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渋谷栄一校訂(C)

  

光る源氏の太政大臣時代三十六歳の五月雨期の物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大臣の君・大臣・殿、三十六歳
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---中将・中将の君・君、光る源氏の長男
 紫の上<むらさきのうえ>
呼称---紫の上・上・女君、源氏の正妻
 玉鬘<たまかづら>
呼称---対の姫君・姫君・西の対・対の御方・撫子・君・女、内大臣の娘
 内大臣<ないだいじん>
呼称---内の大臣
 蛍兵部卿宮<ほたるひょうぶきょうのみや>
呼称---兵部卿宮・宮・親王・君
 柏木<かしわぎ>
呼称---右中将
 明石御方<あかしのおほんかた>
呼称---明石御方
 明石姫君<あかしのひめぎみ>
呼称---姫君
 鬚黒大将<ひげくろだいしょう>
呼称---右大将
 秋好中宮<あきこのむちゅうぐう>
呼称---中宮
 花散里<はなちるさと>
呼称---夏の御方

第一章 玉鬘の物語 蛍の光によって姿を見られる

  1. 玉鬘、養父の恋に悩む---今はかく重々しきほどに
  2. 兵部卿宮、六条院に来訪---兵部卿宮などは、まめやかに
  3. 玉鬘、夕闇時に母屋の端に出る---夕闇過ぎて、おぼつかなき空の
  4. 源氏、宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せる---何くれと言長き御いらへ
  5. 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す---宮は、人のおはするほど
  6. 源氏、玉鬘への恋慕の情を自制す---姫君は、かくさすがなる御けしきを
第二章 光る源氏の物語 夏の町の物語
  1. 五月五日端午の節句、源氏、玉鬘を訪問---五日には、馬場の御殿に出で
  2. 六条院馬場殿の騎射---殿は、東の御方にもさしのぞき
  3. 源氏、花散里のもとに泊まる---大臣は、こなたに大殿籠もりぬ
第三章 光る源氏の物語 光る源氏の物語論
  1. 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中---長雨例の年よりもいたくして
  2. 源氏、玉鬘に物語について論じる---「その人の上とて、ありのままに
  3. 源氏、紫の上に物語について述べる---紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて
  4. 源氏、子息夕霧を思う---中将の君を、こなたには気遠くもてなし
  5. 内大臣、娘たちを思う---内の大臣は、御子ども腹々いと多かるに

【出典】
【校訂】

 

第一章 玉鬘の物語 蛍の光によって姿を見られる

 [第一段 玉鬘、養父の恋に悩む]

 今はかく重々しきほどに、よろづのどやかに思ししづめたる御ありさまなれば、頼みきこえさせたまへる人びと、さまざまにつけて、皆思ふさまに定まり、ただよはしからで、あらまほしくて過ぐしたまふ。

 対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、いかにせむと思し乱るめれ。かの監が憂かりしさまには、なずらふべきけはひならねど、かかる筋に、かけても人の思ひ寄りきこゆべきことならねば、心ひとつに思しつつ、「様ことに疎まし」と思ひきこえたまふ。

 何ごとをも思し知りにたる御齢なれば、とざまかうざまに思し集めつつ、母君のおはせずなりにける口惜しさも、またとりかへし惜しく悲しくおぼゆ。

 大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、人目を憚りたまひつつ、はかなきことをもえ聞こえたまはず、苦しくも思さるるままに、しげく渡りたまひつつ、御前の人遠く、のどやかなる折は、ただならずけしきばみきこえたまふごとに、胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞こゆべきにはあらねば、ただ見知らぬさまにもてなしきこえたまふ。

 人ざまのわららかに、気近くものしたまへば、いたくまめだち、心したまへど、なほをかしく愛敬づきたるけはひのみ見えたまへり。

 [第二段 兵部卿宮、六条院に来訪]

