大和

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あらすじ
大和の母が死んだ。しかし、大和は何も語ろうとしない。

大和
大和 あとがき

大和

                              斎木 直樹

   プロローグ

 母さんが、死んだ。
 少年は、人気のない山へ続く道にじっと立っていた。
 しっとりと濡れたような黒髪のエキセントリックな印象の少年は、小学校中学年だろう外見とはほど遠く、無表情だった。
 黒い瞳は大きいが、それはかえってガラス玉のようで、冷たい光を帯びて見える。口はへの字の形をしているが、それは癖のようで表情とは受け取れない。大きい頭を支えられなさそうな細い首は、そのか細い肢体とともに痛々しさを強調している。
 少年は、反らせるほど拳を固く握りしめ、それを見ていた。
 それは、真っ赤な服の切れ端と肉片と血の飛沫の中央に据えられた、人間の死体だった。四肢はキャンプファイアーのたきぎのように丁寧に積み上げられ、その上には首がぽんと載っている。手足と頭からは、血がまだコンクリートに赤黒い線を描き続けてい、黒ずんだ内臓のようなものがあちこちにまき散らされている。
 このような凄惨な中にあって、少年には傷一つ、血一つついていない。まだ彼女の血が新しいことを見ると、それは異常なようにも思えるかもしれないが、それはまた、至極当然のようにも感じられた。彼に、血の穢れは相応しくない。
 血の流れて行く様に夢中になっていた少年は、はっと女の首に視線を戻した。
 女の髪は癖の全くない素直な黒髪で、手入れは熱心にはしていないようだったが、そう傷んではいない。長かった黒髪は首と一緒に切られてしまったようで、顎の所で綺麗に揃えられていて、残りの髪はピンク色の肉片の間に散らばっている。
 彼女は色白で目は鋭く、いかにも東洋系のミステリアスな魅力を持っている。が、その唇は厚く腫れぼったく、完璧な美しさを台無しにしていた。彼女の顔は、やはり恐怖に歪んでいる。が、どこか解放されたようにも見える。
「美しい……」
 どこからか聞こえた声に、少年ははっと辺りを見回した。しかし、周囲には何の気配もない。
 どこからか、チャイムの音が聞こえてきた。始業時間だ。
 少年は、母親の言いつけを思いだし、母親だったものに背を向けた。そしてそのままの状態で幾ばくかじっとすると、振り向きもせずに駆け出した。それは、いささか思い切りが良すぎるようにも思えた。
 少年は真っ直ぐに、学校へと走り始めた。全力で。

 



     1


 大和は裏門から外階段を通って、五年一組の教室の戸の前に息を切らせてたどり着いた。そこで少し息を落ちつかせ、そっと中の様子を窺う。すると、中には誰もいなかった。皆の机の上には、取り残されたノートや筆入れが散らかっている。
 おかしいな。
 大和は思い切りよく戸を開けたが、この小学校はついこの間建て替えたばかりで、音のしない戸を使っていたので、あまり大きな音はしなかった。きちんと閉めて、中を見回す。やはり誰もいない。
 今日、体育はなかったはずだけどな、と大和はいぶかしんだ。今日は月曜だ。体育のある曜日はきちんと覚えている。大和は、体育が好きではなかった。あの、何かとむきになる教師の姿が頭に浮かんだ。
 念のために、忘れ物表の隣に貼ってある壁の時間割表を見ようと振り返りかけて、教卓の上に飾られた花が目に入った。赤い曼珠沙華が、窓から入る秋の風に揺れている。曼珠沙華の地下の茎はね、毒だけれど薬になるのよ、と誰かに聞いたことがある。
 その時、がやがやというよりはきゃんきゃんと形容したくなるような、甲高い声の集団が近づいてきた。聞き覚えのある太く大きい声も一つ混じっている。
 大和はどうしようかと顔を巡らせたが、隠れてもどうしようもない。結局、自分の席について皆の到着を待つことにした。
 声は次第に近づいてきて、長めの髪を後ろでちょこんと縛った少年が、廊下を走るんじゃない、という男の声と共に入ってきた。低いが、授業中に廊下で言うには大きすぎる声だった。
「へっ。いっちばーん」
 そう後の者に言うと、少年は笑顔で教室に振り返り、あからさまにぎょっとした。
「大和……来てたのか」
と、その少年が顔をしかめて言った時、ジャージを着た若い男の教師と背が低く目の小さい男子が、どたどたと教室に入ってきた。理科の授業だったようで、三人とも理科用のノートと筆記用具を持っている。植物か何かの観察をしていたのだろう。
「章、廊下は走るなって――」
「えー。先生さっき走ってたじゃんよー」
 教師の目は、章の視線の先の少年を捉えていた。
「拓也、お前遅刻するときは保護者が電話をかけろって言ってるだろう」
 大和は黙りこくったまま、無表情に真っ直ぐ前を向いていた。教師は、それを反抗の印と取った。
「何とか言ったらどうなんだ、拓也っ」
 教師は若いと言っても三十代なのだが、模範的な「いい子」から教師となったため、忍耐力と想像力に欠けていた。いわゆる「いい子」を持つ親にしか好かれない、典型的な教師らしい教師だった。
 生徒全員を友達だと豪語し、名前で呼ぶことを誇りに思っているくせに、自分のことは「先生」と呼ばせている。潔さが大切だと主張し、生徒には事実はどうであろうと謝ることを強制していながら、自分は決して謝ろうとしない。生徒は教師の言うことを聞き常に教えられる存在なのだと認知してい、口を出そうものならこっぴどく叱る。教師は教室の君臨者だと信じて疑わない、そういう教師だった。
 都会の中心地ならではの、一学年二クラスしかない小さな学校に赴任してきて、彼はやる気満々であった。体罰を加えたことはないが、しばしば怖ろしい声で怒鳴る。
 教師の荒い声に、教室に入ってきた生徒たちはびくっと身を震わせた。この辺りは高級住宅街で育ちのいい子どもが多く、親にも教師は常に正しいのだと思いこんでいる者が多かった。
 しかし大和は、眉一つ動かさず、何も言わなかった。教師は心の中で、お育ちのいい子ども達の聞いたことのないような悪態をついたが、生徒の前でそれを言わないだけの理性は残っていた。
「昼休みに、職員室に来い」
と、まだいらついた口調で言い捨て、ここではおしまいにしようとした。
「今日は、母さんは旅行に行っていていなかったんです。遅刻してすみませんでした」
 教師は唇を強く噛んで、興奮が収まるのを待った。
「そうか。それにしても、三時間目まで何してたんだ、寝てたのか?」
「そーだよー。大和何寝てんだよー。おねぼうさん」
 ずっと教師の側にへばりついていた小柄な男子が、自分の馬鹿をさらけ出した。しかし、大和は全く気にしないそぶりで、次の時間の用意のためにロッカーへと立ち上がった。
 三時間目の終わりが、迫っていた。




