし」

 など、憎く思ひきこえたまふ。わがまことにあまり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくもどかしく見ゆるなるべし。

 [第四段 薫、亡き大君を追憶す]

 「かの人をむなしく見なしきこえたまうてし後、思ふには、帝の御女を賜はむと思ほしおきつるも、うれしくもあらず、この君を見ましかばとおぼゆる心の、月日に添へてまさるも、ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひ離れがたきぞかし。

 はらからといふ中にも、限りなく思ひ交はしたまへりしものを、今はとなりたまひにし果てにも、『とまらむ人を同じごとと思へ』とて、『よろづは思はずなることもなし。ただかの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなむ、口惜しう恨めしきふしにて、この世には残るべき』とのたまひしものを、天翔りても、かやうなるにつけては、いとどつらしとや見たまふらむ」

 など、つくづくと人やりならぬ独り寝したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、来し方行く先、人の上さへ、あぢきなき世を思ひめぐらしたまふ。

 なげのすさびにものをも言ひ触れ、気近く使ひならしたまふ人びとの中には、おのづから憎からず思さるるもありぬべけれど、まことには心とまるもなきこそ、さはやかなれ。

 さるは、かの君たちのほどに劣るまじき際の人びとも、時世にしたがひつつへて、心細げなる住まひするなどを、尋ね取りつつあらせなど、いと多かれど、「今はと世を逃れ背き離れむ時、この人こそと、取り立てて、心とまるほだしなるばかりなることはなくて過ぐしてむ」と思ふ心深かりしを、「いと、さも悪ろく、わが心ながら、ねぢけてもあるかな」

 など、常よりも、やがてまどろまずかしたまへる朝に、霧の籬より、花の色々おもしろく見えわたれる中に、朝顔のはかなげにてじりたるを、なほことに目とまる心地したまふ。「明くる間咲きてとか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし。

 格子も上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、この花の開くるほどをも、ただ一人のみ見たまひける。

 [第五段 薫、二条院の中君を訪問]

 人召して、

 「北の院に参らむに、ことことしからぬ車さし出でさせよ」

 とのたまへば、

 「宮は、昨日より内裏になむおはしますなる。昨夜、御車率て帰りはべりにき」

 と申す。

 「さはれ、かの対の御方の悩みたまふなる、訪らひきこえむ。今日は内裏に参るべき日なれば、日たけぬさきに」

 とのたまひて、御装束したまふ。出でたまふままに、降りて花の中に混じりたまへるさま、ことさらに艶だち色めきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめかしく恥づかしげにて、いみじくけしきだつ色好みどもになずらふべくもあらず、おのづからをかしくぞ見えたまひける。朝顔引き寄せたまへる、露いたくこぼる。

 「今朝の間の色にや賞でむ置く露の
  消えぬにかかる花と見る見る
 はかな」

 と独りごちて、折りて持たまへり。女郎花をば見過ぎて出でたまひぬる。

 明け離るるままに、霧立ち乱る空をかしきに、

 「女どちは、しどけなく朝寝したまへらむかし。格子妻戸うちたたき声づくらむこそ、うひうひしかるべけれ。朝まだきまだき来にけり」

 と思ひながら、人召して、中門の開きたるより見せたまへば、

 「御格子ども参りてはべるべし。女房の御けはひもしはべりつ」

 と申せば、下りて、霧の紛れにさまよく歩み入りたまへるを、「宮の忍びたる所より帰りたまへるにや」と見るに、露にうちしめりたまへる香り、例の、いとさまことに匂ひ来れば、

 「なほ、めざましくはおはすかし。心をあまりをさめたまへるぞ憎き」

 など、あいなく、若き人びとは、聞こえあへり。

 おどろき顔にはあらず、よきほどにうちそよめきて、御茵さし出でなどするさまも、いとめやすし。

 「これにさぶらへと許させたまふほどは、人びとしき心地すれど、なほかかる御簾の前にさし放たせたまへるうれはしさになむ、しばしばもえさぶらはぬ」

 とのたまへば、

 「さらば、いかがはべるべからむ」

 など聞こゆ。

 「北面などやうの隠れぞかし。かかる古人などのさぶらはむにことわりなる休み所は。それも、また、ただ御心なれば、愁へきこゆべきもあらず」

 とて、長押に寄りかかりておはすれば、例の、人びと、

 「なほ、あしこもとに」

 など、そそのかしきこゆ。

 [第六段 薫、中君と語らう]

 もとよりも、けはひはやりかに男々しくなどはものしたまはぬ人柄なるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、今は、みづから聞こえたまふことも、やうやううたてつつましかりし方、すこしづつ薄らぎて、面馴れたまひにたり。

 悩ましく思さるらむさまも、「いかなれば」など問ひきこえたまへど、はかばかしくもいらへきこえたまはず、常よりもしめりたまへるけしきの心苦しき、あはれにおぼえたまひて、こまやかに、世の中のあるべきやうなどを、はらからやうの者のあらましやうに、教へ慰めきこえたまふ。

 声なども、わざと似たまへりともおぼえざりしかど、あやしきまでただそれとのみおぼゆるに、人目見苦しかるまじくは、簾もひき上げてさし向かひきこえまほしく、うち悩みたまへらむ容貌ゆかしくおぼえたまふも、「なほ、世の中にもの思はぬ人は、えあるまじきわざにやあらむ」とぞ思ひ知られたまふ。

 「人びとしくきらきらしき方にははべらずとも、心に思ふことあり、嘆かしく身をもて悩むさまになどはなくて過ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし、心から、悲しきことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがたにやすからず思ひはべるこそ、いとあいなけれ。官位などいひて、大事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、これや、今すこし罪の深さはまさるらむ」

 など言ひつつ、折りたまへる花を、扇にうち置きて見ゐたまへるに、やうやう赤みもて行くも、なかなか色のあはひをかしく見ゆれば、やをらさし入れて、

 「よそへてぞ見るべかりける白露の
  契りかおきし朝顔の花」

 ことさらびてしももてなさぬに、「露落とさで持たまへりけるよ」と、をかしく見ゆるに、置きながら枯るるけしきなれば、

 「消えぬまに枯れぬる花のはかなさに
  おくるる露はなほぞまされる
 何にかかれる

 と、いと忍びて言も続かず、つつましげに言ひ消ちたまへるほど、「なほ、いとよく似たまへるものかな」と思ふにも、まづぞ悲しき。

 [第七段 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶]

 「秋の空は、今すこし眺めみまさりはべり。つれづれの紛らはしにもと思ひて、先つころ、宇治にものしてはべりき。庭も籬もまことにいとど荒れ果てはべりしに堪へがたきこと多くなむ。

 故院の亡せたまひて後、二、三年ばかりの末に、世を背きたまひし嵯峨の院にも、六条の院にも、さしのぞく人の、心をさめむ方なくなむはべりける。木草の色につけても、涙にくれてのみなむ帰りはべりける。かの御あたりの人は、上下心浅き人なくこそはべりけれ。

 方々集ひものせられける人びとも、皆所々あかれ散りつつ、おのおの思ひ離るる住まひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房などはた、まして心をさめむ方なくおぼえけるままに、ものおぼえぬ心にまかせつつ、山林に入り混じり、すずろなる田舎人になりなど、あはれに惑ひ散るこそ多くはべりけれ。

 さて、なかなか皆荒らし果て、忘れ草生ほして後なむ、この右の大臣も渡り住み、宮たちなども方々ものしたまへば、昔に返りたるやうにはべめる。さる世に、たぐひなき悲しさと見たまへしことも、年月経れば、思ひ覚ます折の出で来るにこそは、と見はべるに、げに、限りあるわざなりけり、となむ見えはべる。

 かくは聞こえさせながらも、かのいにしへの悲しさは、まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけむ。なほ、この近き夢こそ、覚ますべき方なく思ひたまへらるるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪深き方はまさりてはべるにやと、それさへなむ心憂くはべる」

 とて、泣きたまへるほど、いと心深げなり。

 昔の人を、いとしも思ひきこえざらむ人だに、この人の思ひたまへるけしきを見むには、すずろにただにもあるまじきを、まして、我もものを心細く思ひ乱れたまふにつけては、いとど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心なれば、今すこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためらひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひ交はしたまふ。

 [第八段 薫と中君の故里の宇治を思う]

 「世の憂きよりはど、人は言ひしをも、さやうに思ひ比ぶる心もことになくて、年ごろは過ぐしはべりしを、今なむ、なほいかで静かなるさまにても過ぐさまほしく思うたまふるを、さすがに心にもかなはざめれば、弁の尼こそうらやましくはべれ。

 この二十日あまりのほどは、かの近き寺の鐘の声も聞きわたさまほしくおぼえはべるを、忍びて渡させたまひてむや、と聞こえさせばやとなむ思ひはべりつる」

 とのたまへば、

 「荒らさじと思すとも、いかでかは。心やすき男だに、往き来のほど荒ましき山道にはべれば、思ひつつなむ月日も隔たりはべる。故宮の御忌日は、かの阿闍梨に、さるべきことども皆言ひおきはべりにき。かしこは、なほ尊き方に思し譲りてよ。時々見たまふるにつけては、心惑ひの絶えせぬもあいなきに、罪失ふさまになしてばや、となむ思ひたまふるを、またいかが思しおきつらむ。

 ともかくも定めさせたまはむに従ひてこそは、とてなむ。あるべからむやうにのたまはせよし。何事も疎からず承らむのみこそ、本意のかなふにてははべらめ」

 など、まめだちたることどもを聞こえたまふ。経仏など、この上も供養じたまふべきなめり。かやうなるついでにことづけて、やをら籠もりゐなばや、などもむけたまへるけしきなれば、

 「いとあるまじきことなり。なほ、何事も心のどかに思しなせ」

 と教へきこえたまふ。

 [第九段 薫、二条院を退出して帰宅]

 日さし上がりて、人びと参り集まりなどすれば、あまり長居もことあり顔ならむによりて、出でたまひなむとて、

 「いづこにても、御簾の外にはならひはべらねば、はしたなき心地しはべりてなむ。今また、かやうにもさぶらはむ」

 とて立ちたまひぬ。「宮の、などかなき折には来つらむ」と思ひたまひぬべき御心なるもわづらはしくて、侍の別当なる、右京大夫召して、

 「昨夜まかでさせたまひぬと承りて参りつるを、まだしかりければ口惜しきを。内裏にや参るべき」

 とのたまへば、

 「今日は、まかでさせたまひなむ」

 と申せば、

 「さらば、夕つ方も」

 とて、出でたまひぬ。

 なほ、この御けはひありさまを聞きたまふたびごとに、などて昔の人の御心おきてをもて違へて、思ひ隈なかりけむと、悔ゆる心のみまさりて、心にかかりたるもむつかしく、「なぞや、人やりならぬ心ならむ」と思ひ返したまふ。そのままにまだ精進にて、いとどただ行なひをのみしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。

 母宮の、なほいとも若くおほどきて、しどけなき御心にも、かかる御けしきを、いとあやふくゆゆしと思して、

 「幾世しもあらじを見たてまつらむほどは、なほかひあるさまにて見えたまへ。世の中を思ひ捨てたまはむをも、かかる容貌にては、さまたげきこゆべきにもあらぬを、この世の言ふかひなき心地すべき心惑ひに、いとど罪や得むとおぼゆる」

 とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを思ひ消ちつつ、御前にてはもの思ひなきさまを作りたまふ。

 

第三章 中君の物語 匂宮と六の君の婚儀

 [第一段 匂宮と六の君の婚儀]

 右の大殿には、六条院の東の御殿磨きしつらひて、限りなくよろづを整へて待ちきこえたまふに、十六日の月やうやうさし上がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、いかならむと、やすからず思ほして、案内したまへば、

 「この夕つ方、内裏より出でたまひて、二条院になむおはしますなる」

 と、人申す。思す人持たまへればと、心やましけれど、今宵過ぎむも人笑へなるべければ、御子の頭中将して聞こえたまへり。

 「大空の月だに宿るが宿に
  待つ宵過ぎて見えぬ君かな」

 宮は、「なかなか今なむとも見えじ、心苦し」と思して、内裏におはしけるを、御文聞こえたまへりけり。御返りやいかがありけむ、なほいとあはれに思されければ、忍びて渡りたまへりけるなりけり。らうたげなるありさまを、見捨てて出づべき心地もせず、いとほしければ、よろづに契り慰めて、もろともに月を眺めておはするほどなりけり。

 女君は、日ごろもよろづに思ふこと多かれど、いかでけしきに出ださじと念じ返しつつ、つれなく覚ましたまふことなれば、ことに聞きもとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはするけしき、いとあはれなり。

 中将の参りたまへるを聞きたまひて、さすがにかれもいとほしければ、出でたまはむとて、

 「今、いと疾く参り来む。一人月な見たまひそ。心そらなればいと苦しき」

 と聞こえおきたまひてなほかたはらいたければ、隠れの方より寝殿へ渡りたまふ、御うしろでを見送るに、ともかくも思はねど、ただ枕の浮きぬべき心地れば、「心憂きものは人の心なりけり」と、我ながら思ひ知らる。

 [第二段 中君の不安な心境]

 「幼きほどより心細くあはれなる身どもにて、世の中を思ひとどめたるさまにもおはせざりし人一所を頼みきこえさせて、さる山里に年経しかど、いつとなくつれづれにすごくありながら、いとかく心にしみて世を憂きものとも思はざりしに、うち続きあさましき御ことどもを思ひしほどは、世にまたとまりて片時経べくもおぼえず、恋しく悲しきことのたぐひあらじと思ひしを、命長くて今までもながらふれば、人の思ひたりしほどよりは、人にもなるやうなるありさまを、長かるべきこととは思はねど、見る限りは憎げなき御心ばへもてなしなるに、やうやう思ふこと薄らぎてありつるを、この折ふし身の憂さはた、言はむ方なく、限りとおぼゆるわざなりけり。

