大正10年、平和記念東京博が上野で催された。そのパビリオンの設計のために技術員として 勤務していた蔵田は、そこで分離派の堀口捨己や瀧沢眞弓らと出合い、分離派の活動に参加 した。新しい建築の息吹に突き動かされるように、ここで蔵田も来るべき建築の模索を始め た。
「丘の上の展覧会場」は案にとどまった。ドローイングにはドイツ表現派の建築家H・ペルツ ィッヒの影響がみられる。
野外奏楽堂。音のハーモニーと水の波動のイメージなど抽象的な曲線のイメージから建築の 造形を行ったようである。