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渋谷栄一著(C)
   

源氏物語の世界 Q&A集

 このコーナーでは、皆様からE-mailで寄せられましたご質問に対してお答えしたものを紹介していきます。なお、文章は原文のままではなく一部省略したり要約した形で掲載させていただきました。また、お名前はイニシャルで表示させていただきました。なお、ご職業・ご所属(例えば、高校生、大学生、会社員、主婦など)を記していただけると、お答えするにも助かります。

Q:「病床の柏木の烏帽子について」
 初めまして、無知をさらす様で恥ずかしいのですが、一つ質問させてください。
私は現在フランスの美術学校に籍を置いておりまして、美術史の授業のなかで、「源氏物語絵巻」にある、病床の柏木を夕霧が見舞うシーンを説明する事になっております。
 ふと、疑問になったのが、2人の被っている帽子?です。
 夕霧が被っているのは自然なのですが、なぜ、床に伏せている柏木までもが被っているのでしょうか?
 当時、就寝時も貴族は帽子を被ったままだったのでしょうか?
 それから、着ている着物、もしくは描かれている部屋、小物の色などで、身分を象徴している、など意味を持つものはあるでしょうか?
 日本人である私でも、細々と疑問が浮かぶので、きっとフランス人にとっては、部屋の様子なども大変興味深いと思うので、できれば、いろいろ答えられたらと思っています。よろしくお願いいたします。(フランス在住 M・Iさん)
A:「源氏物語絵巻」柏木第二段の、病床に臥せっている柏木が被っている帽子は、烏帽子(えぼし)といいます。また一方、見舞い客の夕霧が被っているのは冠(かんむり)です。
 冠は正装、烏帽子は略装用です。それぞれの立場関係を表しています。
 ところで、柏木が病床で烏帽子を被っているのはやや奇異な感じがします。貴族は寝ているときでも帽子を被っていたのか、と想像してみたくなりますが、それはやや現実的でないでしょう。眼鏡をかけて生活している人でも眠るときには枕元に置いて寝ます。それと同様に、貴族も烏帽子は枕元に置いて寝たものだろうと想像します。来客があったので、烏帽子を被ったものと思います。「柏木」巻には次のようにあります。
「烏帽子ばかりおし入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげなり」(第三章第二段)
 始めから被っていたものならば、「烏帽子ばかりおし入れて」とはならないはずはずです。「整えて」とでもあるはずです。
 「源氏物語絵巻」は、大変に詳細に描かれていますので、人物の衣装、建物、家具調度類、すべて身分や人物によって描き分けられています。どうぞ問題意識をもってご鑑賞なさってみてください。

Q:「二人の按察大納言について」
 私は大学4年で、現在、平安文学をテーマに卒論を書いています。
 そこで先生にお尋ねしたいのですが、桐壺更衣の父親である大納言と、紫の上の祖父である故按察大納言は同一人物なのでしょうか?(大学生)
A:別人とされています。物語の中に同一人物であるとする記述はありません。しかしまた、別人とする明確な記述もありません。同一人物としての可能性や曖昧性、読者への心象性など表現上の問題として考えるのも一つのアプローチかと思います。

Q:「登場人物の服飾と年齢との関係について」
 はじめまして。私は今源氏物語の服飾について調べております。そこで質問なのですが、源氏物語の登場人物は理想像として書かれていることが多く実際の年齢よりも幼いしぐさなどが指摘されていることがしばしばあります。これは、服飾の上にも反映されているのでしょうか?また、物語の舞台が宮中のような晴の場ではなく、貴族の殿のなかですが、登場人物の着用している服は褻装束とみなしてもよいのでしょうか?粗略な文になってしまいましたがよろしくお願いします。(A・Mさん)
A:源氏物語の女性登場人物の年齢と服飾の関係について、だいたいそうだろうと思います。襲の装束はその人の人柄や趣味、教養等を表すものでありますが、その装束も季節や状況・場等との関係をも考慮に入れたものでなければなりません。
 臣家の大臣家等以下の貴族の家に仕えている女房たちの日常の装束は「褻」の女房装束であったろうと思います。正月とか節会、祭の日やあるいは邸で宴会等が催される折には「晴」の装束に着飾ってうきうきした気分になったのだろうと思います。

Q:「源氏物語にはなぜ政治が描かれていないのか」
 初めてメールを送りました。私は文学部の三年なのですが、授業の中で源氏物語を学んでいくうちに、源氏物語にはなぜ政治が描かれていないのかという疑問をなげかけられ、その答えがわからずにいます。先生のご意見をお伺いしたいと思っていますので宜しくお願いします。(大学生 H・Tさん)
A:それは作者が女性だからです。また読者が女性や少女たちだからです。(「蛍」巻の物語論を参照)
 ところで、「政治」とはいったい何をさすものでしょうか。当時の人々にとって「政治」とは何だったのでしょうか?
 また女性の赤染衛門は歴史物語『栄華物語』を書いていますが、あの作品には政治は描かれていないのでしょうか?
 実は、『源氏物語』に政治がまったく描かれていないわけではありません。特に、光源氏が須磨・明石から帰京して政界に復帰して以降最も濃厚に描かれています。光源氏と頭中将、さらに藤壺に注目して読んでみてください。

Q:「源氏物語の登場人物の名前について」
 いつもあなたのHPを見させていただいております。わたくしは静岡県居住の68歳の男性です。M・Uと申します。
 日本の古典文学に興味はありますが知識は貧弱です。加入している高齢者のMLで源氏物語がいま話題になっております。
 その中で、物語の登場人物は一様に、桐壺、空蝉、夕顔、若紫などたいへんロマンチックな優雅な名前ですが、仮名だとしても当時やんごとなき上流階級や皇室ゆかりのあたりではこのような名前で呼ばれておりましたのでしょうか。
 もちろん父親の地位(頭とか)が添えられて人物特定可能な固有名詞になっていることは承知しておりますが、このように名前を聞いただけで優雅、美貌を推察させるような名前には驚かされます。ご多忙とは存じますがよろしくお願いします。(M・Uさん)
A:おそらくそうであったろうと思います。男性名は知っていてもその人の官職名で呼ぶことを常としています。当時の公家日記や記録の表記から推測されます。
 また女性は、その名前は身内の者以外は知られていなかったようです。
 宮仕えしている女性は、例えば「尚侍」「源典侍」(共に後宮の内侍所に仕える女官)などというように男性同様に官職名で呼ばれています。
 天皇の后妃は、「弘徽殿女御」などのように殿舎名で呼ばれています。なお「藤壺」「桐壺」などは通称で事改まった時は、「飛香舎」「淑景舎」など呼びます。
 女房などですと、「紫式部」「清少納言」というように、身内の男性官職名と姓の1文字または通称と組み合わせて呼ばれています。
 源氏物語の中ですと、「紫の君」「藤原の瑠璃君」などと出てきます。後者は玉鬘の本名または通称(右近が付けた呼び名か、またはあだ名)です。
 人名は一般に、官職名や通称などで呼び合うのが作法で礼儀にかなうとされていました。特に女性の名前というのは、万葉集の巻頭の雄略天皇の和歌に見られますように、自分の家の名(姓)、名前を教えることは、求婚を受け入れることを意味していました。ある意味で相手の支配下に入ることを意味していたようです。
 したがって、目下の者は目上の者に対して自分の名前を言うが、目上の者は目下の者の前で自分の名前を言うことはありません。このことは今でも家族の中での呼び方にも生きています。

Q:「源氏物語の語り手について」
 始めまして。私は現在源氏物語を勉強しているアメリカ人大学生です。
 アメリカのユタ州にあるブリガムヤング大学で日本語を専攻しています。
 渋谷教授に是非お尋ねしたいことがありましたので、失礼とは思いますがメールをさせて頂きました。源氏物語でとても私が興味を持っているものが語り手の存在です。
 この語り手のスタイルがとても世界の文学の中でめずらしいものだと思います。しかし、アメリカ人の私にとって少しわかりにくいです。西洋の文学ではないスタイルです。差支えがなければ源氏物語の語り手の存在について、日本で研究されている事、並びに渋谷教授ご自身のご意見をお聞かせください。お手数をお掛けいたしますが、よろしくお願い致します。(アメリカ在住 大学生 T・Cさん)
A:『源氏物語』の「語り手」に関しての基本的な研究書として、榎本正純著『源氏物語の草子地--諸注と研究』(1982年 笠間書院)という本があります。大学の図書館あるいは研究所等にありましょうか?もし、ありましたら是非お読みになってください。『源氏物語』の「語り手」に関する解説と研究論文及び主要な研究論文目録が収録されています。
 その中から図書館や研究所等に所蔵されているかと思われる重要な本を紹介します。
 玉上琢弥『源氏物語評釈』(全12巻 角川書店)の別巻『源氏物語研究』「物語音読論序説」
 中野幸一「源氏物語の草子地と物語音読論」(『日本文学研究資料叢書 源氏物語1』有精堂 所収)
 榎本正純「源氏物語の語り手・構造・表現」(『論集中古文学1 源氏物語の表現と構造』笠間書院 所収)
 『源氏物語』に限らず、日本の古典文学の「物語文学」というジャンルの作品は、例えば『竹取物語』をはじめとして、いずれの作品にもその文章表現において「語り手」の存在が読み取れます。またそのような表現を借りて叙述されています。したがって、「物語文学」の表現に研究には、大抵「語り手」に関する研究があります。
 古くは『古事記』『日本書紀』の中に収録された「古代歌謡」においても「語り手」(伝承者)の存在が記述されています。また、近年まで民間においても、「昔話・説話」などという口承文芸が盛んに語られていました。そのような文化史的な背景があります。

Q :「尚蔵」について
 近頃ネットをやり始めて、初めてこのホームページを知った大学生です。理系の人間なのですが源氏物語が好きで趣味でいろんな本を読んだりしています。しかし、どうしてもわからない女官(後宮)の地位が書いてあったので、教えていただきたいのです。
それは、ある古語辞書の後ろのほうについてた官位相当表というものに書いてあるもので読み方もよくわからないのですが、「尚蔵」というものです。確か後宮の官位の地位で最高は、「尚侍」のはずなのにその上の地位に書いてあるんです。
高校の頃国語の先生に聞きましたがわからないと言われてしまいました。もしかしたら、こんなこと聞くレベルじゃないのかもしれませんが、何分素人なのでご容赦ください。よろしくお願いします。
A:「尚蔵」は「くらのかみ」と読みます。「蔵司」(くらのつかさ)の長官です。「尚」は長官(かみ)の意味で、「尚侍」(ないしのかみ)は「内侍所」の長官です。したがって共にそれぞれの長官を意味します。
「尚侍」は従三位ですが、「尚蔵」は正三位です。それは、「蔵司」が神璽、関契、供御の衣服、巾櫛等を蔵しこれを出納する役所なので、後宮職員のうち最高位階を有することになっているのでしょう。
参考文献 浅井虎夫・所京子『新訂女官通解』(講談社学術文庫)