 ひたすら世になくなりたまひにし人びとよりは、さりともこれは、時々もなどかは、とも思ふべきを、今宵かく見捨てて出でたまふつらさ、来し方行く先、皆かき乱り心細くいみじきが、わが心ながら思ひやる方なく、心憂くもあるかな。おのづからながらへば」

 など慰めむことを思ふに、さらに姨捨山の月澄み昇り、夜更くるままによろづ思ひ乱れたまふ。松風の吹き来る音も、荒ましかりし山おろしに思ひ比ぶれば、いとのどかになつかしく、めやすき御住まひなれど、今宵はさもおぼえず、椎の葉の音は劣りて思ほゆ。

 「山里の松の蔭にもかくばかり
  身にしむ秋の風はなかりき」

 来し方忘れにけるにやあらむ。

 老い人どもなど、

 「今は、入らせたまひね。月見るは忌みべるものを。あさましく、はかなき御くだものをだに御覧じ入れねば、いかにならせたまはむ」と。「あな、見苦しや。ゆゆしう思ひ出でらるることもはべるを、いとこそわりなく」

 とうち嘆きて、

 「いで、この御ことよ。さりとも、かうておろかには、よもなり果てさせたまはじ。さいへど、もとの心ざし深く思ひそめつる仲は、名残なからぬものぞ」

 など言ひあへるも、さまざまに聞きにくく、「今は、いかにもいかにもかけて言はざらなむ、ただにこそ見め」と思さるるは、人には言はせじ、我一人怨みきこえむとにやあらむ。「いでや、中納言殿の、さばかりあはれなる御心深さを」など、そのかみの人びとは言ひあはせて、「人の御宿世のあやしかりけることよ」と言ひあへり。

 [第三段 匂宮、六の君に後朝の文を書く]

 宮は、いと心苦しく思しながら、今めかしき御心は、いかでめでたきさまに待ち思はれむと、心懸想して、えならず薫きしめたまへる御けはひ、言はむ方なし。待ちつけきこえたまへる所のありさまも、いとをかしかりけり。人のほど、ささやかにあえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地したまへるを、

 「いかならむ。ものものしくあざやぎて、心ばへもたをやかなる方はなく、ものほこりかになどやあらむ。さらばこそ、うたてあるべけれ」

 などは思せど、さやなる御けはひにはあらぬにや、御心ざしおろかなるべくも思されざりけり。秋の夜なれど更けにしかばにや、ほどなく明けぬ。

 帰りたまひても、対へはふともえ渡りたまはず、しばし大殿籠もりて、起きてぞ御文書きたまふ。

 「御けしきけしうはあらぬなめり」

 と、御前なる人びとつきじろふ。

 「対の御方こそ心苦しけれ。天下にあまねき御心なりとも、おのづからけおさるることもありなむかし」

 など、ただにしもあらず、皆馴れ仕うまつりたる人びとなれば、やすからずうち言ふどももありて、すべて、なほねたげなるわざにぞありける。「御返りも、こなたにてこそは」と思せど、「夜のほどおぼつかなさも、常の隔てよりはいかが」と、心苦しければ、急ぎ渡りたまふ。

 寝くたれの御容貌、いとめでたく見所ありて、入りたまへるに、臥したるもうたてあれば、すこし起き上がりておはするに、うち赤みたまへる顔の匂ひなど、今朝しもことにをかしげさまさりて見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつ臥したまへる、髪のかかり、髪ざしなど、なほいとありがたげなり。

 宮も、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえ言ひ出でたまはぬ面隠しにや、

 「などかくのみ悩ましげなる御けしきならむ。暑きほどのこととか、のたまひしかば、いつしかと涼しきほど待ち出でたるも、なほはればれしからぬは、見苦しきわざかな。さまざまにせさすることも、あやしく験なき心地こそすれ。さはありとも、修法はまた延べてこそはよからめ。験あらむ僧もがな。なにがし僧都をぞ、夜居にさぶらはすべかりける」

 など、やうなるまめごとをのたまへばかかる方にも言よきは、心づきなくおぼえたまへど、むげにいらへきこえざらむも例ならねば、

 「昔も、人に似ぬありさまにて、かやうなる折はありしかど、おのづからいとよくおこたるものを」

 とのたまへば、

 「いとよくこそ、さはやかなれ」

 とうち笑ひて、「なつかしく愛敬づきたる方は、これに並ぶ人はあらじかし」とは思ひながら、なほまた、とくゆかしき方の心焦られも立ち添ひたまへるは、御心ざしおろかにもあらぬなめりかし。

 [第四段 匂宮、中君を慰める]

 されど、見たまふほどは変はるけぢめもなきにや、後の世まで誓ひ頼めたまふことどもの尽きせぬを聞くにつけても、げに、この世は短かめる命待つ間、つらき御心に見えぬべければ、「後の契りや違はぬこともあらむ」と思ふにこそ、なほこりずまに、またもまれぬべけれとていみじく念ずべかめれど、え忍びあへぬにや、今日は泣きたまひぬ。

 日ごろも、「いかでかう思ひけりと見えたてまつらじ」と、よろづに紛らはしつるを、さまざまに思ひ集むることし多かれば、さのみもえもて隠されぬにや、こぼれそめては、えとみにもためらはぬ、いと恥づかしくわびしと思ひて、いたく背きたまへば、しひてひき向けたまひつつ、

 「聞こゆるままに、あはれなる御ありさまと見つるを、なほ隔てたる御心こそありけれな。さらずは、夜のほどに思し変はりにたるか」

 とて、わが御袖して涙を拭ひたまへば、

 「夜の間の心変はりこそ、のたまふにつけて、推し量られはべりぬれ」

 とて、すこしほほ笑みぬ。

 「げに、あが君や、幼なの御もの言ひやな。されどことには、心に隈のなければ、いと心やすし。いみじくことわりして聞こゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげに世のことわりを知りたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。よし、わが身になしても思ひめぐらしたまへ。身を心ともせぬりさまなり。もし、思ふやうなる世もあらば、人にまさりける心ざしのほど、知らせたてまつるべきひとふしなむある。たはやすく言出づべきことにもあらねば、命のみこそ」

 などのたまふほどに、かしこにたてまつれたまへる御使、いたく酔ひ過ぎにければ、すこし憚るべきことども忘れて、けざやかにこの南面に参れり。

 [第五段 後朝の使者と中君の諦観]

 海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれたるを、「さなめり」と、人びと見る。いつのほどに急ぎ書きたまへらむと見るも、やすからずはありけむかし。宮も、あながちに隠すべきにはあらねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意はあれかしと、かたはらいたけれど、今はかひなければ、女房して御文とり入れさせたまふ。

 「同じくは、隔てなきさまにもてなし果ててむ」と思ほして、ひき開けたまへるに、「継母の宮の御手なめり」と見ゆれば、今すこし心やすくて、うち置きたまへり。宣旨書きにても、うしろめたのわざや。

 「さかしらは、かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いと悩ましげにてなむ。

  女郎花しをれぞまさる朝露の
  いかに置きける名残なるらむ」

 あてやかにをかしく書きたまへり。

 「かことがましげなるもわづらはしや。まことは、心やすくてしばしはあらむと思ふ世を、思ひの外にもあるかな」

 などはのたまへど、

 「また二つとなくて、さるべきものに思ひならひたるただ人の仲こそ、かやうなることの恨めしさなども、見る人苦しくはあれ、思へばこれはいと難し。つひにかかるべき御ことなり。宮たちと聞こゆるなかにも、筋ことに世人思ひきこえたれば、幾人も幾人も得たまはむことも、もどきあるまじければ、人も、この御方いとほしなども思ひたらぬなるべし。かばかりものものしくかしづき据ゑたまひて、心苦しき方、おろかならず思したるをぞ、幸ひおはしける」

 と聞こゆめる。みづからの心にも、あまりにならはしたまうて、にはかにはしたなかるべきが嘆かしきなめり。

 「かかる道を、いかなれば浅からず人の思ふらむと、昔物語などを見るにも、人の上にても、あやしく聞き思ひしは、げにおろかなるまじきわざなりけり」

 と、わが身になりてぞ、何ごとも思ひ知られたまひける。

 [第六段 匂宮と六の君の結婚第二夜]

 宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまにもてなしたまひて、

 「むげにもの参らざなるこそ、いと悪しけれ」

 とて、よしある御くだもの召し寄せ、また、さるべき人召して、ことさらに調ぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、いとはるかにのみ思したれば、「見苦しきわざかな」と嘆ききこえたまふに、暮れぬれば、夕つ方、寝殿へ渡りたまひぬ。

 風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、今めかしきにすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、もの思はしき人の御心のうちは、よろづに忍びがたきことのみぞ多かりける。ひぐらしの鳴く声に、山の蔭み恋しくて、

 「おほかたに聞かましものをひぐらしの
  声恨めしき秋の暮かな」

 今宵はまだ更けぬに出でたまふなり。御前駆の声の遠くなるままに、海人も釣すばかりなるも、「我ながら憎き心かな」と、思ふ思ふ聞き臥したまへり。はじめよりもの思はせたまひしりさまなどを思ひ出づるも、疎ましきまでおぼゆ。

 「この悩ましきことも、いかならむとすらむ。いみじく命短き族なれば、かやうならむついでにもやと、はかなくなりなむとすらむ」

 と思ふには、「惜しからねど、悲しくもあり、またいと罪深くもあなるものを」など、まどろまれぬままに思ひ明かしたまふ。

 [第七段 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴]

 その日は、后の宮悩ましげにおはしますとて、誰も誰も、参りたまへれど、御風邪におはしましければ、ことなることもおはしまさずとて、大臣は昼まかでたまひにけり。中納言の君誘ひきこえたまひて、一つ御車にてぞ出でたまひにける。

 「今宵の儀式、いかならむ。きよらを尽くさむ」と思すべかめれど、限りあらむかし。この君も、心恥づかしけれど、親しき方のおぼえは、わが方ざまにまたさるべき人もおはせず、ものの栄にせむに、心ことにおはする人なればなめりかし。例ならずいそがしく参でたまひて、人の上に見なしたるを口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心に扱ひたまへるを、大臣は、人知れずなまねたしと思しけり。

 宵すこし過ぐるほどにおはしましたり。寝殿の南の廂、東に寄りて御座参れり。御台八つ、例の御皿など、うるはしげにきよらにて、また、小さき台二つに、花足の御皿なども、今めかしくせさせたまひて、餅参らせたまへり。めづらしからぬこと書きおくこそ憎けれ。

 大臣渡りたまひて、「夜いたう更けぬ」と、女房してそそのかし申したまへど、いとあざれて、とみにも出でたまはず。北の方の御はらからの左衛門督、藤宰相などばかりものしたまふ。

 からうして出でたまへる御さま、いと見るかひある心地す。主人の頭中将、盃ささげて御台参る。次々の御土器、二度、三度参りたまふ。中納言のいたく勧めたまへるに、宮すこしほほ笑みたまへり。

 「わづらはしきわたりを」

 と、ふさはしからず思ひて言ひしを、思し出づるなめり。されど、見知らぬやうにて、いとまめなり。

 東の対に出でたまひて、御供の人びともてはやしたまふ。おぼえある殿上人どもいと多かり。

 四位六人は、女の装束に細長添へて、五位十人は、三重襲の唐衣、裳の腰も皆けぢめあるべし。六位四人は、綾の細長、袴など。かつは、限りあることを飽かず思しければ、ものの色、しざまなどをぞ、きよらを尽くしたまへりける。

 召次、舎人などの中には、乱りがはしきまでいかめしくなむありける。げに、かくにぎははしくはなやかなることは、見るかひあれば、物語などに、まづ言ひたてたるにやあらむ。されど、詳しくはえぞ数へ立てざりけるとや。

 

第四章 薫の物語 中君に同情しながら恋慕の情高まる

 [第一段 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる]

 中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざやかならぬや、暗き紛れに立ちまじりたりけむ、帰りてうち嘆きて、

 「わが殿の、などかおいらかに、この殿の御婿にうちならせたまふまじき。あぢきなき御独り住みなりや」

 と、中門のもとにてつぶやきけるを聞きつけたまひて、をかしとなむ思しける。夜の更けてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人びとは、心地よげに酔ひ乱れて寄り臥しぬらむかしと、うらやましきなめりかし。

 君は、入りて臥したまひて、

 「はしたなげなるわざかな。ことことしげなるさましたる親の出でゐて、離れぬなからひなれど、これかれ、火明くかかげて、勧めきこゆる盃などを、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな」

 と、宮の御ありさまを、めやすく思ひ出でたてまつりたまふ。

 「げに、我にても、よしと思ふ女子持たらましかば、この宮をおきたてまつりて内裏にだにえ参らせざらまし」と思ふに、「誰れも誰れも、宮にたてまつらむと心ざしたまへる女は、なほ源中納言にこそと、とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しくはあらぬなめりな。さるは、いとあまり世づかず、古めきたるものを」など、心おごりせらる。

 「内裏の御けしきあること、まことに思したたむに、かくのみもの憂くおぼえば、いかがすべからむ。おもだたしきことにはありとも、いかがはあらむ。いかにぞ、故君にいとよく似たまへらむ時に、うれしからむかし」と思ひ寄らるるは、さすがにもて離るまじき心なめりかし。

 [第二段 薫と按察使の君、匂宮と六の君]

 例の、寝覚がちなるつれづれなれば、按察使の君とて、人よりはすこし思ひましたまへるが局におはして、その夜は明かしたまひつ。明け過ぎたらむを、人の咎むべきにもあらぬに、苦しげに急ぎ起きたまふを、ただならず思ふべかめり。

