分離派建築博物館-各地の建築物

死者のための都市景観 -3-

蔵魄塔(関東大震災殃死者慰霊塔)
場所:東京都江東区.......................................作者:日名子実三............................建築年代:1925(大正14)年.........................現存

 東京都江東区の浄心寺の境内に、関東大震災の犠牲となりここで荼毘に付された多くの人々の遺灰を合祀
した慰霊塔があることを知った。さっそく行ってみたところ、それは白いコンクリート造の半球形墳墓を体
を折り曲げた女体が抱き哀悼を示している立派な芸術作品としてのモニュメントであり女体像の部分も白セ
メントで形作られていた。
 新聞の記録によれば、それは蔵魄塔(ぞうはくとう)と呼ばれる1925(大正14)年に建立された納骨堂を
兼ねた慰霊碑であり、どうやら戦前の著名な彫刻家日名子実三の作であると判った。 (新聞の記録では
「田名子実三」とされているが恐らく「田」は明らかな誤記であり、作風、時代、経歴の面からみて日名子
実三を指すとみて間違い無いものと考えられる。)(日蓮宗新聞1997年10月20日を参照)
 尚、震災犠牲者の遺灰は後に建てられた震災記念塔(東京都慰霊堂)に集められたため、ここは現在は空
であるとのこと、また裸婦像の設置は不謹慎だとの反対意見もあったが制作されたなどのエピソードが語ら
れている。尚、下記のホームページ詳述されている。
                   地震・防災 あなたとあなたの家族を守るために                
              →第三部 過去の地震の特徴と教訓
              →関東大震災の跡と痕を訪ねて
              →平野の浄心寺−蔵魄塔−

●「構造社」の結成(パブリックアートとしての彫刻の発祥)
 日名子実三は大正7年に東京美術学校を卒業、翌年から帝展に連続入選するなど朝倉文夫門下の塾
頭としてまた東台彫塑会に在籍する気鋭の彫刻家として活躍をはじめる。だが官展系で頭角を現すも
方向性の違いから朝倉文夫と袂を分かち、1926(大正15)年に彫刻の分野としては初の在野団体「構造
社」を斉藤素巌と共に結成し新しい彫刻のあり方を模索することになる。
 構造社は彫刻と建築との融合を目指し、新たな公共的モニュメントを模索した彫刻家集団である。
斉藤と日名子は構造社の会員らと共に、ひとつの大きな建築的モニュメントの制作を展覧会の課題と
し、共同で彫刻を取り付けて統一体として完成させる試みすなわち「綜合試作」を制作するイベント
を定期的に行い、彫刻界に新風を吹き込んだ。またレリーフやメダルの制作など公共的かつ実用的な
デザイン的にも積極的に関与を通して彫刻を社会に向けて開放することを提唱し推進した。しかし、
当時としてみれば権威を重んじる芸術界においてファインアートに反旗を翻すことは相当大胆な行動
であったであろうことは想像に難くない(*1)。
 また日名子は1923(大正12)年に関東大震災後のバラック装飾社の活動に関与したとの説もあり、そ
うした点が社会参加の目をはぐくむきっかけとなった可能性も想定されるが、今のところ当時の行動
を具体的に示す資料はみつかっていない。
 この蔵魄塔は構造社設立の前年の作品ということになり、(あえて慰霊碑に対する不謹慎の謗りを
顧みず言うなれば)公共モニュメント揺籃期の原点的な事例である可能性を秘めていよう。

 なお、現在知られている日名子の作品としては、宮崎県にある「八紘之基柱(現 平和の塔)」
(昭和15年)が馴染み深い。また、より身近なところでは日本サッカー協会のシンボル八咫烏
(やたがらす)も同氏のデザインである。
 

「文化炎上碑」―帝都復興創案展覧会から―(「建築新潮」大正13年6月号) 

●「帝都復興創案展覧会」への出品作「文化炎上碑」,「死の塔」
 関東大震災に見舞われてから半年後の1924(大正13)年4月、帝都復興のデザインを広く募る目的で国民
美術協会の主催により帝都復興創案展覧会が催された。建築では「分離派」,「ラトー」,「メテオー
ル」などが出品し、また美術では「マヴォ」もダダ的で大胆な提案を行っていた。
 日名子実三はこの復興創案展覧会において「文化炎上碑」,「死の塔」の2作を出品し、このうち前
者がプライズカップを受賞した。雑誌に掲載された「文化炎上碑」の写真は不鮮明であるが、小倉右一郎
の解説(*2)から大体のイメージを推測することができる。それによれば「死の塔」は、大きな石碑の前
方に棺を抱いて慟哭しているところを取り囲んで立ったり座ったり跪いたりしている7人の裸婦の群像が
みられ、悲痛さがそのポーズに込められている。また「文化炎上碑」の方は、やはり裸婦が群がって昇天
する様を表しているとのことである。


 こうしてみると、「文化炎上碑」は瓦礫という既存の建造物を背景に裸婦をモチーフとした慰霊碑案で
あり、一方、1年後に作られた蔵魄塔も写実的な作風による裸婦が建造物であるドーム形の墳墓を抱き、そ
の全体がひとつのモニュメントを成すという基本的な点で共通している。
 日名子実三が文化炎上碑の実作版的な意味合いを込めて担当したものではないか、さらには結果的に帝
都復興創案展覧会における提案の唯一の実現作となったのではないかとの想像が容易に働くのであるが、
関連やあるいは建設するに至った経緯などを示す資料は、今のところ上記の日蓮宗新聞の記述以外には見
出されていない。浄心寺にも問い合わせたのだが戦災を蒙ったこともあり何ら記録は残っていないとのこ
とであった。
..............


2011年撮影,表面に保護塗装が施された現状 



【追記】
 2006年9月当時、蔵魄塔が日名子実三の作品であり、また彫刻家によるパブリックアートへの目覚
めを示す貴重な現存事例ではないかとの期待を込めて上記内容の記事を掲載し、それと併行して彫刻
史研究の専門家への照会も行った。
 その後、2008年にはそれまで日名子の彫刻作品を扱った書籍には扱われることの無かった蔵魄塔が
初めて登場した。広田肇一氏による「日名子実三の世界−昭和初期彫刻の鬼才」には作者本人が蔵魄
塔を制作している写真が掲載され、予想通り同氏の作品であることはもちろん、復興創案展覧会に由
来する記念碑としての最初の実施例として紹介されている(*3)。
 当方としても若干の驚きと長年の疑問が氷解した喜びの心境であり、ひとまずは協力を仰いだ専門
家の皆様に謝意を表したい。

                    (2006.9掲載、 2011.9記述一部修正及び追記)


*1:「構造社と『綜合試作』」(齊藤祐子,「構造社展 昭和初期彫刻の奇才たち」所収,2005)
*2:「復興展所感」(小倉右一郎,「国民美術」245号1924.5所収)
*3:「日名子実三の世界 昭和初期彫刻の鬼才」P.35,  P.109, 略歴などに記載(広田肇一,2008)