Q:「姫君たちの本名」について
 いつもホームページを楽しく拝見しています。私は今高3の女子です。少し前までは古文という教科が大嫌いで、もちろん源氏物語にも興味などありませんでした。でも、姉が「あさきゆめみし」を買ってきて以来すっかり源氏物語にはまってしまい、古文の授業も楽しくなってきました。
 今回の質問はとても変なことなのですが、とても知りたいことなのでどうか教えて下さい。源氏物語には、様々な人が登場しますが、私は本当に知識が無かった為、文中で呼ばれている姫君達の名前(女三宮や、紫の上など)が、彼らの本名だと思っていました。でもあれは違うんですよね?あれはあだ名のようなもので、本名はちゃんと別にあるのですか?
 六条の御息所や匂の宮などは本名ではないにしろ、夕霧や薫とかって本名っぽいじゃないですか。あれも位の上でのお名前なんでしょうか?物語中では姫君達の本名などはどこかに明かされているんでしょうか?もしかしたら私が見落としているだけかもしれませんが・・・でも平安時代の人はちゃんとした自分の名前があるのに、どうして別の名前で呼ばれたりするんでしょうね?それに対して不平とかはなかったのかな、と思います。
 長くなってしまい、すみませんでした。これからも源氏物語や他の古典文学をたくさん読んで行こうと思います。
A:源氏物語では高貴な方々の実名は出てきません。それは実名で呼ぶことが憚られるからです。あなたは今の天皇や皇太子や皇族の方々の実名を御存じでしょうか。その伝統は現在でも生きています。
 源氏物語の中で実名が記されている人は、惟光や良清などといった身分の低い人たちです。なお、実際はみずからの名前を名のった場面でも作者は「なにがしの朝臣」あるいは「なにがしの僧都」などと、わざとぼかして呼んでいます。
 女性では、童女などが「いぬき」や「あてき」などと呼ばれています。この人たちは成人すると、別の女房名で、たとえば「中将の君」「右近」などと呼ばれることになります。
 源氏物語の中で、比較的高貴な女性で、ひょっとしたら実名ではないかと思われる女性がいます。その人は、玉鬘です。右近が玉鬘に再会できますようにと、初瀬の観音に祈っています。その時に、右近は玉鬘のことを「藤原の瑠璃君」(玉鬘 第三章六段、参照)と言ってきます。ただ、玉鬘はあまりに早く生き別れになっていますので(夕顔、参照)、その名前は幼名かあるいは右近が勝手にそう名付けて祈っていたのかもしれない、という疑念があります。
 目上の人の名前や兄弟姉妹の間でも兄や姉の名前を弟や妹は実名で呼びませんね。「お父さん」「お姉さん」などと呼びます。親戚の人のも、地名を付けて呼んだり「伯父さん」「叔母さん」などと呼んでいますね。目上の人から自分のことを実名で呼ばれることには何とも思いませんが、目下の者から、たとえ「さん」付けであっても実名で呼ばれると、何か失礼な、親しくもなのに馴れ馴れしく無礼なやつだ、という感覚がわたしなどような古い人物には今でもありますよ。あなたの周囲ではいかがですか、話しあってみてください。今の時代にも意外と古い感覚、伝統的文化というものが残っているものですよ。

Q:「卒業論文のテーマの見つけ方」について
 私は、北海道に住んでいる文化学部3年の大学生です。
 大学でのゼミは源氏物語で、源氏物語の深さに驚いています。とは言っても、まだまだ全然理解していなくて、卒論も先輩の話を聞くだけで気が滅入ってしまっています。(大変だということで)
 でも、ゼミは楽しくて、卒論はやはり自分にとって最後の締めになるので頑張りたいと思っているのですが、テーマに迷っています。
 もう源氏物語は、どれをテーマにしても全て書かれているので自分の考えは持てますが、新しい発見は難しそうというか、無理だと思いま す。しかし、あまり人に書かれていないもので、良いテーマを探しているのですがなかなかこれだ!と決め手がありません。
 人物論は止めておこうと思っています。顔をさらすことを恥をさらすことと同じことのように考えていたことについてなど文化的なことにしようかと思っているのですが、今一、なんです。
 何かよいアドバイスなどあったら参考にさせていただきたく思います。(F・Hさん 大学生)
A:このようなご質問は最もむずかしい問題です。
 一つは、あなた自身がが『源氏物語』を読んで感じた素朴な疑問について考えてみること。あるいはまた、最も感動したことについてあなた自身のことばで表現してみること。
 二つめは、あなたの指導教授の研究テーマあるいは研究方法をまねて、あなたなりの問題設定をしてみること。わたしに言えることは以上です。

Q:「巻の区切り」について
 初めてメール致します。 私はグループで源氏物語を読み始めて15年になります。解らないところが多く、何を、どんな風に調べたら、求める答えが得られるのか、それすらもよく分かりません。
それで先生にお教え戴きたくメールしました。 巻の区切りについてです。若菜の上が小侍従の和歌で閉じ、若菜の下は小侍従の消息を受け取った柏木の思いで始まりますが、少し不自然な感じがします。
 帚木と空蝉の区切りも不思議なのですが、それは歌物語仕立てになっていて、帚木の巻は「数ならぬ伏屋におふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木」、空蝉の巻は「うつせみの羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな」という一対をなし、物語の場面が続いているにもかかわらず、両巻を、あえてあそこで区切ったのだというのは納得できます。
 それでは、若菜の上下はなぜあの個所で区切ったのでしょうか。少し後に、新しい巻を語り起こすにふさわしい個所「はかなくて年月もかさなりて、内裏の帝、御位に即かせたまひて十八年にならせたまひぬ」があるのに、なぜなのでしょう。
 玉上琢彌先生は、源氏物語評釈の中で「小侍従の返事で「上」を切り、そして新しい巻を手に取ったら、その返事を見る柏木になる、というのは見事な構成と言える。「帚木」の巻から「空蝉」への巻も一続きの途中で切ったが、あれより一段と技巧はさえた」と書いておられますが、もう一つ得心できません。初めてなのに恐縮ですが、どうかお教え下さい。(T・Yさん)
A: 大変に難しい問題です。わたしも玉上琢弥氏以上のことは何も言えません。
 ただ、わたしが古注釈書を研究している経験から申しますと、『源氏物語』に関する最も古い記述の一つに平安時代の『更級日記』があって、それを書写した藤原定家の表記に「源氏の五十よまきひつにいりながら」とあります。この「五十よまき」は、「五十四帖」とは確定できません。
 平安末期に作られた『源氏物語』の最初の注釈書である世尊寺伊行の『源氏釈』では、「若菜」巻を上下に分けて数えていません。さらに『源氏釈』 の一本では「さくらひと」という今日では失われた巻の注釈も残っています。その他、巻の数え方には今日とは違ったものが見られます。
 また藤原定家の注釈『奥入』では「うつせみ 二のならひとあれと はゝ木ゝのつき也 ならひとは見えす 一説には 二かゝやく日の宮 このまきなし ならひの一はゝ木ゝ うつせみはおくにこめたり 二ゆふかほ」と注記しています。「おくにこめたり」とは、「帚木」と同じ帖に入っているという意味でもありましょうか。
 定家の『奥入』は、『源氏物語』の各帖の末尾を切り離して一冊に製本し直したものですから、元の本体についてもだいたい分かろうというものですが、『源氏釈』『奥入』ともに、一続きの内容の物語(たとえば、「帚木」「空蝉」、「須磨」「明石」など)の巻間にわたる注釈項目の錯簡があって、なぜそのようなことが生じたのか問題があります。
 ところで、現存する鎌倉時代に書写された『源氏物語』諸本の中には、池田本や伏見天皇本などのように、二巻を一緒に綴じて製本しているものもあります。あるいは、このようなこととも関連するのでしょうか。
 「若菜」上下は、ほぼ同じ分量です。あれほど長い巻をほぼ等分に書き分けるというのは、もし最初から計画的に構想立てして書いたとしたら大変なことです。しかし、紫式部ならそのくらいのことは可能だと思います。なぜなら、「若菜」を後人が等分して二帖仕立てにしたと考えると、元の「若菜」一帖があまりに厚すぎて綴丁装で一冊に製本するのは難しかろうと思います。
 現存する『源氏物語』の諸本のいずれを見ても、各巻の始まりと終わりは、ほぼ同内容です。『紫式部日記』の「御冊子作り」の記事は、そのことと深くかかわり裏付けるものと思います。
 作品の内容面から考えれば、紫式部の卓越した力量と『源氏物語』の芸術性というのを思わざるをえません。

Q:「夕顔」という女性について
はじめまして。
私は高校三年生で、自分の興味を研究する「総合学習」という高校の授業で、源氏物語をやっています。大学でも、研究したいからです。
テーマは、「源氏が最も愛した女は誰か」です。源氏をとりまく男女様々 な人間関係、源氏の恋人たち一人一人などを細かく調べた上で、結論を出したいと思っています。
まだ始めたばかりなのですが、空蝉のまとめが、いまやっと終わりました。
今度は夕顔なのですが、一つ、質問があります。
質問というよりも、違和感なのですが・・・。
夕顔は、極端に内気な性格で、頭中将や、源氏がきまぐれに訪れても、長らく訪れなくても怒りもせず、懸命に妻としてふるまっている、「ひたすら従順な 女」。
「人に悩む素振りを見られるのが恥ずかしいと考えて、何気ない風を装っている」という、気の小さいか弱い女。
でも、庭に咲く夕顔を源氏の命で随身が手折ろうとしたとき、女童に扇を持って行かせ、その扇に文を・・・。それが源氏とのつきあいのきっかけになって・・・。つきあいの出だしが夕顔からだなんて、なんだか積極的に思えるんですが、私の読み方が違うんでしょうか。これは平安時代の女性にとっては、普通のことなんでしょうか?
頑なだった空蝉とのギャップに、妙な違和感を感じてしまいます。苦しみながらも、源氏と逢瀬を重ねる夕顔の人物像が、いまいちはっきりしません。
その後の文章を読めば、夕顔は正真正銘「内気な女」で納得いくんですが。
少し、混乱してしまいました。
わかりにくい質問ですみません。よろしくおねがいします。(T・Tさん 高校生)
A:おっしゃるとおり、夕顔という女性は内気な性格と積極的な性格との両面性が見られます。しかし、「帚木」巻の雨夜の品定めの折の頭中将の夕顔ついての体験談や夕顔の侍女である右近の詞などから基本的には「内気な女性」という造型のされ方だと思います。
 「平安時代の女性にとっては、普通のことなんでしょうか」という御質問は、『源氏物語』が優れた作品であるがゆえに、登場人物を型にはまった類型的な造り方ではなく、人間の複雑さなどをありのままに描き出しているので、まさに普通のことなのです。本来、人間というものは単純なものでなくかなり複雑な生き物なのではないでしょうか。光る源氏の人間性を見ても、そのことが例えば、「---ものから---」あるいは「---ものの---」というような逆接の文脈によって、もう一面の心理や建て前と本音などとが描かれています。
 平安時代に活躍した、紫式部をはじめ、清少納言(枕草子)、和泉式部(和泉式部日記)、赤染衛門(栄華物語)、さらには『とはずがたり』の作者など、いずれも個性的でそれぞれの性格がよくよく現れています。どうぞたくさん古典を読んで、人間というものについての洞察を深めていってください。
参考文献
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識 夕顔』(平成12年 至文堂)

