First updated 09/20/1996
Last updated 04/03/2024

渋谷栄一校訂(C)
  

花 宴

 [凡例]
 明融臨模本「花宴」(東海大学蔵桃園文庫影印叢書)を底本とし、その本行本文と一筆の本文訂正跡を基に本文整定した。

 [主要登場人物]

 光る源氏(ひかるげんじ)
呼称---源氏の君・宰相中将・男君・君、十八歳から十九歳 参議兼近衛中将
 頭中将(とうのちゅうじょう)
呼称---中将、葵の上の兄
 桐壺帝(きりつぼのみかど)
呼称---帝・主上、光る源氏の父
 弘徽殿女御(こきでんのにょうご)
呼称---春宮の女御・女御、桐壺帝の女御、東宮の母
 藤壺の宮(ふじつぼのみや)
呼称---藤壺・中宮・后、桐壺帝の后、光る源氏の継母
 葵の上(あおいのうえ)
呼称---大殿、光る源氏の正妻
 朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)
呼称---有明の君・六の君・女、右大臣の娘、弘徽殿女御の妹
光る源氏二十歳春二月二十余日から三月二十余日までの宰相兼中将時代の物語

 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語

  1. 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴---如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ
  2. 宴の後、朧月夜の君と出逢う---夜いたう更けてなむ、事果てける
  3. 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる---その日は後宴のことありて、まぎれ暮らしたまひつ
  4. 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲---「大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ
  5. 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴---かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて

【定家注釈】
【校訂付記】

 

 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語

 [第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴]

 如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。

 日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、心地よげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のは皆、探韻賜はりて文つくりたまふ。宰相中将、「春といふ文字賜はれり」と、のたまふ声さへ、例の、人に異なり。次に頭中将、人の目移しも、ただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなど、ものものしくすぐれたり。さての人びとは、皆臆しがちに鼻白める多かり。地下の人は、まして、帝、春宮の御才かしこくすぐれておはします、かかる方にやむごとなき人多くものしたまふころなるに、恥づかしく、はるばると曇りなき庭に立ち出づるほど、はしたなくて、やすきことなれど、苦しげなり。年老いたる博士どもの、なりあやしくやつれて、例馴れたるも、あはれに、さまざま御覧ずるなむ、をかしかりける。

 楽どもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、春の鴬囀るといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀の折、思し出でられて、春宮、かざし賜はせて、せちに責めのたまはするに、逃がれがたくて、立ちてのどかに袖返すところを一折れ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左の大臣、恨めしさも忘れて、涙落したまふ。

 〔帝〕「頭中将、いづら。遅し」
 とあれば、柳花苑といふ舞を、これは今すこし過ぐして、かかることもやと、心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣賜はりて、いとめづらしきことに人思へり。上達部皆乱れて舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。文など講ずるにも、源氏の君の御をば、講師もえ読みやらず、句ごとに誦じののしる。博士どもの心にも、いみじう思へり。

 かうやうの折にも、まづこの君を光にしたまへれば、帝もいかでかおろかに思されむ。中宮、御目のとまるにつけて、「春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがかう思ふも心憂し(付箋@)」とぞ、みづから思し返されける。

 〔藤壺〕「おほかたに花の姿を見ましかばつゆも心のおかれましやは」

 御心のうちなりけむこと、いかで漏りにけむ。

 [第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う]

 夜いたう更けてなむ、事果てける。
 上達部おのおのあかれ、后、春宮帰らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐしがたくおぼえたまひければ、「上の人びともうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある」と、藤壺わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに(奥入01)、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。

 女御は、上の御局にやがて参う上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸も開きて、人音もせず。
 〔源氏〕「かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし」と思ひて、やをら上りて覗きたまふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、

 〔朧月夜〕朧月夜に似るものぞなき(付箋A)

 とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、
〔朧月夜〕「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、
〔源氏〕「何か、疎ましき」とて、

 〔源氏〕「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」

 とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、
 〔朧月夜〕「ここに、人」
 と、のたまへど、
 〔源氏〕「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」

 とのたまふ声に、この君なりけり、と聞き定めて、いささか慰めけり。わびしと(校訂01)思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじ、と思へり。酔ひ心地や例ならざりけむ、許さむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。

 らうたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。女は、まして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり。
 〔源氏〕「なほ、名のりしたまへ。いかでか、聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりとも思されじ」
 とのたまへば、

