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渋谷栄一校訂(C)

  

光る源氏の准太上天皇時代五十二歳春から十二月までの物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---ナシ、五十一歳
 蛍兵部卿宮<ほたるひょうぶきょうのみや>
呼称---兵部卿宮・宮、源氏の弟
 女三の宮<おんなさんのみや>
呼称---入道の宮・宮、源氏の正妻
 匂宮<におうのみや>
呼称---三の宮・若宮・味や・君、今上帝の第三親王
 明石の中宮<あかしのちゅうぐう>
呼称---后の宮、今上帝の后
 明石の御方<あかしのおおんかた>
呼称---明石・女、源氏の妻
 花散里<はなちるさと>
呼称---夏の御方、源氏の妻
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---大将の君・大将・大将殿、源氏の長男

第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語

  1. 紫の上のいない春を迎える---春の光を見たまふにつけても、いとどくれ惑ひたるやうにのみ
  2. 雪の朝帰りの思い出---つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふ折々もあり
  3. 中納言の君らを相手に述懐---例の、紛らはしには、御手水召して行ひたまふ
  4. 源氏、面会謝絶して独居---疎き人にはさらに見えたまはず。上達部なども
  5. 春深まりゆく寂しさ---春深くなくゆくままに、御前のありさま、いにしへに変らぬを
  6. 女三の宮の方に出かける---いとつれづれなれば、入道の宮の御方に渡りたまふに
  7. 明石の御方に立ち寄る---夕暮の霞たどたどしく、をかしきほどなれば
  8. 明石の御方に悲しみを語る---「さまで思ひのどめむ心深さこそ、浅きに劣りぬべけれ
第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語
  1. 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす---夏の御方より、御衣更の御装束たてまつりたまふとて
  2. 五月雨の夜、夕霧来訪---五月雨は、いとど眺めくらしたまふより他のことなく
  3. ほととぎすの鳴き声に故人を偲ぶ---「昨日今日と思ひたまふるほどに、御果ても
  4. 蛍の飛ぶ姿に故人を偲ぶ---いと暑きころ、涼しき方にて眺めたまふに
第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語
  1. 紫の上の一周忌法要---七月七日も、例に変りたること多く、御遊びなどもしたまはで
  2. 源氏、出家を決意---神無月には、おほかたも時雨がちなるこそ
  3. 源氏、手紙を焼く---落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども
  4. 源氏、出家の準備---「御仏名も、今年ばかりにこそは」と思せばにや

【出典】
【校訂】

 

第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語

 [第一段 紫の上のいない春を迎える]

 春の光を見たまふにつけても、いとどくれ惑ひたるやうにのみ、御心ひとつは、悲しさの改まるべくもあらぬに、外には、例のやうに人びと参りたまひなどすれど、御心地悩ましきさまにもてなしたまひて、御簾の内にのみおはします。兵部卿宮渡りたまへるにぞ、ただうちとけたる方にて対面したまはむとて、御消息聞こえたまふ。

 「わが宿は花もてはやす人もなし
  何にか春のたづね来つらむ」

 宮、うち涙ぐみたまひて、

 「香をとめて来つるかひなくおほかたの
  花のたよりと言ひやなすべき」

 紅梅の下に歩み出でたまへる御さまの、いとなつかしきにぞ、これより他に見はやすべき人なくや、と見たまへる。花はほのかに開けさしつつ、をかしきほどの匂ひなり。御遊びもなく、例に変りたること多かり。

 女房なども、年ごろ経にけるは、墨染の色こまやかにて着つつ、悲しさも改めがたく、思ひさますべき世なく恋ひきこゆるに、絶えて、御方々にも渡りたまはず。紛れなく見たてまつるを慰めにて、馴れ仕うまつれる年ごろ、まめやかに御心とどめてなどはあらざりしかど、時々は見放たぬやうに思したりつる人びとも、なかなか、かかる寂しき御一人寝になりては、いとおほぞうにもてなしたまひて、夜の御宿直などにも、これかれとあまたを、御座のあたり引きさけつつ、さぶらはせたまふ。