Q:「探韻」について
 さっそくですが花宴についての質問です。
1 探韻が行われた場所が清涼殿、紫宸殿で分かれているのはなぜでしょうか?場所による儀礼的な違いはありますか?
2 探韻の順番は官位順とありますが実際に詩を読む順番はどうなっていたのでしょうか?
3 探韻に参加できる官位は?(Kさん)
A:「花宴」巻には、「如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。(中略)親王たち、上達部よりはじめて、その道のは皆、探韻賜はりて文つくりたまふ。」(第一章「朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語」第一段「二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴」)とあります。
したがって、探韻が行われた場所も紫宸殿(南殿)の前庭の左近の桜の近くでしょう。清涼殿の前庭には桜の木はありません。
 探韻の順番については、知りません。
 探韻に参加できる官位については、「親王たち、上達部よりはじめて、その道のは皆」とありますから、漢詩文の作れる皇族、貴族は皆ということで、五位以下の貴族やさらには文章生の学生の中でも特に漢詩文に優れた学生は参加していたと想像してもよいのではないでしょうか。

Q:「---行ふ、尼なりけり」の訳し方について
 私は○○大学のM・Kといいます。 国語学を専攻しています。さて、若紫巻の「行ふ尼なりけり」の個所を先生は「勤行しているのは、尼なのであった」と口語訳しておられますが、私は拙稿「行ふ尼なりけり」続貂−「偶然確定拘束格」を受ける「なりけり」(国学院雑誌99巻9号平成10年9月)で結論しましたように「(小柴垣の女主は)…尼なのであった」と解釈すべきだと考えます。
 ちょっと乱暴ですが、尼が勤行するのは当然でしょう。ここで肝心なのは「小柴垣の女主はなんと尼だった」ということです。お供の者が「かしこに女こそありけれ」と言ったのを耳にして、その女が何者であるか気になっていた源氏は、夕暮れにまぎれて覗いてみた。するとそれは尼なのであった。とこういうわけです。そして何より、そのように解釈すべき語学的根拠を拙稿で述べさせていただきました。
 この点につきまして先生のご意見をお聞かせください。お願いいたします。(M・Kさん 大学教員)
A:わたしの源氏物語訳は、一語一文節まで本文(原文)に対応させた逐語訳です。「若紫」には次のようにあります。
「人びとは帰したまひて、惟光朝臣と覗きたまへば、ただこの西面にしも、仏据ゑたてまつりて行ふ、尼なりけり。」(第一章第三段 源氏、若紫の君を発見す)
 そして、上のように句読点を付けて文脈を理解しました。
 わたしの訳文、「供人はお帰しになって、惟光朝臣とお覗きになると、ちょうどこの西面に、仏を安置申して勤行しているのは、尼なのであった。」(同)は、その逐語訳です。
 御指摘のとおり、「尼が勤行するのは当然」でして、拙訳「勤行しているのは、尼なのであった。」はあまりにも逐語訳すぎた訳し方であると言わねばなりません。
 今泉忠義訳では「他のお供はお返しになって、惟光だけをお供として、垣根越しに覗いて御覧になると、ほんの鼻先の西向きの座敷に、御持仏をお据ゑ申して勤行してゐる、それは尼なのであった。」(桜楓社版 160頁)と訳しています。
 「行ふ」と「尼なりけり」の間には、省略あるいは間合いがあるものと考えられます。今泉訳はそこのところを上のようにうまく訳していると思います。
 M・Kさまの御論文は拝読しておりませんので申し訳ありませんが、ここでおっしゃるとおり、
 「お供の者が「かしこに女こそありけれ」と言ったのを耳にして、その女が何者であるか気になっていた源氏は、夕暮れにまぎれて覗いてみた。するとそれは尼なのであった。」
 という文脈の中で理解される方法はまさに正しく思います。その文章の叙述が原文では上のような表現になっているのです。
 この箇所の訳し方は、御高説のとおり、また今泉訳で「それは」と補っていましたが、「(小柴垣の女主は)…尼なのであった」ということでしょう。わたしの「---しているのは、尼なのであった。」という訳し方は、たとえそれまでの文脈全体を受けて「---しているのは」とし ても、それは適切ではなく、同じくことばを補わねばならないとするなら、むしろ今泉訳や御説のように「尼なりけり」の前に補う方が適切であると考え直しました。御指摘ありがとうございました。

Q:「なぜ「ましてやすからず」なのか?」」
 初めまして。いつもホームページを拝見させていただいております。
「桐壺」の冒頭部分について質問させて下さい。
《おなじほど、それより下臈の更衣たちはましてやすからず》
 とありますが、なぜ「まして」なのでしょうか?なぜそういう心情を彼女達は抱いたのでしょうか?(T・Tさん)
A:正直いって、なぜ「まして」なのか、わたしにもよくわかりません。一つには「まして」と漸増的に表現した文章の綾なのでしょうか。
「はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。」(第一章一段「父帝と母桐壺更衣の物語」)
 桐壺の更衣と同等の更衣や彼女より下臈の更衣たちが、身分の高い女御や上臈の更衣たち以上に穏やかでない、というのは何か逆のようで、腑に落ちないものがあります。
 また一つには、当時の風習なのでしょうか。身分の高い女御や上臈の更衣たちは、感情をあらわに表さないのが慎みと嗜みのある態度とされていてさほどは見えなかったが、そうではない身分の低い中臈下臈の更衣たちは遠慮なく感情あらわに態度にむき出して振る舞ったために、語り手のはた目にも「ましてやすからず」と見えたのでしょうか。
 ということで、わたしにもよくわからないものがあります。

Q:「女御の死後は?」
 突然ながら失礼します。今高3です。早速・・・・桐壺の更衣が死んで天皇がとくしんして桐壺の女御とよばれますよね?では、女御の人が死んだ場合はどうなるんでしょうか?(高校生 Y・Kさん)
A:残念ながら、桐壺の更衣は亡くなって後に、女御となっていません。したがって、そのように呼ばれることもありません。「桐壺」巻には、次のように書かれています。
「内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。」(第一章五段「故御息所の葬送」)
 すなわち、正四位上の位から一階上げて従三位の位に叙したのです。女御の地位はいわば職階です。三位の位は位階です。別のものです。
 当人が亡くなった後から職階や位階を授けることを追贈といって、平安時代にはよくあったことですが、誰でもということではありません。菅原道真の例を見て下さい。
 女御の上の地位は中宮または皇后ということになりますが、追贈されて位階は上がることがあっても、よほど特殊な事情でもない限り中宮または皇后になることはまずありません。
参考文献
和田英松・所功『新訂官職要解』(講談社学術文庫)
浅井虎夫・所京子『新訂女官通解』(講談社学術文庫)

Q:「貴族の官位について」
 先日は、ご丁寧な解説をいただきありがとうございました。
今回、またまた物語とは関係ないのですが、貴族の官位について質問させて下さい。
 一つは、後宮の女性についてなのですが、中宮と皇太后と妃いうのは別格のものなの でしょうか?位からいうと中宮が1番上のようだった気がするのですが、皇太后とい うのは、春宮を生んだ方と認識してるのですが、明石の女御は、中宮になられたのは 、どういう理由からなんでしょうか?女性への位の授け方を教えていただきたくよろ しくお願いします。
 もう一つは、光源氏は、最終的に准太上天皇の待遇を受けたわけですが、これはどう いった位置にある物なのでしょうか?臣下ではなく皇族として扱うという意味なので しょうか?光源氏はもともと、皇子でしたけど、臣下の立場からこの地位まで上られ た人というのは、実際に存在するのですか? よろしくお願いします。 (Y・Tさん)
A:1 後宮の女性の位について
 源氏物語の中で時の「帝(みかど)」の御妻(みめ)としての「后(きさき)」となった女性として、桐壺帝の「藤壺中宮」、次の朱雀帝にはいなくて、その次の冷泉帝の「秋好中宮」、そして今上帝の「明石中宮」の三人がいます。
 まず、藤壺中宮は「七月にぞ后ゐたまふめりし」(「紅葉賀」第5章1段)とあり、次に「中宮のかくておはするを」(「花宴」第1章1段)とあります。
 次の秋好中宮は「かくて、后ゐたまふべきを」(「少女」第3章1段)とあり、「中宮のよそほひことにて参りたまへるに」(同第5章2段)と出てきます。
 そして、明石中宮は「内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて」(「御法」第1章2段)とあり、次いで「かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせたまふ」(同第1章5段)あります。
 以上のように、源氏物語では「后」と「中宮」とが同義で使われています。「皇后」という漢字表記は使われていません。
 「妃(ひ)」は、もと『後宮職員令』に出てくるもので、源氏物語の中では「后」「女御」「更衣」という呼び方と序列で、「妃(ひ)」は出てきません。
 ここで一つ注意しておきたいのは、今日の制度とは違って、当時は天皇の即位と同時にその妃が皇后になるというのではなくて、即位後しばらくしてから女御の中から「后」が選ばれるということです。
 次に、人を呼ぶ時の慣例として、その人が現在はその地位にいなくてもその当時の最高の地位で「后の宮」「中宮」などと呼ぶことがあることです。
 ところで、朱雀帝の時には帝の御妻としての「后」は立ちませんでしたが、その母弘徽殿女御が「今后」(「葵」第1章1段)「后」(「葵」第1章2段)と呼ばれています。
 桐壺帝が藤壺宮を「中宮」に立たせる時に、先に入内した弘徽殿女御に次のように言ってきかせています。
 「春宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」(「紅葉賀」第5章1段)
 この「疑ひなき御位」とは、帝の母親としての「皇太后」の地位だと思います。 それを「后」と言っているものと思います。
 大勢伺候している女御・更衣の中から誰を「后」に立てるかは、帝の意向よりも、その女性の家柄や時の権勢力によります(桐壺)。明石姫君が中宮になれたのは、実の母親(明石御方)の出自が低かったので紫の上の養女として引き取り(松風・薄雲)、また源氏の圧倒的な権勢力下での春宮への入内によります(梅枝・藤裏葉)。
参考文献:浅井虎夫著所京子校訂『女官通解』(講談社学術文庫)

2 光源氏の准太上天皇の待遇について
 「明けむ年、四十になりたまふ、御賀のことを、朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。
 その秋、太上天皇に准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵など、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり」(「藤裏葉」第3章1段)
 源氏は、退位された天皇(太上天皇)と同待遇(准らふ)の地位と手当てを得ました。皇族に復籍したわけではありません。身分はあくまでも臣下のままです。女三の宮との結婚も臣下としての儀式作法です。
 天皇の位に即かずして准太上天皇の待遇を賜った人は、歴史上、一条天皇の御生母の藤原詮子が出家して皇太后を辞されて後、太上天皇に准ぜられ「東三条院」と号された1例があるのみです。
 源氏物語では詮子をモデルとした藤壺宮が、やはり、
「入道后の宮、御位をまた改めたまふべきならねば、太上天皇になずらへて、御封賜らせたまふ。院司どもなりて、さまことにいつくし」(「澪標」第3章3段)
 とあります。
 宇多天皇は、光孝天皇の第7皇子で、初め臣籍に下って源定省と称しましたが、後に皇族に復籍され即位された天皇です。譲位後は太上天皇の尊号を受けましたたが、出家して後は太上天皇の尊号を辞し法王と称しています。この方は実際に天皇になられた方なので、「准らふ」ということにはなりません。
 源氏物語では「なほめづらしかりける昔の例を改めで」と語られていますが、男性では太上天皇「准らへられた」方はいません。光源氏の准太上天皇は、歴史上の太上天皇の待遇例や藤原詮子の「准らへられた」例をもとにして創作された虚構です。

