...................................... 当初の外観(「建築画報」(1929年4号)より) |
最近の状況(1992年頃に筆者撮影) |
日本家屋をベースとしながらも抽象的なボリュームや庇による水平ラインの強調が感じられ、以前の 表現主義的な造形から、バウハウスの新即物主義的な方向への転換が意識的に行われた様子が感じら れる。 下見板張りの外装を日本的な乾式工法(トロッケンバウ)と見立てることにより、日本建築とモダニ ズム建築の融和を模索していたのだろうか。 (記述更新 2008.4) |
蔵田の渡欧: シュトゥットガルトのワイゼンホーフジードルンク展で行われたインターナショナルスタイルの新しい住宅 や、バスウハウスのグロピウスの提唱した「乾式工法(トロッケン・バウ)」の影響を受け、昭和5〜6年に かけて蔵田は直接ドイツに赴く。帰国して以降の彼の住宅作品はすべて乾式工法による白いフラットルーフ の住宅として計画された。 |
等々力ジードルンク計画の旧金子邸: 蔵田は東京等々力における新しい住宅開発に関与し、乾式工法による数棟の住宅が実際に建てられた。 「乾式工法」とは現在の外壁パネル工法に相当し、左官工事の手仕事に頼ず建築の工業化を目指すという 近代建築の重要な考え方でもあった。しかし物資に乏しい当時の日本にあって苦労も多かったようだ。蔵 田は外壁に2尺x3尺サイズの薄いスレート板を張り、内部壁天井をテックス張りとする方法で実現に至っ ている。しかも雨の多い日本では冒険であり多くの住宅は短命に終わったようだ。 |
等々力の住宅の中では古仁所邸が知られていたが既に建替えられていた。しかし下の写真の旧・金子邸が、 唯一残っていた。 既に当初の持ち主のものではなく、増改築もなされ外壁は左官仕上げにされていたものの(薄いスレート 板ではすぐに変形し雨水が入ってしまったのであろう)オープンな内部空間や水廻りの造り付け家具類な どが充実しており旧状は保たれていた。 (記述更新 2008.4) |