 兵部卿宮などは、まめやかにせめきこえたまふ。御労のほどはいくばくならぬに、五月雨になりぬる愁へしたまひて、

 「すこし気近きほどをだに許したまはば、思ふことをも、片端はるけてしがな」

 と、聞こえたまへるを、殿御覧じて、

 「なにかは。この君達の好きたまはむは、見所ありなむかし。もて離れてな聞こえたまひそ。御返り、時々聞こえたまへ」

 とて、教へて書かせたてまつりたまへど、いとどうたておぼえたまへば、「乱り心地悪し」とて、聞こえたまはず。

 人びとも、ことにやむごとなく寄せ重きなども、をさをさなし。ただ、母君の御叔父なりける、宰相ばかりの人の娘にて、心ばせなど口惜しからぬが、世に衰へ残りたるを、尋ねとりたまへる、宰相の君とて、手などもよろしく書き、おほかたも大人びたる人なれば、さるべき折々の御返りなど書かせたまへば、召し出でて、言葉などのたまひて書かせたまふ。

 ものなどのたまふさまを、ゆかしと思すなるべし。
 正身は、かくうたてあるもの嘆かしさの後は、この宮などは、あはれげに聞こえたまふ時は、すこし見入れたまふ時もありけり。何かと思ふにはらず、「かく心憂き御けしき見ぬわざもがな」と、さすがにされたるところつきて思しけり。

 殿は、あいなくおのれ心懸想して、宮を待ちきこえたまふも知りたまはで、よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いと忍びやかにおはしましたり。
 妻戸の間に御茵参らせて、御几帳ばかりを隔てにて、近きほどなり。

 いといたう心して、空薫物心にくきほどに匂はして、つくろひおはするさま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあはれに見えたまふ。宰相の君なども、人の御いらへ聞こえむこともおぼえず、恥づかしくてゐたるを、「埋もれたり」と、ひきつみたまへば、いとわりなし。

 [第三段 玉鬘、夕闇時に母屋の端に出る]

 夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いと艶なり。うちよりほのめく追風も、いとどしき御匂ひのたち添ひたれば、いと深く薫り満ちて、かねて思ししりもをかしき御けはひを、心とどめたまひけり。

 うち出でて、思ふ心のほどをのたまひ続けたる言の葉、おとなおとなしく、ひたぶるに好き好きしくはあらで、いとけはひことなり。大臣、いとをかしと、ほの聞きおはす。

 姫君は、東面に引き入りて大殿籠もりにけるを、宰相の君の御消息伝へに、ゐざり入りたるにつけて、

 「いとあまり暑かはしき御もてなしなり。よろづのこと、さまに従ひてこそめやすけれ。ひたぶるに若びたまふべきさまにもあらず。この宮たちをさへ、さし放ちたる人伝てに聞こえたまふまじきことなりかし。御声こそ惜しみたまふとも、すこし気近くだにこそ」

 など、諌めきこえたまへど、いとわりなくて、ことづけてもはひ入りたまひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまにわびしければ、すべり出でて、母屋の際なる御几帳のもとに、かたはら臥したまへる。

 [第四段 源氏、宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せる]

 何くれと言長き御応へ聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、寄りたまひて、御几帳の帷子を一重うちかけたまふにあはせて、さと光るもの。紙燭をさし出でたるかとあきれたり。

 蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光をつつみ隠したまへりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて。

 にはかにかく掲焉に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへるかたはら目、いとをかしげなり。

 「おどろかしき光見えば、宮も覗きたまひなむ。わが女と思すばかりのおぼえに、かくまでのたまふなめり。人ざま容貌など、いとかくしも具したらむとは、え推し量りたまはじ。いとよく好きたまひぬべき心、惑はさむ」

 と、かまへありきたまふなりけり。まことのわが姫君をば、かくしも、もて騷ぎたまはじ、うたてある御心なりけり。
 こと方より、やをらすべり出でて、渡りたまひぬ。

 [第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す]

 宮は、人のおはするほど、さばかりと推し量りたまふが、すこし気近きけはひするに、御心ときめきせられたまひて、えならぬ羅の帷子の隙より見入れたまへるに、一間ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、をかしと見たまふ。

 ほどもなく紛らはして隠しつ。されどほのかなる光、艶なることのつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれど、そびやかに臥したまへりつる様体のをかしかりつるを、飽かず思して、げに、このこと御心にしみにけり。

 「鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに
  人の消つには消ゆるものかは
 思ひ知りたまひぬや」