Q:「御所の構造について」
 突然のメールで失礼いたします。
 以前から古典文学には、大変興味があり、いくつか読んでいるのですが、やはり時代背景みたいなものがわかりにくく、困っていました。先生のサイトで、詳しく説明がされており、勉強させていただいてます。 実は、内容とはあまり関係ないのですが、御所の部屋(桐壷、藤壷、弘徽殿など)というのは、実際にはいくつあったのか知りたくてメールをしました。
 部屋の割りふりというのは、どのように決まっていたのでしょうか? あらかじめ、この人が入内する時は、ここ。という風に決まっていたのでしょうか?
 部屋自体には、ランク付けみたいなものはあったのですか?
 箇条書きに書いてしまって申し訳ありません。(Y・Tさん)
A:「後宮十二殿舎」といって、(1)承香殿(2)常寧殿(3)貞観殿(4)麗景殿(5)宣耀殿(6)弘徽殿(7)登華殿の七殿と(8)昭陽舎(9)淑景舎(10)飛香舎(11)凝華舎(12)襲芳舎の五舎がありました。
 (1)から(3)は内裏の中央の紫寢殿・仁寿殿の北側に南北に並んであります。(4)と(5)はそれらの東側に同様に南北に並んで、また(6)と(7)はそれらの西側にやはり南北に並んでありますので、それぞれ左右対称にあります。
 (8)と(9)は(4)(5)の東側に南北にそれぞれ北舎を伴って四棟あります。一方、(10)(11)(12)は(6)(7)の西側に南北にあります。左右対称が少しくずれます。舎よりも殿のほうが格が上等です。
 さて、天皇の日常いらっしゃる御殿は清涼殿です。仁寿殿の西側、弘徽殿の南側ですから、(6)弘徽殿が最もお側近く上等な殿舎となります。『源氏物語』では、摂関家藤原氏の子女が入内する殿舎として当てられています。右大臣の娘(桐壺)と左大臣家の頭中将の娘(澪標)が入っています。
 同様にお側近い殿舎として(10)飛香舎があります。中庭に藤が植えられていましたので、藤壺とも呼ばれています。ここには、皇族関係の娘に当てられています。先帝の四宮(桐壺)、女三宮の母で藤壺中宮の異母妹(若菜上)が入っています。
 (9)淑景舎は清涼殿から最も遠い位置にあります。中庭に桐が植えられていたので、桐壺とも呼ばれています。光る源氏の母桐壺更衣が入っています。その父親は按察大納言でした。門地の低さと寵愛の厚さという悲劇が語られていました。その後、光る源氏の娘の明石女御が入っています。それは、桐壺更衣が亡くなった後に源氏がそのまま曹司として使用していたこと、明石女御が入内した東宮が(8)昭陽舎におられたので、その最も近い殿舎であったことによります。
 以上、主要な後宮殿舎とそこに入る女性との関係を挙げました。ご質問のとおり、そこにはある一定の決まりやイメージがあったようです。

Q:突然のメール失礼します。なかなか探し出せないシーンがあり、渋谷先生に伺おうとメールしました。
 昔、何かで読んだのですが、朝顔の君が幼い頃に彼女の母親が静かに舞うのを夜中に見るシーンがあったように思います。
強く記憶に残っているのですが、このシーンがどの章にあるのかがなかなかわからず探しています。
 お手数ですが、教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。(会社員 Mさん)
A:残念ながらそのようなシーンは源氏物語にはありません。源氏物語の中の高貴な皇族や貴族女性の立ち姿というのは、例外なくらい数少ないものです。まして巫女や舞人(五節の舞)でない限り、舞を舞うということはありません。(女性が夜中に一人舞を舞い出すというのは、何か中世の白拍子か遊女のような女性を思わせます)
 源氏物語の中で、舞に関係した女性で、源氏の昔の恋人であった筑紫の五節(大弐の娘)と夕霧が恋した五節舞姫(惟光の娘)がいます。いずれも中流貴族の娘です。朝顔の姫君の母親とは無関係です。
 「少女」巻に惟光の娘が五節の舞姫に選ばれて、幼い夕霧がその彼女に恋する場面が詳細に語られています(第六章)。また、「少女」巻の冒頭には朝顔の姫君の物語が語られています(第一章)。あるいは、その辺に記憶の混乱があるのではないでしょうか。

Q:丁寧なご返事ありがとうございました。
重ねて申し訳ないのですが、朝顔の君が結婚をためらう理由を語ったり、その理由の書かれた場面があったら教えてください。
 記憶では、彼女の宮中で生きる母の姿を見て、彼女は生涯結婚をしないことを決断したような気がするのですが・・・。
 彼女の心情が語られたところならどこでもかまいません。
 これも記憶違いでしたらホントにすみませんがよろしくお願いします。(会社員 Mさん)
A:残念ながらこれもご記憶違いのようです。原文にはそのようなことは語られていません。それにしてもそのような印象を残された源氏物語の本の名前が知りたいです。(作家の訳本でしょうか?)
 さて、朝顔の姫君が結婚をためらう場面の一つに、「葵」巻の冒頭に六条御息所が源氏との愛情が冷めてきたことに悩み、娘(後の秋好中宮)が斎宮に選ばれ、それにかこつけて一緒に伊勢へ下ろうかと悩んでいる場面があります。源氏の父帝は御息所を粗略に扱わぬよう諌めます。源氏と御息所の関係が京中の噂となったいたのでしょう、そのような噂を聞いて、朝顔の姫君は源氏との結婚をためらう気持ちを漏らしています(第一章一段)。したがって、六条御息所のあり方を見てというよりも聞いて、ということになります。
 朝顔の姫君の結婚拒否・断念は、「朝顔」巻に語られていますが(第二章五段)、作品内部からは朝顔の姫君の結婚拒否の真意は、はっきりと具体的に語られていません。そこでいろいろな説が提出されています。しかし、作品本文に即して、朝顔の姫君の人生行路と心情に沿って考えるのが本当だと思います。今のわたしにはそれについての明解な考えを持ち合わせていません。
 朝顔の姫君はその当時の多くの皇族女性の例にならって、世の男性に世話される生活すなわち結婚生活ではなく、皇族女性としての高潔さ(プライド)を持した独立自尊の生活を続けたのでしょう。
 追記 あとから大和和紀『あさきゆめみし』第六部(講談社KCミミ 6巻15頁参照)によることが判明しました。

Q:こんにちわ 初めてメールします。
いきなりですが夕霧を残して死んだ源氏の最初の正妻葵上。もし彼女が生きていたら源氏そして源氏の妻達に何か違いはあったのでしょうか??そして紫の上は??(R・Nさん)
A:大変に大きな違いが生じただろうと思います。
 葵の上の死去は、政略結婚と不毛の愛情がようやく初めての子の妊娠出産ということで、夫婦仲に愛情の回復の兆し始めたときでした。したがって、源氏の悲嘆は大きいものでした。もし葵の上が生きていれば、子を鎹にして、夫婦の愛の復活の物語として新たな主題性をもって語られていったかもしれません。しかし、その主題は採り上げられませんでした。
 さて、第一に、紫の上の地位が実質的な正妻にならず、側室のままになったでしょう。紫の上は本邸に同居していましたから、いわゆる召人的(中務や中将の君)に見られていれば波風は立ちませんが、側室としての源氏の愛情と扱いが高まれば、正妻の葵の上との間に大きな確執を生じることは避けられません。藤原道長にとっての正妻の倫子(同居)と側室の明子(別居)との関係を立場を反対にしたような関係です。
 第二に、実質的正妻紫の上に対する側室としての明石の君という位置付けにも変化を生じさせましょう。正妻の葵の上に対して共に側室的妻妾となれば明石姫君をめぐって生みの親と育ての親という主題にも微妙な問題を投げかけるでしょう。地方で誕生した明石姫君を宮中に入内させるための格上げには都の高貴な源氏の正夫人の養女という条件が必要でした。
 第三に、葵の上が正妻として存在していれば、後の朱雀院の女三の宮の六条院降嫁ということも起こらないでしょう。
 源氏物語において、「もし」という可能性を考えることは、時にこの物語において採用されなかったり中途半端に終わった主題や構想を考える意味でおもしろい問題設定です。源氏物語は長篇物語ですから、その主題性がのちにいろいろな場面や局面において、もやもやと首を持ち上げてくることがあるからです。

Q:突然で誠に恐縮でございますが 下記の和歌を探しております。
「世の中は夢の---の---橋かうちわたしつつ物をこそ思へ」
 源氏物語に関係があるように記憶しておりましたが調べましてもわかりません。この和歌に関しましてご教示願えましたら幸甚に存じます。(M・Kさん)
A:標記の和歌は、
「世の中は夢のわたりの浮橋かうちわたりつつものをこそ思へ」
というものです。
 出典は源氏物語の最初の注釈書である「源氏釈」という書物に引かれている出典未詳の和歌です。「薄雲」巻に指摘されています。いま、冷泉家本「源氏釈」から引用しました。
参考:『源氏釈』(源氏物語古注集成16 平成12年10月 おうふう)

Q:はじめまして、突然のメール失礼いたします。先生のホームページは大変わかりやすく、毎日少しずつ読ませてもらっています。 ところで、授業で「並びの巻」というものを知り、図書館で詳しく調べようと思ったのですが、どのように調べていいかもわからず、いくつか読んだ本にも載っていませんでした。一体どのようなものなのでしょうか? もしよろしければ、教えていただきたくてメールいたしました。(M・Gさん)
A:「並びの巻」とは、平安時代末期に作られた源氏物語の最初の注釈書である「源氏釈」(世尊寺伊行著)という中で、巻序について、「一 きりつほ」「二 はゝき木」「ならひ うつせみ」または「二のならひ うつせみ」「ゆふかほ」「三 わかむらさき」「ならひ すゑつむ花」「四 もみちの賀」「五 はなのゑん」(以下略)と記されている「ならひ」という巻のことです。
 「空蝉」巻を第三と数えず「並び」と数え、また「夕顔」巻も数え挙げずに「空蝉」巻同様に「帚木」巻の「並び」の巻扱いしています。「末摘花」巻は「若紫」巻の「並び」の巻としています。以下、このようにして「源氏釈」では、源氏物語の巻名について、巻名を数字で数え上げる巻と数え上げないで「ならひ」とする巻とがあります。
 次の鎌倉時代の藤原定家の注釈書「奥入」では、例えば「うつせみ 二のならひとあれとはゝ木ゝのつき也ならひとは見えす 一説には 二かゝやく日の宮 このまきなし ならひの一はゝ木ゝ うつせみはおくにこめたり 二ゆふかほ」とあります。
 定家は「空蝉」巻について、伊行は「帚木」巻の「並び」というが、「帚木」巻の「次ぎ」の巻だと言っています。そして一説には「二 かかやく日の宮」巻というが、このような巻はない、と言っています。現存本の「源氏釈」の中には出て来ていません巻名ですから、定家は何にもとづいて言っているのか、今日ではよくわかりません。また、その一説によれば、「帚木」巻を「並びの一 帚木」「夕顔」は「並びの二」と言っている。しかし 「空蝉」巻は「帚木」巻の「奥に込め」てある、と言っています。
 このように、「並びの巻」とは注釈史の初期からいろいろな考え方の出ている問題なのです。さらに近年発見された冷泉家本「源氏釈」ではまた少し違った数え方もしています。今日でもよく分からない問題です。
 どうぞ、御自身で「並び」といわれる巻の内容をよく読んでみてください。
参考 『源氏釈』(源氏物語古注集成 平成12年 おうふう)