 「うち渡し世に許しなき関川を
  みなれそめけむ名こそ惜しけれ」

 いとほしければ、

 「深からず上は見ゆれど関川
  下の通ひは絶ゆるものかは」

 深しと、のたまはむにてだに頼もしげなきを、この上の浅さは、いとど心やましくおぼゆらむかし。妻戸押し開けて、

 「まことは、この空見たまへ。いかでかこれを知らず顔にては明かさむとよ。艶なる人まねにてはあらで、いとど明かしがたくなり行く、夜な夜なの寝覚には、この世かの世までなむ思ひやられて、あはれなる」

 など、言ひ紛らはしてぞ出でたまふ。ことにをかしきことの数を尽くさねど、さまのまめかしき見なしにやあらむ、情けなくなどは人に思はれたまはず。かりそめの戯れ言をも言ひそめたまへる人の、気近くて見たてまつらばや、とのみ思ひきこゆるにや、あながちに、世を背きたまへる宮の御方に、縁をねつつ参り集まりてさぶらふも、あはれなること、ほどほどにつけつつ多かるべし。

 宮は、女君の御ありさま、昼見きこえたまふに、いとど御心ざしまさりけり。おほきさよきほどなる人の、様体いときよげにて、髪のさがりば、頭つきなどぞ、ものよりことに、あなめでた、と見えたまひける。色あひあまりなるまで匂ひて、ものものしく気高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何ごとも足らひて、容貌よき人と言はむに、飽かぬところなし。

 二十に一つ二つぞ余りたまへりける。いはけなきほどならねば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに、盛りの花と見えたまへり。限りなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。げに、親にては、心も惑はしまひつべかりけり。

 ただ、やはらかに愛敬づきらうたきことぞ、かの対の御方はまづ思ほし出でられける。もののたまふいらへなども、恥ぢらひたれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見所多く、かどかどしげなり。

 よき若人ども三十人ばかり、童六人、かたほなるなく、装束なども、例のうるはしきことは、目馴れて思さるべかめれば、引き違へ、心得ぬまでぞ好みそしたまへる。三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよりも、この御ことをば、ことに思ひおきてきこえたまへるも、宮の御おぼえありさまからなめり。

 [第三段 中君と薫、手紙を書き交す]

 かくて後、二条院に、え心やすく渡りたまはず。軽らかなる御身ならねば、思すままに、昼のほどなどもえ出でたまはねば、やがて同じ南の町に、年ごろありしやうにおはしまして、暮るれば、また、え引き避きても渡りたまはずなどして、待ち遠なる折々あるを、

 「かからむとすることとは思ひしかど、さしあたりては、いとかくやは名残なかるべき。げに、心あらむ人は、数ならぬ身を知らで、交じらふべき世にもあらざりけり」

 と、返す返すも山路分け出でけむほど、うつつともおぼえず悔しく悲しければ、

 「なほ、いかで忍びて渡りなむむげに背くさまにはあらずとも、しばし心をも慰めばや。憎げにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ」

 など、心一つに思ひあまりて、恥づかしけれど、中納言殿に文たてまつれたまふ。

 「一日の御ことをば、阿闍梨の伝へたりしに、詳しく聞きはべりにき。かかる御心の名残なからましかば、いかにいとほしくとひたまへらるるにも、おろかならずのみなむ。さりぬべく、みづからも」

 と聞こえたまへり。

 陸奥紙に、ひきつくろはずまめだち書きたまへるしも、いとをかしげなり。宮の御忌日に、例のことどもいと尊くせさせたまへりけるを、喜びたまへるさまの、おどろおどろしくはあらねど、げに、思ひ知りたまへるなめりかし。例は、これよりたてまつる御返りをだに、つつましげに思ほして、はかばかしくも続けたまはぬを、「みづから」とさへのたまへるが、めづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。

 宮の今めかしく好みたちたまへるほどにて、思しおこたりけるも、げに心苦しく推し量らるれば、いとあはれにて、をかしやかなることもなき御文を、うちも置かず、ひき返しひき返し見ゐたまへり。御返りは、

 「承りぬ。一日は、聖だちたるさまにて、ことさらに忍びはべしも、さ思ひたまふるやうはべるころほひにてなむ。名残とのたまはせたるこそ、すこし浅くなりにたるやうにと、恨めしく思うたまへらるれ。よろづはさぶらひてなむ。あなかしこ」

 と、すくよかに、白き色紙のこはごはしきにてあり。

 [第四段 薫、中君を訪問して慰める]

 さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる。人知れず思ふ心し添ひたれば、あいなく心づかひいたくせられて、なよよかなる御衣どもを、いとど匂はし添へたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、丁子染の扇の、もてならしたまへる移り香などさへ、喩へむ方なくめでたし。

 女君も、あやしかりし夜のことなど、思ひ出でたまふ折々なきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの、人に似ずものしたまふを見るにつけても、「さてあらましを」とばかりは思ひやしたまふらむ。

 いはけなきほどにしおはせねば、恨めしき人の御ありさまを思ひ比ぶるには、何事もいとどこよなく思ひ知られたまふにや、常に隔て多かるもいとほしく、「もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむ」など思ひたまひて、今日は、御簾の内に入れたてまつりたまひて、母屋の簾に几帳添へて、我はすこしひき入りて対面したまへり。

 「わざと召しとはべらざりしかど、例ならず許させたまへりし喜びに、すなはちも参らまほしくはべりしを、宮渡らせたまふと承りしかば、折悪しくやはとて、今日になしはべりにける。さるは、年ごろの心のしるしもやうやうあらはれはべるにや、隔てすこし薄らぎはべりにける御簾の内よ。めづらしくはべるわざかな」

 とのたまふに、なほいと恥づかしく、言ひ出でむ言葉もなき心地すれど、

 「一日、うれしく聞きはべりし心の内を、例の、ただ結ぼほれながら過ぐしはべりなば、思ひ知る片端をだに、いかでかはと、口惜しさに」

 と、いとつつましげにのたまふが、いたくしぞきて、絶え絶えほのかに聞こゆれば、心もとなくて、

 「いと遠くもはべるかな。まめやかに聞こえさせ、承らまほしき世の御物語もはべるものを」

 とのたまへば、げに、と思して、すこしみじろき寄りたまふけはひを聞きたまふにも、ふと胸うちつぶるれど、さりげなくいとど静めたるさまして、宮の御心ばへ思はずに浅うはしけりとおぼしく、かつは言ひも疎め、また慰めも、かたがたにしづしづと聞こえたまひつつおはす。

 [第五段 中君、薫に宇治への同行を願う]

 女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で語らひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、世やは憂きなどうに思はせて、言少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへとおぼしく、いとねむごろに思ひてのたまふ。

 「それはしも、心一つにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべり。なほ、宮にただ心うつくしく聞こえさせたまひてかの御けしきに従ひてなむよくはべるべき。さらずは、すこしも違ひ目ありて、心軽くもなど思しものせむに、いと悪しくはべりなむ。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりたちて仕うまつらむに、何の憚りかははべらむ。うしろやすく人に似ぬ心のほどは、宮も皆知らせたまへり」

 などは言ひながら、折々は、過ぎにし方の悔しさを忘るる折なく、ものにもがなや、取り返さまほしきと、ほのめかしつつ、やうやう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、

 「さらば、心地も悩ましくのみはべるを、また、よろしく思ひたまへられむほどに、何事も」

 とて、入りたまひぬるけしきなるが、いと口惜しければ、

 「さても、いつばかり思し立つべきにか。いとしげくはべし道の草も、すこしうち払はせはべらむかし」

 と、心とりに聞こえたまへば、しばし入りさして、

 「この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、とこそは思ひはべれ。ただ、いと忍びてこそよからめ。何か、世の許しなどことことしく」

 とのたまふ声の、「いみじくらうたげなるかな」と、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみあへで、寄りゐたまへる柱もとのの下より、やをらおよびて、御袖をとらへつ。

 [第六段 薫、中君に迫る]

 女、「さりや、あな心憂」と思ふに、何事かは言はれむ、ものも言はで、いとど引き入りたまへば、それにつきていと馴れ顔に、半らは内に入りて添ひ臥したまへり。

 「あらずや。忍びてはよかるべく思すこともありけるがうれしきは、ひが耳か、聞こえさせむとぞ。疎々しく思すべきにもあらぬを、心憂のけしきや」

 と怨みたまへば、いらへすべき心地もせず、思はずに憎く思ひなりぬるを、せめて思ひしづめて、

 「思ひの外なりける御心のほどかな。人の思ふらむことよ。あさまし」

 とあはめて、泣きぬべきけしきなる、すこしはことわりなれば、いとほしけれど、

 「これは咎あるばかりのことかは。かばかりの対面は、いにしへをも思し出でよかし。過ぎにし人の御許しもありしものを。いとこよなく思しけるこそ、なかなかうたてあれ。好き好きしくめざましき心はあらじと、心やすく思ほせ」

 とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、月ごろ悔しと思ひわたる心のうちの、苦しきまでなりゆくさまを、つくづくと言ひ続けたまひて、許すべきけしきにもあらぬに、せむかたなく、いみじとも世の常なり。なかなか、むげに心知らざらむ人よりも、恥づかしく心づきなくて、泣きたまひぬるを、

 「こは、なぞ。あな、若々し」

 とは言ひながら、言ひ知らずらうたげに、心苦しきものから、用意深く恥づかしげなるけはひなどの、見しほどよりも、こよなくねびまさりたまひにけるなどを見るに、「心からよそ人にしなして、かくすからずものを思ふこと」と悔しきにも、またげに音は泣かれけり。

 [第七段 薫、自制して退出する]

 近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男のうち入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも、参り寄らめ、疎からず聞こえ交はしたまふ御仲らひなめれば、さるやうこそはあらめと思ふに、かたはらいたければ、知らず顔にてやをらしぞきぬるに、いとほしきや。

 男君は、いにしへを悔ゆる心の忍びがたさなども、いと静めがたかりぬべかめれど、昔だにありがたかりし心の用意なれば、なほいと思ひのままにももてなしきこえたまはざりけり。かやうの筋は、こまかにもえなむまねび続けざりける。かひなきものから、人目のあいなきを思へば、よろづに思ひ返して出でたまひぬ。

 まだ宵と思ひつれど、暁近うなりにけるを、見とがむる人もやあらむと、わづらはしきも、女の御ためのいとほしきぞかし。

 「悩ましげに聞きわたる御心地は、ことわりなりけり。いと恥づかしと思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえてやみぬるかな。例のをこがましの心や」と思へど、「情けなからむことは、なほいと本意なかるべし。また、たちまちのわが心の乱れにまかせて、あながちなる心をつかひて後、心やすくしもはあらざらむものから、わりなく忍びありかむほども心尽くしに、女のかたがた思し乱れむことよ」

 など、さかしく思ふにせかれず、今の間も恋しきわりなかりける。さらに見ではえあるまじくおぼえたまふも、返す返すあやにくなる心なりや。

 

第五章 中君の物語 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す

 [第一段 翌朝、薫、中君に手紙を書く]

 昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかりつるけはひなどは、立ち離れたりともおぼえず、身に添ひたる心地して、さらに異事もおぼえずなりにたり。

 「宇治にいと渡らまほしげに思いためるを、さもや、渡しきこえてまし」など思へど、「まさに宮は許したまひてむや。さりとて、忍びてはた、いと便なからむ。いかさまにしては、人目見苦しからで、思ふ心のゆくべき」と、心もあくがれて眺め臥したまへり。

 まだいと深き朝に御文あり。例の、うはべはけざやかなる立文にて、

 「いたづらに分けつる道の露しげみ
  昔おぼゆる秋の空かな

 御けしきの心憂さ、ことわり知らぬつらさのみなむ。聞こえさせむ方なく」

 とあり。御返しなからむも、人の、例ならずと見とがむべきを、いと苦しければ、

 「承りぬ。いと悩ましくて、え聞こえさせず」

 とばかり書きつけたまへるを、「あまり言少ななるかな」とさうざうしくて、をかしかりつる御けはひのみ恋しく思ひ出でらる。

 すこし世の中をも知りたまへるけにや、さばかりあさましくわりなしとは思ひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなるけしきも添ひて、さすがになつかしく言ひこしらへなどして、出だしたまへるほどの心ばへなどを思ひ出づるも、ねたく悲しく、さまざまに心にかかりて、わびしくおぼゆ。何事も、いにしへにはいと多くまさりて思ひ出でらる。

 「何かは。この宮離れ果てたまひなば、我を頼もし人にしたまふべきにこそはあめれ。さても、あらはれて心やすきさまにえあらじを、忍びつつまた思ひます人なき、心のとまりにてこそはあらめ」

 など、ただこの事のみ、つとおぼゆるぞ、けしからぬ心なるや。さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふものの心憂かりけることよ。亡き人の御悲しさは、言ふかひなきことにて、いとかく苦しきまではなかりけり。これは、よろづにぞ思ひめぐらされたまひける。

 「今日は、宮渡らせたまひぬ」

 など、人の言ふを聞くにも、後見の心は失せて、胸うちつぶれていとうらやましくおぼゆ。

 [第二段 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く]

 宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ恨めしく思されて、にはかに渡りたまへるりけり。

 「何かは、心隔てたるさまにも見えたてまつらじ。山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人も、疎ましき心添ひたまへりけり」

 と見たまふに、世の中いと所狭く思ひなられて、「なほいと憂き身なりけりと、「ただ消えせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならむ」と思ひ果てて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしく思されて、日ごろのおこたりなど、限りなくのたまふ。

 御腹もすこしふくらかになりにたるに、かの恥ぢたまふしるしの帯の引き結はれたるほどなど、いとあはれに、まだかかる人を近くても見たまはざりければ、めづらしくさへ思したり。うちとけぬ所にならひたまひて、よろづのこと、心やすくなつかしく思さるるままに、おろかならぬ事どもを、尽きせず契りのたまふ聞くにつけても、かくのみ言よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御けしきも思ひ出でられて、年ごろあはれなる心ばへなどは思ひわたりつれど、かかる方ざまにては、あれをもあるまじきことと思ふにぞ、この御行く先の頼めは、いでや、と思ひながらも、すこし耳とまりける。

