分離派建築博物館----超時空建築探訪―

商都東京の街並みを巡る


 1920年代から今日までを射程とした時間空間縦横無尽の商都東京散策です。都市の町並みについて
は様々な見方が可能でしょうが、私も震災以後に絞ってT〜Wの項目で都市の一端を記してみました。
 東京は江戸の昔から商都として栄えつつも政治,社会的状況など人間社会の様々な営みに応じてそ
の姿を変えておりますが、特に火災などの災害を契機としてきた観があります。明治期以降の土蔵造
りの店は、1923年の関東大震災によって火災と地震の両面への防備が求められたことから新技術であ
った鉄筋コンクリート構造の普及に向いました。都市で大きな割合を占める商店も売り方や装いが変
化し、さらに戦争の災禍を経てなおめまぐるしい社会状況の変化の渦中にあることは言うまでもあり
ません。むしろ変化は加速度を増し、今や小さな店先のちょっとした片鱗で過去を偲ぶしかないと言
ってもよい位です。
 一見無秩序に思えながらも都市は遠い過去から連続して変貌し形成されているはずで、そこに垣間
見える歴史的事跡の奥深さを見つめ直してみたいと思います。


T.震災復興バラック
◆バラック装飾社◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 1923年9月に襲った関東大震災では、その直後の被災者の絶望と極限状況は想像に余りあるものが
ある中で、復興政策とは別の次元で個々の芸術家が街頭に出て店頭を装飾し人々の心に灯を点した
ことは画期的な出来事だった。

開進食堂の構想画(吉田謙吉)と看板の写真 (「みづゑ」226号より)
 今和次郎を筆頭として「バラック装飾社」(註1)が組織された。仮設住居たるバラック小屋をペン
キで装飾する同人で、「すさんだところに美しいものが現はれるとどれだけうれしいものか・・・」
(註2)と今和次郎が述べている。灰燼に帰した都市を目の前にした偽らざる心が行動に駆り立て、ペ
ンキの缶を携えた活動が自らの人間性をも回復させていく様子も併せて記されている。ここには芸
術家の視点から「装飾」が根源的に人間にとって必要であることを極限状況から発した行動で証し
立てるという含みが込められている。(註3)
 その活動の多くは建築家との協働としての装飾であったが、バラック装飾社には方法に一定のル
ールが設けられていた。自画像や後期印象派以前の画風および「鶴亀雪月花模様」を禁じ、代わり
に力強く訴えかける原始的モチーフが好んで用いられたのは、時代の垢にまみれない近代的な裸形
の装飾のあり方を模索したからなのだろう。

                                   註1:二科会,アクション系,あるいは「尖塔社」の同人らによる。今の他吉田謙吉,飛鳥哲雄,
                                        大坪重周らが参加した。(「尖塔社」には逓信省の岩元禄も生前参加していた)
                                   註2:「バラックを美しくする仕事」(今和次郎 「建築世界」VOL.18 大正13年1月号より)
                                   註3:当時は装飾を否定するモダニズムの勃興期でもありこうした今和次郎の考えは分離派の瀧
                        澤眞弓との間で意見のすれ違いを見せた。
  
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東条書店
(「建築世界」VOL.18 大正13年1月号より)

今城旅館―今井兼次+バラック装飾社
(「建築写真類聚」より)
◆マヴォ  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 明治以後国家挙げて取り組んできた西欧風の都市の威容は、震災で文字通り脆くも崩れてしまっ
た。震災が多大な犠牲を余儀なくされた大きな不幸であったことは間違いない事実だが、渡独経験
後間もない村山知義にとって、ダダイズム的な価値観―既成の権威や道徳観などの否定的転換―を
実践するには、現実に壊滅してしまった都市は格好の舞台でもあった。
 村山らのグループ「マヴォ」によるバラック建築装飾は、土俗的なパフォーマンスを伴いながら
一気に描かれたという。そこには建築らしい「壁」も「窓」も背後に追いやられ感知することすら
難しく、都市や建築に統一的な秩序をもたらすというよりはむしろ断片化を目指すものだった。そ
の結果、もはや建築とグラフィックなど芸術分野の境界線を問うことすら意味を成さないかのよう
であり、西欧輸入の建築のあり方に問い直しを迫る迫力を獲得していた。
 復興創案展ではマヴォの展示は異彩を放ち人気を得たと言われるが、こうしたことが理由だった
のかもしれない。
マヴォ ―― 震災復興バラック ,帝都復興創案展マヴォ室