Q:初めまして。突然のメールで失礼いたします。 私は大学で日本文学(おもに古典)を学んでいます。今源氏物語の御幸の巻について勉強しています。
そこでどうしてもわからないことがあるのでお聞きしたいと思います。授業では新日本古典文学大系を使っています。その10行目から11行目にかけて
「光こそまさり給へ、かうしたたかにひきつくろひ給へる御ありさまになずらへても見えたまはざりけり。」とあります。
ここの訳についてです。新大系の注には「光輝という点では源氏が優れるが、今日の内大臣の盛装の前では、源氏も較べものにもならない、の意か。」
とありました。これだけ読むと内大臣が源氏より優位という印象を受けます。
わたしは純粋にこの文を解釈すると、「二人とも違った意味ですばらしい。 だから二人を同じ土俵で比べるわけにはいかない。どちらが優位というわけでもなく比べること自体が間違っている。」という風に感じました。
与謝野晶子の訳では「自然に美しいというようなものが添っていて、 内大臣の引き繕った姿などと比べる性質の美ではなかった。」となっています。
最初読んだ時自分と同じようなことを述べているのかと思ったのですが、「引き繕った姿」という言葉がいい意味ではなく、これはきっと「比べる性質の美ではない=源氏が圧倒的に優位」ということなのだと今は思っています。
新日本古典文学全集、日本古典文学全集、日本古典文学集成、評釈なども見比べましたが、どれもあいまいで、どちらかというと「内大臣優位」という感じを受け、源氏が圧倒的優位という風には感じることができませんでした。
先生に質問に行ったところ、「大君姿」の源氏には誰も対抗できない、誰も源氏にかなわない、比べ物にならない、つまり源氏が圧倒的優位というようなことを言われました。物語全体では「内大臣優位」などということはないのかもしれませんがここの表現に関してはそうとれるのではないかと考えました。
どうも納得できません。考察しようにも答えがない状態です。
 わたしがお聞きしたいのは、ここの訳と、私が述べているようなことを論じている方はいらっしゃるのかということです。
お手数ですが、よかったらお返事ください。よろしくお願いします。(大学生 A・Iさん)
A:少し古い注釈書の池田亀鑑校注『源氏物語』三巻(昭和25年 朝日新聞社)では、次のようにあります。
「源氏は天与の光こそ優つてをられるが、かう仰々しく盛装された内大臣の外容という点では、比較にならなかった。特に内大臣の華美をいふか。古来諸説がある。河内本「たとへん方なき御光うちまさり給へるに、かうしたたかに引繕ひ給へる御有様、なずらふへくも見え給はさりけり」とあり、これによると、源氏は内大臣よりも比較出来ぬ程立派であつたの意となる」(247頁)
 ここの箇所には、いわゆる青表紙本系統の本文と河内本系統の本文との間に異同があって、後者の河内本系統の本文では源氏が優り、前者の青表紙本系統の本文では内大臣が優るということになります。それで、古来諸説があるのです。
 河内本の本文を尾州家本から下にひきます。
「いよ/\たとへんかたなき御ひかりうちまさり給へるにかうしたゝかにひきつくろひたまへる御ありさまなすらふへくも見え給はさりけり」(武蔵野書院)
(私訳 源氏のますます何にも譬えようもないほどのお美しさが優れていらっしゃるので、内大臣がこのようにどんな立派に着飾っていらっしゃる御様子も、源氏の素晴しさには比較できようもなくお見えであった)
 玉上琢弥『評釈』では定家本を底本にしています。いわゆる青表紙本の原本です。そこで『評釈』では「青表紙系だと、源氏は内大臣に負けることになる。それで、内大臣の華美を強調するのだ、という説もある。(中略)青表紙のように、ここは内大臣の仰々しさに源氏は負けるとすると、あとで軽く源氏が勝つと、これもまた一つの抑揚の法である。どちらがよいだろうか」(75頁)とあります。
 私の訳文では「(源氏は)一段と光輝いていらっしゃるが、(内大臣の)このようにきちんと衣装を整えていらっしゃるご様子には、比べものにならないお姿であった」(第二章五段)と訳しています。
 また注釈に「【なずらへても見えたまはざりけり】−服装の華美な点では内大臣の方が勝っていたという意。」第二章五段)と記しています。
 定家本系統の本文に拠って、それを逐語訳した場合、特に「てにをは」の用法などを厳密に訳すと、多少のニュアンスの相違こそあれ、現代の諸校注本にあるような訳文になると思います。
 源氏びいきの源氏読みは、いつの時代にもあるもので、ここの定家本の文章表現では確かに源氏は内大臣に負けますが、それはあくまでも「服装の華美な点では」(あるいは、源氏のしどけない姿が内大臣の盛装に対して劣る、など)と条件を付けた読み方を私はしているわけです。
 「ひきつくろひ給へる御ありさま」は、内大臣の衣装の着方をいうもので、「比べる性質の美ではない=源氏が圧倒的に優位」という解釈は無理だと思います。
 以上です。

Q:ご返答ありがとうございました。 おかげさまで謎がとけました。 しかし、まだいくつか疑問(といいますか、確認の意もこめて) があります。
 一つめは青表紙本系統と河内本系統の記述の違いです。
 大きな違いは「光こそまさり給へ」(青)、「御ひかりうちまさり給へるに」(河)
 の部分で、接続が順接か、逆接かの違いであると解釈しました。これでよいのでしょうか。
 二つめは「『比べる性質の美ではない=源氏が圧倒的に優位』という解釈は無理だと思います」のコメントについてです。
 与謝野晶子の訳「自然に美しいというようなものが添っていて、内大臣の引き繕った姿などと比べる性質の美ではなかった」を私が「比べる性質の美ではない=源氏が 圧倒的に優位」と思ったことに対しておしゃっていらっしゃるのですか。
 そうだとしたら、与謝野晶子の訳は誰を優位と言っているのでしょうか。
 三つめ。大学の先生に質問に行ったときに尾崎左永子さんの本(おそらく「光源氏の 四季」という本)を読んでみたら(よいのでは)とアドバイスされました。この本の一部を引用します。
 「いたう暮るるほどに、待たれてぞわたりたまふ。桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて皆人はうへのきぬなるに、あざれたるおほきみ姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり(花宴)
 他の人はみな表衣、つまり袍を着て正装しているのに、若人らしく桜襲の、表白、裏蘇芳の直衣、それに少し改まって裾を長くひいて、しゃれた「王姿」、つまりいかにも皇子らしい姿をしている光源氏でした。ふつうの人々も正装よりは一段略式の、「表袴」ではなく「指貫」に「袍」という形と思われますが、それにしても、皇子の「あざれた」スタイル、それも花の方が見劣りするくらい、美しい光源氏の気品に、右大臣邸の人々は圧倒されてしまうのです。」
 確かにここでは「おほきみ姿」の光源氏は美しく、まわりの人を圧倒されています。しかし、同じ「おほきみ姿」でも御幸の巻(青表紙本系の記述)はまた違ってくると思いましたがいかがでしょうか。(大学生 A・Iさん)
A:第1の質問「青表紙本系統と河内本系統の記述の違い」について。
 青表紙本の係結びの用法は、逆接用法で下文に続く用法です。「光りこそまさっていらっしゃいますが、---」という文意。一方、河内本の接続助詞「に」は順接の意で、原因・理由を表します。「御光りがうちまさっていらしゃるので、---」という文意です。 その結果、青表紙本では、源氏劣勢、内大臣優勢ということになり、河内本では源氏優勢となります。
 第2の質問「『比べる性質の美ではない=源氏が圧倒的に優位』と与謝野晶子の訳は誰を優位と言っているのでしょうか」について。
 青表紙本の本文(「光こそまさり給へ、かうしたたかにひきつくろひ給へる御ありさまになずらへても見えたまはざりけり。」)に基づく限り、内大臣優勢、源氏劣勢の文意です。与謝野晶子の訳は源氏を優勢としています。しかし、それは意訳です。原文に忠実な訳とは言えません。
 もっとも、晶子が参照した源氏物語の本文は当時の青表紙本系統の流布本、例えば『湖月抄』では、『細流抄』を引用して「此段両義有、なずらへても見え給はざりけりと云までを、源の容義にみる義あり、又義は光こそまさり玉へと云迄源の事也、其末は内大臣也、きらきらしき所は内大臣はまさり給ふべきと也、二義共に用之」ともあります。おそらくは、河内本本文のような読み方、あるいは青表紙本本文の二義説、そしていつもの源氏びいきの読み方ということが手伝って、そのような訳文が生じたのではないでしょうか。
 ところで、係結び「こそ---給へ。」と已然形にして文をいったん切ったとしても、「御ありさまになずらへても」の格助詞「に」では、直前の文章が源氏を主語とした文脈ですので、やはり源氏が内大臣に対して、という文意になります。もし、それが係助詞「は」とでもあれば、主語は内大臣に変わって、内大臣は源氏に対して、という文意になりましょう。しかし、青表紙本の本文はそうはなっていません。
 なお、与謝野晶子の訳のみならず、瀬戸内寂聴訳でも源氏優勢になっています。ただ、谷崎潤一郎の訳だけが源氏劣勢の訳となっています。 円地文子と尾崎左永子の訳(『新訳源氏物語』第二巻 小学館)ではその一文を訳していません。繰り返しになりますが、青表紙本の本文に拠る限り、与謝野晶子訳も瀬戸内寂聴訳もそしてA・Iさんの解釈も適切ではない、というふうに私は考えます。
 第3の質問「おほきみ姿」について。
 源氏の「おほきみ姿」は、たとい、源氏がどんなにしどけない姿をしていたにせよ、臣下の者が、たとい藤原氏の内大臣であってもそれがどんなに着飾り盛装しても及びのつかない皇族出身の生来の素晴しさをいうものだというふうに、私は解釈しています。
 「おほきみ姿」はある意味で万能です。ただしかし、ここでは服装が盛装で華美な点であるということにおいて、源氏は内大臣に対して劣勢である、というのが青表紙本本文の表現の仕方でありますので、私はそう解釈するのです。いかがでしょうか。

