故石本喜久治宅を訪ねて 
昨年(2005年)5月、分離派建築家の石本喜久治の孫にあたるH.I氏の方が当ホームページをご覧頂いたことが
縁で、熱海の御自宅を訪問する機会を得ました。
伺った熱海の家は、熱海の海岸からは高台に位置し故石本喜久治氏が戦前に別宅として購入し戦後は自宅として居住し
たという閑静な和風の佇まいで、石本氏の位牌もそこに大切に祀られていました。当時飛ぶ鳥を落とすが如きのスター
建築家が人里から離れた場所にひっそりと仏壇に納まってしまっている有様になんとなく違和感を感じましたが、何せ
他界されてから既に約45年、それでも私にとって座敷の片隅の遺影が今でも我々を叱咤激励するかの如く見守り続け
ている様に感慨を覚えてしまうのは恐れ多くも同業の不出来な後輩の身だからなのでしょうか。
和風の家の隣には、石本氏が自ら家族の為に設計した寿司店舗付きの木造3階建ての住宅が離れとして建っています。
それは当時多忙を極めたはずの石本氏がちょっとした隙をみて設計した作品性を離れた目立たぬプライベートな建物で
す。ですのでここではその紹介を控えますが、家族思いの氏がこだわりつつ楽しんで設計した様子が偲ばれる結構複雑
な建物なのでした。
H.I氏から離れの建物を案内され、また石本氏の家族に対する愛情と気遣いなどのエピソードの話が披露されると、こ
れまであまり知られてこなかった石本氏の人間味溢れる人となりが伝わってくる思いがしました。

石本氏亡き後も石本氏が設立した設計事務所が組織事務所として発展を続けていることは周知のとおりですが、石本氏
が活躍していたころの図面などの資料の大半もその建築事務所の方へ引き継がれているとのことでした。H.I氏によれ
ば現在では石本家と事務所との関わりも歳月を経て途絶えた状態にあるとのことです。
それでも石本家には石本氏個人の資料(写真アルバム)や数点の事務所の資料、戦前に設計された石本氏自邸の資料な
どが遺されており拝見することができました。中でも写真は分離派石本氏をとりまく当時の建築家の交流の一端を垣間
見る貴重な資料として、このたび当ホームページ等での使用のお許しを得ることもできました。
そういったいきさつで、ここでは石本氏とところで保管されている写真のいくつかを紹介いたします。

●大正9年(1920)2月分離派建築会習作展の記念撮影
森田慶一堀口捨己瀧澤真弓
矢田茂山田守石本喜久治
同輩有志により分離派建築会を結成。帝大第二控所において習作展を行なった際の記念写真。
この年の7月に全員無事に卒業することになる。
今では目にすることのない大正時代の学生達の意気揚々たる風貌に興味をそそられる。

●大正9年(1920)7月第1回作品展の記念撮影(於白木屋)
堀口捨己森田慶一矢田茂
山田守石本喜久治瀧澤真弓
実社会に出て間もなく開催された作品展。この2回の展覧会は共にかなりの注目を集めた。
背後には堀口の図面がみえる。記念撮影のたび傍らに彫刻を配するのは誰のアイデアであろ
うか。意味有りげで色々想像を膨らませたくなる。

●大正8年(1919) 修学旅行にて(於塩原温泉)
森泰治
石本喜久治阪東義三
帝大時代の修学旅行の温泉宿で級友達とくつろぐ写真。級友の中に将来は山田守と共に逓信
省へ赴く森泰治や、東京市建築局で震災後の復興建築などで腕を振るう阪東義三らの若き姿が
見られる貴重な写真。

●昭和5年(1930)リチャード・ノイトラ来日歓迎会(於 築地の料亭「雪村」)
石本喜久治土浦亀城
R・ノイトラ土浦亀城夫人山田守
 石本と馴染み深い料亭「雪村」で催されたノイトラ来日歓迎会のひとコマ。                       
ノイトラ(1892〜1970)はウィーン生まれでアメリカで活躍した建築家。またアメリカのF・L・ライトのもと
で一時期共に研鑚を積んだ縁からであろう、土浦亀城夫妻の姿も見える。
1930年頃はノイトラにとって独立した建築家を目指す転機だったようであるが、来日の具体的な目的等に
ついては不明。
土浦氏(1897〜1996)は、帝大卒で分離派の後輩にあたる。当時の日本で大きな影響を与えていたライトの
作風から脱してこの頃からインターナショナル・スタイルの住宅を数多く発表するようになった。