 教室はざわめいていたが、教師は特に注意も加えず、黙々と給食を食べていた。小学生用のアルミ製の器は小さいので、いつも足らない。崇がまた保をからかっている。
 松崎にとって、いつもまとわりついてくる崇は、うっとおしいと同時に、自分の尊勝感を満足させてくれる存在だった。しかし保は、もうちっと男らしくなれないものかと、松崎はまたいらついた。保は崇よりは背は高いのだが、ひょろひょろしていて気が弱く、いつもいじめられていた。しかし、松崎はそれを黙認していた。男ならば、自分でそれくらい乗り切れってもんだ。
 いい子ぶりっこの有次と学級委員の幸一が止めに入り、何とか崇は自分の席に戻った。
 こんなとき、リーダー格の章は必ず手出しをしない。もちろん、大和もだ。二人は、決して関わりあいになることがなかった。大和はクラスの誰ともそうなのだからいいが、章の方は大和を意識的に避けているようだった。
 やっかいな奴等だ、と松崎は不機嫌になった。章はまだいい。頭がいいと言ってもしょせん子どもだ、餓鬼くさいところもある。だが、大和は。
『五年一組の松崎先生と大和拓也君、至急校長室までお越し下さい』
 今年赴任してきた、大卒二年の女の教師の声だった。松崎は顔をしかめた。何だ、まだ休みにも入ってないのに、校内放送で呼び出すなんて。
 男子の高いからかい声を後に、大和は松崎と一緒に教室を出た。




 職員室は、あの夏休み後のけだるい空気から解放されていた。入った瞬間、人工的な臭いのする冷たい風が松崎と大和を包む。中では、さっき放送していた二年担任の女教師が教頭に怒鳴られていた。
「子どもは後で呼べと言っただろうっ」
「いいえ、先生はそう仰いませんでした」
「何っ、この女」
 そこで、白髪混じりの教頭は松崎と大和に気付き、残りの言葉を飲み込んだ。しょせん男に頼るしかない豚のくせに。女をねめつけ、とりあえずは満足した。
 松崎と教頭は校長室に入り、大和と女教師は残された。女は椅子に座り、五年生にしては小柄な大和と視線を合わせた。
「大和拓也君ね。私は」
「井上先生でしょう。図書委員の」
 千波は驚いた。図書委員の名簿で、大和の名は見た覚えは確かにあったが、委員の受け持ちの先生の名など、覚えている子がいるとは思わなかったのだ。
 でも。
 千波は、すっかり大和に魅入ってしまっていた。委員の時は、生徒の顔までは見てはいなかったけれど、この子、なんて綺麗なのかしら。
 天使のように綺麗な子どもは、低学年にたまにはいる。だが、大和は違う。大和は背は低くとも五年生で、しかも天使のようにという言葉は相応しくない。
 声はソプラノだが、まず無愛想だし、表情がない。決して明るくはないし、子どもらしくはきはきもしていない。だが大和は、一種、近寄ることにさえ至福を感じさせるような、不透明な秘密を匂わせるような魔のような魅力を持っていた。エキセントリック、とでも言うのだろうか。しかも、大和はそっと抱きしめてやりたくなるほど、か細く見えた。この子があのことを知ったら。
「先生?」
 大和の声が、千波を現実に呼び戻した。千波は、悩み事があるときに生徒にしてみせるように、大和に微笑んだ。
 やだわ。私ったら、子どもに見とれるなんて。千波、本当はショタコンなんだろ、と冗談混じりに言う彼のことを思い浮かべた。
「ううん、何でもないのよ。大和君、図書委員だったのね。あまり顔は見ないけれど」
 中・高学年の図書委員は、交代でカウンターサービスを行うことになっている。
 ちらりと出た大和の小さな舌に、千波はぞくっとした。
「僕、放課後には帰っちゃうから。すみません。当番が昼休みなら良かったんだけど」
「た――」
 言いかけた千波の声は、松崎の大和を呼ぶ声にかき消された。大和はきっぱりと立ち上がり、千波を取り残して行ってしまった。




「大和君」
 校長は、地味な灰色のスーツを着た白髪の女性だった。特に優しそうにも厳しそうにも見えない。大和達生徒にとっては、朝礼の時にしか見ることのない顔だ。
「最後に、お母さんに会ったのはいつのこと?」
 大和は、黙って座っていた。趣味の悪い赤のソファは柔らかすぎて、居心地が悪い。
「答えなさい、拓也」
 松崎がいらついた声で言うのを校長が目で制し、松崎は引かざるを得なかった。このくそばばあと言いたかったが、今の時点で校長に逆らうのはまずい。
「今日は、旅行に行っていらっしゃるんですってね」
「はい」
 嘘の笑顔を、校長は顔に張り付けた。
「どちらに行かれたのか、教えてくれるかしら」
「……広島です」
「広島は、あなたがここに来る前に住んでいたところだったわよねえ、違うかしら」
と、校長は、大和の資料を机の上に置きながら言った。大和は、それを確認してから言った。
「そうです」
「お母さまは、そこへ行かれたのかしら」
「昨日はそう言ってました」
 校長は受け答えに満足し、松崎を見下した。
「そう。昨日お母さんは家を出たのね」
「……はい」
 大和は、小さな声で言った。
「あなたのことは、とても頭のいい子だと松崎先生にお聞きしたわ」
 一息つく。そんな頭のいい子なら、松崎の言う「頭のいい子」がどんな意味を持っているかも判るだろう。しかし、校長は松崎を辞めさせることはできない。
「あなたにはとても酷なことなのだけれど、きっとあなたならじきに感づいてしまうでしょう。だから、今言うわ」
「校長」
「先ほど、警察から電話があって、あなたのお母さん――大和結希さんがお亡くなりになられたということなの」
 大和は無言で知らせを受けとめた。
「こんなこと、本来ならば私が伝えるべきではないのだけれど、あなたには保護者が他にいらっしゃらないのよね」
 大和は何も言わなかった。松崎は、屈辱に打ちふるえているのだと思って叱らなかった。
 校長は気付いていた。この子は、肉親がいないことなど何とも思っていない。そんなことが傷なのだとは、思いもよらないのだわ。しかし校長は、それについては何も言わなかった。それは確かに子どもの責任ではないし、自分をさげすむ必要もない。
「それで、どうかとは思ったのだけれど、とりあえず広島へ来て遺体の確認をしてもらいたいということなの。とても辛いことだろうけれど、来るだけでも来て欲しいんですって。大和君、行ってくれるかしら?」
 大和は、ただこくんと頷いた。