U.震災復興期の看板建築

◆新しい街並みの装い◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 震災以後、それまでの土蔵造りをメインにした街並みに替わって銅板葺きやモルタル塗りなどの外
装による簡易な防火仕様が施された店構えが街並みを変貌させ、和風色が抑えられるほど新しい時代
を示すもの(モダンな雰囲気)として街並みを活気付けた。
 「看板建築」とは藤森照信氏がこうした特徴その他から名付けた用語だが、発生した当時も「街路
建築」などと呼ばれていたようだ。
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未来派的なカフェ。マヴォの外装との説もある。
京橋の「カフェー・スズハナ」。(アサヒグラフ,1924年)

神田の街路建築(アサヒグラフ,1929年)

 通りに面した正面を衝立のように背後の建物本体とは無関係にPRを目的として飾り立てること
は、審美眼を備えた建築家の側からすれば許しがたいことだったであろうが、生活のかかった多く
の小店舗にとってみれば建築家の求める芸術的統一性に構っている場合では無かった。要は宣伝効
果が重要なのだ。
 これらは今日の目からすればさほど抵抗感はないが、しかしR・ベンチューリがラスベガスを語
りあるいはポストモダンという言葉が生れる遥か以前の出来事なのである。

◆モダン風看板建築拾遺◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 現在、バラック装飾社らの震災直後の純然たる遺構を見つけることは出来ない。しかし昭和初期
頃の復興時期にかけて建てられた看板建築の中から、幾何学性を取り入れたシンプルなモダニズム
風の看板建築を挙げてみた。特にこれらは最近極端に少なくなってしまった気がしたからである。
 木造でシンプルな形状の建物を造るのは当時としては意外と難しいことだった。設計次第では建
物の寿命に影響を及ぼしかねないからだ。例えば軒の出の無い陸屋根に見せようとパラペットで屋
根を隠そうとしてもなかなか雨漏りを防ぐといった自然の力に対抗出来るものではない。建物の外
装自体が装飾性が少ない分だけ、経年による老朽化も目立ちやすい。
 それでもモダンな表現を行いたいとする当時の意思の力には敬服してしまう。
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神保町にて 
東洋キネマ。未来派風のギザギザ模様
の装飾とコラージュ的なファサードが目
を惹いた。
(1928年,非現存,1992年頃撮影)

神保町にて
半円形の袖看板が雰囲気
を醸し出す。
(現存,2007年撮影)
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本郷にて
アール・デコ的な感覚の片鱗が
残る。(2007.2月撮影)
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同左の並び。連続するファサードもこうなると往時
の姿は想像で補うしかない。

築地にて
(存否不明,1991年撮影)

◆お気に入りの1枚◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
右は正統的看板建築ではないかもしれないが、シンプ
ルな切妻形に大胆にロゴをあしらった建物に風格を感
じた。
ここは鋳物の生産で繁栄した町の、だるまストーブ生
産の最大手の企業であったようだ。             

川口にて
福禄ストーブ川口工場(非現存,1981年撮影)




