立原道造(1914-1939)は昭和初期に若くして詩壇に登場し短期間のうちに活動を終えた夭折の詩 人として知られるが、また帝大建築学科に在学し建築デザインの分野でも才能を発揮し辰野賞を連 続して受賞するなど将来を嘱望されていた。 1937年(昭和12年)卒業すると同時に石本建築事務所に入所するのだが、透視図を描くセンスは 素晴らしく、特にその辺りを石本氏に買われたのではないかと思われる。 (以前石本は迫力あ る透視図を描く山口(岡村)文象を引抜いたことがある。)また、ちなみに石本建築事務所に同期 で入所した武基雄は立原と特に親しかったと言われている。 年表などによれば、立原は約1年勤務するが体調を崩し休職、療養生活に入り1939年3月に他界す る。石本氏の自邸はその短い期間に立原氏によって図面化されたことになる。図面タイトルには 「石本先生東京邸」とあり確かに立原によって書かれたものである。おそらく石本氏があらかじめ 温めてきた腹案を期待の新人立原に図面化させていったのであろう。 どんなに才能に満ち溢れていても社会に出て約1年程度行では設計チーフ格として設計をまとめら れるまでになるには短かすぎる。そうした意味ではこの自邸は立原を担当者と呼ぶには無理がある。 しかし昭和初期に、建築と詩を同一地平で捉えるという、当時としては異色の存在であった立原道 造が関わったところにこそ意義があると言えるのではないだろうか。 |
立原氏はこの建物の竣工の年には世を去っている。おそらく現場に立ち会うことも無かったかも しれない。しかし写真で見てわかるようにかなり密度の高いモダニズムのデザインの住宅である。 石本建築事務所の所員をはじめとした総力が結集して完成した。 居間には、石本氏がドイツで購入したドイツ表現主義の彫刻家レームブルックの作品がさりげな く飾られている。 |
玄関ホールに置かれていた椅子が1脚現存していた。 淡いブルーグレーで塗装されており、 また座面の高さは約30cmと普通の椅子より低く設計されていた。純粋に座ること以外の機能や あるいは空間を広く演出する効果を高める意図で設置されたと思われる。 実際に内装に用いられた色彩の一部を目の当たりに出来たことも幸運であった。 (2008.3 記述更新) |
「立原道造記念館」で見かけた立原による病院の透視図(某病院計画案 1938年)。石本事務所での仕 事として描いたと思われるが、どこの病院であるか特定されておらずまた実際に建てられたのかも不 明だった。 |
後日、この病院が横須賀市の聖ヨゼフ病院に似ていることについて、立原道造記念館の資料解題に関 わる津村泰範氏から、立原道造の会・会員の伊藤秀夫氏の調査により判明したと聞くに至った。 さっそく現地に赴いたところ、確かに透視図と似た湾曲した建物が建っていて、階数にパースとの違 いがあるようだが、基本的には某病院計画案の透視図と同様の外観であった。また、傾斜のある地形の 特徴や配置も透視図と同様であったことから、私個人が見ても、石本建築事務所で設計され立原が関与 した病院とみて間違いないように感じた。 この病院については、昭和14年に設立した当初は、旧海軍軍人向けの横須賀海仁会病院として建て られた経緯を持つ。 (2009.5 記述訂正) |