 「さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ。昔の人に疎くて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし」

 など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しくとだえたまはむことは、いともの恐ろしかるべくおぼえたまへば、言に出でては言はねど、過ぎぬる方よりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、宮はいとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香の、いと深くしみたまへるが、世の常の香の香に入れ薫きしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしととがめ出でたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもて離れぬことにしあれば、言はむ方なくわりなくて、いと苦しと思したるを、

 「さればよ。かならずさることはありなむ。よも、ただには思はじ、と思ひわたることぞかし」

 と御心騷ぎけり。さるは、単衣の御衣なども、脱ぎ替へたまひてけれど、あやしく心より外にぞ身にしみにける。

 「かばかりにては、残りありてしもあらじ」

 と、よろづに聞きにくくのたまひ続くるに、心憂くて、身ぞ置き所なき。

 「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそ先になど、かやうにうち背く際はことにこそあれ。また御心おきたまふばかりのほどやは経ぬる。思ひの外に憂かりける御心かな」

 と、すべてまねぶべくもあらず、いとほしげに聞こえたまへどともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、

 「また人に馴れける袖の移り香を
  わが身にしめて恨みつるかな」

 女は、あさましくのたまひ続くるに、言ふべき方もなきを、いかがは、とて、

 「みなれぬる中の衣と頼めしを
  かばかりにてやかけ離れなむ」

 とて、うち泣きたまへるけしきの、限りなくあはれなるを見るにも、「かかればぞかし」と、いと心やましくて、我もほろほろとこぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。まことにいみじき過ちありとも、ひたぶるにはえぞ疎み果つまじく、らうたげに心苦しきさまのしたまへれば、えも怨み果てたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。

 [第三段 匂宮、中君の素晴しさを改めて認識]

 またの日も、心のどかに大殿籠もり起きて、御手水、御粥などもこなたに参らす。御しつらひなども、さばかりかかやくばかり、高麗、唐土の錦綾を裁ち重ねたる目移しには、世の常にうち馴れたる心地して、人びとの姿も、萎えばみたるうち混じりなどして、いと静かに見まはさる。

 君は、なよよかなる薄色どもに、撫子の細長重ねて、うち乱れたまへる御さまの、何事もいとうるはしく、ことことしきまで盛りなる人の御匂ひ何くれに思ひ比ぶれど気劣りてもおぼえず、なつかしくをかしきも、心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし。まろにうつくしく肥えたりし人の、すこし細やぎたるに、色はいよいよ白くなりて、あてにをかしげなり。

 かかる御移り香などのいちじるからぬ折だに、愛敬づきらうたきところなどの、なほ人には多くまさりて思さるるままには、

 「これをはらからなどにはあらぬ人の、気近く言ひかよひて、事に触れつつ、おのづから声けはひをも聞き見馴れむ、いかでかただにも思はむ。かならずしか思しぬべきことなるを」

 と、わがいと隈なき御心ならひに思し知らるれば、常に心をかけて、「しるきさまなる文などやある」と、近き御厨子、小唐櫃などやうのものをも、さりげなくて探したまへど、さるものもなし。ただ、いとすくよかに言少なにて、なほなほしきなどぞ、わざともなけれど、ものにとりまぜなどしてもあるを、「あやし。なほ、いとかうのみはあらじかし」と疑はるるに、いとど今日はやすからず思さるる、ことわりなりかし。

 「かの人のけしきも、心あらむ女の、あはれと思ひぬべきを、などてかは、ことの他にはさし放たむ。いとよきあはひなれば、かたみにぞ思ひ交はすらむかし」

 と思ひやるぞ、わびしく腹立たしくねたかりける。なほ、いとやすからざりければ、その日もえ出でたまはず。六条院には、御文をぞ二度三度たてまつりたまふを、

 「いつのほどに積もる御言の葉ならむ」

 とつぶやく老い人どもあり。

 [第四段 薫、中君に衣料を贈る]

 中納言の君は、かく宮の籠もりおはするを聞くにしも、心やましくおぼゆれど、

 「わりなしや。これはわが心のをこがましく悪しきぞかし。うしろやすくと思ひそめてしあたりのことを、かくは思ふべしや」

 と、しひてぞ思ひ返して、「さはいへど、え思し捨てざめりかし」と、うれしくもあり、「人びとのけはひなどの、なつかしきほどに萎えばみためりしを」と思ひやりたまひて、母宮の御方に参りたまひて、

 「よろしきまうけのものどもやさぶらふ。使ふべきこと」

 などしたまへば、

 「例の、立たむ月の法事の料に、白きものどもやあらむ。染めたるなどは、今はわざともしおかぬを、急ぎてこそせさせめ」

 とのたまへば、

 「何か。ことことしき用にもはべらず。さぶらはむにしたがひて」

 とて、御匣殿などに問はせたまひて、女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹綾などとり具したまふ。みづからの御料と思しきには、わが御料にありける紅の擣目なべてならぬ、白き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、袴の具はなかりけるに、いかにしたりけるにか、腰の一つあるを、引き結び加へて、

 「結びける契りことなる下紐を
  ただ一筋に恨みやはする」

 大輔の君とて、大人しき人の、睦ましげなるにつかはす。

 「とりあへぬさまの見苦しきを、つきづきしくもて隠して」

 などのたまひて、御料のは、しのびやかなれど、筥にて包みも異なり。御覧ぜさせねど、さきざきも、かやうなる御心しらひは、常のことにて目馴れにたれば、けしきばみ返しなど、ひこしろふべきにもあらねば、いかがとも思ひわづらはで、人びとにとり散らしなどしたれば、おのおのさし縫ひなどす。

 若き人びとの、御前近く仕うまつるなどをぞ、取り分きては繕ひたつべき。下仕へどもの、いたく萎えばみたりつる姿どもなどに、白き袷などにて、掲焉ならぬぞなかなかめやすかりける。

 [第五段 薫、中君をよく後見す]

 誰かは、何事をも後見かしづききこゆる人のあらむ。宮は、おろかならぬ御心ざしのほどにて、「よろづをいかで」と思しおきてたれど、こまかなるうちうちのことまでは、いかがは思し寄らむ。限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知りたまはぬ、ことわりなり。

 艶にそぞろ寒く、花の露をもてあそびて世は過ぐすべきものと思したるほどよりは、思す人のためなれば、おのづから折節につけつつ、まめやかなることまでも扱ひ知らせたまふこそ、ありがたくめづらかなることなめれば、「いでや」など、誹らはしげに聞こゆる御乳母などもありけり。

 童べなどの、なりあざやかならぬ、折々うち混じりなどしたるをも、女君は、いと恥づかしく、「なかなかなる住まひにもあるかな」など、人知れずは思すことなきにしもらぬに、ましてこのころは、世に響きたる御ありさまのはなやかさに、かつは、「宮のうちの人の見思はむことも、人げなきこと」と、思し乱るることも添ひて嘆かしきを、中納言の君は、いとよく推し量りきこえたまへば、疎からむあたりには、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさまも、あなづるとはなけれど、「何かは、ことことしくしたて顔ならむも、なかなかおぼえなく見とがむる人やあらむ」と、思すなりけり。

 今ぞまた、例のめやすきさまなるものどもなどせさせたまひて、御小袿織らせ、綾の料賜はせなどしたまひける。この君しもぞ、宮に劣りきこえたまはず、さま異にかしづきたてられて、かたはなるまで心おごりもし、世を思ひ澄まして、あてなる心ばへはこよなけれど、故親王の御山住みを見そめたまひしよりぞ、「さびしき所のあはれさはさま異なりけり」と、心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、深き情けをもならひたまひにける。いとほしの人ならはしや、とぞ。

 [第六段 薫と中君の、それぞれの苦悩]

 「かくて、なほ、いかでうしろやすく大人しき人にてやみなむ」と思ふにも、したがはず、心にかかりて苦しければ、御文などを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたるけしき見せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきこと添ひたる身と思し嘆かる。

 「ひとへに知らぬ人なれば、あなものぐるほしと、はしたなめさし放たむにもやすかるべきを、昔よりさま異なる頼もし人にならひ来て、今さらに仲悪しくならむも、なかなか人目悪しかるべし。さすがに、あさはかにもあらぬ御心ばへありさまの、あはれを知らぬにはあらず。さりとて、心交はし顔にあひしらはむもいとつつましく、いかがはすべからむ」

 と、よろづに思ひ乱れたまふ。

 さぶらふ人びとも、すこしものの言ふかひありぬべく若やかなるは、皆あたらし、見馴れたるとては、かの山里の古女ばらなり。思ふ心をも、同じ心になつかしく言ひあはすべき人のなきままには、故姫君を思ひ出できこえたまはぬ折なし。

 「おはせましかば、この人もかかる心を添へたまはましや」

 と、いと悲しく、宮のつらくなりたまはむ嘆きよりも、このこといと苦しくおぼゆ。

 

第六章 薫の物語 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く

 [第一段 薫、二条院の中君を訪問]

 男君も、しひて思ひわびて、例の、しめやかなる夕つ方おはしたり。やがて端に御茵さし出でさせたまひて、「いと悩ましきほどにてなむ、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえ出だしたまへるを聞くに、いみじくつらくて、涙落ちぬべきを、人目につつめば、しひて紛らはして、

 「悩ませたまふ折は、知らぬ僧なども近く参り寄るを。医師などの列にても、御簾の内にはさぶらふまじくやは。かく人伝てなる御消息なむ、かひなき心地する」

 とのたまひて、いとものしげなる御けしきなるを、一夜もののけしき見し人びと、

 「げに、いと見苦しくはべるめり」

 とて、母屋の御簾うち下ろして、夜居の僧の座に入れたてまつるを、女君、まことに心地もいと苦しけれど、人のかく言ふに、掲焉にならむも、またいかが、とつつましければ、もの憂ながらすこしゐざり出でて、対面したまへり。

 いとほのかに、時々もののたまふ御けはひの、昔人の悩みそめたまへりしころ、まづ思ひ出でらるるも、ゆゆしく悲しくて、かきくらす心地したまへば、とみにものも言はれず、ためらひてぞ聞こえたまふ。

 こよなく奥まりたまへるもいとつらくて、簾の下より几帳をすこしおし入れて、例の、なれなれしげに近づき寄りたまふが、いと苦しければ、わりなしと思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、

 「胸なむ痛き。しばしおさへて」

 とのたまふを聞きて、

 「胸はおさへたるは、いと苦しくはべるものを」

 とうち嘆きて、ゐ直りたまふほども、げにぞ下やすからぬ。

 「いかなれば、かくしも常に悩ましくは思さるらむ。人に問ひはべりしかば、しばしこそ心地は悪しかなれ、さてまた、よろしき折あり、などこそ教へはべしか。あまり若々しくもてなさせたまふなめり」

 とのたまふに、いと恥づかしくて、

 「胸は、いつともなくかくこそははべれ。昔の人もさこそはものしたまひしか。長かるまじき人のするわざとか、人も言ひはべるめる」

 とぞのたまふ。「げに、誰も千年の松ならぬ世をと思ふには、いと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを、かの御耳一つには心得させながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなしたまふを、「げに、ありがたき御心ばへにも」と聞きゐたりけり。

 [第二段 薫、亡き大君追慕の情を訴える]

 何事につけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる。

 「いはけなかりしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべき心づかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけむ、疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがに違ひやしにけむ。

 慰めばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、紛るることもやあらむなど、思ひ寄る折々はべれど、さらに他ざまにはなびくべくもはべらざりけり。

 よろづに思ひたまへわびては心の引く方の強からぬわざなりければ、好きがましきやうに思さるらむと、恥づかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、時々思ふことをも聞こえさせ承りなどして、隔てなくのたまひかよはむを誰れかはとがめ出づべき。世の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべるを、なほうしろやすく思したれ」

 など、怨みきみ聞こえたまふ。

 「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは聞こえはべるべくや。年ごろ、こなたかなたにつけつつ、見知ることどものはべりしかばこそ、さま異なる頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしきこゆれ」

 のたまへば、

 「さやうなる折もおぼえはべらぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。この御山里出で立ち急ぎに、からうして召し使はせたまふべき。それもげに、御覧じ知る方ありてこそはと、おろかにやは思ひはべる」

 などのたまひて、なほいともの恨めしげなれど、聞く人あれば、思ふままにもいかでかは続けたまはむ。

 [第三段 薫、故大君に似た人形を望む]

 外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、山の方小暗く、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとのみ内には思さる。

 「限りだにある

 など、忍びやかにうち誦じて、

 「思うたまへわびにてはべり。音無の里めまほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、昔おぼゆる人形をも作り、絵にも描きとりて、行なひはべらむとなむ、思うたまへなりにたる」

 とのたまへば、

 「あはれなる御願ひに、またうたて御手洗川近き心地する人形こそ、思ひやりいとほしくはべれ。黄金求むる絵師もこそなど、うしろめたくぞはべるや」

 とのたまへば、

 「そよ。その工も絵師も、いかでか心には叶ふべきわざならむ。近き世に花降らせたる工もはべりけるを、さやうならむ変化の人もがな」

 と、とざまかうざまに忘れむ方なきよしを、嘆きたまふけしきの、心深げなるもいとほしくて、今すこし近くすべり寄りて、

 「人形のついでに、いとあやしく思ひ寄るまじきことをこそ、思ひ出ではべれ」

 とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、

 「何ごとにか」

 と言ふままに、几帳の下より手を捉ふれば、いとうるさく思ひならるれど、「いかさまにして、かかる心をやめて、なだらかにあらむ」と思へば、この近き人の思はむことのあいなくて、さりげなくもてなしたまへり。

 [第四段 中君、異母妹の浮舟を語る]

 「年ごろは、世にやあらむとも知らざりつる人の、この夏ごろ、遠き所よりものして尋ね出でたりしを、疎くは思ふまじけれど、またうちつけに、さしも何かは睦び思はむ、と思ひはべりしを、さいつころ来たりしこそ、あやしきまで、昔人の御けはひにかよひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。