Q:こんにちは。突然のメールで失礼いたします。
私は現在、名古屋の大学に通っているものです。源氏物語が好きでその時代の文化や価値観について勉強しています。
 そこで、どうしても分からないことがありますので質問させていただきます。
 以前、源氏物語を漫画で扱っていた本がありましたので読んでみたのですが、その中に、板張りの湯殿の中央にお湯の入った湯船があり、その湯船の中に空蝉や藤壷といった、貴族の女性が入るシーンがありました。
 この時代はお風呂に入る習慣はなく、体を清めるときも塗れた布でふくだけだと思ってましたので、大変驚きました。
 他の場面も読みましたが、この作者はきちんと時代背景を調べられているように思いました。
 そこでこのことを確認しようと思い、いろいろ調べてみたのですが、湯殿について詳しく書いてあるものを見つけることができませんでした。
 湯殿とはどんな所なのか、この時代に体をどのように洗っていたのか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。(大学生 K・Nさん)
A:『源氏物語』には、「御湯殿」の用例が3つあります。すなわち、
 「御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何事の御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、命婦などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあらねば、なほ逃れがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ。」(「若紫」第二章第二段)
 「昨夜のは、焼けとほりて、疎ましげに焦れたるにほひなども、ことやうなり。御衣どもに移り香もしみたり。ふすべられけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ替へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。」(「真木柱」第二章第七段)
 「対の上も渡りたまへり。白き御装束したまひて、人の親めきて、若宮をつと抱きてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかること知りたまはず、人の上にても見ならひたまはねば、いとめづらかにうつくしと思ひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶えず抱きとりたまへば、まことの祖母君は、ただ任せたてまつりて、御湯殿の扱ひなどを仕うまつりたまふ。」(「若菜上」第十章第五段)
等です。
 「若紫」は、藤壺宮の妊娠が彼女の沐浴にお仕えする乳母子の弁や王命婦などによって気づかれるというもの。
 「真木柱」は、鬚黒大将が昨夜妻の北の方に灰を浴びせられて、その焼け焦げた臭いや灰を取り除くために、たんねに沐浴したことをいうもの。
 「若菜上」は、明石女御に若宮が誕生して、その産湯につからせる儀礼あるいは儀式。
 当時の入浴方法は沐浴であって、今日のようなような湯槽につかる水浴ではありません。しかし、具体的な沐浴シーンというのは描かれていません。
 『国史大辞典』には、次のようにあります。
「沐浴のための部屋。平安宮内裏の清涼殿では西側北方、後涼殿に続く渡殿にあった。『延喜式』木工寮・主殿寮には湯殿料の御薪や沐槽(ゆあむるふね)以下の用物を年料としてあげている。『禁秘抄』上、恒例毎日次第によると、毎朝釜殿から湯を運び、御槽一、桶二を備えて内侍が天皇の御垢に候し、湯巻を着た典侍が御湯帷を進め、次に河薬(洗い粉)を奉るときその容器のかわらけをゆかに投げる音を聞いて、蔵人が戸外で鳴弦を行う例であった。応永度造営の内裏の図には清涼殿の北面西端から北に続く廊の南端に御湯殿がある。」(福山敏男)
 上は、天皇の場合ですが、おそらく貴族の沐浴も、釜で湯を沸かし、それを桶で汲み出し、水で適当な温度加減にうめて、それを浴びながら、体を洗ったり、身を浄めたりしたものでしょう。
 日光にある田母沢御用邸記念公園が公開されています。大正天皇が御使用になった御用邸ですが、ここに沐浴用の部屋があり、見学ができます。

Q:はじめまして。突然のメールで失礼いたします。
 私は受験生なのですが、先日にやった宇都宮大学(1976?)の入試問題の出典が「源氏物語・御法」の一節で、病床の紫上を明石中宮が見舞っているところへ、光源氏が同席する場面なのです。([第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す])
 この中の設問に、
「紫上が『今は渡らせ給いね』と言ったのは、どういう気持ちからか。40字以 内で記せ 。」
なるものがありました。
 参考書の解答によると、
「苦痛がまさってきて取り乱した様子を二人に見せたら失礼にあたるという気持ち。」(参考37字)
 なのですが、このような解答はどうなのでしょうか。上手く書けませんが、
1)「病床で苦しいのに、これ以上光源氏が近くで騒ぎ立てるのは我慢ならない気持ち。 」(参考37字)
2)「病床で苦しいのに、源氏が騒ぎ立て煩わしく、早くどこかへ去って欲しい 気持ち。」(参考37字)
と言うのも、この場面は死を目前にした紫上が殺風景な自分の庭を見ながら、 自分はこのように寂しい人生を送ってきたと回想しているところから始まります。その元凶はわずか10歳で自分を誘拐して監禁し、14歳で強姦した光源氏です。さらに自分が少し元気になったからと言って源氏は嬉しくてはしゃぎ、まるでその言動はガキなのです。
 さらに紫上の和歌に対して源氏は、
 「すぐに消えてしまう露のように先立つあなたと、遅れて死んでいくわたしの 間の期間が経なければいいのに(すぐに死ねればいいんだけど)、でも実際にはまだ死にませんよ。」と答えている。死にそうな妻に向かってそんなこと言わないでしょう、普通。もし紫上とともに死ねば、夫婦は二(三?)世の縁と言うから来世も一緒に暮らせるのに。
 そして紫上が死ぬと自分を満たすものがなくなると泣く。さらに美しい紫上や明石中宮といつまでも暮らせたらいいのにと、実現不可能なことを考えて悲しんでいる。そんな様子がうっとおしかった、わけです。
 先生はどのように考えられますか。僕の答えはどのように評価されるのか、教えていただけると幸いです。(受験生 K・Kさん)
A:鋭く大変に良い質問です。よって、しっかりとお答えしましょう。 まず、参考書の解答、
 「苦痛がまさってきて取り乱した様子を二人に見せたら失礼にあたるという気持ち。」(参考37字)
 というのは正しいです。そのポイントは、紫の上が死のために苦痛がまさってきて取り乱した様子を二人に見せたら、光源氏と明石中宮に対して失礼にあたる、という点です。
 残念ながら、
1)「病床で苦しいのに、これ以上光源氏が近くで騒ぎ立てるのは我慢ならない気持ち。」(参考37字)
2)「病床で苦しいのに、源氏が騒ぎ立て煩わしく、早くどこかへ去って欲しい気持ち。」(参考37字)
という、光源氏が騒ぎ立てるのが我慢ならない、煩わしい、という理解は当らないと思います。
 あなたが根拠とされる理由、ちょっと言葉が過激ですが、ここで、紫の上が二条院に連れて来られた往時まで遡って回想したと仮定しても、光源氏に対する気持ちは感謝の気持ちとはなっても、おっしゃるような感情は持たなかったでしょう。当時の結婚制度と「若紫」「葵」巻等の内容がそれを支持します。
 また、ここでの光源氏の言動と態度については、紫の上を励まして言っているものです。和歌を詠み交わした後に涙することにも、沈痛な表情がご理解できるでしょう。
 なお、源氏の和歌は「後れ先だつほど経ずもがな」という願望表現です。反語表現ではありません。一緒に死にたいという気持ちを言っています。
 親子は一世、夫婦は二世、主従は三世、というようです。しかし、源氏物語の中にはそのような思想は特に見られないと思います。
 当時は、浄土教が広まりつつある時代でした。宇治の平等院の創建が有名です。極楽浄土に成仏するためには、現世との執着を断ち切ることが大切と考えられていました。それは、死に逝く人にとっても、また遺された人にとってもです。したがって、この場面で現世に執着し、また死に逝く人に執着し、しかもそれゆえに取り乱したりなどすることは、最も慎まねばならないことでした。
 また当時の貴族としての生き方、美意識から、このような死に際しても、その苦しんでいる姿は、たとえ夫の前であっても見せたくはなかった、というのが、その当時の女性の気持ちであったようです。見苦しい姿は見せず、美しい思い出のまま死にたい、ということです。
 だいたい、以上です。お分かりいただけましたでしょうか。場面に即してていねいに読み取ることが大事です。また表現に即して想像力を働かせることが大切です。
 なお、質問がありましたら、またどうぞ。勉強がんばってください。
Q:返答ありがとうございます。
 若干疑問点がありましたのでもう一度お尋ねいたします。
 まず、紫上の光源氏に対する感情ですが、先生の挙げられた「若紫」では、幼い紫上は源氏を養父として慕っています。しかし、「葵」ではそのように慕っていた源氏に裏切られひどく傷ついている様子がうかがえます。確かに「松風」などに紫上が源氏に対する信頼感を表明している記述もありましたが、女三宮の件でそのような信頼関係も瓦解していくように見えます。この辺りからは紫上が源氏に対して感謝の気持ちや、まして愛情を抱いていたようには思えないのですが・・・。また、先生の挙げられた当時の結婚制度がどのようなものか、僕の不勉強のためによくわかりませんでした。
 また、和歌についてですが、「もがな」は「なむ」と違って不可能を前提とした願望と習いました。ですから、「すぐに消えてしまう露のように先立つあなたと、遅れて死んでいくわたしの間の期間が経なければいいのに(すぐに死ねればいいんだけど)、でも実際にはまだ死にませんよ。」のような解釈ができるのではないかと考えたのです。しかも、直前の源氏の発言「この御前にては、こよなく御心も晴れ晴れしげなめりかし。」は、「(私(=源氏)といる時には優れない顔をしているのに、)宮がおいでになる時にだけ気分が晴れやかになるようですね」と解釈できます。つまりこの部分は源氏が紫上に対して嫌味を言っているように取れるのです。
 以上の点を教えていただけるよう、お願いいたします。(受験生 K・Kさん)
A:おっしゃるとおりです。「若紫」と「葵」の巻を挙げたのは、初めて二条院に連れられてきたときの無邪気な紫の上、そして結婚初夜のショックの紫の上、というそれぞれの一面を見ていただきたいと思ったがためです。
 その後、源氏の須磨明石への流離、そして明石の君との結婚そして明石姫君の誕生、さらに朝顔姫君への求婚、女三の宮の六条院への降嫁といったことが続きます。女三の宮の六条院への降嫁は、紫の上にとって最大のショックでした。そのことによって、紫の上は病に臥すことになり、やがて死へと至ることになります。源氏の心に対する不信感や絶望感を抱くようになります。
 したがって、あなたのそのような理解については私も同感です。その間の詳細については、『源氏物語の鑑賞と基礎知識』「若菜上(前半)」(至文堂)と『(同)』『(後半)」(同、近刊)の私が分担執筆したところを御覧いただきたく思います。
 ただしかし、人の心というものは複雑なもので、相反する感情が同居することもあるもので、そのときどきにどちらが支配的な感情となってそのときの心を支配するかの違いだろうと思います。
 たしかに紫の上は晩年に源氏の態度とその心に対する不信感を持ちましたが、そのことによって、紫の上と源氏が共に過ごしてきた全生涯までを否定いるのではない、と私は理解しています。
 したがって、紫の上の臨終の場面での最期の、紫の上、光源氏、明石中宮の近親者三者による唱和歌は、この世とあの世を掛けて結ぶ三者の契りの歌だと思います。ただ、私も紫の上の心を光源氏はどこまで理解と共感をもっているのか、疑問に思っています。しかしそれは光源氏という個別的な人間の一人の問題だけでなく、人間そのもののありよう、あるいは人間相互のどこまで共感できるかという問題を突き付けているように思われるのです。
 文法や語法、語義等の約束事に即して、厳密に文章を解釈していくことは最も基本的なことで大事なことです。しかし、どうしてもそれではおかしいと思われる場合には、そうした文法等をもう一度見直して考え直すということも大切なことだと思います。
 最後に簡潔にお答えします。
 まず、当時の結婚制度云々とは一夫多妻制と継子いじめのことを念頭において述べたものです。
 「すぐに死ねればいいんだけど、でも実際にはまだ死にませんよ。」のような解釈」は、事実はそうかもしれませんが、正しい理解とはいえないでしょう。死に逝く人にこのような言い方はしないし、そうも思っていないでしょう。主旨がどこにあるか考えるべきでしょう。
 「源氏が紫上に対して嫌味を言っているように取れる」というのは、曲解です。軽い冗談のような物の言い方でしょう。
 ますますのご研鑽を祈念します。