     2

 周囲の心配を裏切り、大和は死体の首を、母だと即座に認めた。
 切れた腕と脚は確認せず、頭もちらりとしか見なかったが、泣きも嘔吐もせず、ほんの少し青ざめただけの大和に、大人達は拍子抜けした。もっとも、首を見てトイレにかけ込んだ付き添いの松崎は、むすっとしていたが。
 大和の母の死から数日経ち新しい生活に慣れてきた頃、裁判所から大和のことで人が来るということで、松崎は上等なスーツを着ていささか緊張気味にしていた。が、その当人を見ると落胆してしまった。
 彼女は、斉藤真咲と名乗った。童顔で、可愛らしい女の子だった。松崎は、裁判所の者と聞いて、がっしりとした男かよぼよぼの爺さんを想像していた。そこで思わず大きなため息をついてしまい、慌てて口を押さえた。
 すると真咲は明るくけらけらと笑い出し、こう見えても二十七ですよ、と言った。松崎は驚いた。婚約者よりも年上なのか。しかし、彼女の笑いで、松崎はなぜか安心した。考えてみたら、がたいのいい男よりも、可愛らしい女の子の方がいいに決まっている、と。勝手なものだ。
 真咲は勧められた椅子に座ると、真面目な表情となり、まず大和の今の状態を聞いた。
「ああ、今は井上先生の家に泊まっています」
「あら。ええと、松崎先生が担任の方でしたよね。副担任の方ですか?」
「いいえ。井上先生は、二年の担任で、近くに住んでいるからと言い出しまして」
 真咲はメモを手に、少し目をぱちくりさせていたが、すぐに立ち直った。
「では、私の仕事の内容について、改めてお話しします。電話で一度お聞きになられたとは思いますけれど、大和君のこれからの処遇について色々と調査し、決定するための情報を集めるのが、私の仕事です。今回は、子どもが相手なので警察との連絡係もさせていただきます」
 真咲のはきはきとした、だが柔らかい話し方に、松崎は不思議な安心感を覚えた。
 松崎は知らないことだが、真咲は心理学科を卒業して家庭裁判所の調査官となった。カウンセリングを専攻とし、ケースの経験もいくらかある。
 しかし、真咲はそんなことはおくびにも出さずに、ただ微笑んだ。
「それには、松崎先生のご助力も頂きたいので、どうぞよろしくお願いします」
 松崎は押さえ切れぬ尊大さを表に出し、真咲は吹き出しそうになるのを必死で押さえた。
「では、まず大和君と面会させていただけますか。その後で先生と井上先生とも」
「はい、判りました」
 真咲は、内心あきれていた。まあなんてよくころころと気分の変わる人で、それを外から読める人なんでしょう。子どもの頃から成長していないのね、と真咲は想像を巡らせた。自己顕示欲が強くて、自分の思い通りにならないと当たり散らすのかもしれない。ACが強くてAが小さい。CPも強そうね。
 くすくすと真咲は松崎がいなくなった後で笑いを洩らした。
 真咲は、このような想像を知らない人について巡らせるのが好きで、趣味のようなものだった。真咲が、友達がいないわけではないのに、昔から一人でいることが多かったのは、呑気さとこの想像力のためだった。良く言えばマン・ウォッチングだが、悪く言えばただの妄想癖だ。




 大和を一目見て、真咲は目を見張った。こんな子を見るのは、初めてだった。
 家庭裁判所のの調査官という職業柄、様々な子どもを見てきたが、大和はその内のどの子にも似ていなかった。
 大和には、このくらいの子にはありがちな多動がなく落ちついていて、その瞳は知性に満ちている。ひどく無表情で愛想も良くない。大和は、松崎にはひどく反抗的に見えるはずだ。しかし、大和は何も暴力的になったわけでもあからさまにからかっているわけでもないので、罰することもできない。どうりで松崎が大和を煙たがっているはずだ。
 だが、大和は決して反抗的なわけではない、と真咲は直感していた。少年事件や家事事件で裁判所に来る子ども達に多くある、荒んでいたり反抗的であったりする目を、この子はしていない。かといって、何事にも無関心な死んだような目でもない。ただ冷静で、落ちついた目だった。
 それは、この間母親を惨殺された子どもの目ではなかったが、真咲はそんなことは気にしなかった。人は、辛いことから目を逸らす。人の心は、普通の人が思っているよりも強い力を持っているということを、真咲は知っていた。この子も、母の死という事実から心を逸らしているのかもしれない。
 そんなことよりも。この子は、なんて綺麗なんだろう。
 この場合、綺麗というのは外見のことではない。真咲はそう不細工な方ではなく、かえって可愛い方だったが、人の外見には余り興味を持っていなかった。自身、化粧でさえ仕事の時に気休め程度にしかしていない。
 しかし真咲は、世間で言う純真さや無垢を美しさだとも思っていなかった。真咲は、信じるという気持ちを一番大切にしていた。それは、「夢」の存在を信じる理想主義なのかもしれない。真咲自身が信じ通すことができなかったために、信じ続けている者へは憧れのような、強い気持ちを抱いていた。裏切られることを恐れない、無知な純粋さではなく、つよさに。
 大和にはそれがあるような気がして、真咲は激しい動悸を覚えた。
 しかし真咲には、その美しさに魅了されないだけの客観性があった。見とれたのはほんの一瞬だけで、すぐに我を取り戻した。
 真咲はまず、夕方の教室に明かりをつけ、大和に椅子に座ってもらってから自分も席に着いた。五年生の椅子は、背の低い真咲にはそう苦痛ではなかった。松崎は個室を使うように薦めたが、狭く慣れない部屋では大和の警戒心を強める可能性があることを真咲は考慮した。
 大和の動作は、やはりひどく落ちついたものだった。音も立てないほどではなかったが、動作に無駄がなく、妙な癖もついていない。
 真咲はまず、いつもクライアントと会う時のように、にっこりとしてみせた。
「こんにちは、私は斉藤真咲といいます。あなたのお名前は?」
 すると、真咲の名前に反応をわずかに示した大和は、くすっと笑った。馬鹿にしたわけでも、ひねた笑いでもなかった。ただ、微笑んだ。
「僕の名前、知ってるんでしょう」
 真咲は内心、どきりとした。
「ええ。でも、あなたから教えて欲しいの。そうでないと、あなたと私が出会ったことにはならないでしょう」
 大和は首を傾けると、納得したのかにっと笑ったが、その目は冷静なままだった。
「大和」
「大和、何ていうのかな。名前の方は?」
 しかし、今度はいつまで経っても答えてくれなかったので、真咲はあきらめた。この子はきっと、言わないと決めたら決して言わないのだろう。それだけ意志の強い子だということだ。
「拓也君、ね。大和拓也君、二つ約束して欲しいことがあるの」
 大和は、真っ直ぐに真咲の目を見つめた。真咲も、それに応えた。
「私には、嘘をつかないで。それともう一つ。言いたくないことがあったり、私が嫌なことをしたりしたときには、そう言って欲しいの。約束してくれるかしら」
 大和は驚いたように目を見開くと、いいよと言った。真咲は、本当ににっこりと笑った。
「ありがとう。質問はある?」
「お姉さん、警察の人」
「おっ、鋭いわねえ。でもはずれ。私はね、裁判所で働いていて、あなたがこれからどうしたらいいのかを調査しに来たの」
 大和は、素直に眉を寄せた。真咲は、大和の気持ちが読めるような気がして、くすっと笑った。父と母に、調査官という仕事を説明した時のことを思い出す。
「探偵みたいなものよ。あと、拓也君にはいくつかテストをしてもらうかもしれないけど」
「知能テスト?あれ、得意なんだ、僕」
 得意気もなく言う大和を、真咲はおや、と思った。が、メモに記入すると続けた。
「そう。大和君、本当に親戚はいらっしゃらないの」
「うん。お母さんは駆け落ち結婚で、父さんはどこにいるかわかんないんだって」
 お母さん、と大和が動揺もせずに口に出すのに、真咲は不安になった。多少、精神に異常を来しているかもしれない。セラピストに面会させた方がいいかしら。
「お父さんは、いつからいらっしゃらないの?」
「結婚してないんだ。何回か会っただけだって言ってた」
 それは駆け落ちとは言わないぞ、と真咲は心の中で言った。大和は非嫡出児ということだったので、不倫だろうか。確証のない推測は、判断を歪める。やめておこう。
「今は……井上先生のお宅に泊まっているんですってね。どう?」
「先生は優しいよ。僕はこのままでいい」
 このままで、というところに本来ならばあるべき、喜びとかいった感情は全く表現されなかった。脅されているのだろうか、と真咲は邪推したが、大和は今までと同じ、何の感情も浮かんでいない顔をしている。
 唐突に大和が微笑んだ。普通の女性ならば、有無を言わさず魅了されてしまうような微笑だった。
「真咲さん。僕のこと、大和って呼んでもらえるかな。僕、拓也って名前、嫌いなんだ」
 真咲は気持ちのままに眉をしかめたが、とにかく頷いた。