 形見など、かう思しのたまふめるは、なかなか何事も、あさましくもて離れたりとなむ、見る人びとも言ひはべりしを、いとさしもあるまじき人の、いかでかは、さはありけむ」

 とのたまふを、夢語りか、とまで聞く。

 「さるべきゆゑあればこそは、さやうにも睦びきこえらるらめ。などか今まで、かくもかすめさせたまはざらむ」

 とのたまへば、

 「いさや、そのゆゑも、いかなりけむこととも思ひ分かれはべらず。ものはかなきありさまどもにて、世に落ちとまりさすらへむとすらむこと、とのみ、うしろめたげに思したりしことどもを、ただ一人かき集めて思ひ知られはべるに、またあいなきことをさへうち添へて、人も聞き伝へむこそ、いといとほしかるべけれ」

 とのたまふけしき見るに、「宮の忍びてものなどのたまひけむ人の、忍草摘みおきりけるなるべし」と見知りぬ

 似たりとのたまふゆかりに耳とまりて、

 「かばかりにては。同じくは言ひ果てさせたまうてよ」

 と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞こえたまはず。

 「尋ねむと思す心あらば、そのわたりとは聞こえつべけれど、詳しくしもえ知らずや。また、あまり言はば、心劣りもしぬべきことになむ」

 とのたまへば、

 「世を、海中にも、魂のありか尋ねには、心の限り進みぬべきを、いとさまで思ふべきにはあらざなれど、いとかく慰めむ方なきよりはと、思ひ寄りはべる人形の願ひばかりには、などかは、山里の本尊にも思ひはべらざらむ。なほ、確かにのたまはせよ」

 と、うちつけに責めきこえたまふ。

 「いさや、いにしへの御ゆるしもなかりしことを、かくまで漏らしきこゆるも、いと口軽けれど、変化の工求めたまふいとほしさにこそ、かくも」とて、「いと遠きに年ごろ経にけるを、母なる人のうれはしきことに思ひて、あながちに尋ね寄りしを、はしたなくもえいらへではべりしに、ものしたりしなり。ほのかなりしかばにや、何事も思ひしほどよりは見苦しからずなむ見えし。これをいかさまにもてなさむ、と嘆くめりしに仏にならむは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかは」

 など聞こえたまふ。

[第五段 薫、なお中君を恋慕す]

 「さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つわざもがな、と思ひたまへる」と見るはつらけれど、さすがにあはれなり。「あるまじきこととは深く思ひたまへるものから、顕証にはしたなきさまには、えもてなしたまはぬも、見知りたまへるにこそは」と思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内には人目いとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめて入りたまひぬれば、男君、ことわりとは返す返す思へど、なほいと恨めしく口惜しきに、思ひ静めむ方もなき心地して、涙のこぼるるも人悪ろければ、よろづに思ひ乱るれど、ひたぶるにあさはかならむもてなしはた、なほいとうたて、わがためもあいなかるべければ、念じ返して、常よりも嘆きがちにて出でたまひぬ。

 「かくのみ思ひては、いかがすべからむ。苦しくもあるべきかな。いかにしてかは、おほかたの世にはもどきあるまじきさまにて、さすがに思ふ心の叶ふわざをすべからむ」

 など、おりたちて練じたる心ならねばにや、わがため人のためも、心やすかるまじきことを、わりなく思し明かすに「似たりとのたまひつる人も、いかでかは真かとは見るべき。さばかりの際なれば、思ひ寄らむに、難くはあらずとも、人の本意にもあらずは、うるさくこそあるべけれ」など、なほそなたざまには心も立たず。

 

第七章 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く

 [第一段 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる]

 宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、九月二十余日ばかりにおはしたり。

 いとどしく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿守にて、人影もことに見えず。見るには、まづかきくらし、悲しきことぞ限りなき。弁の尼召し出でたれば、障子口に、青鈍の几帳さし出でて参れり。

 「いとかしこけれど、ましていと恐ろしげにはべれば、つつましくてなむ」

 と、まほには出で来ず。

 「いかに眺めたまふらむと思ひやるに、同じ心なる人もなき物語も聞こえむとてなむ。はかなくも積もる年月かな」

 とて、涙を一目浮けておはするに、老い人はいとどさらにせきあへず。

 「人の上にて、あいなくものを思すめりしころの空ぞかし、と思ひたまへ出づるに、いつとはべらぬるにも、秋の風は身にしみてらくおぼえはべりて、げにかの嘆かせたまふめりしもしるき世の中の御ありさまを、ほのかに承るも、さまざまになむ」

 と聞こゆれば、

 「とあることもかかることも、ながらふれば、直るやうもあるを、あぢきなく思ししみけむこそ、わが過ちのやうに、なほ悲しけれ。このころの御ありさまは、何か、それこそ世の常なれ。されど、うしろめたげには見えきこえざめり。言ひても言ひても、むなしき空に昇りぬる煙のみこそ、誰も逃れぬことながら、後れ先だつほど、なほいと言ふかひなかりけり」

 とても、また泣きたまひぬ。

 [第二段 薫、宇治の阿闍梨と面談す]

 阿闍梨召して、例の、かの忌日の経仏などのことのたまふ。

 「さて、ここに時々ものするにつけても、かひなきことのやすからずおぼゆるが、いと益なきを、この寝殿こぼちて、かの山寺のかたはらに堂建てむ、となむ思ふを、同じくは疾く始めてむ」

 とのたまひて、堂いくつ、廊ども、僧房など、あるべきことども、書き出でのたまはせさせたまふを、

 「いと尊きこと」

 と聞こえ知らす。

 「昔の人の、ゆゑある御住まひに占め造りたまひけむ所を、ひきこぼたむ、情けなきやうなれど、その御心ざしも功徳の方には進みぬべく思しけむをとまりたまはむ人びと思しやりて、えさはおきてたまはざりけるにや。

 今は、兵部卿宮の北の方こそは、知りたまふべければ、かの宮の御料とも言ひつべくなりにたり。されば、ここながら寺になさむことは、便なかるべし。心にまかせてさもえせじ。所のさまもあまり川づら近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失ひて、異ざまにも造り変へむの心にてなむ」

 とのたまへば、

 「とざまかうざまに、いともかしこく尊き御心なり。昔、別れを悲しびて、屍を包みてあまたの年首に掛けてはべりける人も、仏の御方便にてなむ、かの屍のを捨てて、つひに聖の道にも入りはべりにける。この寝殿を御覧ずるにつけて、御心動きおはしますらむ、一つにはたいだいしきことなり。また、後の世の勧めともなるべきことにはべりけり。急ぎ仕うまつるべし。暦の博士はからひ申してはべらむ日を承りて、もののゆゑ知りたらむ工、二、三人を賜はりて、こまかなることどもは、仏の御教へのままに仕うまつらせはべらむ」

 と申す。とかくのたまひ定めて、御荘の人ども召して、このほどのことども、阿闍梨の言はむままにすべきよしなど仰せたまふ。はかなく暮れぬれば、その夜はとどまりたまひぬ。

 [第三段 薫、弁の尼と語る]

 「このたびばかりこそ見め」と思して、立ちめぐりつつ見たまへば、仏も皆かの寺に移してければ、尼君の行なひの具のみあり。いとはかなげに住まひたるを、あはれに、「いかにして過ぐすらむ」と見たまふ。

 「この寝殿は、変へて造るべきやうあり。造り出でむほどは、かの廊にものしたまへ。京の宮にとり渡さるべきものなどあらば、荘の人召して、あるべからむやうにものしたまへ」

 など、まめやかなることどもを語らひたまふ。他にては、かばかりにさだ過ぎなむ人を、何かと見入れたまふべきにもあらねど、夜も近く臥せて、昔物語などせさせたまふ。故権大納言の君の御ありさまも、聞く人なきに心やすくて、いとこまやかに聞こゆ。

 「今はとなりたまひしほどに、めづらしくおはしますらむ御ありさまを、いぶかしきのに思ひきこえさせたまふめりし御けしきなどの思ひたまへ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かくて見たてまつりはべるなむ、かの御世に睦ましく仕うまつりおきし験のおのづからはべりけると、うれしくも悲しくも思ひたまへられはべる。心憂き命のほどにて、さまざまのことを見たまへ過ぐし、思ひたまへ知りはべるなむ、いと恥づかしく憂くはべる。

 宮よりも、時々は参りて見たてまつれ、おぼつかなく絶え籠もり果てぬるは、こよなく思ひ隔てけるなめりなど、のたまはする折々はべれど、ゆゆしき身にてなむ、阿弥陀仏より他には、見たてまつらまほしき人もなくなりてはべる」

 など聞こゆ。故姫君の御ことども、はた尽きせず、年ごろの御ありさまなど語りて、何の折何とのたまひし、花紅葉の色を見ても、はかなく詠みたまひける歌語りなどを、つきなからず、うちわななきたれど、こめかしく言少ななるものから、をかしかりける人の御心ばへかなとのみ、いとど聞き添へたまふ。

 「宮の御方は、今すこし今めかしきものから、心許さざらむ人のためには、はしたなくもてなしたまひつべくこそものしたまふめるを、我にはいと心深く情け情けしとは見えて、いかで過ごしてむ、とこそ思ひたまへれ」

 など、心のうちに思ひ比べたまふ。

 [第四段 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる]

 さて、もののついでに、かの形代のことを言ひ出でたまへり。

 「京に、このころ、はべらむとはえ知りはべらず。人伝てに承りしことの筋ななり。故宮の、まだかかる山里住みもしたまはず、故北の方の亡せたまへりけるほど近かりけるころ、中将の君とてさぶらひける上臈の、心ばせなどもけしうはあらざりけるを、いと忍びて、はかなきほどにもののたまはせける知る人もはべらざりけるに、女子をなむ産みてはべりけるを、さもやあらむ、と思すことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうに思しなりて、またとも御覧じ入るることもなかりけり。

 あいなくそのことに思し懲りて、やがておほかた聖にならせたまひにけるを、はしたなく思ひて、えさぶらはずなりにけるが、陸奥国の守の妻になりたりけるを、一年上りて、その君平らかにものしたまふよし、このわたりにもほのめかし申したりけるを、聞こしめしつけて、さらにかかる消息あるべきことにもあらずと、のたまはせ放ちければ、かひなくてなむ嘆きはべりける。

 さてまた、常陸になりて下りはべりにけるが、この年ごろ、音にも聞こえたまはざりつるが、この春上りて、かの宮には尋ね参りたりけるとなむ、ほのかに聞きはべりし。

 かの君の年は、二十ばかりになりたまひぬらむかし。いとうつくしく生ひ出でたまふがかなしきなどこそ中ごろは、文にさへ書き続けてはべめりしか」

 と聞こゆ。

 詳しく聞きあきらめたまひて、「さらば、まことにてもあらむかし。見ばや」と思ふ心出で来ぬ。

 「昔の御けはひに、かけても触れたらむ人は知らぬ国までも尋ね知らまほしき心あるを、数まへたまはざりけれど、近き人にこそはあなれ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふ折あらむついでに、かくなむ言ひし、と伝へたまへ」

 などばかりのたまひおく。

 「母君は、故北の方の御姪なり。弁も離れぬ仲らひにはべるべきを、そのかみは他々にはべりて、詳しくも見たまへ馴れざりき。

 さいつころ、京より、大輔がもとより申したりしは、かの君なむ、いかでかの御墓にだに参らむと、のたまふなる、さる心せよなどはべりしかど、まだここに、さしはへてはおとなはずはべめり。今、さらば、さやのついでに、かかる仰せなど伝へはべらむ」

 と聞こゆ。

 [第五段 薫、二条院の中君に宇治訪問の報告]

 明けぬれば帰りたまはむとて、昨夜、後れて持て参れる絹綿などやうのもの、阿闍梨に贈らせたまふ。尼君にも賜ふ。法師ばら、尼君の下衆どもの料にとて、布などいふものをさへ、召して賜ぶ。心細き住まひなれど、かかる御訪らひたゆまざりければ、身のほどにはめやすく、しめやかにてなむ行なひける。

 木枯しの堪へがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡見えぬを見渡して、とみにもえ出でたまはず。いとけしきある深山木に宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる。こだになどすこし引き取らせたまひて、宮へと思しくて、持たせたまふ。

 「宿り木と思ひ出でずは木のもとの
  旅寝もいかにさびしからまし」

 と独りごちたまふを聞きて、尼君、

 「荒れ果つる朽木もとを宿りきと
  思ひおきけるほどの悲しさ」

 あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞ、いささかの慰めには思しける。

 宮に紅葉たてまつれたまへれば、男宮おはしましけるほどなりけり。

 「南の宮より」

 とて、何心もなく持て参りたるを、女君、「例のむつかしきこともこそ」と苦しく思せど、取り隠さむやは。宮、

 「をかしき蔦かな」

 と、ただならずのたまひて、召し寄せて見たまふ。御文には、

 「日ごろ、何事かおはしますらむ。山里にものしはべりて、いとど峰の朝霧にひはべりつる御物語も、みづからなむ。かしこの寝殿、堂になすべきこと、阿闍梨に言ひつけはべりにき。御許しはべりてこそは、他に移すこともものしはべらめ。弁の尼に、さるべき仰せ言はつかはせ」

 などぞある。

 「よくも、つれなく書きたまへる文かな。まろありとぞ聞きつらむ」

 とのたまふも、すこしは、げにさやありつらむ。女君は、ことなきをうれしと思ひたまふに、あながちにかくのたまふを、わりなしと思して、うち怨じてゐたまへる御さま、よろづの罪許しつべくをかし。

 「返り事書きたまへ。見じや」

 とて、他ざまに向きたまへり。あまえて書かざらむもあやしければ、

 「山里の御ありきのうらやましくもはべるかな。かしこは、げにさやにてこそよく、と思ひたまへしを、ことさらにまた巌の中求めむりは、荒らし果つまじく思ひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、おろかならずなむ」