 と聞こえたまふ。かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢければ、疾きばかりをぞ。

 「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ
  言ふよりまさる思ひなるらめ」

 など、はかなく聞こえなして、御みづからは引き入りたまひにければ、いとはるかにもてなしたまふ愁はしさを、いみじく怨みきこえたまふ。

 好き好きしきやうなれば、ゐたまひも明かさで、軒の雫も苦しさに濡れ濡れ夜深く出でたまひぬ。時鳥などかならずうち鳴きむかし。うるさければこそ聞きも止めね。

 「御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君に似たてまつりたまへり」と、人びともめできこえけり。昨夜、いと女親だちてつくろひたまひし御けはひを、うちうちは知らで、「あはれにかたじけなし」と皆言ふ。

 [第六段 源氏、玉鬘への恋慕の情を自制す]

 姫君は、かくさすがなる御けしきを、

 「わがみづからの憂さぞかし。親などに知られたてまつり、世の人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあらまし。人に似ぬありさまこそ、つひに世語りにやならむ」

 と、起き臥し思しなやむ。さるは、「まことにゆかしげなきさまにはもてなし果てじ」と、大臣は思しけり。なほ、さる御心癖なれば、中宮なども、いとうるはしくや思ひきこえたまへる、ことに触れつつ、ただならず聞こえかしなどしたまへど、やむごとなき方の、およびなくわづらはしさに、おり立ちあらはし聞こえ寄りたまはぬを、この君は、人の御さまも、気近く今めきたるに、おのづから思ひ忍びがたきに、折々、人見たてまつりつけば疑ひ負ひぬべき御もてなしなどは、うち交じるわざなれど、ありがたく思し返しつつ、さすがなる御仲なりけり。

 

第二章 光る源氏の物語 夏の町の物語

 [第一段 五月五日端午の節句、源氏、玉鬘を訪問]

 五日には、馬場の御殿に出でたまひけるついでに、渡りたまへり。

 「いかにぞや。宮は夜や更かしたまひし。いたくも馴らしきこえじ。わづらはしき気添ひたまへる人ぞや。人の心破り、ものの過ちすまじき人は、かたくこそありけれ」

 など、活けみ殺しみ戒めおはする御さま、尽きせず若くきよげに見えたまふ。艶も色もこぼるばかりなる御衣に、直衣はかなく重なれるあはひも、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色も変へぬ文目も、今日はめづらかに、をかしくおぼゆる薫りなども、「思ふことなくは、をかしかりぬべき御ありさまかな」と姫君思す。

 宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなしたまへり。見るほどこそをかしけれ、まねび出づれば、ことなることなしや。

 「今日さへや引く人もなき水隠れに
  生ふる菖蒲の根のみ泣かれむ」

 例にも引き出でべき根にびつけたまへれば、「今日の御返り」などそそのかしおきて、出でたまひぬ。これかれも、「なほ」と聞こゆれば、御心にもいかが思しけむ、

 「あらはれていとど浅くも見ゆるかな
  菖蒲もわかず泣かれける根の
 若々しく」

 とばかり、ほのかにぞあめる。「手を今すこしゆゑづけたらば」と、宮は好ましき御心に、いささか飽かぬことと見たまひけむかし。

 薬玉など、えならぬさまにて、所々より多かり。思し沈みつる年ごろの名残なき御ありさまにて、心ゆるびたまふことも多かるに、「同じくは、人の疵つくばかりのことなくてもやみにしがな」と、いかが思さざらむ。

 [第二段 六条院馬場殿の騎射]

 殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、

 「中将の、今日の司の手結ひのついでに、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心したまへ。まだ明きほどに来なむものぞ。あやしく、ここにはわざとならず忍ぶることをも、この親王たちの聞きつけて、訪らひものしたまへば、おのづからことことしくなむあるを、用意したまへ」

 など聞こえたまふ。
 馬場の御殿は、こなたの廊より見通すほど遠からず。

 「若き人びと、渡殿の戸開けて物見よや。左の司に、いとよしある官人多かるころなり。少々の殿上人に劣るまじ」

 とのたまへば、物見むことをいとをかしと思へり。

 対の御方よりも、童女など、物見に渡り来て、廊の戸口に御簾青やかに掛けわたして、今めきたる裾濃の御几帳ども立てわたし、童、下仕へなどさまよふ。菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。
 好ましく馴れたる限り四人、下仕へは、楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今日のよそひどもなり。