 井上教諭は、松崎とは反対に不機嫌なようだった。
 千波は、真咲のくるくる髪とは違い、ストレートのセミロングだった。今のようにぶすっとしているとそうではないが、笑えば可愛いと思われる。そういう感じの女の子だった。責任感は強く、真面目そうだ。こういうタイプは、追いつめられると怖いのよね。
 おっと。真咲は、いつもの妄想を止めた。
「拓也君が私の所にいては、何かまずいのですか」
 真咲は、心の中で顔をしかめた。身体と声がひどく緊張している。貧乏揺すりもあるし、何か気になることでもあるのかしら。
「いいえ、そういうことではありません。大和君は、先生の所でいいようですから。ただ、これからのことを考えますと」
「私、養子にしてもいいと思っているんです」
 おっとお、と真咲は心の中でずっこけた。
「養子縁組、ですか」
 千波は、勝ち誇ったような笑みを浮かばせた。
「ええ。拓也君は、身寄りもありません。私、独身ですけど、教師として生活していけますし」
 真咲は軽く咳払いをした。千波はぎくりと身体を固くし、目を逸らした。
「井上さん、恋人はいらっしゃいますか」
「え、ええ」
「あなたがこれから結婚する時、大和君のことはどうするおつもりなんですか」
 千波は軽く唇を噛みしめた。叱られている生徒のような気分だったが、真咲は決して叱っているつもりではなかった。ただ、事実を述べるだけだ。
「あなたに責任能力がない、とは言いません。ですが、現在日本では養子縁組は原則として夫婦によるものとする、といっているのはそういう問題があるからだと私は思っています」
 目を逸らしたままの千波に、真咲は笑いかけた。暖かい笑みに、井上は脅えるように身をすくめた。
「まだ、大和君の親族が皆亡くなっているとも判っていないんです。そういうことは、後で考えましょう。ね、先生」
 千波は、不安げな表情でおずおずと頷いた。
「あの、斉藤さん」
 松崎の声に、千波は顔を松崎の反対方向へ向けた。真咲は、鮮やかな笑顔で答えた。
「はい、松崎先生。お待たせしてすみません」
 松崎は軽く笑った。面白い子だ。
「待たせたのは、こっちの方でしょう。よろしいですか」
「はい。実は、警察の方から問い合わせが来ているんです。どうも、つじつまの合わないことがあるとかで」
 松崎と千波は、顔をしかめた。真咲は、二人の不安はそっちのけでメモを取りだした。
「ええっと、これこれ。まず一つ目。現場には、犯人らしき人物の足跡は発見されなかったそうです」
「どういうことです」
 真咲は、嫌になるほどあっけらかんと、さあと流した。
「その代わりに、小学生くらいの足跡が発見されました。そして、被害者――大和結希さんの衣服等からは、同年代の子どもの指紋も検出されたそうです」
「な」
「拓也君が、犯人だとでもいうんですかっ」
 千波の剣幕に真咲は内心顔を歪めたが、外面はひょうぜんとしたままだった。
「私は、事実を述べているだけです。それで、大和君が当日履いていた靴と大和君の指紋を資料として頂きたいと、県警の方から言われました」
 松崎は承知した。
「それから二つ目。うーんと、あ、そうそう」
 なんだか頼りないなあ、と二教諭は一気に不安になった。
「さっきの続きなんですけど、大和君は三時間目に学校に来たんですよね」
「はあ」
「その時刻をできるだけ正確に、そしてその状況も教えて欲しいんだそうです。あ、これは広島の刑事さんが直接いらして聞かれるそうです。戸村さん、て仰る方だそうです」
「ああ、その人なら広島でお会いしました」
 しかし、わざわざ上京してまで尋ねるとは、それだけその情報が重要だということではないだろうか。大和が疑われているのか?しかし、子どもにあんな仕業ができるとは到底思えない、とそこまで考えて、松崎はあの首を思い出してしまい、また吐き気がしてきた。
 でも、拓也じゃないわ。と、千波は自分に言い聞かせた。事件が起こったのは広島で八時ぐらいだと、新聞で読んでいた。広島からここまでわずか三時間で移動するなんて、ありえない。
 真咲は、二人の思いなど気にせずに、にこにこと笑っていた。






     3


 今日は刑事か広島からやってくるということで、クラスは異様に盛り上がっていた。生徒はどうも集中力に欠けていて、松崎はいらいらしている。こんな時、真咲に会ったならば何となく気抜けがして、落ちつけるのにとも思った。
 刑事が今日来ることは生徒には誰も言っていないはずなのに、なぜかクラス中が知っているようだった。大和がしゃべったとは思えない。松崎の視線は、章へと移っていった。章は、相変わらずのそしらぬ顔で教科書を読んでいるふりをしている。どうせあいつが子分の忠夫あたりから仕入れてばらまいたに決まっている。
 けれど、梨花は知っていた。この噂は、先生のお気に入りである加納道子と近藤香菜が流したものだ。始業前に、彼女たちが得意げに話しているのを梨花は横で聞いてしまった。大和の話題は、女子の間では五つ星クラスに値するものだった。大和は表だっては近寄れない存在だけに、クラス中どころか学年の女子の憧れの的だった。
 梨花は、どきどきしていた。大和君が、犯人だって疑われているのかしら。そんなわけ、ないのに。梨花は知っていた。そんなことあり得ないと。けれど、誰にも言えなかった。仲良しの藤佳ちゃんにも言っていなかった。でも、言わなきゃ。誰かに。
 梨花は、机の下で握り拳をぎゅっと固めた。