 と聞こえたまふ。「かく憎きけしきもなき御睦びなめり」と見たまひながら、わが御心ならひに、ただならじと思すが、やすからぬなるべし。

 [第六段 匂宮、中君の前で琵琶を弾く]

 枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の、ものよりことにて手をさし出で招くをかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒はかなげにうちなびきたるなど、例のことなれど、夕風なほあはれなるころなりかし。

 「穂に出でぬもの思ふらし
  招く袂の露しげくして」

 なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶をきゐたまへり。黄鐘調の掻き合はせを、いとあはれに弾きなしたまへば、女君も心に入りたまへることにて、もの怨じもえし果てたまはず、小さき御几帳のつまより、脇息に寄りかかりて、ほのかにさし出でたまへる、いと見まほしくらうたげなり。

 「秋果つる野辺のけしきも篠薄
  ほのめく風につけてこそ知れ
 わが身一つの

 とて涙ぐまるるが、さすがに恥づかしければ、扇を紛らはしておはする御心の内も、らうたく推し量らるれど、「かかるにこそ、人もえ思ひ放たざらめ」と、疑はしきがただならで、恨めしきなめり。

 菊の、まだよく移ろひ果てで、わざとつくろひたてさせたまへるは、なかなか遅きに、いかなる一本にかあらむいと見所ありて移ろひたるを、取り分きて折らせたまひて、

 「花の中に偏に

 と誦じたまひて、

 「なにがしの皇子の、花めでたる夕べぞかし。いにしへ、天人の翔りて、琵琶の手教へけるは。何事も浅くなりにたる世は、もの憂しや」

 とて、御琴さし置きたまふを、口惜しと思して、

 「心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などてかさしも」

 とて、おぼつかなき手などをゆかしげに思したれば、

 「さらば、独り琴はさうざうしきに、さしいらへしたまへかし」

 とて、人召して、箏の御琴とり寄せさせて、弾かせたてまつりたまへど、

 「昔こそ、まねぶ人もものしたまひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを」

 と、つつましげにて手も触れたまはねば、

 「かばかりのことも、隔てたまへるこそ心憂けれ。このころ、見るわたり、まだいと心解くべきほどにもあらねどかたなりなる初事をも隠さずこそあれ。すべて女は、やはらかに心うつくしきなむよきこととこそ、その中納言も定むめりしか。かの君に、はた、かくもつつみたまはじ。こよなき御仲なめれば」

 など、まめやかに怨みられてぞ、うち嘆きてすこし調べたまふ。ゆるびたりければ、盤渉調に合はせたまふ。掻き合はせなど、爪音けをかしげに聞こゆ。「伊勢の海謡ひたまふ御声のあてにをかしきを、女房も、物のうしろに近づき参りて、笑み広ごりてゐたり。

 「二心おはしますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわが御前をば、幸ひ人とこそは申さめ。かかる御ありさまに交じらひたまふべくもあらざりし所の御住まひを、また帰りなまほしげに思して、のたまはするこそ、いと心憂けれ」

 など、ただ言ひに言へば、若き人びとは、

 「あなかまや」

 など制す。

 [第七段 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る]

 御琴ども教へたてまつりなどして、三、四日籠もりおはして、御物忌などことつけたまふを、かの殿には恨めしく思して、大臣、内裏より出でたまひけるままに、ここに参りたまへれば、宮、

 「ことことしげなるさまして、何しにいましつるぞとよ」

 と、むつかりたまへど、あなたに渡りたまひて、対面したまふ。

 「ことなることなきほどは、この院を見で久しくなりはべるも、あはれにこそ」

 など、昔の御物語もすこし聞こえたまひて、やがて引き連れきこえたまひて出でたまひぬ。御子どもの殿ばら、さらぬ上達部、殿上人なども、いと多くひき続きたまへる勢ひ、こちたきを見るに、並ぶべくもあらぬぞ、屈しいたかりける。人びと覗きて見たてまつりて、

 「さも、きよらにおはしける大臣かな。さばかり、いづれとなく、若く盛りにてきよげにおはさうずる御子どもの、似たまふべきもなかりけり。あな、めでたや」

 と言ふもあり。また、

 「さばかりやむごとなげなる御さまにて、わざと迎へに参りたまへるこそ憎けれ。やすげなの世の中や」

 など、うち嘆くもあるべし。御みづからも、来し方を思ひ出づるよりはじめ、かのはなやかなる御仲らひに立ちまじるべくもあらず、かすかなる身のおぼえをと、いよいよ心細ければ、「なほ心やすく籠もりゐなむのみこそ目やすからめ」など、いとどおぼえたまふ。はかなくて年も暮れぬ。

 

第八章 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁

 [第一段 新年、薫権大納言兼右大将に昇進]

 正月晦日方より、例ならぬさまに悩みたまふを、宮、まだ御覧じ知らぬことにて、いかならむと、思し嘆きて、御修法など、所々にてあまたせさせたまふに、またまた始め添へさせたまふ。いといたくわづらひたまへば、后の宮よりも御訪らひあり。

 かくて三年になりぬれど、一所の御心ざしこそおろかならね、おほかたの世には、ものものしくもてなしきこえたまはざりつるを、この折ぞ、いづこにもいづこにも聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひどもこえたまひける。

 中納言の君は、宮の思し騒ぐに劣らず、いかにおはせむと嘆きて、心苦しくうしろめたく思さるれど、限りある御訪らひばかりこそあれ、あまりもえ参うでまはで、忍びてぞ御祈りなどもせさせたまひける。

 さるは、女二の宮の御裳着、ただこのころになりて、世の中響きいとなみののしる。よろづのこと、帝の御心一つなるやうに思し急げば、御後見なきしもぞ、なかなかめでたげに見えける。

 女御のしおきたまへることをばさるものにて、作物所、さるべき受領どもなど、とりどりに仕うまつることども、いと限りなしや。

 やがてそのほどに、参りそめたまふべきやうにありければ、男方も心づかひしたまふころなれど、例のことなれば、そなたざまには心も入らで、この御事のみいとほしく嘆かる。

 如月の朔日ごろに、直物とかいふことに、権大納言になりたまひて、右大将かけたまひつ。右の大殿、左にておはしけるが、辞したまへる所なりけり。

 喜びに所々ありきたまひて、この宮にも参りたまへり。いと苦しくしたまへば、こなたにおはしますほどなりければ、やがて参りたまへり。僧などさぶらひて便なき方に、とおどろきたまひて、あざやかなる御直衣、御下襲などたてまつり、ひきつくろひたまひて下りて答の拝したまふ御さまどもとりどりにいとめでたく、

 「やがて、官の禄賜ふ饗の所に」

 と、請じたてまつりたまふを、悩みたまふ人によりてぞ、思したゆたひたまふめる。右大臣殿のしたまひけるままにとて、六条の院にてなむありける。

 垣下の親王たち上達部、大饗に劣らず、あまり騒がしきまでなむ集ひたまひける。この宮も渡りたまひて、静心なければ、まだ事果てぬに急ぎ帰りたまひぬるを、大殿の御方には、

 「いと飽かずめざまし」

 とのたまふ。劣るべくもあらぬ御ほどなるを、ただ今のおぼえのはなやかさに思しおごりて、おしたちもてなしたまへるなめりかし。

 [第二段 中君に男子誕生]

 からうして、その暁、男にて生まれたまへるを、宮もいとかひありてうれしく思したり。大将殿も、喜びに添へて、うれしく思す。昨夜おはしましたりしかしこまりに、やがて、この御喜びもうち添へて、立ちながら参りたまへり。かく籠もりおはしませば、参りたまはぬ人なし。

 御産養、三日は、例のただ宮の御私事にて、五日の夜、大将殿より屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、世の常のやうにて、子持ちの御前の衝重三十、稚児の御衣五重襲にて、御襁褓などぞ、ことことしからず、忍びやかにしなしたまへれど、こまかに見れば、わざと目馴れぬ心ばへなど見えける。

 宮の御前にも浅香の折敷、高坏どもにて、粉熟参らせたまへり。女房の御前には、衝重をばさるものにて、桧破籠三十、さまざまし尽くしたることどもあり。人目にことことしくは、ことさらにしなしたまはず。

 七日の夜は、后の宮の御産養なれば、参りたまふ人びといと多かり。宮の大夫をはじめて、殿上人、上達部、数知らず参りたまへり。内裏にも聞こし召して、

 「宮のはじめて大人びたまふなるには、いかでか」

 とのたまはせて、御佩刀奉らせたまへり。

 九日も、大殿より仕うまつらせたまへり。よろしからず思すあたりなれど、宮の思さむところあれば、御子の公達など参りたまひて、すべていと思ふことなげにめでたければ、御みづからも、月ごろもの思はしく心地の悩ましきにつけても、心細く思したりつるに、かくおもだたしく今めかしきことどもの多かれば、すこし慰みもやしたまふらむ。

 大将殿は、「かくさへ大人び果てたまふめれば、いとどわが方ざまは気遠くやならむ。また、宮の御心ざしもいとおろかならじ」と思ふは口惜しけれど、また、初めよりの心おきてを思ふには、いとうれしくもあり。

 [第三段 二月二十日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す]

 かくて、その月の二十日あまりにぞ、藤壺の宮の御裳着の事ありて、またの日なむ、大将参りたまひける。夜のことは忍びたるさまなり。天の下響きていつくしう見えつる御かしづきに、ただ人の具したてまつりたまふぞ、なほ飽かず心苦しく見ゆる。

 「さる御許しはありながらも、ただ今、かく急がせたまふまじきことぞかし」

 と、そしらはしげに思ひのたまふ人もありけれど、思し立ちぬること、すがすがしくおはします御心にて、来し方ためしなきまで、同じくはもてなさむと、思しおきつるなめり。帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かく盛りの御世に、ただ人のやうに、婿取り急がせたまへるたぐひは、すくなくやありけむ。右の大臣

 「めづらしかりける人の御おぼえ、宿世なり。故院だに、朱雀院の御末にならせたまひて、今はとやつしたまひし際にこそ、かの母宮を得たてまつりたまひしか。我はまして、人も許さぬものを拾ひたりしや」

 とのたまひ出づれば、宮は、げにと思すに、恥づかしくて御いらへもえしたまはず。

 三日の夜は、大蔵卿よりはじめて、かの御方の心寄せになさせたまへる人びと、家司に仰せ言賜ひて、忍びやかなれど、かの御前、随身、車副、舎人まで禄賜はす。そのほどの事どもは、私事のやうにぞありける。

 かくて後は、忍び忍びに参りたまふ。心の内には、なほ忘れがたきいにしへざまのみおぼえて、昼は里に起き臥し眺め暮らして、暮るれば心より外に急ぎ参りたまふをも、ならはぬ心地に、いともの憂く苦しくて、「まかでさせたてまつらむ」とぞ思しおきてける。

 母宮は、いとうれしきことに思したり。おはします寝殿譲りきこゆべくのたまへど、

 「いとかたじけなからむ」

 とて、御念誦堂のあはひに、廊を続けて造らせたまふ。西面に移ろひたまふべきなめり。東の対どもなども、焼けて後、うるはしく新しくあらまほしきを、いよいよ磨き添へつつ、こまかにしつらはせたまふ。

 かかる御心づかひを、内裏にも聞かせたまひて、ほどなくうちとけ移ろひたまはむを、いかがと思したり。帝と聞こゆれど、心の闇は同じごとむおはしましける。

 母宮の御もとに、御使ありける御文にも、ただこのことをなむ聞こえさせたまひける。故朱雀院の、取り分きて、この尼宮の御事をば聞こえ置かせたまひしかば、かく世を背きたまへれど、衰へず、何事も元のままにて、奏せさせたまふことなどは、かならず聞こしめし入れ、御用意深かりけり

 かく、やむごとなき御心どもに、かたみに限りもなくもてかしづき騒がれたまふおもだたしさも、いかなるにかあらむ、心の内にはことにうれしくもおぼえず、なほ、ともすればうち眺めつつ、宇治の寺造ることを急がせたまふ。

 [第四段 中君の男御子、五十日の祝い]

 宮の若君の五十日になりたまふ日数へ取りて、その餅の急ぎを心に入れて、籠物、桧破籠などまで見入れたまひつつ、世の常のなべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金など、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせたまへば、我劣らじと、さまざまのことどもをし出づめり。

 みづからも、例の、宮のおはしまさぬ隙におはしたり。心のなしにやあらむ、今すこし重々しくやむごとなげなるけしきさへ添ひにけりと見ゆ。「今は、さりとも、むつかしかりしすずろごとなどは紛れたまひにたらむ」と思ふに、心やすくて、対面したまへり。されど、ありしながらのけしきに、まづ涙ぐみて、

 「心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、世を思ひたまへ乱るることなむ、まさりにたる」

 と、あいだちなくぞ愁へたまふ。

 「いとあさましき御ことかな。人もこそおのづからほのかにも漏り聞きべれ」

 などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにも慰まず、「忘れがたく思ひたまふらむ心深さよ」とあはれに思ひきこえたまふに、おろかにもあらず思ひ知られたまふ。「おはせましかば」と、口惜しく思ひ出できこえたまへど、「それも、わがありさまのやうに、うらやみなく身を恨むべかりけるかし。何事も数ならでは、世の人めかしきこともあるまじかりけり」とおぼゆるにぞ、いとど、かの、うちとけ果てでやみなむと思ひたまへりし心おきては、なほ、いと重々しく思ひ出でられたまふ。

 [第五段 薫、中君の若君を見る]

 若君を切にゆかしがりきこえたまへば、恥づかしけれど、「何かは隔て顔にもあらむ、わりなきこと一つにつけて恨みらるるよりほかには、いかでこの人の御心に違はじ」と思へば、みづからはともかくもいらへきこえたまはで、乳母してさし出でさせたまへり。

