石本喜久治による卒業設計。 外観は表現主義的な造形と見えるが、ゼセッシオン風のイメージも混在しているように感じられる。 |
上記卒業設計の題名にある「ある一族」については、石本が卒業前年に養父を亡くして いることから、石本家の墓所として構想されたとも考えられている。 そして、卒業設計を小さくしたようなやや似たイメージの石本家墓碑が、大阪天王寺に存在する。 (上の写真) ここに石本家一族とも言うべき喜久治の養父母と先妻が眠っているらしい。一体いつ頃建立され たのであろうか。(但し、ここに石本喜久治本人は埋葬されていない) 今年(2011年)の初旬、石本喜久治の直孫H.I.氏からメールを頂いた。それによれば、墓参に赴 いた折、お墓の掃除を兼ねて少し調べ、H.I.氏はここを祖先のお墓としてだけではなく、祖父 の作品としても考えているとのことが書かれていた。私も同意見であった。 さてH.I.氏からの知らせによれば、裏側のアーチ状の御影石部分に刻まれた3名の戒名の両脇 に小さく「石本喜久治」の文字と「1921.9」の文字、つまり石本喜久治がこの頃に建立した ことを示す文字が刻まれていたとのことであった。(最下がH.I.氏から送られた写真。判読し づらいのでH.I.氏は御影石周囲を水で塗らしてくださった。) 石本は卒業設計の提出の翌年には規模を異にする分離派風の「石本家一族」の納骨堂を完成させ、 年代と署名を「作品」に対するかように刻んでいた。 |
使われている素材を見ても単なる墓石を建てるだけの意図にとどまらないものを感じさせる。 通常使われる御影石などの石材の他、コンクリートで造られリシンを吹いて仕上げたような形 跡が残り、スクラッチタイルなどの仕上げ材も用いられている。どうも建築としての扱いそのも のなのだ。 卒業設計の「涙凝れり」に立ち戻って思い起こせば、こちらは礼拝堂の機能を有した建築物とし て構想されており、一方天王寺のお墓も建築物としての意識が濃厚に感じられる。これを卒業設 計の「涙凝れり」延長線上にあるように感じられてならない。いわば「涙凝れり」の「実施バ ージョン」のように。 さらに、ややロマンチックな感覚の唐草装飾の銅製レリーフについては、大正期の石本の好みを 物語っているのかもしれない。 |
この墓を石本の処女作と言うべきではないかもしれない。しかしあえてこうして取り上げたのは、 昭和の始めにはモダニズム建築の旗手とされた石本の、分離派結成時期の大正時代におけるロマ ンチシズムと表現主義傾向を併せ持つ石本の指向を示す貴重な実例であると感じたからである。 いずれにせよ最初期の現存作として貴重であることには変わりないと思う。 石本は墓を建てた翌年の1922(大正11)年に養父の位牌を携えヨーロッパに向けて旅立つ。 帰国後、渡欧の記録を『建築譜』という本にまとめたのだが、その本には渡欧の費用はこの墓に 眠る養父から受け継いだ財産を処分して賄ったことが記されている。養父は生前、喜久治と共に 海外を旅することを夢見ていたのだそうだ。 (2017.1月 記述更新) |
竹中工務店における担当作。 「分離派建築会作品 第3刊」(1924)において「支店銀行」と題された写真と同じもの。 (2011.7月 記述更新) |
竹中工務店における担当作。 シンプルで幾何学的な表現試行が感じられる。一切を還元し再構築へ向うという「還元建築論」 の考え方の表れであろうか。 (2011.7月 記述更新) |
第3回分離派展出品の住宅模型。放物線状の屋根や開口部が見られる。 |