分離派建築博物館-各地の建築物

東方への憧憬と望郷 -1-
〜来日したヨーロッパの建築家による当時の建築〜
      明治維新以降、来日した建築家はジョサイア・コンドルら明治政府のお雇い建築家などとして主に西欧古典的
    建築の移植に努めてきた。しかし20世紀の幕開けとともにヨーロッパの新しい建築の思潮を携えた西欧の建築
    家も来日し、自らの新しい建築のあり方を日本において模索する動きもあらわれた。その根底には19世紀末か
    らの西欧のジャポニズムつまり日本趣味への憧れが働いていたに違いない。アメリカからはF.L.ライトが来日し、
    ヨーロッパからもヤン・レツル,アントニン・レーモンド,フォイエルシュタインらが来日し、新しい作風を日本
    において実現した。( 但し、大正初頭には既に来日していたヤン・レツルはウィーン分離派(ゼツェッシォン)
    の雰囲気を作品に湛え持っているが、日本において結成された「分離派」とは無縁である。)
      日本を訪れた西欧の建築家達は、憧れとした日本の伝統美と故郷ヨーロッパの新しいデザインの流れとの葛藤
    の中で作品を生み出した。このことは、日本にとってみれば、西欧人の手で本家ヨーロッパの新しい建築デザイ
    ンの傾向が本格的なかたちで実現していったということになるのかも知れない。
    実際のところ、時代の波に飲み込まれ悲劇的な最後を遂げる建築家もいた反面、アントニン・レーモンドのように
    戦後も永く日本を活動拠点とし、西欧のモダニズムを日本に根づかせる担い手となった建築家もいた。

聖心女子学院 正門

場所:東京都港区.....................................設計:ヤン・レツル.................................建築年代:1909(明治42)年..........................................現存


ヤン・レツルの設計による日本唯一の遺構。ゼツェッシォ
ン的イメージの中に日本の城門の幾何学的な格子パター
ンや瓦屋根が採り入れてられている。
建設当初の写真を見るとアーチ部分は煉瓦積だったよう
である。


設計者ヤン・レツルはチェコから来日した建築家として、
和風を模した松島パークホテル(1913年,現存しない)
や広島産業陳列館などオットー・ワグナーの流れを汲む
本格的ゼツェッシォン建築物を設計した。
しかし、後者は大いなる皮肉で「原爆ドーム」として
戦後、世界にその名を残すことになってしまった。