 さらなることなれば、憎げならむやは。ゆゆしきまで白くうつくしくて、たかやかに物語し、うち笑ひなどしたまふ顔を見るに、わがものにて見まほしくうらやましきも、世の思ひ離れがたくなりぬるにやあらむ。されど、「言ふかひなくなりたまひにし人の、世の常のありさまにて、かやうならむ人をもとどめ置きたまへらましかば」とのみおぼえて、このころおもだたしげなる御あたりに、いつしかなどは思ひ寄られぬこそ、あまりすべなき君の御心なめれ。かく女々しくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ。

 しか悪ろびかたほならむ人を、帝の取り分き切に近づけて、睦びたまふべきにもあらじものを、「まことしき方ざまの御心おきてなどこそは、めやすくものしたまひけめ」とぞ推し量るべき。

 げに、いとかく幼きほどを見せたまへるあはれなれば、例よりは物語などこまやかに聞こえたまふほどに、暮れぬれば、心やすく夜をだに更かすまじきを、苦しうおぼゆれば、嘆く嘆く出でたまひぬ

 「をかしの人の御匂ひや。折りつればとかや言ふやうに、鴬もね来ぬべかめり」

 など、わづらはしがる若き人もあり。

 [第六段 藤壺にて藤の花の宴催される]

 「夏にならば、三条の宮塞がる方になりぬべし」と定めて、四月朔日ごろ、節分とかいふこと、まだしき先に渡したてまつりたまふ。

 明日とての日、藤壺に主上渡らせたまひて、藤の花の宴せさせたまふ。南の廂の御簾上げて、椅子立てたり。公わざにて、主人の宮のうまつりたまふにはあらず。上達部、殿上人の饗など、内蔵寮より仕うまつれり。

 右の大臣按察使大納言、藤中納言、左兵衛督。親王たちは、三の宮、常陸宮などさぶらひたまふ。南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼殿の東に、楽所の人びと召して、暮れ行くほどに、双調に吹きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前に取りつつ参りたまふ。

 故六条の院の御手づから書きたまひて、入道の宮にたてまつらせたまひし琴の譜二巻、五葉の枝に付けたるを、大臣取りたまひて奏したまふ。

 次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物どもなりけり。笛は、かの夢に伝へしいにしへの形見のを、「またなき物の音なり」と賞でさせたまひければ、「この折のきよらより、またはいつかは映え映えしきついでのあらむ」と思して、取う出でたまへるなめり

 大臣和琴、三の宮琵琶など、とりどりに賜ふ。大将の御笛は、今日ぞ、世になき音の限りは吹き立てたまひける。殿上人の中にも、唱歌につきなからぬどもは、召し出でて、おもしろく遊ぶ。

 宮の御方より、粉熟参らせたまへり。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。兵衛督、御まかなひ仕うまつりたまふ。

 御盃参りたまふに、大臣、しきりては便なかるべし、宮たちの御中にはた、さるべきもおはせねば、大将に譲りきこえたまふを、憚り申したまへど、御けしきもいかがありけむ、御盃ささげて、「をし」とのたまへる声づかひもてなしさへ、例の公事なれど、人に似ず見ゆるも、今日はいとど見なしさへ添ふにやあらむ。さし返し賜はりて、下りて舞踏したまへるほど、いとたぐひなし。

 上臈の親王たち、大臣などの賜はりたまふだにめでたきことなるを、これはまして御婿にてもてはやされたてまつりたまへる、御おぼえ、おろかならずめづらしきに、限りあれば、下りたる座に帰り着きたまへるほど、心苦しきまでぞ見えける。

 [第七段 女二の宮、三条宮邸に渡御す]

 按察使大納言は、「我こそかかる目も見むと思ひしか、ねたのわざや」と思ひたまへり。この宮の御母女御をぞ、昔、心かけきこえたまへりけるを、参りたまひて後も、なほ思ひ離れぬさまに聞こえ通ひたまひて、果ては宮を得たてまつらむの心つきたりければ、御後見望むけしきも漏らし申しけれど、聞こし召しだに伝へずなりにければ、いと心やましと思ひて、

 「人柄は、げに契りことなめれど、なぞ、時の帝のことことしきまで婿かしづきたまふべき。またあらじかし。九重のうちに、おはします殿近きほどにて、ただ人のうちとけ訪らひて、果ては宴や何やともて騒がるることは」

 など、いみじく誹りつぶやき申したまひけれど、さすがゆかしければ、参りて、心の内にぞ腹立ちゐたまへりける。

 紙燭さして歌どもたてまつる。文台のもとに寄りつつ置くほどのけしきは、おのおのしたり顔なりけれど、例の、「いかにあやしげに古めきたりけむ」と思ひやれば、あながちに皆もたづね書かず。上の町も、上臈とて、御口つきどもは、異なること見えざめれど、しるしばかりとて、一つ、二つぞ問ひ聞きたりし。これは、大将の君の、下りて御かざし折りて参りたまへりけるとか。

 「すべらきのかざしに折ると藤の花
  及ばぬ枝に袖かけてけり」

 うけばりたるぞ、憎きや。

 「よろづ世をかけて匂はむなれば
  今日をも飽かぬ色とこそ見れ」

 「君がため折れるかざしは紫の
  雲に劣らぬ
のけしきか」

 「世の常の色とも見えず雲居まで
  たち昇りたる藤波の花」

 「これやこの腹立つ大納言のなりけむ」と見ゆれ。かたへは、ひがことにもやありけむ。かやうに、ことなるをかしきふしもなくのみぞあなりし。

 夜更くるままに、御遊びいとおもしろし。大将の君、「安名尊謡ひたまへる声ぞ、限りなくめでたかりける。按察使も、昔すぐれたまへりし御声の名残なれば、今もいとものものしくて、うち合はせたまへり。右の大殿御七郎、童にて笙の笛吹く。いとうつくしかりければ、御衣賜はす。大臣下りて舞踏したまふ。

 暁近うなりてぞ帰らせたまひける。禄ども、上達部、親王たちには、主上より賜はす。殿上人、楽所の人びとには、宮の御方より品々に賜ひけり。

 その夜ふさりなむ、宮まかでさせたてまつりたまひける。儀式いと心ことなり。主上の女房さながら御送り仕うまつらせたまひける。庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふに、また御迎への出車どもに、本所の人びと乗せてなむありける。御送りの上達部、殿上人、六位など、言ふ限りなききよらを尽くさせたまへり。

 かくて、心やすくうちとけて見たてまつりたまふに、いとをかしげにおはす。ささやかにしめやかにて、ここはと見ゆるところなくおはすれば、「宿世のほど口惜しからざりけり」と、心おごりせらるるものから、過ぎにし方の忘らればこそはあらめ、なほ紛るる折なく、もののみ恋しくおぼゆれば、

 「この世にては慰めかねつべきわざなめり。仏になりてこそは、あやしくつらかりける契りのほどを、何の報いと諦めて思ひ離れめ」

 と思ひつつ、寺の急ぎにのみ心を入れたまへり。

 

第九章 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う

 [第一段 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅]

 賀茂の祭など、騒がしきほど過ぐして、二十日あまりのほどに、例の、宇治へおはしたり。

 造らせたまふ御堂見たまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たまへ過ぎむが、なほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女車のことことしきさまにはあらぬ一つ、荒らましき東男の、腰に物負へる、あまた具して、下人も数多く頼もしげなるけしきにて、橋より今渡り来る見ゆ。

 「田舎びたる者かな」と見たまひつつ、殿はまづ入りたまひて、御前どもは、まだ立ち騷ぎたるほどに、「この車もこの宮をさして来るなりけり」と見ゆ。御随身どもも、かやかやと言ふを制したまひて、

 「何人ぞ」

 と問はせたまへば、声うちゆがみたる者、

 「常陸の前司殿の姫君の、初瀬の御寺に詣でて戻りたまへるなり。初めもここになむ宿りたまへし」

 と申すに、

 「おいや、聞きし人ななり」

 と思し出でて、人びとを異方に隠したまひて、

 「はや、御車入れよ。ここに、また

 宿りたまへど、北面になむ」

 と言はせたまふ。

 御供の人も、皆狩衣姿にて、ことことしからぬ姿どもれど、なほけはひやしるからむ、わづらはしげに思ひて、馬ども引きさけなどしつつ、かしこまりつつぞをる。車は入れて、廊の西のつまにぞ寄する。この寝殿はまだあらはにて、簾もかけず。下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴より覗きたまふ。

 御衣の鳴れば、脱ぎおきて、直衣指貫の限りを着てぞおはする。とみにも降りで、尼君に消息して、かくやむごとなげなる人のおはするを、「誰れぞ」など案内するなるべし。君は、車をそれと聞きたまひつるより、

 「ゆめその人にまろありとのたまふな」

 と、まづ口かためさせたまひてければ、皆さ心得て、

 「早う降りさせたまへ。客人はものしたまへど、異方になむ」

 と言ひ出だしたり。

 [第二段 薫、浮舟を垣間見る]

 若き人のある、まづ降りて、簾うち上ぐめり。御前のさまよりは、このおもと馴れてめやすし。また、大人びたる人いま一人降りて、「早う」と言ふに、

 「あやしくあらはなる心地こそすれ」

 と言ふ声、ほのかなれどあてやかに聞こゆ。

 「例の御事。こなたは、さきざきも下ろし籠めてのみこそははべれ。さては、またいづこのあらはなるべきぞ」

 と、心をやりて言ふ。つつましげに降るるを見れば、まづ、頭つき、様体、細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ出でられぬべし。扇子をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。

 車は高く、降るる所は下りたるを、この人びとはやすらかに降りなしつれど、いと苦しげにややみて、ひさしく降りて、ゐざり入る。濃き袿に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿着たり。

 四尺の屏風を、この障子に添へて立てたるが、上より見ゆる穴なれば、残るところなし。こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向きてぞ、添ひ臥しぬる。

 「さも、苦しげに思したりつるかな。泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ。この如月には、水のすくなかりしかばよかりしなりけり」

 「いでや、歩くは、東路思へば、いづこか恐ろしからむ」

 など、二人して苦しとも思ひたらず言ひゐたるに、主は音もせでひれ臥したり。腕をさし出でたるが、まろらかにをかしげなるほども、常陸殿などいふべくは見えず、まことにあてなり。

 やうやう腰痛きまで立ちすくみたまへど、人のけはひせじとて、なほ動かで見たまふに、若き人、

 「あな、香ばしや。いみじき香の香こそすれ。尼君の焚きたまふにやあらむ」

 老い人、

 「まことにあなめでたの物の香や。京人は、なほいとこそ雅びかに今めかしけれ。天下にいみじきことと思したりしかど、東にてかかる薫物の香は、え合はせ出でたまはざりきかし。この尼君は、住まひかくかすかにおはすれど、装束のあらまほしく、鈍色青色といへど、いときよらにぞあるや」

 など、ほめゐたり。あなたの簀子より童来て、

 「御湯など参らせたまへ」

 とて、折敷どもも取り続きてさし入る。果物取り寄せなどして、

 「ものけたまはる。これ」

 など起こせど、起きねば、二人して、栗やなどやうのものにや、ほろほろと食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらいたくてしぞきたまへど、またゆかしくなりつつ、なほ立ち寄り立ち寄り見たまふ。

 これよりまさる際の人びとを、后の宮をはじめて、ここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここら飽くまで見集めたまへど、おぼろけならでは、目も心もとまらず、あまり人にもどかるるまでものしたまふ心地に、ただ今は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり。

 [第三段 浮舟、弁の尼と対面]

 尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ出だしたりけれど、

 「御心地悩ましとて、今のほどうちやすませたまへるなり」

 と、御供の人びと心しらひて言ひたりければ、「この君を尋ねまほしげにのたまひしかば、かかるついでにもの言ひ触れむと思ほすによりて、日暮らしたまふにや」と思ひて、かく覗きたまふらむとは知らず。

 例の、御荘の預りどもの参れる、破籠や何やと、こなたにも入れたるを、東人どもにも食はせなど、事ども行なひおきて、うち化粧じて、客人の方に来たり。ほめつる装束、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししくきよげにぞある。

 「昨日おはし着きなむと待ちきこえさせしを、などか、今日も日たけては」

 と言ふめれば、この老い人、

 「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、昨日はこの泉川のわたりにて、今朝も無期に御心地ためらひてなむ」

 といらひて、起こせば、今ぞ起きゐたる。尼君を恥ぢらひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよく見ゆ。まことにいとよしあるまみのほど、髪ざしのわたり、かれをも、詳しくつくづくとしも見たまはざりし御顔なれど、これを見るにつけて、ただそれと思ひ出でらるるに、例の、涙落ちぬ。

 尼君のいらへうちする声、けはひ、宮の御方にもいとよく似たりと聞こゆ。

 「あはれなりける人かな。かかりけるものを、今まで尋ねも知らで過ぐしけることよ。これより口惜しからむ際の品ならむゆかりなどにてだに、かばかりかよひきこえたらむ人を得ては、おろかに思ふまじき心地するに、まして、これは、知られたてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけれ」

 と見なしたまひては、限りなくあはれにうれしくおぼえたまふ。「ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを」と言ひ慰めまほし。蓬莱まで尋ねて、釵の限りを伝へて見たまひけむ帝は、なほ、いぶせかりけむ。「これは異人なれど、慰め所ありぬべきさまなり」とおぼゆるは、この人に契りのおはしけるにやあらむ。

 尼君は、物語すこしして、とく入りぬ。人のとがめつる薫りを、「近く覗きたまふなめり」と心得てければ、うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし。

[第四段 薫、弁の尼に仲立を依頼]