 こなたのは濃き一襲に、撫子襲の汗衫などおほどかにて、おのおの挑み顔なるもてなし、見所あり。

 若やかなる殿上人などは、目をたててけしきばむ。未の時に、馬場の御殿に出でたまひて、げに親王たちおはし集ひたり。手結ひの公事にはさま変りて、次将たちかき連れ参りて、さまことに今めかしく遊び暮らしたまふ。

 女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人どもさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞ、をかしかりける。

 南の町も通して、はるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、夜に入り果てて、何事も見えずなり果てぬ。舎人どもの禄、品々賜はる。いたく更けて、人びと皆あかれたまひぬ。

 [第三段 源氏、花散里のもとに泊まる]

 大臣は、こなたに大殿籠もりぬ。物語など聞こえたまひて、

 「兵部卿宮の、人よりはこよなくものしたまふかな。容貌などはすぐれねど、用意けしきなど、よしあり、愛敬づきたる君なり。忍びて見たまひつや。よしといへど、なほこそあれ」

 とのたまふ。

 「御弟にこそものしたまへど、ねびまさりてぞ見えたまひける。年ごろ、かく折過ぐさず渡り、睦びきこえたまふと聞きはべれど、昔の内裏わたりにてほの見たてまつりしのち、おぼつかなしかし。いとよくこそ、容貌などねびまさりたまひにけれ。帥の親王よくものしたまふめれど、けはひ劣りて、大君けしきにぞものしたまひける」

 とのたまへば、「ふと見知りたまひにけり」と思せど、ほほ笑みて、なほあるを、良しとも悪しともかけたまはず。

 人の上を難つけ、落としめざまのこと言ふ人をば、いとほしきものにしたまへば、
 「右大将などをだに、心にくき人にすめるを、何ばかりかはある。近きよすがにて見むは、飽かぬことにやあらむ」
 と、見たまへど、言に表はしてものたまはず。

 今はただおほかたの御睦びにて、御座なども異々にて大殿籠もる。「などてかく離れそめしぞ」と、殿は苦しがりたまふ。おほかた、何やかやともそばみきこえたまはで、年ごろかく折ふしにつけたる御遊びどもを、人伝てに見聞きたまひけるに、今日めづらしかりつることばかりをぞ、この町のおぼえきらきらしと思したる。

 「その駒もすさめぬ草名に立てる
  汀の菖蒲今日や引きつる」

 とおほどかに聞こえたまふ。何ばかりのことにもあらねど、あはれと思したり。

 「鳰鳥に影をならぶる若駒
  いつか菖蒲に引き別るべき」

 あいだちなき御ことどもなりや。

 「朝夕の隔てあるやうなれど、かくて見たてまつるは、心やすくこそあれ」

 戯れごとなれど、のどやかにおはする人ざまなれば、静まりて聞こえなしたまふ。
 床をば譲りきこえたまひて、御几帳引き隔てて大殿籠もる。気近くなどあらむ筋をば、いと似げなかるべき筋に、思ひ離れ果てきこえたまへれば、あながちにも聞こえたまはず。

 

第三章 光る源氏の物語 光る源氏の物語論

 [第一段 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中]

 長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々、絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御方は、さやうのことをもよしありてしなしたまひて、姫君の御方にたてまつりたまふ。

 西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読みいとなみおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、真にや偽りにや、言ひ集めたるなかにも、「わがありさまのやうなるはなかりけり」と見たまふ。

 『住吉』の姫君の、さしあたりけむ折はさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。

 殿も、こなたかなたにかかるものどもの散りつつ、御目に離れねば、

 「あな、むつかし。女こそ、ものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらのなかに、真はいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るる知らで、書きたまふよ」

 とて、笑ひたまふものから、また、

 「かかる世の古言ならでは、げに、何をか紛るることなきつれづれを慰めまし。さても、この偽りどものなかに、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた心つくかし。

 また、いとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。

 このころ、幼き人の女房などに時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふものの世にあるべきかな。虚言をよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれど、さしもあらじや」

 とのたまへば、

 「げに、偽り馴れたる人や、さまざまにさも汲みはべらむ。ただいとのこととこそ思うたまへられけれ」

 とて、硯をおしやりたまへば、

 「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」

 とて、笑ひたまふ。

 [第二段 源氏、玉鬘に物語について論じる]

 「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり。善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。

 人の朝廷の才、作りやう変はる、同じ大和の国のことなれば、昔今のに変はるべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひ果てむも、ことの心違ひてなむありける。

 仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなきものは、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなむ。『方等経』の中に多かれど、言ひもてゆけば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人の善き悪しきばかりのことは変はりける。
 よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」

 と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。

 「さて、かかる古言の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はありや。いみじく気遠きものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきたるは世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にして、世に伝へさせむ」

 と、さし寄りて聞こえたまへば、顔を引き入れて、

 「さらずとも、かく珍かなることは、世語りにこそはなりはべりぬべかめれ」

 とのたまへば、

 「珍かにやおぼえたまふ。げにこそ、またなき心地すれ」

 とて、寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。

 「思ひあまり昔の跡を訪ぬれど
  親に背ける子ぞたぐひなき

 不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」

 とのたまへど、顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつ、いみじく怨みたまへば、からうして、

 「古き跡を訪ぬれどげになかりけり
  この世にかかる親の心は」

 と聞こえたまふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れたまはず。
 かくして、いかなるべき御ありさまならむ。

 [第三段 源氏、紫の上に物語について述べる]

 紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて、物語は捨てがたく思したり。『くまのの物語』の絵にてあるを、
 「いとよく描きたる絵かな」
 とて御覧ず。小さき女君の、何心もなくて昼寝したまへるところを、昔のありさま思し出でて、女君は見たまふ。

 「かかる童どちだに、いかにされたりけり。まろこそ、なほ例にしつべく、心のどけさは人に似ざりけれ」

 と聞こえ出でたまへり。げに、たぐひ多からぬことどもは、好み集めたまへりけりかし。

 「姫君の御前にて、この世馴れたる物語など、な読み聞かせたまひそ。みそか心つきたるものの娘などは、をかしとにはあらねど、かかること世にはありけりと、見馴れたまはむぞ、ゆゆしきや」

 とのたまふも、こよなしと、対の御方聞きたまはば、心置きたまひつべくなむ。

 上、

 「心浅げなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。『宇津保』の藤原君の女こそ、いと重りかにはかばかしき人にて、過ちなかめれど、すくよかに言ひ出でたることもわざも、女しきところなかめるぞ、一様なめる」

 とのたまへば、

 「うつつの人も、さぞあるべかめる。人びとしく立てたる趣きことにて、よきほどにかまへぬや。よしなからぬ親の、心とどめて生ほしたてたる人の、子めかしきを生けるしるしにて、後れたること多かるは、何わざしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこそ、いとほしけれ。

 げに、さいへど、その人のけはひよと見えたるは、かひあり、おもだたしかし。言葉の限りまばゆくほめおきたるに、し出でたるわざ、言ひ出でたることのなかに、げにと見え聞こゆることなき、いと見劣りするわざなり。
 すべて、善からぬ人に、いかで人ほめさせじ」

 など、ただ「この姫君の、点つかれたまふまじく」と、よろづに思しのたまふ。
 継母の腹ぎたなき昔物語も多かるを、このころ「心見えに心づきなし」と思せば、いみじく選りつつなむ、書きととのへさせ、絵などにも描かせたまひける。

 [第四段 源氏、子息夕霧を思う]

 中将の君を、こなたには気遠くもてなしきこえたまへれど、姫君の御方には、さしもさし放ちきこえたまはずならはしたまふ。

 「わが世のほどは、とてもかくても同じことなれど、なからむ世を思ひやるに、なほ見つき、思ひしみぬることどもこそ、取り分きてはおぼゆべけれ」

 とて、南面の御簾の内は許したまへり。台盤所、女房のなかは許したまはず。あまたおはせぬ御仲らひにて、いとやむごとなくかしづききこえたまへり。

 おほかたの心もちゐなども、いとものものしく、まめやかにものしたまふ君なれば、うしろやすく思し譲れり。まだいはけたる御雛遊びなどのけはひの見ゆれば、かの人の、もろともに遊びて過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、雛の殿の宮仕へ、いとよくしたまひて、折々にうちしほたれたまひけり。

 さもありぬべきあたりには、はかなしごとものたまひ触るるはあまたあれど、頼みかくべくもしなさず。さる方になどかは見ざらむと、心とまりぬべきをも、強ひてなほざりごとにしなして、なほ「かの、緑の袖を見え直してしがな」と思ふ心のみぞ、やむごとなき節にはとまりける。