 戸村は、ため息をついた。わざわざ東京まで出て来て、この成果か。
 大和結希の死因は、まだはっきりしていない。いや、死因は判っている。首及び各部切断、そして胴体破壊による死亡だ。そうとしか言いようがない。
 彼女の首と四肢は、綺麗に鋭利な刃物で切断されていた。何回かひいたりした跡もない。すぱっと骨まで一度で切断されていた。更に不審なのは、胴体だ。彼女の胴体は、まるで小型爆弾が体の中にセットされていたように、ことごとく細かな肉片となり果てていた。しかし、爆弾のようなものは何一つ検出されなかった。死体には、いじられた跡が全くと言っていいほどにない。一体、犯人はどうやって殺したのか見当もつかなかった。
 あれから、大和の自宅を警察も調査したが、大和結希という人はあまり人付き合いをしない人だったらしく、手紙や電話番号の類は殆ど見つからなかった。仕事先であるバーでも特に親しい人はなく、結希は拓也と二人きりの生活を送っていたらしい。捜査は停滞していた。
 そして、大和拓也の足どりも、確かではなかった。
 まず、本人は何も言わない。脅してもすかしてもなだめても、何の効果もなかった。広島で、こいつは相当なたまだとは思ったが、まさか自分がこんな目に遭うとは思わなかった。戸村は、自分を東京へ遣った上司を恨んだ。
 教師も生徒も、土曜日の放課後以降は大した情報を持ってはいなかった。田村崇とかいう子どもが何やらべらべらとしゃべっていったが、その殆どが無駄話で戸村はうんざりしただけだった。月曜日に大和を初めて見たのは朝城という少年だったが、彼は反抗的で聞き出すのには苦労した。担任に聞くと、なんでもクラスのボスで、大和とは対立しているらしい。やれやれ、面倒な役に当たったもんだ。
 戸村が何気なく戸へ視線をやると、覗き込んでいた三つ編みの女子が逃げ出していった。また野次馬か。
 何度目か知れないため息をついていると、その戸が軽くノックされた。どうぞ、といささか投げ遣りな調子で言う。中に入ってきたのは、インスタントらしいコーヒーを持った真咲だった。
「ひと休み、いかがですか」
「ありがたい」
 戸村は不味いコーヒーを流し込むと、背もたれに寄りかかり、目を閉じた。
 真咲は、向かいのパイプ椅子に座って外を眺めた。子ども達が緑色の人工の素材の校庭で、何かボール遊びをしている。あれは、なんという遊びだったっけ。
「最低ですよ」
 戸村のうめき声を、真咲はそうですか、と軽く流した。戸村はふっといきなり起きあがり、
「全く、あの大和って餓鬼は何なんですか。じゃから黙ってても何にもならん、てこっちがゆうてるのに、黙りこくって、あ、とも言いやあせん」
と、怒涛のようにわめくと、また不機嫌そうに目を閉じてしまった。真咲は彼に見えないように、そっと笑った。
「そうなっているでしょう」
「は?」
 起きあがった戸村に、真咲はにこっと笑った。そうすると、とても魅力的だ。その魅力を自覚していないところがまたいい、と戸村は心の中で言った。
「大和君が黙っているのは、何か理由があるんだと思います。あの子は、大人への当てつけでそんなことをする子じゃありません。頭のいい子だから、何も言わないんじゃないんでしょうか」
 戸村は、思いっきりあきれた。
「だがね、黙っていてもあの子の容疑は晴れんのだよ。何にもならんじゃないですか」
「止まってるでしょう」
 は、と戸村は忌々しげに口を開けた。
「今、捜査は停滞しているでしょう。大和君のせいで。それが目的なのかもしれません」
「心理学の先生が仰るお言葉ですか」
 真咲は珍しく、思わず笑った。仕事中には避けていることだ。
「いいえ。何の確証もありません。ただ、そういう可能性もあるということです。でも、大和君にはアリバイがあるんでしょう?」
 戸村は許可も取らずに、煙草を吸い始めた。よっぽど神経にきているらしい。真咲は煙草は嫌いだったが、黙って煙の来ない方へ移動した。
「まあね。あんな短時間に移動するなんてありえない。第一、子どもにあんな殺し方が可能だとも思えない……もともと、あの子が犯人だなんて、誰も思っとる奴はいませんよ。ただね」
 ふう、と戸村は煙を吐いてから、真咲の存在に気付いて急いで煙草をもみ消した。
「すいません。ただ、大和君に、あそこに行ったなら行ったと言って欲しいんですよ。足跡も指紋も一致した。なのにあの子は黙ったまま」
 真咲はまた外へ目をやった。校庭から窓を見上げていた子どもと目が合い、子どもはさっと逃げ出してしまった。真咲は子どもを目で追った。あれは、確か……。




「こんにちは」
 真咲は、廊下で女の子に声をかけた。五年生にしては背の高い、三つ編みの女の子だった。優しそうな顔立ちをしている。
「あなた、大和君のクラスの子よね。私のこと、知ってる?」
 少女は、こくんと頷いた。真咲は、ぱあっと笑った。
「そう。私は、斉藤真咲。あなたのお名前、教えてくれるかしら」
「小林、梨花です」
「梨花ちゃん。可愛い名前ね」
 本当は、名前はクラスの資料で調べていたのだが、真咲はにこにこと言った。戸村刑事のいる部屋の辺りで、うろうろしていた子だ。大和と同じ図書委員でもある。
「私、大和君のことについて色々と調べなくちゃならないの」
 梨花は、また頷いた。
「何か、教えてくれないかな」
 梨花は長い間、唇を噛みしめて黙り込んでいた。あまりの長さに、あら、これは駄目かしら、と真咲が立ち上がろうとした時。
「お姉さん、大和君の味方?」
と、梨花が言った。
 真咲が、はっと梨花のことを見ると、彼女は子どもなりにせっぱつまった顔をしていた。真咲は軽く笑みを浮かべ、目は真剣にして言った。
「そうよ。私は、大和君にとって一番いいことをするために、ここにいるの」
 梨花は、安心したように笑顔を浮かべた。こっちこっち、と教室に入るように促す。
「あのね、あの恐い刑事さんには言わないでね」
 恐い刑事さん、か。戸村さんもかわいそうに。けれど、真咲は真剣に頷いた。
「あ、いたいた。リカちゃん、帰んないの?」
と、廊下から首を覗かせたのは、おかっぱの眼鏡をかけた女の子だった。どことなくひょうきんな顔をしている。
 梨花は、先ほどとは打って変わって明るく答えた。あらあら、女の子ってこの頃からころころ変わるのね、と真咲は感心した。
「とーかちゃん、先帰ってて。ごめんね」
「待ってよっか」
と、藤佳は、梨花と一緒にいる女の人のことをあらためた。あれ、この人裁判所の人じゃん。リカちゃんいじめてんのかよ。
 梨花は、明るく首を振った。
「ううん。とーかちゃん、今日塾でしょ」
 結局藤佳は、残念そうにばいばい、と言い残して去っていった。
「いいの?別に、今日でなくてもいいのよ」
「いいの。とーかちゃんとは、いつでも遊べるもん」
 梨花は一息つくと、大事な秘密を話した。大丈夫。この人は、大和君のこと好きだって言ったもの。あたしにはできないけど、大和君のことを守ってくれる。
「あのね、大和君はお母さんのことが大好きなの。だから、絶対に殺したりしてないよ」
 不思議そうにしている真咲に、梨花は一生懸命説明した。
「大和君はね、いっつも放課後すぐ帰っちゃうの。お楽しみ会の練習とか、委員でもぜったい居残ってくれないの。それはね、お母さんに早く会いたいからなの」
「ふうん」
「いつもね、門の所でお母さんが待ってて、二人で帰るの。それにね、大和君は、いっつもお母さんのこと、とっても優しい目で見てるんだよ」
「いつも?」
 梨花は、ほんの少し顔を赤らめた。
「うん。あのね、私本屋さんでよく大和君とお母さん見るの」
 ははん、そういうことか。
「大和君がいつも行く本屋さんね」
「うん……」
 あ、と梨花は真咲のことを見上げた。真咲は、悪戯っぽく笑った。
「秘密にしておきましょう、そのことは」
 梨花は赤くなった顔でうつむいて、うんと言った。うう、可愛いわ。
 これは、技術の一つだった。秘密を持つ者同士では、更に秘密を明かしやすい。
「とにかく、そのこと覚えといて」
 うんうん、と真咲は相づちを打った。
「あたし、見ちゃったの」
「え?」
「日曜日、大和君とお母さんが駅に入るの」
「どこの駅で?」
 近所の駅は、すでに警察が聞き込みをしていたはずだった。
「渋谷」
 渋谷は最寄りの線沿いではなかったが、大和の家からは自転車でなら行けない距離ではない。そういえば、大和の家にはあるはずの自転車がなかったと誰かが言っていた。渋谷に直接自転車で行かれたのなら、目撃者はないに等しいだろう。何しろ利用客が多すぎる。
 梨花は、考え込んでしまった真咲を覗き込んだ。真咲は急いで笑顔を作り、精一杯明るい声で尋ねた。
「ごめんさい。うーん、じゃあ、大和君達はどんな荷物持ってたかな」
「大きな黒いやつ。お母さんは、赤いワンピース着てたの。ねえお姉さん、大和君がやったんじゃないって信じてくれる?」
 服装と鞄は、事件当日のものと一致していた。
「ええ、もちろんよ。でもね、梨花ちゃん。できたら、今の話を刑事さんにすることをお勧めするわ」
 梨花は、不安げな表情になった。
「もちろん私は言えないから、ね。大和君にかけられた疑いをはらすには、そういう情報が必要なのよ」
 梨花は少しは安心した。このお姉さんは、嘘はつかないみたい。松崎先生みたいな大人ばっかりじゃないのね。でも、あの刑事さんは恐いから、嫌だな。大和君のこと、あの餓鬼なんて言ってたし。
「そうね、もしかしたら大和君は先に帰ったのかもしれない」
「あ、そう。そうなんだね、きっと。ね、お姉さん」
 さあどうかしら、と思いながら、真咲はにこにこしていた。