V.店舗設計の開拓者―川喜田煉七郎

◆劇場から小店舗まで―異色の経歴◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 川喜田煉七郎(1902〜1975)は、日本初の国際設計コンペの入賞者として、教育者あるいは店舗設
計界の開拓者としてなど、通常の建築作家像とはひと味違ったいくつかの顔を持つ。しかしその経
歴から今日でもアウトサイダー的な扱いで記憶されるに止まっているのが実情である。(註1,2)
 彼が活動を始めた1920年代は、音楽家山田耕筰(この頃は耕作)に私淑し音楽と建築を一体化し
た総合的な芸術体験の場としての「霊楽堂」(或いは「音楽礼拝堂」)と称した計画を山田に捧げ
ていた。この計画を含む成果は分離派展(第6,7回)にも客員として出展し注目を得ている。
 彼のいくつかのオーディトリアム計画は、ウクライナ劇場の国際設計コンペ案(4位入賞)がひと
つの総決算となる。日本独特の「花道」など大衆演劇のための様々なアイデアを凝らした案に対す
る審査評によれば「驚くべき発明の価値は1等の3案の次位に推すものである」(註1)とある。無名
に近い若い建築家が、世界の桧舞台で一躍賞賛を浴びた。
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「霊楽堂」川喜田煉七郎
(「建築画報」vol.19 1928年8月号)

「ウクライナ劇場」川喜田煉七郎案
(「アイシーオール」vol.2 1932年1月号)

 ところで彼は1930年代初頭あたりを境に、それまでの芸術至上的な姿勢から合理主義的な方向に
転換している。活動はエネルギッシュであり、「新建築工芸学院」を組織し同時に機関紙「建築工
芸アイシーオール」を編集しつつ、現実社会を直視することから生み出し得る新しい生活像の「構
成」を提唱した。そして店舗設計についても能率的な商品ディスプレイが人気となり巷の小商店か
ら多数の依頼を受けた。(註3)
 合理主義を教義としたモダニズム建築も杓子定規的に徹底すれば、どうしても建築の芸術的側面
が損なわれる。この頃既に消滅していた分離派が当初から指摘していたジレンマでもあった。しか
し川喜田の場合はいたって平気で、一般の人々を対象として商業的効果を上げるのに合理的であれ
ばどんな通俗的な看板でも提案した。ここに、良くも悪くも分離派らエリート建築家が踏込み得な
かった大衆的な目線で突っ走る彼の人間性が見えてくる。そういえば、川喜田が芸術至上主義だっ
た自らの過去に背を向けるかの如く設計した多くの俗っぽい店舗のデザインのいくつかには、ロシ
ア・アバンギャルド的な造形感覚をなんとなく匂わせているのだが・・・。
 当時の日本の状況下を察すれば、共産主義国ソ連でのコンペ入賞はいかに画期的であろうと川喜
田の将来にとっては必ずしもプラスに作用しなかったであろう。それでも自らの信ずるままに活路
を見出すことに成功した稀有な人物であったことは間違いないと言える。

川喜田による店舗設計例(「建築写真類聚 小商店図集 川喜田煉七郎店舗作品集」1941年)

◆山田耕筰と川喜田煉七郎◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 川喜田の戦前の作例を探し歩いたがなかなか見出せないでいる。しかし、せめてもの記録として
1929(昭和4)年の建築画報の記事を取り上げたい。これは川喜田が山田耕筰の影響下にあった頃
の彼のための店舗改装設計の記事であり、山田が設立した日本交響楽協会(NHK交響楽団の前身に
あたる)の出版部売店を銀座尾張町の借家の1階に構えるという内容であった。(この頃日本の交
響楽団の成立はいまだ安定した段階に至っていない。同時期は山田も不遇だったようで、実際には
彼が作曲した譜面の個人的な販売所の性格が強かったのではないかと推察される。(註4))
 今日、山田耕筰といえば作曲家,指揮者,そして日本で初の交響楽団設立を企てた人物として音
楽好きなら誰もが知る伝説の人物だ。しかしそんな山田もドイツに留学した若い時分には音楽以外
の新興芸術の動向にも直に接しながら貪欲に摂取に努めていた。親友のデザイナー斎藤佳三と共に
シュトゥルム画廊の木版画を日本に紹介したことはよく知られている。(註5)
 一方建築を志す川喜田が共鳴したのは山田の前衛性であり、さらに本をただせば山田がロシアで
接したスクリャービンの新しい音楽のような神秘的な傾向に感化されたのであろう。
 川喜田は多数の店舗設計に関わりその分野の開拓者と言われるまでになったことを先に触れたが、
山田のための店こそ店舗設計のほぼ最初期の事例だったことになる。