 日暮れもていけば、君もやをら出でて、御衣など着たまひてぞ、例召し出づる障子の口に、尼君呼びて、ありさまなど問ひたまふ。

 「折しもうれしく参で逢ひたるを。いかにぞ、かの聞こえしことは」

 とのたまへば、

 「しか、仰せ言はべりし後は、さるべきついではべらば、と待ちはべりしに、去年は過ぎて、この二月になむ、初瀬詣でのたよりに対面してはべりし。

 かの母君に、思し召したるさまは、ほのめかしはべりしかば、いとかたはらいたく、かたじけなき御よそへにこそははべるなれ、などなむはべりしかど、そのころほひは、のどやかにもおはしまさずと承りし、折便なく思ひたまへつつみて、かくなむ、とも聞こえさせはべらざりしを、またこの月にも詣でて、今日帰りたまふなめり。

 行き帰りの中宿りには、かく睦びらるるも、ただ過ぎにし御けはひを尋ねきこゆるゆゑになむはべめる。かの母君も、障ることありて、このたびは、独りものしたまふめれば、かくおはしますとも、何かは、ものしはべらむとて」

 と聞こゆ。

 「田舎びたる人どもに、忍びやつれたるありきも見えじとて、口固めつれど、いかがあらむ。下衆どもは隠れあらじかし。さて、いかがすべき。独りものすらむこそ、なかなか心やすかなれ。かく契り深くてなむ、参り来あひたる、と伝へたまへかし」

 とのたまへば、

 「うちつけに、いつのほどなる御契りにかは」

 と、うち笑ひて、

 「さらば、しか伝へはべらむ」

 とて、入るに

 「貌鳥の声も聞きしにかよふやと
  茂みを分けて今日ぞ尋ぬる」

 ただ口ずさみのやうにのたまふを、入りて語りけり。

【出典】
出典1 送春唯有酒 銷日不過棋<春を送るには唯酒有り 日を銷するには棋に過ぎず>(白氏文集巻十六-九二〇 官舎閑題)(戻)
出典2 聞得園中花養艶 請君許折一枝春<聞き得たり園の中に花の艶を養ふことを 君に請ふ一枝の春を折らむことを許せ>(和漢朗詠集下恋-七八四 無名)(戻)
出典3 などてかく逢ふごかたみになりにけむ水漏らさじと結びしものを(伊勢物語-六一)(戻)
出典4 散りぬべき花心ぞとかつ見つつ頼みそめけむ我やなになる(元良親王集-九四)(戻)
出典5 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)(戻)
出典6 朝顔は常なき花の色なれや明くる間咲きて移ろひにけり(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)
出典7 朝顔を何は悲しと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ(拾遺集哀傷-一二八三 藤原道信)(戻)
出典8 女郎花憂しと見つつぞ行き過ぐる男山にしたてりと思へば(古今集秋上-二二七 布留今道)(戻)
出典9 出典未詳、参考 頼めおく言の葉だにもなきものを何にかかれる露の命ぞ(金葉集恋上-四二〇 皇后宮女別当)(戻)
出典10 大底四時心惣苦 就中腸断是秋天<大底四時心惣て苦し 就中腸の断ゆることは是れ秋の天>(白氏文集巻十四-七九〇 暮立)(戻)
出典11 里は荒れて人は古りにし宿なれや籬も秋の野良なる(古今集秋上-二四八 僧正遍昭)(戻)
出典12 山里は物ぞわびしきことこそあれ世の憂きよりは住みよかりけり(古今集雑下-九四四 読人しらず)(戻)
出典13 幾世しもあらじ我が身をな款もかく海人の刈る藻に思ひ乱るる(古今集雑下-九三四 読人しらず)(戻)
出典14 大空の月だに宿は入るものを雲のよそにも過ぐる君かな(元良親王集-一五〇)(戻)
出典15 涙川水増さればやしきたへの枕の浮きて止まらざるらむ(拾遺集雑恋-一二五八 読人しらず)(戻)
出典16 我が心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て(古今集雑上-八七八院読人しらず)(戻)
出典17 優婆塞が行ふ山の椎本あなそばそばし床にしあらねば(宇津保物語-二一二)(戻)
出典18 独り寝の侘しきままに起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる(後撰集恋二-六八四 読人しらず)(戻)
出典19 長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば(古今集恋三-六三六 凡河内躬恒)(戻)
出典20 有りはてぬ命待つ間のほどばかり憂きことしげく思はずもがな(古今集雑下-九六五 平貞文)(戻)
出典21 こりずまに又もなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にしすまへば(古今集恋三-六三一 読人しらず)(戻)
出典22 いなせとも言ひはなたれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり(後撰集恋五-九三七 伊勢)(戻)
出典23 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける(古今集秋上-二〇四 読人しらず)(戻)
出典24 恋をしてねをのみ泣けばしきたへの枕の下に海人ぞ釣する(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典25 浅くこそ人は見るらめ関川の絶ゆる心はあらじとぞ思ふ 関川の岩間を潜る水浅み絶えぬべくのみ見ゆる心を(大和物語-一六一、一六二)(戻)
出典26 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)
出典27 世やは憂き人のつらき海人の刈る藻に棲む虫のわれからぞ憂き(紫明抄所引-出典未詳)(戻)
出典28 取り返す物にもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典29 逢はざりし時いかなりしものとてかただ今の間も見ねば恋しき(後撰集恋一-五六三 読人しらず)(戻)
出典30 身を知れば恨みぬものをなぞもかくことわり知らぬ涙なるらむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典31 憂きながら消えせぬ舉は身なりけりうらやましきは水の泡かな(拾遺集哀傷-一三一三 中務)(戻)
出典32 憂くも世に思ふ心にかなはぬか誰も千歳の松ならなくに(古今六帖四-二〇九六)(戻)
出典33 恋しさの限りだにある世なりせば年経て物は思はざらまし(古今六帖五-二五七一)(戻)
出典34 恋ひ侘びぬねをだに泣かむ声立てていづこなるらむ音無の里(拾遺集恋二-七四九 読人しらず)(戻)
出典35 結びおきし形見の子だになかりせば何に忍ぶの草を摘ままし(後撰集雑二-一一八七 藤原兼忠)(戻)
出典36 いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べは恋しかりけり(古今集恋一-五四六 読人しらず)(戻)
出典37 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ(和泉式部集-一三二)(戻)
出典38 末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(古今六帖一-五九三)(戻)
出典39 秋は来ぬ紅葉は宿に降りしきぬ道踏み分けて訪ふ人はなし(古今集秋下-二八七 読人しらず)(戻)
出典40 形こそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ(古今集雑上-八七五 兼芸法師)(戻)
出典41 雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ(古今集雑下-九三五 読人しらず)(戻)
出典42 いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ(古今集雑下-九五二 読人しらず)(戻)
出典43 秋の野の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらむ(古今集秋上-二四三 在原棟梁)(戻)
出典44 置きもあへずはかなき露をいかにして貫き留めむ玉の緒もがな(小大君集-五〇)(戻)
出典45 我ぎ妹子に逢坂山の篠薄穂には出でずも恋ひわたるかな(古今集墨滅歌-一一〇七 読人しらず)(戻)
出典46 おほかたのわが身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)(戻)
出典47 不是花中偏愛菊 此花開後更無花<是れ花の中に偏へに菊を愛するにはあらず 此の花開けて後更に花の無ければなり>(和漢朗詠集上-二六七 元*、*=禾+真)(戻)
出典48 伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝拾はむや 玉や拾はむ(催馬楽-伊勢の海)(戻)
出典49 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)
出典50 折りつれば袖こそ匂へ梅の花有りとやここに鴬の鳴く(古今集春上-三二 読人しらず)(戻)
出典51 かくてこそ見まくほしけれ万世をかけて匂へる藤波の花(新古今集春下-一六三 延喜御歌)(戻)
出典52 藤の花宮の内には紫の雲かとのみぞあやまたれる(拾遺集雑春-一〇六八 皇太后宮権大夫国章)(戻)
出典53 あな尊 今日の尊さ や いにしへも かくやありけむ や今日の尊さ あはれ そこよしや 今日の尊さ(催馬楽-あな尊)(戻)

【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 たてまつらせ--たてまつり(り/#)らせ(戻)
校訂2 頼もし人--たのもしき(き/#)人(戻)
校訂3 人--人/\(/\/#)(戻)
校訂4 数--(/+数<朱>)(戻)
校訂5 おはせば--おはせし(し/#)は(戻)
校訂6 右の大殿--右大臣(臣/#)殿(戻)
校訂7 思ひ--思(/+ひ)(戻)
校訂8 例ならず--例の(の/$)ならす(戻)
校訂9 右の大殿--右大臣(臣/#)殿(戻)
校訂10 思ふ思ふ--思(/+ふ)/\(戻)
校訂11 したがひつつ--したかひて(て/$<朱>)つゝ(戻)
校訂12 まどろまず--まとろむ(む/$)ます(戻)
校訂13 見過ぎて--見すく(く/#)きて(戻)
校訂14 きこゆべき--*きこえへき(戻)
校訂15 心苦しき--心くるし(し/+き)(戻)
校訂16 はべりしに--侍へ(へ/#)しに(戻)
校訂17 のたまはせよ--の給(給/+は)せよ(戻)
校訂18 ゐなばや、など--ゐなはやと(と/#)なと(戻)
校訂19 おきたまひて--をきて(て/#)給て(戻)
校訂20 折ふし--(/+おり)ふし(戻)
校訂21 のたまへば--(/+の給へは)(戻)
校訂22 べけれとて--へき(き/#)けれとて(戻)
校訂23 ためらはぬ--え(え/#)ためらはぬ(戻)
校訂24 されど--*さりと(戻)
校訂25 たまひし--給う(う/#)し(戻)
校訂26 宮をおきたてまつりて--宮をゝきて(て/#)たてまつりて(戻)
校訂27 さまの--さま/\(/\/$<朱>)の(戻)
校訂28 縁を--えん(ん/+を)(戻)
校訂29 渡りなむ--わたりなむと(と/#)(戻)
校訂30 いとほしくと--いとほし(し/+く<朱>)と(戻)
校訂31 さりぬべく--さりぬへき(き/#)く(戻)
校訂32 御心ばへ--御こゝろはへも(も/$<朱>)(戻)
校訂33 浅う--あさまし(まし/$)う(戻)
校訂34 聞こえさせたまひて--きこえさせて(て/#)給て(戻)
校訂35 柱もとの--はしらの(の/$)もとの(戻)
校訂36 かく--かく(かく/$<朱>)かく(戻)
校訂37 いかさまにして--いかさまし(し/$)にして(戻)
校訂38 うちつぶれて--(/+うち<朱>)つふれて(戻)
校訂39 渡りたまへる--わたりぬ(ぬ/#)給へる(戻)
校訂40 契りのたまふ--ちきり給(給/$)のたまふ(戻)
校訂41 たまへど--給へとも(も/#<朱>)(戻)
校訂42 御匂ひ--御(御/&御)にほ(にほ/#にほ<朱>)ひ(戻)
校訂43 思ひ比ぶれど--思くらふれは(は/#<朱>)と(戻)
校訂44 見馴れむ--見なん(ん/#)れん(戻)
校訂45 など--なん(ん/$)と(戻)
校訂46 ならぬ--ならす(す/#<朱>)ぬ(戻)
校訂47 なきにしも--なきに(に/#<朱>)にしも(戻)
校訂48 わびては--わひてはの(の/#<朱>)(戻)
校訂49 かよはむを--かよはさ(さ/#<朱>)むを(戻)
校訂50 怨み--うらみゝ(ゝ/#)(戻)
校訂51 きこゆれ」と--きこゆれは(は/$<朱>)と(戻)
校訂52 山里--(/+山)さと(戻)
校訂53 見知りぬ--見知(知/#<朱>)しりぬ(戻)
校訂54 遠き--とを/\(/\/#<朱>)き(戻)
校訂55 嘆くめりしに--なけくめりしを(を/#<朱>)に(戻)
校訂56 明かすに--あかす(す/+に)(戻)
校訂57 思しけむを--おほしけん(ん/+を)(戻)
校訂58 屍の--かはねを(を/#)の(戻)
校訂59 いぶかしき--いふかしく(く/#<朱>)き(戻)
校訂60 恥づかしく--はつかく(く/#<朱>)しく(戻)
校訂61 いと忍びて、はかなきほどにもののたまはせける--(/+いと忍ひてはかなき程に物の給はせける<朱>)(戻)
校訂62 などこそ--*なとゝそ(戻)
校訂63 触れたらむ人は--*ふれたらんは人は(戻)
校訂64 心せよ--*心よせ(戻)
校訂65 琵琶を--ひは(は/#<朱>)わを(戻)
校訂66 あらむ--あらむは(は/#)(戻)
校訂67 あらねど--な(な/#あ)らねと(戻)
校訂68 昔の御物語--むかし(し/+の御<朱>)ものかたり(戻)
校訂69 ものものしくも--もの/\しく(く/+も<朱>)(戻)
校訂70 聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひども--*他本により補入(戻)
校訂71 参うで--*まかて(戻)
校訂72 ひきつくろひたまひて--ひきつくろひて(て/#<朱>)給て(戻)
校訂73 右の大臣--ひたり(ひたり/$右)のおとゝ(戻)
校訂74 深かりけり--ふかく(く/#<朱>)かりけり(戻)
校訂75 漏り聞き--と(と/$も<朱>)りきゝ(戻)
校訂76 見せたまへる--みせはや(はや/$)給へる(戻)
校訂77 出でたまひぬ--いてぬ(ぬ/#<朱>)給ぬ(戻)
校訂78 鴬も--うくひも(も/$)すも(戻)
校訂79 宮の--宮(宮/+の<朱>)(戻)
校訂80 右の大臣--ひたり(ひたり/#みき)のおとゝ(戻)
校訂81 たまへるなめり--給へり(り/#)るなめり(戻)
校訂82 右の大殿--ひたり(ひたり/#みき)のおとゝ(戻)
校訂83 人--(/+人<朱>)(戻)
校訂84 姿ども--すかたとん(ん/$も<朱>)(戻)
校訂85 ゆめ--ゆめの(の/$)(戻)
校訂86 入るに--弁のあま(弁のあま/$)いるに(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入