     4

 「大和結希」と「大和拓也」という人物は実在しないことが判明した。と、言っても、もちろん戸籍上のことだが。二人の戸籍は存在していなかった。
 どうも書類が届くのが遅いと思っていたら。そんな人がこの世の中にいることは知っていたけれど、実際そうだと言われると実在感がないわね、と真咲は思った。何せ、戸籍は紙上のもので実物があるわけではない。
 戸籍がないことを大和に尋問しても仕方がないので、当面は家からでてきたものから当たってみることにした、と戸村は言った。ま、それもそうだ。誰が、十一の子どもが戸籍操作をするなどと考えるだろう。それに、戸籍がないということを、もし大和が知らなければ、悪い影響を与えるかもしれない。
 真咲は、目の前の大和を見た。大和は、機嫌良さそうに心理テストをすらすらと解いている。以前の知能テストの結果をみせてもらったが、確かにかなりの点数を大和は取っていた。ま、しょせんテストはテストだけど。真咲は、この手のテストは手がかりとしてしか信用していなかった。
「大和君、あなた広島へ行ったんでしょう」
 大和は、ゆっくりと真咲を見上げた。二人きりの部屋の空気が、固まったような感触がした。いつもの冷たい目を、真咲はじっと見つめた。
「警察には言ってないわ。約束したから。でも、あなたから言った方がいいと思うの。行ったなら行ったって。そうでないと、あなたはとても困った立場に立たされてしまうわ」
 大和は、青色のシャープペンシルを軽く机に投げ捨てた。真咲は、はっとした。大和は、薄く笑っていた。
「やっぱり真咲さんだな」
「え?」
 真咲は、止まっていた。ただならぬ雰囲気を感じたのはほんのわずかな間だけで、大和はすぐにいつもの大和に戻っていた。真咲は、初めて大和に対して不安を覚えた。
 その時、ドアがノックされた。
「はい」
 入ってきたのは、千波だった。すっかり帰り支度をしている。化粧はあまりしていないけれど、見る度に服が派手になっていく。
「ああ、お迎えですか。大和君、それ終わった?」
「もうちょっと。でも、井上先生は先に帰ってて」
 はっとするような緊張感が、真咲には目に見えるように感じとれた。千波は、なぜか屈辱感と敵対心に打ちふるえているようにしか見えなかった。
「でも、た」
「先生」
 千波は大和の無表情な顔を見つめていたが、ふいと顔を逸らして行ってしまった。大和は、何でもない顔で続きをしている。真咲は、出入口を見つめたままだった。今のは、何だったのだろう。痴話喧嘩のようにしか聞こえなかった。しかも、今の大和の態度。
 真咲は、大和に振り返った。大和は、黙々とシャープペンシルを走らせていた。




 真咲と大和は、路上で並んで歩いていた。何かを話していた時、大和が急に立ち止まった。
「どうしたの」
「よう、坊や」
 二人の背後に、一人の男が立っていた。スーツ姿ではなく、三十代後半のように見える。あまりきれい好きではないようで、どことなく汚らしい印象がある。彼は、ひどくふてぶてしい表情を浮かべて大和をじっと見ている。
「おじさん、しつこいよ」
「大和君、知り合いの方?」
 ううん、と大和は言った。すると、男は苦笑いをした。
「おいおい、それはないだろう。どうだ、お前、今度は大変らしいじゃないか」
 ぴん、と何か張りつめた音がしたような気がした。はっと大和を見ると、大和は先ほどの雰囲気を身に纏っていた。猛々しく残酷な獣。
「僕は困ってないよ。何か用?」
 男はわずかにたじろいだが、まだ余裕を残していた。
「おいおい、そんなでかい態度でいいのか。こちらのお嬢さんにばれちゃ困るんだろう」
 大和は、きっかりと男を睨んだ。今度こそ、男は少年に脅えた。
「僕はね、困ることなんてないんだよ。どっか行きなよ、おじさん」
「斎城、お前の」
「僕はやるよ。いつでもね」
 大和の冷たい視線を浴びた男は脅えながらも、忌々しげに唾をはき捨て、去った。
 真咲は、心配そうに大和のことを窺った。大和はうっすらと、しかし微笑んだ。
「真咲さんには、教えるよ。警察の人にも言っていいよ。僕の本名は、斎城大和」




 大和の両親は斎城和人と斎城紗枝、旧姓原島。そして先日亡くなったのは、紗枝の妹である原島結希であることが判った。駆け落ちした斎城夫妻は、共に殺害方法不明の殺人で地方で既に死去していた。調べた結果、原島結希とほぼ同じ死因だということが判った。二人の家族が全て故人となっていることは、真実だった。
 斎城和人の遠い親戚である斎城健二は、即座に大和の受け取りを拒否した。
「嫌だってねえ、斎城さん。あなたは、大和君の唯一の肉親なんですよ」
「いいえ、関係などありません。和人さんの親の葬式にも出なかったんですよ、私は。それにね」
「何です」
「親父の遺言なんですよ。あそこの家には近づくなって」
「せめて、参考人として出頭して下さいよ」
 斎城健二は頑強に拒否し、弁護士に相談するとまで言って電話を切ったということだ。
「それで、どういうことが判ったんですか」
「斎城健二の話では、原島でもこの結婚には反対していて、結希も二人とは結婚してからは殆ど会ってはいなかったらしい。あまり姉妹仲も良くなかったということだ」
 では、大和君は私に嘘はついていなかったということね。名前も、親のことも。本当のことも言わなかったけれど。真咲は、ため息をついた。
「それでも、大和君を引き取った」
「ああ。ま、やむにやまれずだな。何せあっち方はあの調子だ。斉城和人の弟も亡くなっていたし。殺しでね。死因も似ている」
 真咲は顔をしかめた。
「弟さんがいらっしゃったんですか。なんて言うか……死人の多い家系ですね」
「全く」
「問題は、なぜ結希さんが失踪したかですね」
 戸村は、再生紙の資料を顔に乗せた。
「ああ。紗枝の死の少し後だが、これはさっぱり見当もつかん。逃げ出す理由などないのに、きれいさっぱり跡形もなく消え、しかも名前まで変えて」
「追われていたのかしら」
 真咲は、大和のことを斎城と呼んだ男のことを思いだした。彼は一体誰?
「借金もない、男関係もゼロだ。きれいなもんだったよ、経歴は。危ないところにも行かないいい子だった。それがなぜ」
 戸村は、ちろっと真咲のことを見た。真咲は思い当たり、口を曲げた。
「そういうことは、警察の心理職の方に聞いて下さい。私は専門じゃありません」
 ちぇ、と戸村はわざとらしく舌打ちをし、真咲にコーヒーの入っていない紙コップを投げつけられた。
「でも」
 まだ何かあるの、と真咲はぶーたれた顔を戸村に向けた。
「何か聞いてるんじゃありませんか、斉藤さんは。斎城君に好かれているようですし」
 戸村の予想とは違い、真咲はにっとした。つけいる隙のない顔だった。
「私は、クライアントの秘密は漏らしません。決してね」
 こいつも相当なたまだ、と戸村はまた資料の下となった。




