第4回分離派展が開催された1924(大正13)年には「分離派建築会の作品」第3刊が刊行され、そこに石本に よるこれらの模型が掲載された。《Composition》及び《市街地建築物法への抗議案として》と題され、 後者については《デパートメントストア》という別の題名も記されている。構成美あるいは構造形式の表 現を模索しつつ計画に向けた概念モデルを思わせ、また同時に抽象オブジェのような独立した作品性をも 漂わせている。 尚、市街地建築物法における日照確保のための高さ制限、つまり道路斜線に苦慮したことを石本は語った ことがあり、《市街地・・・》の題名は、そうした点に由来するネーミングなのかと推察している。 (記述訂正2019.9) |
何層にも重なる水平な床板とその間をうずめるガラスが建物の基本的な形式を示している。そして垂直に貫入 する階段室と塔屋、アーチや格子状の副次的な要素がファサードにスクリーン的に取り付けられることによっ て全体が構成されている。 また細部においても壁面はモダンな装飾で埋め尽くされ、モダンデザインの総合体の様相を示している。 それまでのロマンチシズムは影をひそめ、国際建築へ転換を明快に示すことになった作品である。 (記述訂正2019.9) |
裏側の立面は道路側ファサードとは趣を全く異にする。設計協力者の岡村蚊象(山口文象)によれば、「自由に デザインできた部分」とのことである。 |
かつて大森駅東口には、シリンダー状の高塔を持つ扇形プランの建物があり内部の店舗は確か東急ストアだった と記憶する。店舗らしからぬ平面になんとなく不自然さを感じたのだが、どうやら当初は劇場として構想された 建物だったようだ。 |
大森駅が今日のような駅ビルとなる以前の光景。かつて駅東口の広場に出ると建物の裏側ばかりがよく見えた。 |
●大塚ビル探訪記(2007年1月) 旧白木屋大塚分店は、所有者の変転を経ながら昭和35年以降、大塚ビルの名で駅前のテナントビル として存続している。 同建物の管理会社でメンテナンスを担当するK氏らはこの建物の歴史にも関心が深い。K氏の招き を受け訪問すると、彼らは一見しただけでは歴史とは無縁そうな作業着に身を固めた颯爽とした息の 合った若い二人のコンビであった。 私は地下1階のビル管理室に案内された。管理室とは言ってもパソコンが据えられた、さながら彼 らの研究室の様相であった。配管やダクトが縦横に巡らされ轟音鳴り渡る地下空間の一角であったせ いか「サティアン風」が脳裏をかすめたが、しかしどうして配管類は種類別にきちんとカラフルに色 分けされた小奇麗な空間であり、その上花まで飾られている。ここは戦時中の空襲で犠牲者を余儀な くされた場所であり供養の気持ちが常に示されているのである。 ここには戦前の雑誌に掲載された原案パースや石本事務所作成の実施設計図面や増築図面などが取 り揃えられていた。原案パースは掲載雑誌が大きな図書館でもなかなか所蔵されておらず私は初めて 目にするものだった。 ビル管理の立場でのメンテナンス業務に携わる若者が同時に石本喜久治の設計の歴史的な建築物と して認識し毎日直接接しながら調査研究をこなしている。こうした例は私は今まで聞いたことも無か った。心強くもありさぞや冥界の石本氏も喜んでおられることだろう、との感慨に心を打たれながら、 空襲被害の痕跡や当初の外装タイルのままの数少ない箇所などを拝見した。また、彼らは自ら現況実 測図も作成されており当初図面との不整合箇所を指摘されていた。 K氏らはこの建物に立原道造の関与の可能性を探るという、夢のあるしかしかなりの難題に挑戦し ているらしい。私はこの試みが叶うことを祈ったが、それにしても石本氏の戦前の現存建物であるだ けでも十分貴重な建物であろうとの感想を申し上げ、当初の姿の一部でも再現されれば、というやや 身勝手な希望まで述べた。 最後に、掲載には問題なしとのことなので彼らの資料を私のHPに掲載することにも快く了承を頂 いたので、以下に掲載し解説を加えたい。 |
上の写真は私が撮影した現在の建物。当初のタイル外装面は剥落の危険があるということで昭和40 年代に黒っぽいアルミパネルで覆われた。当初は穴あきPCブロックを用いた塔であったが、広告看 板とアルミパネルの中に隠されている。穴あきPCの使用は装飾効果以外の機能的な意味合いなどは 無さそうであった。また屋上は増築増床され水平庇も今は無い。しかしその気になればある程度の当 初イメージの再現は可能であろう。 |
戦後の昭和31年に松菱ストアーとして再度オープンした頃の正面と、線路越しに見る南側外観。実 際に竣工した建物を偲ぶことが出来る写真である。薄茶色のタイルが全面に貼られていたと考えられる。 |
左図は昭和12年7月に雑誌に発表された原案イメージパース。計画当初は、装飾的な付け柱で垂直性 を強調する石本らしいカラフルな建物がイメージされていたようだ。垂直性を強調する造形は大森分 店とも共通する。 建設に先立つ実施設計には海老原一郎ら数名が関与していたことが図面の押印から判る。立面図で は戦後の松菱ストアーの写真の外観とほぼ同じで原案イメージとはやや異なる。右図は実施設計図面 の一部、ガラスの図案である。花をモチーフにしたアールデコ的な華やかな装飾が予定されたようだ。 しかし現在の建物のどこを探しても既にこうした装飾の痕跡は見当たらず、竣工当初に設置されてい たのかすら疑いたくなる。 昭和12年といえば社会状況がにわかに戦時色を帯びた時期であり、奢侈,贅沢が憚られる空気も生 じた。また、この年は設計した石本事務所にとっても事務所の維持に腐心して大陸に拠点を構え軍需 関係の仕事も手を染め始めたとされる。 原案イメージパースは、実際の建物としては豪華な装飾性が抑えられたかたちで設計され建設され た。そして原案イメージのみ発表され、その後実際に建った建物は作品として雑誌等に発表されるこ とは無かった。様々な理由が考えられるが真相は今や闇の中である。 (2007年2月 記述更新) |
『白木屋の歴史』(白木屋編,1937)に見られる各分店の外観。(甲斐様ご提供画像) |