日本交響楽協会出版部銀座売店
(「建築画報」1929年2月号)
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同左

「耕作が売店を持つ話」山田耕作
(「建築画報」1929年2月号)

 山田耕筰が完成した店舗を語った一文に山田の神秘的芸術観の傾向が表れている。彼はコストを
極力抑えるよう望んでおり、川喜田はそれに応えて安価なヨシズや南京袋などの材料を次々と持ち
込んだ。山田は安価な材料が見る見る錬金術の如く金銀色と黒の紅色による塗装で変貌する有様に
感嘆し、 
   「うすい栗皮色の南京袋は、部屋の周囲から金銀と混らふこのすべての黒さを深く包んで
    透明な神秘の香りと色とが室全体に泡立って居りました。・・(中略)・・瀬戸物の瑪瑙や
     ガラスの宝石が行燈の下に妖精のように光ります。」(註6)

と讃え、最後に「みやびやかな日本の情致のあふれた特異な店」として日本的な叙情性に及んでし
めくくっている。芸術至上主義時代末期の川喜田による実作を伝える数少ない言葉であろう。
 小さな一店舗の中に、日本の近代的建築と音楽の二つの歴史の流れの接触点を見る思いがした。

               註1:「ウクライナ劇場国際競技設計の経過報告及び当選案の解説と批判」(「アイシーオール」vol.2 1932年
                  1月号)ちなみに川喜田案とは対照的にW・グロピウス案は大衆演劇に向けた提案が吟味されていないとの評が
                  付され8位に甘んじた。
               註2:「日本建築家山脈」 建築界のアウトサイダー・川喜田煉七郎(村松貞次郎)
               註3:「透明な機能主義と反美学 川喜田煉七郎の1930年代」(梅宮弘光 「モダニズム/ナショナリズム」所収)
                  などを参照
               註4:「近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男」(大野芳 2006年)などを参照
               註5:「自伝 若き日の狂詩曲 はるかなり青春の調べ」(山田耕筰)に古典から前衛まで幅広く学んだ様子が
                  描かれている。
               註6:「耕作が売店を持つ話」(山田耕作「建築画報」1929年2月号)



W.建築としての看板,看板としての建築

◆商業性を意識した建築◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 商業建築と言えども、ももちろん民間の建築家によって質の高い建築が数多く実現されてきた。
例えば渡辺節は建築を商品として捉えつつも単なる貸しビルとは言わせないレベルの歴史様式によ
る建築を「売り物」としていた。下の日比谷のダイビルはデザイン密度の濃さが突出していた。
 そしてこの姿勢は渡辺が所員として擁していた村野藤吾に受け継がれる。 しかし村野は独立後
(今さら言うまでもなく)歴史様式的なだけでなく、師の渡辺が禁じた近代傾向の建築も視野に入
れた上で独自の作風を打ち立てた。

東京日比谷の旧ダイビル(大阪ビルヂング), 左と中:2号館(1931年), 右:1号館(1927年)(渡辺節,非現存,1981年撮影)