 [第二段 雪の朝帰りの思い出]

 つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふ折々もあり。名残なき御聖心の深くなりゆくにつけても、さしもあり果つまじかりけることにつけつつ、中ごろ、もの恨めしう思したるけしきの、時々見えたまひしなどを思し出づるに、

 「などて、戯れにても、またまめやかに心苦しきことにつけても、さやうなる心を見えたてまつりけむ。なに事もらうらうじくおはせし御心ばへなりしかば、人の深き心もいとよう見知りたまひながら、怨じ果てたまふことはなかりしかど、一わたりづつは、いかならむとすらむ」

 と思したりしを、すこしにても心を乱りたまひけむことの、いとほしう悔しうおぼえたまふさま、胸よりもあまる心地したまふ。その折のことの心を知り、今も近う仕うまつる人びとは、ほのぼの聞こえ出づるもあり。

 入道の宮の渡りはじめたまへりしほど、そのはしも、色にはさらに出だしたまはざりしかど、ことにふれつつ、あぢきなのわざやと、思ひたまへりしけしきのあはれなりし中にも、雪降りたりし暁に立ちやすらひて、わが身も冷え入るやうにおぼえて、空のけしき激しかりしに、いとなつかしうおいらかなるものから、袖のいたう泣き濡らしたまへりけるをひき隠しせめて紛らはしたまへりしほどの用意などを、夜もすがら、「夢にても、またはいかならむ世にか」と、思し続けらる。

 曙にしも、曹司に下るる女房なるべし、

 「いみじうも積もりにける雪かな」

 と言ふ声を聞きつけたまへる、ただその折の心地するに、御かたはらの寂しきも、いふかたなく悲し。

 「憂き世には雪消えなむと思ひつつ
  思ひの外になほぞほどふる」

 [第三段 中納言の君らを相手に述懐]

 例の、紛らはしには、御手水召して行ひしたまふ。埋みたる火起こし出でて、御火桶参らす。中納言の君、中将の君など、御前近くて御物語聞こゆ。

 「独り寝常よりも寂しかりつる夜のさまかな。かくてもいとよく思ひ澄ましつべかりける世を、はかなくもかかづらひけるかな」

 と、うちながめたまふ。「我さへうち捨てては、この人びとの、いとど嘆きわびむことの、あはれにいとほしかるべき」など、見わたしたまふ。忍びやかにうち行ひつつ、経など読みたまへる御声を、よろしう思はむことにてだに涙とまるまじきを、まして、袖のしがらみせきあへぬであはれに、明け暮れ見たてまつる人びとの心地、尽きせず思ひきこゆ。

 「この世につけては、飽かず思ふべきこと、をさをさあるまじう、高き身には生まれながら、また人よりことに、口惜しき契りにもありけるかな、と思ふこと絶えず。世のはかなく憂きを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。それをしひて知らぬ顔にながらふれば、かく今はの夕べ近き末に、いみじきことのとぢめを見つるに、宿世のほども、みづからの心の際も、残りなく見果てて、心やすきに、今なむ露のほだしなくなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴らす人びとの、今はとて行き別れむほどこそ、今一際の心乱れぬべけれ。いとはかなしかし。悪ろかりける心のほどかな」

 とて、御目おしのごひ隠したまふに、紛れず、やがてこぼるる御涙を、見たてまつる人びと、ましてせきとめむかたなし。さて、うち捨てられたてまつりなむが憂はしさを、おのおのうち出でまほしけれど、さもえ聞こえず、むせかへりてやみぬ。

 かくのみ嘆き明かしたまへる曙、ながめ暮らしたまへる夕暮などの、しめやかなる折々は、かのおしなべてには思したらざりし人びとを、御前近くて、かやうの御物語などをしたまふ。