 何があろうと、自分のすべきことは、大和が一番いいと思える状態にすることだ。真咲は、そう自分に言い聞かせた。
「僕がやったんだよ」
 本名を明かした後で、そう、大和は言った。
「え」
 それが意味することは、一つしかなかった。けれど、真咲は聞き返した。
「僕が母さん――結希さんを殺したんだ」
 大和は、さすがに少しは暗い表情をしていた。が。殺した?
 言葉をなくした真咲を、大和は見た。彼女は驚いている。だが、恐怖はしていない。この人は、何かが違った。しかし、彼はまだそれが何か、それの大切さには気付いていなかった。
 大和は、吐き捨てるように言った。
「仕方なかったんだ。僕たちは、組織に追われてて――」
 真咲は、速くも立ち直った。まだこちらの方が現実感がある。いや、違うことに意識を傾けたかった。
「組織?あの男の人のことなの」
 大和は、ほっとしたように頷いた。
「ううん。あいつは、ただのちんぴら。しつこいんだ。組織はね、どこのやつらか判らない。でも、僕のことをずっと追ってるんだ。仲間にしようとしてるんだ」
 仲間、と真咲はいぶかしんだ。大和はくすっと笑み、真咲はどろどろとした不安が自分を包んでいくのを感じた。まずい。これは、駄目だ。
「僕の力を狙ってるんだよ」
と、大和は地面を見た。
 すると、小石がひゅんと真咲の目の高さまで上がった。真咲は、ただ頷くしかなかった。大和は、またいつもの無表情に戻っている。どうやら、意識を集中しているらしい。
「サイコキネシスって言うんだって。お母さんが調べてくれたんだ。あと、はねかえす壁を造ったり、ものを切ったり」
 浮いていた小石が、音も立てずに四散した。真咲はとっさに目をつぶったが、かけらは飛んでこなかった。どうやら大和が守ってくれていたらしい。
「そうして」
 やっと出た言葉は、これだった。大和は真咲に背を向けていたので、どんな表情をしていたかは判らなかった。
「うん。このままじゃ駄目だって。捕まっちゃうから殺してって、母さんが言ったんだ」  真咲は、大和を後ろから抱いた。なんて苦しい声。
 この子が狂っていようと、母親を殺していようと、そんなことはどうでもいい。この子は、今助けを求めている。苦しんで、辛さにもがいている。それを少しでも少なくすることが、真咲の成すべきことだった。
 幾分、そうしていたことだろう。大和は、そっと自分から真咲を振りほどいて、にっこりと笑った。
「ありがとう、真咲さん」
 大和は、その力で速く移動できるのだそうだ。だから、三時間で広島から東京へ戻れた。なぜ学校へ来たの、という問いに、大和はあっけらかんと答えた。母さんが、学校には毎日きちんと行きなさいって言ったから、と。
 真咲は、大和が狂っていると確信した。日常生活は滞りなく過ごしているが、彼には常軌を逸したものがある。彼は、狂っている。
 だが、それが一体何だというのだ。真咲は、「狂っている」という定義は、しょせん社会の枠から外れた人という程度のことしか意味しない、ということを知っていた。時代が変われば、狂人は神に近いものとして崇められることすらある。
 大事なのは、彼が一番幸せである状態にすることだ。それが私の仕事。大和は、母――叔母を殺したことを苦痛に思っている。そして同時に、その行為に対して、おそらく快感を感じている。しかし、彼の自己意識はそれを認めようとしていない。当たり前だ。そんなことを認めてしまっては、彼はこの社会で生きていけない。彼の仮面は壊れてしまう。
 彼の自我は、今壊れかけている。真咲は、心の一番いけない状態は、自分が思っている自分と実際の自分との不一致が大きい状態だと考えていた。大和は、その不一致がどんどん大きくなっている。このままでは、じきに何かのきっかけで破綻してしまう。今大切なのは、大和君の不一致の状態を少しでもなくしていくこと。
 しかし、真咲も気になっていた。大和の実の母親を殺したのは、誰だったのだろう。父親を殺したのは誰だったのだろう。大和の叔父を殺したのは……。やめよう、と真咲は思考を止めた。考えたって、そんなこと判ったって仕方がない。問題は、常にこれからどうしていくかだわ。
 その前向きさが、真咲の財産だった。そして、大和にはないものだった。






     5


 学校への途上、真咲は彼に出会った。もっとも、彼は待ち伏せしていたようだったが。男は、前回と同じ服を着ていた。おそらく着替えていないのだろう。
「あなた、誰なの?」
「お嬢さん、全部聞いたね」
 あの後見ていたのだと、男は言った。真咲は更に警戒心を強めた。男は、川上だと名乗った。
「あんた、あいつに近づかない方がいいよ」
「あいつって?」
 大丈夫、ここは公道だ。人目もあるし、まだ登校中の生徒もいる。真咲は悠々としているように見せた。川上は、おどおどと辺りを見回しながら答えた。
「あの餓鬼だよ。斎城大和。あいつはな、女をだますんだ」
 女をだますという台詞に、真咲は吹き出してしまった。あんな子どもに。川上は、むっとしたようだった。
「本当だ。最初は母親、そして結希を。次はお前だ。あいつは女を虜にしていくんだ」
 川上は、本気で言っているようだった。真咲は、この人の正気も危ういと感じた。狂暴になられてはまずい。逃げようかしら。
「余計なことは言うなって、言っただろう?」
 天から声がした。二人が見上げると、そこには大和が、千波と共に浮かんでいた。千波は、真咲を見下して勝ち誇った笑みを送った。
 大和は千波を降ろしてから、自分もそっと降り立った。上げた顔は、妖しい喜びに満ちている。川上は、恐怖に凍りついた。俺も、やるのか。
「よくも母さんにつきまとってくれたね。僕のことで真咲さんまで脅そうったって、そうはいかないよ。もう、許さない」
「それは、お前が実をやったからだ。俺は、金さえもらえればそれでいい。実みたいに女はいらねえ――判った。もう消えるよ。二度と現れない。な」
 はいつくばるように懇願する川上に、大和はにっこりと、愛らしく笑ってみせた。
「おじさんは、母さんをいじめた。死んで当然さ。それに、もう、手遅れだよ」
 川上は絶望の中にも望みをかけ、駆け出した。
「大和君?」
 はっと真咲は川上へ目をやった。その先には、一人の少女がいた。真咲と大和を見つけると、梨花はあ、と微笑んだ。
「お姉さん」
 川上は、青い顔に笑みを浮かべた。
 しかし、大和にはもう、獲物しか目に入っていなかった。
「大和君、だめえっ」
 川上が梨花を掴んだ時、結希を襲った刃が彼を襲った。そして、梨花をも。
 一人の男と一人の少女だったものを、大和はいつもの無表情で見ていた。千波には、そう見えた。しかし、真咲には判っていた。彼は。
 ぱりん、と何かが弾けた。
「い」
 二人の死体が、何の前触れもなく弾けた。真咲はとっさに手で顔を覆った。びた、と血と肉が全身に跳ねてきた衝撃に倒れる。
 大和は、こんな時でさえ自分の周りには見えない壁を張っていた。おそらく、結希を殺したときのように。彼はいつも、きれいなまま。
「やだ……」
 大和の身体が軽く宙に浮いた。千波はとっさに掴まる。
「いやだあっ」
 大和は、消えた。