 日比谷のダイビルは既に建替えられて久しいが、同じく高水準を保ち現存する大阪のダイビルの
方が現在存亡の危機にあるらしい。商業建築に属しようとも、ひとつの建築を生み出すまでの深い
思慮の営みを想うならば、経済原理や老朽化の名の下に簡単に存廃が決定されてよいものであろう
か、つくづく疑問に感じる。
◆1930年代 アール・デコの時代★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 近代的な産業技術の変革に伴う芸術の大衆消費化の表現は、1925年にパリで開催
された装飾博覧会に因んでアール・デコというキーワードで語られることが多い。
これは幾何学形状に還元された装飾が基本となり、時には劇的な視覚効果を伴わせ
て大衆に訴えかけることもあった。アメリカでは商業宣伝に有効な表現法として、
あるいは形を変えて為政者の政治宣伝に活用されるなど、世界各地に波及した。
 超然と聳え立つタワーが天空へ向って光を放つ(おそらくニューヨークの高層ビ
ルにイメージ的な源泉を持つのであろう)こうした輝かしさを放つ建築が、昭和10
年代前後の日本にも出現した。
 

       
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国際劇場
(1937年,松成建築事務所,非現存,1982年撮影)
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日比谷映画劇場
(1934年,阿部美樹志,非現存,
1983年撮影)
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伊勢丹
(1933年,清水組,現存,
2007年撮影)

地下鉄ビル
(1929年,東京地下鉄
道工務課,非現存,
2003年撮影)


 西欧で出現した幾何学的に簡略化されたスケールアウトの歴史主義様式―擬古典風建築―が政
治的宣伝を目的として出現した。やはり日本の建築家もこの表現に純粋に魅力を感じたようで影
響を受けたらしい作例は有る。しかし日本では西欧の建築を受容してから圧倒的に日が浅く、つ
まり根本的な文化的相違の溝を埋めるには到底至らず、建築はどうしても大衆の心に浸透するよ
うな宣伝を目的とした「言葉」としては成り得なかったように考える。
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第一生命館
(1938年,渡辺仁,DNタワーとして再生,1982年撮影)

日本学園
(1936年,今井兼次,現存,1991年撮影)

◆看板としての建築◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 戦後に至って、商業上の効果を狙った建物は、むしろその数や規模が桁違いに増大した。都市
が元々備えていた「ハレ」の場としての性格にも一層拍車がかかる。
 純然たる商業広告かどうかは別として、人々の心に親しみや刺激として直接訴える媒体になる
のであれば、時には既によく知られている建築物がまるでレプリカのように作られ広告塔として
の役割を演じることすら生じている。都市そのものが「劇場」であるかのように。
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 仁丹塔(非現存,1982年撮影)

 NTTドコモ代々木ビル(現存,2007年撮影)

 まとめとして
 実際に都市を散策すると高い配慮が施された建築物から通俗的なものまでが一挙に視界に入ってく
る。この一見無秩序なようでいて様々な都市の営みが阻害されずに並存している有様は実は健全な姿
なのだろう。また、思いがけず様々な表現に出会えることも魅力と言って良いのだろう。
 言い方を換えれば過去から現在が堆積した時間軸の都市の断面、つまり都市の「地層」と呼べるも
が歴史ある都市の証しとして示されているのでもあり、失ったら取り戻せない価値があるように思う。
 伝統に培われた街並みが守られるのと同様、様々な文化的事跡が積み重ねられて混在する都会の町
並みもやはり大切にしたいものだ。また未来に向けた創造の役割を担って新たな設計を行う場合でも、
まずは過去の文化の認識と敬意が不可欠で、これを前提とした上で考えるべきなのであろう。
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 以上、ここで取り上げたものは、都市の長い歴史においては一掴みの砂粒にも満たないに違いな
い。そして、ついカメラを手に都市にさまよい出てしまった者の私的な記録に過ぎないことも確か
だ。それでも私は一見古く薄汚れた建築や都市の町並みの姿になぜか惹きつけられ、もしやここに
本質的な何かが潜んでいるのではと直感して、闇雲に探し求めようとしているのだ・・、などと考
えたりもしたが、やはりこうしてみると学生の頃から傍目から暇人の懐古趣味呼ばわりされるのを
背後に感じた上での格好の良い言い訳に過ぎなかったように思えてくる。