私がこの住宅の在り処を突き止め、蔵田の設計によることを初めて現在の住み手に知らせてから、もう
15年が経過した。形而工房の結成に向う時期の蔵田による、アール・デコ調の造り付けの内装をよく留
めた貴重な住宅であった。また表現主義からモダニズムへ軸足を移した最初期の住宅とも言えよう。
旧米川邸が現在の住み手のものとなったのは終戦に近いころのことであり(#1)、私が訪れた際に、現在
の住み手は、家の由来も分からぬまま、なぜか家の維持に手の掛かるのに長年疑問を抱きつつも、楽し
く「ドラ息子を養っているとあきらめて」過ごされてきたとの話が、深く印象に残っている。
こう話されたご主人も、既に他界された。
しかし、こうしたサイトを運営してみると、世界を異にする人々とも縁ができて、私としても冥利に
尽きる喜びがある。
2007年9月、ある縁がもとで縁者の方を通して、米川正夫氏のご子息が父の思い出とこの住宅に関して
語った寄稿文を受け取った。(#2)この一文が成されるきっかけの一部には当サイトもやや関係してい
るようなのである。
特に、私のサイト上の従来の記述に誤りがあったとのご指摘も含まれており、ここで正しい内容を紹介
させて頂くことにする。
米川正夫氏は(ドストエフスキーのみならず)ロシア文学の訳者として著名であり、大正末期から昭和
にかけて、1冊1円均一の全集の刊行がブームとなったいわゆる「円本時代」到来の中で、実際にはツル
ゲーネフの「父と子」,「処女地」,「初恋」の訳出を手掛けることになり、相当な刊行部数から大金を
手にすることとなった。
「私はそのあぶく銭の消えてしまわないうちに、宮原晃一郎の義弟に当たる建築家の蔵田周忠氏に、設
計いっさいを任せて、当時流行の分離派形式の家を、記念に建てることにした。」(#3)
これが米川邸が成立した真のきっかけであった。「いっさいを任せて」と言ったのもあながち大袈裟で
はなく、実際、米川氏は建設が始まった頃に、気掛かりをよそに革命10周年の祭典にソビエト連邦から
国賓として招待を受け、日本を旅立った。
ちなみに宮原晃一郎氏は北欧文学者であり、蔵田は宮原氏の住宅も設計していた。
(以上、2008年1月 記)
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