 中将の君とてさぶらふは、まだ小さくより見たまひ馴れにしを、いと忍びつつ見たまひ過ぐさずやありけむ、いとかたはらいたきことに思ひて、馴れきこえざりけるを、かく亡せたまひて後は、その方にはあらず、人よりもらうたきものに心とどめたまへりし方ざまにも、かの御形見の筋につけてぞ、あはれに思ほしける。心ばせ容貌などもめやすくて、うなゐ松におぼえたるけはひ、ただならましよりは、らうらうじと思ほす。

 [第四段 源氏、面会謝絶して独居]

 疎き人にはさらに見えたまはず。上達部なども、むつましき御兄弟の宮たちなど、常に参りたまへれど、対面したまふことをさをさなし。

 「人に向かはむほどばかりは、さかしく思ひしづめ、心収めむと思ふとも、月ごろにほけにたらむ身のありさま、かたくなしきひがことまじりて、末の世の人にもて悩まれむ、後の名さへうたてあるべし。思ひほれてなむ人にも見えざむなる、と言はれむも、同じことなれど、なほ音に聞きて思ひやることのかたはなるよりも、見苦しきことの目に見るは、こよなく際まさりてをこなり」

 と思せば、大将の君などにだに、御簾隔ててぞ対面したまひける。かく、心変りしたまへるやうに、人の言ひ伝ふべきころほひをだに思ひのどめてこそはと、念じ過ぐしたまひつつ、憂き世をも背きやりたまはず。御方々にまれにもうちほのめきたまふにつけては、まづいとせきがたき涙の雨のみ降りされば、いとわりなくて、いづ方にもおぼつかなきさまにて過ぐしたまふ。

 后の宮は、内裏に参らせたまひて、三の宮をぞ、さうざうしき御慰めには、おはしまさせたまひける。

 「婆ののたまひしかば」

 とて、対の御前の紅梅は、いと取り分きて後見ありきたまふを、いとあはれと見たてまつりたまふ。

 如月になれば、花の木どもの盛りなるも、まだしきも、梢をかしう霞みわたれるに、かの御形見の紅梅に、鴬のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でて御覧ず。

 「植ゑて見し花のあるじもなき宿に
  知らず顔にて来ゐる鴬」

 と、うそぶき歩かせたまふ。

 [第五段 春深まりゆく寂しさ]

 春深くなりゆくままに、御前のありさま、いにしへに変らぬを、めでたまふ方にはあらねど、静心なく何ごとにつけても胸いたう思さるれば、おほかたこの世の外のやうに、鳥の音も聞こえざらむ山末ゆかしうのみ、いとどなりまさりたまふ。

 山吹などの、心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。他の花は、一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、藤は後れて色づきなどこそはすめるを、その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば、時を忘れず匂ひ満ちたるに、若宮、

 「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立てて、帷子上げずは、風もえ吹き寄らじ」

 と、かしこう思ひ得たり、と思ひてのたまふ顔のいとうつくしきにも、うち笑まれたまひぬ。

 「覆ふばかりの袖めけむ人よりは、いとかしこう思し寄りたまへりしかし」など、この宮ばかりをぞもてあそびに見たてまつりたまふ。

 「君に馴れきこえむことも残り少なしや。命といふもの、今しばしかかづらふべくとも、対面はえあらじかし」

 とて、例の、涙ぐみたまへれば、いとものしと思して、

 「婆ののたまひしことを、まがまがしうのたまふ」

 とて、伏目になりて、御衣の袖を引きまさぐりなどしつつ、紛らはしおはす。

 隅の間の高欄におしかかりて、御前の庭をも、御簾の内をも、見わたして眺めたまふ。女房なども、かの御形見の色変へぬもあり、例の色あひなるも、綾などはなやかにはあらず。みづからの御直衣も、色は世の常なれど、ことさらやつして、無紋をたてまつれり。御しつらひなども、いとおろそかにことそぎて、寂しく心細げにしめやかなれば、

 「今はとて荒らしや果てむ亡き人の
  心とどめし春の垣根を」

 人やりならず悲しう思さるる。

 [第六段 女三の宮の方に出かける]