 あれから、大和と井上千波の消息は知れない。
 真咲は結局、何も知らないで通した。事件はおそらく迷宮入りとなるだろう。肉の塊となった梨花の親は、真咲をなじった。なぜ真実を語らないのか、と。
 大和の行く本屋に通っていた梨花。赤くなってうつむき、うんと言った梨花。他ならぬその大和に、肉塊とされた梨花。
 真咲は、涙が流れるままにまかせた。
「真咲」
 隣りのシートの晨成が、不安げに真咲の顔を覗く。彼女が無理に、あの大和が消えた現場に連れていってくれと頼んだのだ。
 真咲は、笑顔を作らなかった。真咲といると美女と野獣という言葉が似合う晨成は、図体が大きいくせに、と言われそうなほど情けない顔になってしまった。
「私、あの先生の気持ちが解るの」
 千波の恋人も、真咲を問いつめた。千波はどうなったのかと。言えるわけがない。彼女はあなたではなく、大和を選んだのだなどと。
「真咲」
 彼の、どう言ったらいいのか困惑している顔に、真咲は笑みを洩らした。
「大丈夫。私は行かないわ。私には、あの子だけよりも大切な人がたくさんいるもの。――でもね、そんな人がいなかったら、私も行っていたかもしれない。大和君と」
 晨成は黙って、無骨な手でただ彼女の手を握った。真咲は、こんな彼が好きだった。
「大和君は、それほど魅力的だわ。何かを守ってやりたいという傲慢さを持つ女にとって」
 大和の実の母親、結希、千波。皆、大和の魅力に捕らわれていった。そして最初の二人は、おそらくその大和自身に殺された。
 斎城和人がなぜ殺されたかは判らないが、斎城実はそれが大和の仕業であることを知り、義理の姉を脅した。斎城健二の言葉から、大和の力は斎城家から由来するものではないかと推測される。実もいくらか力を持っていたのかもしれない。大和は母を脅した叔父を殺し、じきに母も殺した。実から話を聞いていた川上は、それを知って自分がおこぼれに預かろうとした。そしてその罰を受けた。
「傲慢?」
「ええ。殆どの人は、他人を守ってやれる余裕などない。そんな中で、『守ってやる』のは、自己満足のため。何か、保護すべき弱い者を――男を守ってやっている、私がいなければこの人は生きていけないのだと、自己充足感を満足させ、他人の上に立つ快感を味わいたいだけ」
 結希は、なぜ「大和結希」などという偽名を使ったのか。それは、もしかしたら大和と結婚したような気分を味わいたかったのではなかったのではないか。結希は保護者ではなく、女だった。川上から逃げるためではない、大和の力を隠すためだけではない、大和と二人きりの生活が送りたくて逃げ出し、それに耐えられなくなったのではないか。真咲はそう推測した。
 大和が言った「組織」のことは真咲は信用していなかった。あそこだけ、まるで子どもの空想のようだったから。それに、そんなものが大和を追っているという証拠は一つも見つからなかった。大和は、ただそんなものがあればいいと思っていたのではないか。組織から逃げているから、自分はさまよっているのだという正当化をしていたのではないか。
 そして結希は、それを妄想だと知っていて利用したのではないか。「このままじゃ駄目、捕まってしまう。殺して、大和」。何に捕まると言いたかったのだろう。真咲にはそれがうっすらと解りかけていたが、今となっては、謎のまま。
「私も、そうなのかもしれない」
 調査官、カウンセラーなどという仕事は、人を助けるもの。人を助けるということは、弱い人の上に立って、私はそうではないと優越感を満足させることなのではないか。
「それは違うよ」
 晨成は、真咲の頼りない目を真っ直ぐに見た。こんな時ばかりは、自分の口べたが口惜しい。
「それは違うよ。君は、駄目な人を守ってやっているんじゃない。その人が自分の力で良くなっていけるように、手助けしているんだ。守るんじゃない。自分の力で立ち上がれるようになるのを、信じて待っているんだ」
「そう言うと思ってた」
 にゃは、と真咲は笑った。決して仕事中には見せない、安心しきった笑みだ。
「……真咲」
 むすっとしてしまった晨成を、真咲はなでるふりをする。
「ごめんって。私だって、判ってたわ。ただ、晨成にそう言って欲しかったの」
 大抵のことなら、真咲は一人で処理してきた。けれど、今回はそうして元気づけられなければならないほど、真咲の傷は深かった。
 真咲は、車を降りた。晨成も、あせって後を追う。
「――私は、そういうふうに人を助けたいと思ってカウンセラーを志した。それは本当。でも、私は調査官となり、今はただ事件をこなしてるだけ。事件が終わっても、ケースが終わらないことは殆ど。そんなんじゃ、根本の問題は解決されない」
 カウンセラーの仕事は知名度はかなり高くなったが、資格制度もなく、日本ではいまだその必要性が広まっていない。カウンセラーとして就職する者など、大学の心理学科にはいない。それだけ経験が重視される職業であり、口も少ない。おまけに生活の安定性もよくないときては、国家公務員という道を選んだ真咲の選択は、ごく妥当なものだったといえる。
 でも。真咲は前を向いた。
「私、相談員になりたいの」
 教育相談所は、心理学という専門が活かせる、数少ない職場の一つだった。しかし相談員は非常勤の者が殆どで、しかも週二三日が殆どだった。給料も少ない。
「あまりにも不安定すぎる職業だから最初から避けていたけれど、相談所でカウンセラーとして修行を積んでみたいの。将来は、どこか開業しているところに入りたい」
「うん」
 真咲は、彼のこんな無口なところが好きだった。自分の言うことを聞いていないわけではない。全て吟味し、その上で受けとめてくれている。間違っていると思ったときはそう言ってくれる。二人はそんな、支え支えられるだけではない、自立した者同士の関係だった。そんな人が、大和にはいなかった。
「誰のためでもない、私のためにやってみたいの」
 きっと、今も大和はどこかで暮らしているだろう。千波と二人で。
 しかし、彼女は結希と同じだった。大和に執着し、私に嫉妬していた。一時でも離れているのが不安で、始終大和のことばかり考えていた。結局結希は、自分からその結末を選んだ。千波は、結希よりも弱い。そう真咲は直感していた。結希のように、何年も持たないだろう。
 千波がいなくなった時、大和はどうするのだろう。また、誰かを捜すのだろうか。自分を守ってくれる誰かを。けれど、そうしていく限り、彼の捜す人は見つからない。彼はずっと捜し続けるのだろう。捜し求めているのが、どんな人かも判らずに。
 大和君は、何度しか会ったことのない私のことを信じてくれた。彼は、人を信じる心を忘れていない。いいえ。きっと、それだけで生きてきた。それにかけるしかない。信じるという心の力を、信じるしかない。
 真咲は、涙は流さなかった。大和君は、かわいそうじゃない。
 大和君。今はまだ、判らないかもしれない。でも、いつか判って。そんなことをしていても、何も変わらないと。自分を受け入れていくことが必要なのだと。たとえ血にまみれていても、それが愉しくとも、それが自分なのだと認めていくことが。そしてそのことをあなたに伝えてくれる人が、あなたの捜している人なのだと。
 真咲は祈った。いつか、大和が気付いてくれることを。彼の、そして人間の、信じるという心に、祈った。




       おわり

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