 〔朧月夜〕「憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」

 と言ふさま、艶になまめきたり。
 〔源氏〕「ことわりや。聞こえ違へたる文字かな」とて、

 〔源氏〕「いづれぞと露のやどりを分かむまに小笹が原に風もこそ吹け

 わづらはしく思すことならずは、何かつつまむ。もし、すかいたまふか」
 とも言ひあへず、人々起き騒ぎ、上の御局に参りちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、扇ばかりをしるしに取り換へて、出でたまひぬ。

 桐壺には、人びと多くさぶらひて、おどろきたるもあれば、かかるを、
 〔女房〕「さも、たゆみなき御忍びありきかな」
 とつきしろひつつ、そら寝をぞしあへる。入りたまひて臥したまへれど、寝入られず。

 〔源氏〕「をかしかりつる人のさまかな。女御の御おとうとたちにこそはあらめ。まだ世に馴れぬは、五、六の君ならむかし。帥宮の北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそ、よしと聞きしか。なかなかそれならましかば、今すこしをかしからまし。六は春宮にたてまつらむとこころざしたまへるを、いとほしうもあるべいかな。わづらはしう、尋ねむほどもまぎらはし、さて絶えなむとは思はぬけしきなりつるを、いかなれば、言通はすべきさまを教へずなりぬらむ」

 など、よろづに思ふも、心のとまるなるべし。かうやうなるにつけても、まづ、「かのわたりのありさまの、こよなう奥まりたるはや」と、ありがたう思ひ比べられたまふ。

 [第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる]

 その日は後宴のことありて、まぎれ暮らしたまひつ。箏の琴仕うまつりたまふ。昨日のことよりも、なまめかしうおもしろし。藤壺は、暁に参う上りたまひにけり。「かの有明、出でやしぬらむ」と、心もそらにて、思ひ至らぬ隈なき良清、惟光をつけて、うかがはせたまひければ、御前よりまかでたまひけるほどに、

 〔良清・惟光〕「ただ今、北の陣より、かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまかり出づる。御方々の里人はべりつるなかに、四位の少将、右中弁など、急ぎ出でて、送りしはべりつるや、弘徽殿の御あかれならむと見たまへつる。けしうはあらぬけはひどもしるくて、車三つばかりはべりつ」

 と聞こゆるにも、胸うちつぶれたまふ。
 〔源氏〕「いかにして、いづれと知らむ。父大臣など聞きて、ことごとしうもてなさむも、いかにぞや。まだ、人のありさまよく見さだめぬほどは、わづらはしかるべし。さりとて、知らであらむ、はた、いと口惜しかるべければ、いかにせまし」と、思しわづらひて、つくづくとながめ臥したまへり。

 〔源氏〕「姫君、いかにつれづれならむ。日ごろになれば、屈してやあらむ」と、らうたく思しやる。かのしるしの扇は、桜襲ねにて、濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴れたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。「草の原をば」と言ひしさまのみ、心にかかりたまへば、

 〔源氏〕「世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆくへを空にまがへて」

 と書きつけたまひて、置きたまへり。

 [第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲]

 〔源氏〕「大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ、こしらへむと思して、二条院へおはしぬ。見るままに、いとうつくしげに生ひなりて、愛敬づきらうらうじき心ばへ、いとことなり。飽かぬところなう、わが御心のままに教へなさむ、と思すにかなひぬべし。男の御教へなれば、すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ、うしろめたけれ。

 日ごろの御物語、御琴など教へ暮らして出でたまふを、例のと、口惜しう思せど、今はいとようならはされて、わりなくは慕ひまつはさず。

 大殿には、例の、ふとも対面したまはず。つれづれとよろづ思しめぐらされて、箏の御琴まさぐりて、
 〔源氏〕やはらかに寝る夜はなくて(奥入02・校訂02)
 とうたひたまふ。大臣渡りたまひて、一日の興ありしこと、聞こえたまふ。

 〔左大臣〕「ここらの齢にて、明王の御代、四代をなむ見はべりぬれど、このたびのやうに、文ども警策に、舞、楽、物の音どもととのほりて、齢延ぶることなむはべらざりつる。道々のものの上手ども多かるころほひ、詳しうしろしめし、ととのへさせたまへるけなり。翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし」

 と聞こえたまへば、

 〔源氏〕「ことにととのへ行ふこともはべらず。ただ公事に、そしうなる物の師どもを、ここかしこに尋ねはべりしなり。よろづのことよりは、「柳花苑」、まことに後代の例ともなりぬべく見たまへしに、まして「さかゆく春(付箋B)」に立ち出でさせたまへらましかば、世の面目にやはべらまし」