 いとつれづれなれば、入道の宮の御方に渡りたまふに、若宮も人に抱かれておはしまして、こなたの若君と走り遊び、花惜しみたまふ心ばへども深からず、いといはけなし。

 宮は、仏の御前にて、経をぞ読みたまひける。何ばかり深う思しとれる御道心にもあらざりしかども、この世に恨めしく御心乱るることもおはせず、のどやかなるままに、紛れなく行ひたまひて、一方に思ひ離れたまへるも、いとうらやましく、「かくあさへまへる女の御心ざしにだに後れぬること」と口惜しう思さる。

 閼伽の花の、夕映えしていとおもしろく見ゆれば、

 「春に心寄せたりし人なくて、花の色もすさまじくのみ見なさるるを、仏の御飾りにてこそ見るべかりけれ」とのたまひて、「対の前の山吹こそ、なほ世に見えぬ花のさまなれ。房の大きさなどよ。品高くなどはおきてざりける花にやあらむ、はなやかににぎははしき方は、いとおもしろきものになむありける。植ゑし人なき春とも知らず顔にて、常よりも匂ひかさねたるこそ、あはれにはべれ」

 とのたまふ。御いらへに、

 「谷には春も

 と、何心もなく聞こえたまふを、「ことしもこそあれ、心憂くも」と思さるるにつけても、「まづ、かやうのはかなきことにつけては、そのことのさらでもありなむかし、と思ふに、違ふふしなくてもやみにしかな」と、いはけなかりしほどよりの御ありさまを、「いで、何ごとぞやありし」と思し出づるには、まづ、その折かの折、かどかどしうらうらうじう、匂ひ多かりし心ざま、もてなし、言の葉のみ思ひ続けられたまふに、例の涙もろさは、ふとこぼれ出でぬるもいと苦し。

 [第七段 明石の御方に立ち寄る]

 夕暮の霞たどたどしく、をかしきほどなれば、やがて明石の御方に渡りたまへり。久しうさしものぞきたまはぬに、おぼえなき折なれば、うち驚かるれど、さまようけはひ心にくくもてつけて、「なほこそ人にはまさりたれ」と見たまふにつけては、またかうざまにはあらで、「かれはさまことにこそ、ゆゑよしをももてなしたまへりしか」と、思し比べらるるにも、面影に恋しう、悲しさのみまされば、「いかにして慰むべき心ぞ」と、いと比べ苦しう、こなたにては、のどやかに昔物語などしたまふ。

 「人をあはれと心とどめむは、いと悪ろかべきことと、いにしへより思ひ得て、すべていかなる方にも、この世に執とまるべきことなく、心づかひをせしに、おほかたの世につけて、身のいたづらにはふれぬべかりしころほひなど、とざまかうざまに思ひめぐらししに、命をもみづから捨てつべく、野山の末にはふらかさむに、ことなる障りあるまじくなむ思ひなりしを、末の世に、今は限りのほど近き身にてしも、あるまじきほだし多うかかづらひて、今まで過ぐしてけるが、心弱うも、もどかしきこと」

 など、さして一つ筋の悲しさにのみはのたまはねど、思したるさまのことわりに心苦しきを、いとほしう見たてまつりて、

 「おほかたの人目に、何ばかり惜しげなき人だに、心のうちのほだし、おのづから多うはべるなる、ましていかでかは心やすくも思し捨てむ。さやうにあさへることは、かへりて軽々しきもどかしさなども立ち出でて、なかなかなることなどはべるを、思したつほど、鈍きやうにはべらむや、つひに澄み果てさせたまふ方、深うはべらむと、思ひやられはべりてこそ。

 いにしへの例などを聞きはべるにつけても、心におどろかれ、思ふより違ふふしありて、世を厭ふついでになるとか。それはなほ悪るきこととこそ。なほ、しばし思しのどめさせたまひて、宮たちなどもおとなびさせたまひて、まことに動きなかるべき御ありさまに、見たてまつりなさせたまはむまでは、乱れなくはべらむこそ、心やすくも、うれしくもはべるべけれ」