Q:7月19日発行された二千円に書かれている源氏物語の詩のよみかたと訳を教えて下さい 。(Y.Kさん)
A:2000円札に印刷されている絵は国宝『源氏物語絵巻』「鈴虫」の第二段の冷泉院と父光源氏の対面の場面ですが、そこに一緒に印刷されている文字は同『絵巻』の「鈴虫」第一段の「絵詞」です。したがって、絵と文字との内容は一致していません。
 文字は以下のようにあります。「絵詞」の下のほうが切れていますので、( )で補っておきます。
「すゝむし
十五夜のゆふ(くれに仏のおまへ)
に宮おはしては(しちかくなかめ)
たまひつゝ念珠(したまふわかき)
あまきみたち二(三人はなたてま)
つるとてならす(あかつきのおとみつ)
のけはひなとき(こゆさまかはりたる)
いとなみにいそき(あへるいとあはれな)
るにれいのわ(たりたまひてむしのね)
いとしけく(みたるゝゆふへかなと)」
 詳しくは私のHP「源氏物語の世界」「鈴虫」の第二章二段「八月十五夜、秋の虫の論」以下をお読みください。また、絵は第二章五段「冷泉院の月の宴」の後半部です。なお、私のHPの底本は大島本を使っていますので、本文に若干の相違があります。

Q:7月19日に2000円券が発行されしました。実際に2000円札に印刷されているのは「鈴虫」のどの部分なのでしょうか。(Y.Yさん)
A:わたしの「源氏物語の世界」でいえば、「鈴虫」第二章五段です。冷泉院と源氏との対面の場は具体的に描かれてはいませんが、次の文章がそれに対応します。
「ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。」
 また、国宝「源氏物語絵巻」では「鈴虫」第二段です。左奥に座って正面を向いているのが子の冷泉院。右側の柱を背にしているのが父親の光源氏です。
 久しぶりの親子対面の場面です。子の冷泉院が父親の光源氏に会いたかった気持ちが、畳から一歩乗り出して床の上に座っていることによって表されています。

Q:蛍の巻の次の個所、 「善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。」(Shibuyatext25.3.2 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-1) )
ここの「皆かたがたにつけたる」を御訳では、 「善いように言おうとするあまりには、善いことばかりを選び出して、読者におもねろうとしては、また悪いことでありそうにもないことを書き連ねているのは、皆それぞれのことで、この世の他のことではないのですよ。」(Shibuyayaku25.3.2 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1) )
と、「皆それぞれのことで」と訳しておられますが、これはどういう意味なのでしょうか。
もう少し内容に立ち入って訳すと、例えば次のと実質的には同様なことを意味されているのでしょうか。 「よいように言う場合にはよいことの限りを選択し、読者の好みに応じてはわるいことでも世にありうべくもないことを集める、そのよいことにつけわるいことにつけて、それらのことはいずれも非現実的な事がらではない。」(秋山虔、源氏物語。岩波新書、1968、112頁) この個所の標準的、定説的な理解はどうなっているのでしょうか。参考書類が手元に殆ど無い状態で、お教えくだされば助かります。(オーストリア在住 T.Mさん)
A:大変にていねいに読んでくださって、有り難くまた恐縮いたしております。
 さて、「皆かたがたにつけたる」の箇所について、最新の注釈書では、次のように訳しています。
『古典セレクション源氏物語』(阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男 校注・訳、1998、小学館)
「その善悪いずれの方面に関したことも」(117頁)
『新日本古典文学大系源氏物語』(鈴木日出男分担執筆、1994、岩波書店)
「それはみな善悪いずれかの面で誇張したまでのことであり」(439頁)
『完訳日本の古典源氏物語』(阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男 校注・訳、1985、小学館)
「その善悪いずれの方面に関したことも」(247頁) 『新潮日本古典集成源氏物語』(石田穣二・清水好子 校注、1979、新潮社)
「皆、善悪それぞれの面で誇張しただけのことで」(75頁)
 「かたがた」は、善と悪との両方をさして言っているものです。
 拙訳「皆それぞれのことで」という訳は、あまりにも逐語訳すぎて、私自身でも後から読み返して意味不明な訳文でした。御指摘ありがとうございました。
 秋山虔先生の『源氏物語』(岩波新書)は、私が大学に入学した頃に読んで大変に感銘を受けた一書です。懐かしく思い出されました。

Q:迅速なお答え、誠に有難く、恐れ入りました。
さて、「皆かたがたにつけたる」(Shibuyatext25.3.2)という個所は、作品論に重きを置く拙解では「それは皆一方的で」となります。下にもう少し詳しく触れてみますが、この解成立の可否につきご教示下されば幸いです。
 尚、今回ご教示の中では、『新日本古典文学大系』の「それはみな善悪いずれかの面で誇張したまでのことであり」というのが一面性を云々する点で、近いようですが、文脈を調べなければ何とも言えません。
 さて、当該個所の読みですが、[ ]内は小生の補充です。
 「[これら通俗の物語は]善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、[つまり]皆かたがたにつけたる[。]
 [しかし物語に書くことは]この世の他のことならずかし。」(Shibuyatext25.3.2 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-1))
というように、「皆かたがたにつけたる」を当時現行の物語の性格付け、次の「この世の他のことならずかし」をそれに対する積極的な批評と読もうとするのです。
 このような読みにつき、特に書誌的、解釈的な角度からのご批判をお願いします。
 又、古来論議の多い所ゆえ、文献類も汗牛充棟ままならぬ所でしょうが、例によって、定説的なもの、標準的(学界スタンダード)なものはいかがでしょうか。
 例えば、源氏物語の物語論 : 作り話と史実 / 阿部秋生著. -- 岩波書店, 1985(オンライン目録のお蔭で書名だけは分るものの、隔靴掻痒感はいや増しです。)などでは、この個所はどうなっているのでしょうか。(オーストリア在住 T.Mさん)

A:T.Mさまの読解、
「[これら通俗の物語は]善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、[つまり]皆かたがたにつけたる[。]
の[ ]内の補充について。
 [これら通俗の物語は]について。私も同意見です。世の一般の物語は、の意。現存する当時の物語として、フィクション系統(伝奇物語)の竹取物語、宇津保物語、落窪物語等と、ノンフィクション系統(歌物語)の伊勢物語、大和物語、平仲物語等があります。
 次に、[つまり]を補充し、[。]と文を結ぶことについて。
前者については異論はありませんが、後者については、ちょっとよく分かりません。「それは皆一方的で」と訳されるのなら、「、」のままでよいのではないでしょうか。
 最後の[しかし物語に書くことは]この世の他のことならずかし。」の[ ]について。
 「皆かたがたにつけたる」で文を切って、改めて主語をたてれば、お説のような解釈も適切だと思います。
 次に、
 「「皆かたがたにつけたる」を当時現行の物語の性格付け、次の「この世の他のことならずかし」をそれに対する積極的な批評と読もうとするのです。」について。
 「積極的な批評」がどのような意味あいでの批評になるのか、もう少し御意見をうかがわないと的外れな返答になるかもしれませんが、私は、以下のように考えます。
 まず、前段において、「『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」(第三章一段)と、物語を日本紀(正史)と比較して「道々しく詳しきこと」が書かれていると称揚。ただし、物語一般論。あるいは、歴史書と比較した上での物語特性。
 次に、
「その人の上とて、ありのままに」以下は、物語の起こりと、現実世界で流布している物語の実体。特に、後半では今の物語は珍しさや善悪両方に誇張化され過ぎているが、それでもやはり「この世の他のことならずかし」といっているもの、と解します。つまり、「皆それぞれのことで(いずれにも誇張されていますが、それはそれで、やはり)」と、連用中止形で、前の「取り集めたる」の文章と共に、下文の「この世の他のことならずかし」に係っていく並列の構文と見るわけです。
 この箇所についての「定説的なもの、標準的(学界スタンダード)なもの」については、前回のメールに書きましたように、近年の注釈書の説をそれと考えて良いと思いますが、注釈者に片寄りがあり、同じ人が複数の注釈書に関わっているのが問題です。
 論文や書物としては、ご指摘の『源氏物語の物語論 : 作り話と史実 』(阿部秋生著. -- 岩波書店)がありますし。かし、実は私も求めようとしているのですが、今だ手にいれていません。著者の阿部秋生氏は近年に亡くなられました。岩波書店の本はなかなか再版されません。現在、新刊本としては在庫がないのか、ほとんど書店でも見かけません。古書店の目録でもけっこう高い値段が付いています。定価通りで購入できたら僥倖です。
 最後に、その阿部秋生氏の論文から引用します。
「蛍の巻のいわゆる物語論が、終始主張してゐるのは、物語といふものは、架空の人物・事件を語つてゐるもので、その表現には、誇張や強調を伴つてゐるけれども、「この世の外の事」を語つているわけではない、物語が語ろうとしてゐるものは、神代から今日までつづいてゐるもの(中略)虚構を含んでゐるひに違ひないが、歴史に劣るものではない、むしろ、その事件と心情の推移のくまぐまを鮮かに語つてゐるものならば(以下、略)」
(阿部秋生「蛍の巻の物語論」、東京大学『人文科学紀要』第24集、昭和36年3月。『源氏物語4』日本文学研究資料叢書、有精堂、昭和57年)