 と聞こえたまふ。

 弁、中将など参りあひて、高欄に背中おしつつ、とりどりに物の音ども調べ合はせて遊びたまふ、いとおもしろし。

 [第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴]

 かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて、いともの嘆かしうながめたまふ。春宮には、卯月ばかりと思し定めたれば、いとわりなう思し乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど、いづれとも知らで、ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも、人悪く思ひわづらひたまふに、弥生の二十余日、右の大殿の弓の結に、上達部、親王たち多く集へたまひて、やがて藤の宴したまふ。

 花盛りは過ぎにたるを、「ほかの散りなむ(付箋C)」とや教へられたりけむ、遅れて咲く桜、二木ぞいとおもしろき。新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり。はなばなとものしたまふ殿のやうにて、何ごとも今めかしうもてなしたまへり。

 源氏の君にも、一日、内裏にて御対面のついでに、聞こえたまひしかど、おはせねば、口惜しう、ものの栄なしと思して、御子の四位少将をたてまつりたまふ。

 〔右大臣〕「わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を待たまし」

 内裏におはするほどにて、主上に奏したまふ。
 〔帝〕「したり顔なりや」と笑はせたまひて、
 〔帝〕「わざとあめる(校訂03)を、早うものせよかし。女御子たちなども、生ひ出づるところなれば、なべてのさまには思ふまじきを」
 などのたまはす。御装ひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたまふ。

 桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。

 遊びなどいとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏の君、いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて、紛れ立ちたまひぬ。

 寝殿に、女一宮、女三宮のおはします。東の戸口におはして、寄りゐたまへり。藤はこなたの妻にあたりてあれば、御格子ども上げわたして、人びと出でゐたり。袖口など、踏歌の折おぼえて、ことさらめきもて出でたるを、ふさはしからずと、まづ藤壺わたり思し出でらる。

 〔源氏〕「なやましきに、いといたう強ひられて、わびにてはべり。かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」
 とて、妻戸の御簾を引き着たまへば、
 〔女房〕「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」
 と言ふけしきを見たまふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人どもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。

 そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、

 〔源氏〕扇を取られて、からきめを見る(奥入03)
 と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。
 〔女房〕「あやしくも、さま変へける高麗人かな」
 といらふるは、心知らぬにやあらむ。いらへはせで、ただ時々、うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳越しに手をとらへて、

 〔源氏〕「梓弓いるさの山に惑ふかなほの見し月の影や見ゆると
 何ゆゑか」

 と、推し当てにのたまふを、え忍ばぬなるべし。

 〔朧月夜〕「心いる方ならませば弓張の月なき空に迷はましやは」

 と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。

【定家注釈】
藤原定家の注釈を記載した。

奥入01 なをあらしに詞 万葉集第七
      黙然不有 なをあらしと事なしくさにいふ事をきゝしれハすくなかりけり
奥入02 貫河の瀬々の やはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親離くる夫 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線鞋の 細底を買へ さし履きて 表裳とり着て 宮路かよはむ(催馬楽-貫河 源氏釈・自筆本奥入03)
奥入03 石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔する いかなる 帯ぞ 縹の帯の 中はたいれたるか かやるか あやるか 中はいれたるか(催馬楽-石川 源氏釈・自筆本奥入06)

付箋@ おもはじと思ふも物をおもふなり思はじとだに思はじやなぞ(出典未詳)
付箋A 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(千里集72 源氏釈・自筆本奥入01)
付箋B 今こそあれ我も昔は男山さか行く時もありこしものを(古今889 自筆本奥入04)
付箋C 見る人もなき山里の桜花他の散りなむ後ぞ咲かまし(古今68 源氏釈・自筆本奥入05)

自筆本奥入
02 千里哥也 其題嘉陵春月詩哥合判詞
  今載于此物語或人△(△#)以之
  為夏夜之證哥可謂道之恥
  <不明<テリモ>不暗<リモ>/朧々月/非暖<タン>非寒<カン>/慢<マン>々<タル>風>(頭注)


【校訂付記】
底本:明融臨模本 本文一筆の訂正に従う

校訂01 わびしとお--わひしとお(わひしとお/$)わひしと(衍字「わひしとお」を削除)
校訂02 夜--(+夜)(脱字「夜」を補入)
校訂03 あめるを--あめ(+る)を(脱字「る」を補入)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
明融臨模本
大島本
自筆本奥入