 など、いとおとなびて聞こえたるけしき、いとめやすし。

 [第八段 明石の御方に悲しみを語る]

 「さまで思ひのどめむ心深さこそ、浅きに劣りぬべけれ」

 などのたまひて、昔よりものを思ふことなど語り出でたまふ中に、

 「故后の宮の崩れたまへりし春なむ、花の色を見ても、まことに心あらばおぼえし。それは、おほかたの世につけて、をかしかりし御ありさまを、幼くより見たてまつりしみて、さるとぢめの悲しさも、人よりことにおぼえしなり。

 みづから取り分く心ざしにも、もののあはれはよらぬわざなり。年経ぬる人に後れて、心収めむ方なく忘れがたきも、ただかかる仲の悲しさのみにはあらず。幼きほどより生ほしたてしありさま、もろともに老いぬる末の世にうち捨てられて、わが身も人の身も、思ひ続けらるる悲しさの、堪へがたきになむ。すべて、もののあはれも、ゆゑあることも、をかしき筋も、広う思ひめぐらす方、方々添ふことの、浅からずなるになむありける」

 など、夜更くるまで、昔今の御物語に、「かくても明かしつべき夜を」と思しながら、帰りたまふを、女もものあはれに思ふべし。わが御心にも、「あやしうもなりにける心のほどかな」と、思し知らる。

 さてもまた、例の御行ひに、夜中になりてぞ、昼の御座に、いとかりそめに寄り臥したまふ。つとめて、御文たてまつりたまふに、

 「なくなくも帰りにしかな仮の世は
  いづこもつひの常世ならぬに」

 昨夜の御ありさまは恨めしげなりしかど、いとかく、あらぬさまに思しほれたる御けしきの心苦しさに、身の上はさしおかれて、涙ぐまれたまふ。

 「雁がゐし苗代水の絶えしより
  映りし花の影をだに見ず」

 古りがたくよしある書きざまにも、なまめざましきものに思したりしを、末の世には、かたみに心ばせを見知るどちにて、うしろやすき方にはうち頼むべく、思ひ交はしたまひながら、またさりとて、ひたぶるにはたうちとけず、ゆゑありてもてなしたまへりし心おきてを、「人はさしも見知らざりきかし」など思し出づ。

 せめてさうざうしき時は、かやうにただおほかたに、うちほのめきたまふ折々もあり。昔の御ありさまには、名残なくなりにたるべし。

 

第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語

 [第一段 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす]

 夏の御方より、御衣更の御装束たてまつりたまふとて、

 「夏衣裁ち替へてける今日ばかり
  古き思ひもすすみやはせぬ」

 御返し、

 「羽衣の薄きに変はる今日よりは
  空蝉の世ぞいとど悲しき」

 祭の日、いとつれづれにて、「今日は物見るとて、人びと心地よげならむかし」とて、御社のありさまなど思しやる。

 「女房など、いかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」などのたまふ。

 中将の君の、東面にうたた寝したるを、歩みおはして見たまへば、いとささやかにをかしきさまして、起き上がりたり。つらつきはなやかに、匂ひたる顔をもて隠して、すこしふくだみたる髪のかかりなど、をかしげなり。紅の黄ばみたる気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、うるはしからず重なりて、裳、唐衣も脱ぎすべしたりけるを、とかく引きかけなどするに、葵をかたはらに置きたりけるを寄りて取りたまひて、

 「いかにとかや。この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、

 「さもこそはよるべの水に水草ゐめ
  今日のかざしよ名さへ忘るる」

 と、恥ぢらひて聞こゆ。げにと、いとほしくて、

 「おほかたは思ひ捨ててし世なれども
  葵はなほや摘みをかすべき」

 など、一人ばかりをば思し放たぬけしきなり。

 [第二段 五月雨の夜、夕霧来訪]

 五月雨は、いとど眺めくらしたまふより他のことなく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将の君御前にさぶらひたまふ。