 あながちになどかかづらひまどはば、倒ふるる方に許したまひもしつべかめれど、「つらしと思ひし折々、いかで人にもことわらせたてまつらむ」と思ひおきし、忘れがたくて、正身ばかりには、おろかならぬあはれを尽くし見せて、おほかたには焦られ思へらず。

 兄の君達なども、なまねたしなどのみ思ふこと多かり。対の姫君の御ありさまを、右中将は、いと深く思ひしみて、言ひ寄るたよりもいとはかなければ、この君をぞかこち寄りけれど、

 「人の上にては、もどかしきわざなりけり」

 と、つれなく応へてぞものしたまひける。昔の父大臣たちの御仲らひに似たり。

 [第五段 内大臣、娘たちを思う]

 内の大臣は、御子ども腹々いと多かるに、その生ひ出でたるおぼえ、人柄に従ひつつ、心にまかせたるやうなるおぼえ、御勢て、皆なし立てたまふ。女はあまたもおはせぬを、女御も、かく思ししことのとどこほりたまひ、姫君も、かくこと違ふさまにてものしたまへば、いと口惜しと思す。

 かの撫子を忘れたまはず、ものの折にも語り出でたまひしことなれば、

 「いかになりにけむ。ものはかなかりける親の心に引かれて、らうたげなりし人を、行方知らずなりにること。すべて女子といはむものなむ、いかにもいかにも目放つまじかりける。さかしらにわが子と言ひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。とてもかくても、聞こえ出で来ば」

 と、あはれに思しわたる。君達にも、

 「もし、さやうなる名のりする人あらば、耳とどめよ。心のすさびにまかせて、さるまじきことも多かりしなかに、これは、いとしか、おしなべての際にも思はざりし人の、はかなきもの倦むじをして、かく少なかりけるもののくさはひ一つを、失ひたることの口惜しきこと」

 と、常にのたまひ出づ。中ごろなどはさしもあらず、うち忘れたまひけるを、人の、さまざまにつけて、女子かしづきたまへるたぐひどもに、わが思ほすにしもかなはぬが、いと心憂く、本意なく思すなりけり。

 夢見たまひて、いとよく合はする者召して、合はせたまひけるに、

 「もし、年ごろ御心に知られたまはぬ御子を、人のものになして、聞こしめし出づることや」

 と聞こえたりければ、

 「女子の人の子になることは、をさをさなしかし。いかなることにかあらむ」

 など、このころぞ、思しのたまふべかめる。

 【出典】
出典1 神代より忌むといふなる五月雨のこなたに人を見るよしもがな(信明集-五六)侘びつつも頼む月日はあるものを五月雨にさへなりにけるかな(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)
出典2 眺めつつ我が思ふことは日暮らしに軒の雫の絶ゆる世もなし(新古今集雑下-一八〇一 具平親王)(戻)
出典3 五月雨に物思ひ居ればほととぎす夜深く鳴きていづち行くらむ(古今集夏-一五三 紀友則)(戻)
出典4 水隠れて生ふる五月のあやめ草長きためしに人は引かなむ(続古今集夏-二二九 紀貫之)(戻)
出典5 香を求めて訪ふ人あるをあやめ草あやしく駒のすさめざりける(後拾遺集夏-二一〇 恵慶)(戻)
出典6 若駒と今日に逢ひくるあやめ草おひおくるるや負くるなるらむ(頼基集-三〇)(戻)
出典7 ほととぎすをち返り鳴けうなゐ子がうち垂れ髪の五月雨の空(拾遺集夏-一一六 凡河内躬恒)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 思ふには--おもふに(に/+は)(戻)
校訂2 思しし--おほし(し/+し)(戻)
校訂3 ねぢけ--*ねちき(戻)
校訂4 聞こえ--き(き/+こ)え(戻)
校訂5 根に--(/+ね)に(戻)
校訂6 こなたのは--こなたの(の/+は<朱>)(戻)
校訂7 いと--(/+いと)(戻)
校訂8 そらおぼめき--そ(そ/+ら)おほめき(戻)
校訂9 ことも--(/+事も<朱>)(戻)
校訂10 このころ--(/+此比<朱>)(戻)
校訂11 御勢--(/+御<朱>)いきほひ(戻)
校訂12 なりに--なり(り/+に)(戻)

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