 花橘の、月影にいときはやかに見ゆる薫りも、追風なつかしければ、千代を馴らせる声せなむ、と待たるるほどに、にはかに立ち出づる村雲のけしき、いとあやにくにて、いとおどろおどろしう降り来る雨に添ひて、さと吹く風に灯籠も吹きまどはして、空暗き心地するに、「窓を打つ声など、めづらしからぬ古言を、うち誦じたまへる、折からにや、妹が垣根におとなはせまほしき御声なり。

 「独り住みは、ことに変ることなけれど、あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせむにも、かくて身を馴らはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざなりけり」などのたまひて、「女房、ここに、くだものなど参らせよ。男ども召さむもことことしきほどなり」などのたまふ。

 心には、ただ空を眺めたまふけしきの、尽きせず心苦しければ、「かくのみ思し紛れずは、御行ひにも心澄ましたまはむこと難くや」と、見たてまつりたまふ。「ほのかに見し御面影だに忘れがたし。ましてことわりぞかし」と、思ひゐたまへり。

 [第三段 ほととぎすの鳴き声に故人を偲ぶ]

 「昨日今日と思ひたまふるほどに、御果てもやうやう近うなりはべりにけり。いかやうにかおきて思しめすらむ」

 と申したまへば、

 「何ばかり、世の常ならぬことをかはものせむ。かの心ざしおかれたる極楽の曼陀羅など、このたびなむ供養ずべき。経などもあまたありけるを、なにがし僧都、皆その心くはしく聞きおきたなれば、また加へてすべきことどもも、かの僧都の言はむに従ひてなむものすべき」などのたまふ。

 「かやうのこと、もとよりとりたてて思しおきてけるは、うしろやすきわざなれど、この世にはかりそめの御契りなりけりと見たまふには、形見といふばかりとどめきこえたまへる人だにものしたまはぬこそ、口惜しうはべれ」

 と申したまへば、

 「それは、仮ならず、命長き人びとにも、さやうなることのおほかた少なかりける。みづからの口惜しさにこそ。そこにこそは、門は広げたまはめ」などのたまふ。

 何ごとにつけても、忍びがたき御心弱さのつつましくて、過ぎにしこといたうものたまひ出でぬに、待たれつる山ほととぎすのほのかにうち鳴きたるも、「いかに知りてかと、聞く人ただならず。

 「亡き人を偲ぶる宵の村雨に
  濡れてや来つる山ほととぎす」

 とて、いとど空を眺めたまふ。大将、

 「ほととぎす君につてなむふるさとの
  花橘は今ぞ盛りと」

 女房など、多く言ひ集めたれど、とどめつ。大将の君は、やがて御宿直にさぶらひたまふ。寂しき御一人寝の心苦しければ、時々かやうにさぶらひたまふに、おはせし世は、いと気遠かりし御座のあたりの、いたうも立ち離れぬなどにつけても、思ひ出でらるることも多かり。

 [第四段 蛍の飛ぶ姿に故人を偲ぶ]

 いと暑きころ、涼しき方にて眺めたまふに、池の蓮の盛りなるを見たまふに、「いかに多かるなど、まづ思し出でらるるに、ほれぼれしくて、つくづくとおはするほどに、日も暮れにけり。ひぐらしの声はなやかなるに、御前の撫子の夕映え、一人のみ見たまふは、げにぞかひなかりける。

 「つれづれとわが泣き暮らす夏の日を
  かことがましき虫の声かな」

 蛍のいと多う飛び交ふも、「夕殿に蛍飛んでと、例の、古事もかかる筋にのみ口馴れたまへり。

 「夜を知る蛍見ても悲しきは
  時ぞともなき思ひなりけり」

 

第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語

 [第一段 紫の上の一周忌法要]

 七月七日も、例に変りたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。まだ夜深う、一所起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、前栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりてわたさるれば、出でたまひて、

 「七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て
  別れの庭に露ぞおきそふ」

 風の音さへただならずなりゆくころしも、御法事の営みにて、ついたちころは紛らはしげなり。「今まで経にける日よ」と思すにも、あきれて明かし暮らしたまふ。

 御正日には、上下の人びと皆斎して、かの曼陀羅など、今日ぞ供養ぜさせたまふ。例の宵の御行ひに、御手水など参らする中将の君の扇に、

 「君恋ふる涙は際もなきものを
  今日をば何の果てといふらむ」

 と書きつけたるを、取りて見たまひて、

 「人恋ふるわが身も末になりゆけど
  残り多かる涙なりけり」

 と、書き添へたまふ。

 九月になりて、九日、綿おほひたる菊を御覧じて、

 「もろともにおきゐし菊の白露も
  一人袂にかかる秋かな」

 [第二段 源氏、出家を決意]

 神無月には、おほかたも時雨がちなるころ、いとど眺めたまひて、夕暮の空のけしきも、えもいはぬ心細さに、「降りしかどと独りごちおはす。雲居を渡る雁の翼も、うらやましくまぼられたまふ。
 「大空をかよふ幻夢にだに
  見えこぬ魂の行方たづねよ」

 何ごとにつけても、紛れずのみ、月日に添へて思さる。

 五節などいひて、世の中そこはかとなく今めかしげなるころ、大将殿の君たち、童殿上したまへる率て参りたまへり。同じほどにて、二人いとうつくしきさまなり。御叔父の頭中将、蔵人少将など、小忌にて青摺の姿ども、きよげにめやすくて、皆うち続き、もてかしづきつつ、もろともに参りたまふ。思ふことなげなるさまどもを見たまふに、いにしへ、あやしかりし日蔭の折、さすがに思し出でらるべし。

 「宮人は豊明といそぐ今日
  日影も知らで暮らしつるかな」

 「今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今は」と、世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに、あはれなること、尽きせず。やうやうさるべきことども、御心のうちに思し続けて、さぶらふ人びとにも、ほどほどにつけて、物賜ひなど、おどろおどろしく、今なむ限りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人びとは、御本意遂げたまふべきけしきと見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く、悲しきこと限りなし。

 [第三段 源氏、手紙を焼く]

 落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、破れば惜しと思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨のころほひ、所々よりたてまつれたまひけるもある中に、かの御手なるは、ことに結ひ合はせてぞありける。

 みづからしおきたまひけることなれど、「久しうなりける世のこと」と思すに、ただ今のやうなる墨つきなど、「げに千年の形見しつべかりけるを、見ずなりぬべきよ」と思せば、かひなくて、疎からぬ人びと、二、三人ばかり、御前にて破らせたまふ。

 いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる御涙の水茎に流れ添ふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押しやりたまひて、

 「死出の山越えにし人を慕ふとて
  跡を見つつもなほ惑ふかな」

 さぶらふ人びとも、まほにはえ引き広げねど、それとほのぼの見ゆるに、心惑ひどもおろかならず。この世ながら遠からぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる言の葉、げにその折よりもせきあへぬ悲しさ、やらむかたなし。いとうたて、今ひときはの御心惑ひも、女々しく人悪るくなりぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへるかたはらに、

 「かきつめて見るもかひなし藻塩草
  同じ雲居の煙とをなれ」

 と書きつけて、皆焼かせたまふ。

 [第四段 源氏、出家の準備]

 「御仏名も、今年ばかりにこそは」と思せばにや、常よりもことに、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞きたまはむこと、かたはらいたし。

 雪いたう降りて、まめやかに積もりにけり。導師のまかづるを、御前に召して、盃など、常の作法よりもさし分かせたまひて、ことに禄など賜はす。年ごろ久しく参り、朝廷にも仕うまつりて、御覧じ馴れたる御導師の、頭はやうやう色変はりてさぶらふも、あはれに思さる。例の、宮たち、上達部など、あまた参りたまへり。

 梅の花の、わづかにけしきばみはじめて雪にもてはやされたるほど、をかしきを、御遊びなどもありぬべけれど、なほ今年までは、ものの音もむせびぬべき心地したまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ。

 まことや、導師の盃のついでに、

 「春までの命も知らず雪のうちに
  色づく梅を今日かざしてむ」

 御返し、

 「千世の春見るべき花と祈りおきて
  わが身ぞ雪とともにふりぬる」

 人びと多く詠みおきたれど、もらしつ。

 その日ぞ、出でたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、ありがたくめでたく見えたまふを、この古りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり。

 年暮れぬと思すも、心細きに、若宮の、

 「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」

 と、走りありきたまふも、「をかしき御ありさまを見ざらむこと」と、よろづに忍びがたし。

 「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに
  年
もわが世も今日や尽きぬる」

 朔日のほどのこと、「常よりことなるべく」と、おきてさせたまふ。親王たち、大臣の御引出物、品々の禄どもなど、何となう思しまうけて、とぞ。

 【出典】
出典1 涙川落つる水上早ければせきかねつるぞ袖のしがらみ(拾遺集恋四-八七六 紀貫之)(戻)
出典2 墨染の君が袂は雲なれや絶えず涙の雨とのみふる(古今集哀傷-八四三 壬生忠岑)(戻)
出典3 久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ(古今集春下-八四 紀友則)(戻)
出典4 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ(古今集恋一-五三五 読人しらず)(戻)
出典5 大空に覆ふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ(後撰集春中-六四 読人しらず)(戻)
出典6 光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし(古今集雑下-九六七 清原深養父)(戻)
出典7 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今集哀傷-八三二 上野岑雄)(戻)
出典8 色変へぬ花橘にほととぎす千代をならせる声聞こゆなり(後撰集夏-一八六 読人しらず)(戻)
出典9 秋夜長 夜長無眠天不明 耿耿残灯背壁影 蕭蕭暗雨打窓声(白氏文集-一三一「上陽白髪人」)(戻)
出典10 大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ(古今集恋四-七四三 酒井人真)(戻)
出典11 いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか古声のする(古今六帖五-二八〇四)(戻)
出典12 悲しさぞまさりにまさる人の身にいかに多かる涙なりけり(古今六帖四-二四七九)(戻)
出典13 我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕影の大和撫子(古今集秋上-二四四 素性法師)(戻)
出典14 夕殿蛍飛思悄然 秋灯挑尽未能眠(白氏文集十二-五九六「長恨歌」)(戻)
出典15 蒹葭水暗蛍夜知 楊柳風高雁送秋(和漢朗詠集上-一八七 許渾)(戻)
出典16 人の身もならはしものを今までにかくても経ぬるものにぞありける(源氏釈所引-出典未詳)身を憂しと思ふに消えぬものなればかくても経ぬる世にこそありけれ(古今集恋五-八〇六 読人しらず)(戻)
出典17 神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひたす折はなかりき(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典18 破れば惜し破らねば人に見えぬべし泣く泣くもなほ返すまされり(後撰集雑二-一一四三 元良親王)(戻)
出典19 かひなしと思ひなけちそ水茎の跡ぞ千歳の形見ともなる(古今六帖五-三三七九)(戻)
出典20 物思ふと過ぐる月日も知らぬ間に今年は今日に果てぬとか聞く(後撰集冬-五〇六 藤原敦忠)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 その--(/+そ)の(戻)
校訂2 ひき隠し--ひきかへ(へ/$く)し(戻)
校訂3 帷子--かたら(ら/$<朱>)ひ(ひ/+ら<朱>)(戻)
校訂4 あさへ--あまへ(あまへ/=あさへイ)(戻)
校訂5 はべるなる--侍(侍/+な<朱>)る(戻)
校訂6 あさへ--あ△(△/#さ)へ(へ/&へ)(戻)
校訂7 たまへる--給つ(つ/$へ<朱>)(戻)
校訂8 とほりて--とおも(おも/$をり<朱>)て(戻)
校訂9 小忌にて--をみにい(い/$<朱>)て(戻)

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