Q:突然のメールで失礼をいたします。ホームページを拝見させていただきました。私は京都の大学4回の者です。空蝉巻の「単襲」についてお聞きします。
「濃き綾の単襲なんめり、何にかあらむ上に着て」の解釈を濃き綾の単重と、その上に何かよく分からないがもう一枚単重を着ている、となさっております。古注釈や現代語訳においてそのように解釈しているのは、今までにみたことがありませんので何故そのようにお考えになられたのか、お尋ねいたしたく思います。また、忍び込んできた源氏から空蝉が逃れる場面でも、生絹の単重を一枚着て、となさっていますね。単襲をどのようなものとお考えですか?私は、単襲はこの時代ではまだ、単純に単を重ねたものと考えております。濃き綾の単襲と源氏が持ち帰ることになる小うちきを重ねていて、寝る時は単襲の単一枚を几帳にかけ、残りの一枚と小うちきとをかけていたのではと考えております。装束に関して興味を持っております。お答えいただければ嬉しく思います。(大学生 N・Tさん)
A:メールをありがとうございました。
 さて、「空蝉」巻の当該箇所の私の現代語訳を引用します。
「母屋の中柱に横向きになっている人が自分の思いを寄せている人かと、まっさきに目をお留めになると、濃い綾の単重襲のようである。何であろうか、上に着て、頭の恰好は小さく小柄な人で、見栄えのしない姿をしている」(第一章三段)
 私の訳は逐語訳です。したがって、ただ「何であろうか、上に着て」とだけ訳して、それが、もう一枚の「単(ひとえ)」であろうか、それとも上着の「小袿」であろうか、特定して訳していません。結論から申せば、それは「小袿」でしょう。あの軒端荻でさえ、一番上には「二藍の小袿だつもの」を着ていました。まして慎み深い空蝉ですから。ただ、源氏の目からは室内の明るさの加減と覗いている角度の面から良く見えなくて、「何にかあらむ表に着て」と表現され たのでしょう。
 ところで、「単重襲」(単重)については、『国史大辞典』(第11巻)に、
「晴の夏の装束に、冬の装束のあこめ重や袿重の二つ衣・三つ衣・五つ衣・六つ衣のように、裏のつかぬ単の衣を数領重ねて、季節の色目や濃淡による薄様・匂・裾濃の表現に趣向をこらし、礼容をととのえて単重と称した」(鈴木敬三)
と説明されています。また「単(ひとえ)」については、
「裏のない一重の衣服の総称。夏装束の大部分は、裏をつけぬ一重の薄物から構成される。いわゆる単重ねである」(同) とあります。したがって、「単重襲(単重ね)」(原文)は、裏のない単(ひとえ)を何枚か重ね着した礼装を言いますが、ここは、自邸でくつろいで碁を打っている場面ですから、そのような礼装ではありません。「単(ひとえ)」をいわゆる「単重襲(ひとえがさね)」と称したものでしょう。
 次に、源氏から逃げる場面について、
「このような感じが、とても香り高く匂って来るので、顔を上げると、単重を打ち掛けてある几帳の隙間に、暗いけれども、にじり寄って来る様子が、はっきりとわかる。あきれた気持ちで、何とも分別もつかず、そっと起き出して、生絹の単重を一枚着て、そっと抜け出した」(第一章四段)
 几帳に打ち掛けてある「単重」とは、装束の「単(ひとえ)」ではなく、調度の几帳の「単(ひとえ)」の帷子です。誤解を招きやすい訳でした。
 空蝉が「生絹の単重を一枚着て」という表現は、それまで脱いでいたものを着て、というようにも読めますが、真意は「(上着の小袿も羽織らずに)それまで着ていた生絹の単重の一枚で(逃げ出した)」という意味です。
 源氏は、空蝉が残していった「薄衣」を持って帰りますが、それは後に「ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて」(第一章五段)ありますように「小袿」です。もし、それが上着の「小袿」ではなく中に着ていたもう一枚の「単(ひとえ)」なら、さらに官能的な描写となりますが、そうではありませんでした。空蝉は、何枚かの裏のない「単(ひとえ)」を重ね着していたと想定して読むよりも、一枚の「単(ひとえ)」の上に何かの「小袿」を着ていた、と想像して読むほうが適切でしょう。

Q:初めまして。わたしは日本文学を学んでいる大学生です。今、源氏物語夕顔の巻の勉強をしているのですが、「まことや〜例のもらしつ」までの惟光の報告の場面が夕顔の巻においてどのような効果をもたらしているのかいまいち解らないでいます。そこで大変不躾だとは思うのですが、その意味を探る手がかりのようなものでかまわないのでお教え願えないでしょうか。(大学生 N・Sさん)
A:この問題に答えるのは一編の論文になってしまいそうなくらい難しい問題です。
 部分的なことを答えれば、「まことや」「例のもらしつ」という表現は、いずれも語り手の言辞です。「まことや」の語句に関しては、吉海直人氏の『『源氏物語』研究ハンドブック』(1994年6月 翰林書房)に研究文献目録が収録されています。後者の省筆の技法については、玉上琢弥氏の『源氏物語評釈』に詳細に書かれています。
 「まことや」から「例のもらしつ」までに挾まれた惟光の報告と行動の役割は、それによって光る源氏の行動と心理の上にどのうような変化を生じさせているか。またそのことは「夕顔」巻の主題や構成の上ではどのような意義をもっているのか。まずは、人物論と作品論とに分けて考えてみて、さらにそれらをいろいろな観点から、得に、この部分が語り手の言辞によって挿入された部分であるということを積極的に評価して読むことによって、独自の読み方が得られるので はないでしょうか。

Q:ただ今、十二単の色合わせ(重ね?)について調べております。源氏の中に、紫の上が源氏の愛人、それぞに合ったイメージの色合わせの着物を選ぶという箇所があったように思うのですが、どの巻のどの箇所かわかりません。教えていただけませんでしょうか? またほかにも、何か参考になる資料がありましたら教えて頂けると有難いです。よろしくお願いいたします。(K・Sさん)
A:それは、「玉鬘」巻にあります(第五章一段「歳末の衣配り」参照)。
 No60『別冊太陽 源氏物語のの色』(昭和63年1月 平凡社)が大変に参考になります。

Q:はじめまして、私は京都に住む高校1年の女の子です。今、古典のレポートのため宇治十帖についていろいろと調べていて、渋谷さんのホームページを参考にさせていただき、とても勉強になりました。
 宇治市の源氏物語ミュージアムという所にも見学にいったりと源氏物語の魅力にはまりつつもあります。そうしているうちに1つの謎に気が付いたのです。
 それは、橋姫の薫が大君と中君の姉妹を垣間見るシーンでいろいろな原文訳文、ミュージアムのビデオ、デイスプレイがそれぞれ姉妹の持っている楽器がちがうのです!!
 一方は大君が琵琶を持ち、中君が琴を持っていてもう一方では大君が琴を持ち、中君が琵琶を持っているのです。まだまだ古文について無知な私には調べれば調べるほど混乱するばかりでちっとも前に進みません・・もしなにか知っておられましたら返事をください。(高校生 M・Wさん)
A:宇治の大君と中の君の人柄と容貌について、次のようにあります。
「(中の君は)容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。姫君(大君)は、心ばせ静かによしある方にて、見る目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる」(第一章二段「八の宮と娘たちの生活」)
「姫君(大君)は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君(中の君)は、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす(第一章三段「八の宮の仏道精進の生活」)
 すなわち、姉の大君は気立ては静かで重々しく奥ゆかしい人柄。それに対して妹の中の君はおっとりとかわいらしくて顔だちの非常に美しい女性です。(訳文は「源氏物語の世界」をご参照ください)
 そうした姉妹に父の宇治八の宮は楽器を習わさせます。
「姫君(大君)に琵琶、若君(中の君)に箏の御琴、まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ」(第一章四段「ある春の日の生活」)
 姉の大君は琵琶を、妹の中の君は箏の琴を、習ってきたのです。
 さて、薫が姉妹を垣間見する場面。姉妹たちの楽器を奏でる音が聞こえてきます。
「近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬ物の音ども、いとすごげに聞こゆ。『常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、宮の御琴の音の名高きも、え聞かぬぞかし。よき折なるべし』と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。『黄鐘調』に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめ いたる声して、たえだえ聞こゆ」(第三章一段「晩秋に薫、宇治へ赴く」)
 薫が姉妹を垣間見をする場面は次のようにあります。
「内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、
『扇ならで、これ(撥)しても、月は招きつべかりけり』
とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに匂ひやかなるべし。
添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、
『入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな』
とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり」(第三章三段「薫、姉妹を垣間見る」)
 すなわち、琵琶を前に置いている人が「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」と言っています。琵琶は姉の大君の習ってきた楽器ですが、その人について、「いみじくらうたげに匂ひやかなるべし」とあり、これは妹の中の君の容貌です。そして、「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」と、その故事は月ではなく日のことですと言っています。その人について、「今少し重りかによしづきたり」とあります。これは姉の大君の性格です。つまり、この場面では、中の君の前に琵琶の楽器が置かれていて、このような会話を取り交わしているのです。
 江戸時代の『湖月抄』までの旧説では、琵琶の前に大君、箏の琴の前に中の君がいる、とするのですが、最近の説では、琵琶を前に置いている人は中の君であるとしています。
 わたしも、そのように考えています。ただ、薫が楽の音色を聞いた時の、
「琵琶の声の響きなりけり。「黄鐘調」に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、たえだえ聞こゆ」(第三章一段「晩秋に薫、宇治へ赴く」)
 とある所は、姉の大君が琵琶を弾き、妹の中の君が箏の琴を奏でていたものと思います。しかし、薫が垣間見した時は、中の君が大君が弾いていた琵琶を前に引き寄せ、撥を手にしていたのだと思います。

Q:はじめまして、郵便局員です。今年の年賀状は「1000年に一度」という、とんでもないキャッチがついてしまった関係で、ネットワークを調べていると源氏物語に行き着きました。
 そこで、まことに、唐突なのですが、源氏物語で「手紙」がもっとも感動的に扱われているのは、どの章なのでしょうか?ぜひ、お教えいただければ幸いです。源氏物語は世界最古の長編恋愛小説だと、考えていますが、その中にはひょっとしたら、言葉で言えば、「どうしてもこのことを伝えたくて手紙を書きました。返事もらえても、もらえなくても、ドキドキすると思うけどでも、書かずにいられなかったんです」と、いうような、比較的若くて、もどかしい、でも痛いほど一途な誰かへの想いが現れた部分があるのではないかと思ったのです。(郵便局員の方)
A:そのような想いは、『源氏物語』に限らず、平安時代の文学作品、例えば、『伊勢物語』などでも、和歌に詠みます。したがって、もっとも感動的な想いというのは、手紙の中の散文の文章の部分ではなくて、和歌に凝縮されていると考えてよいでしょう。
 柏木と女三の宮との手紙を取り上げてみましょう。柏木が六条院で女三の宮を初めて垣間見して贈った手紙です。
「『一日、風に誘はれて、御垣の原をわけ入りてはべしに、いとどいかに見落としたまひけむ。その夕べより、乱り心地かきくらし、あやなく今日は眺め暮らしはべる』
など書きて、
 『よそに見て折らぬ嘆きはしげれども
  なごり恋しき花の夕かげ』」(若菜上・第十四章四段「柏木、小侍従に手紙を送る」)
 この柏木の手紙には女三の宮の侍女の小侍従が代筆をして返事を書いています。(その返事は省略します)。
 密通の後、それを源氏に知られ、病床に臥せっている柏木は、女三の宮のもとへ、
「『今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂くもはべるかな』
など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、
 『今はとて燃えむ煙もむすぼほれ
  絶えぬ思ひのなほや残らむ
 あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもしはべらむ』
と聞こえたまふ」(柏木・第一章二段「柏木、女三の宮へ手紙」)
とあります。その手紙と和歌に対する返事は、
「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただ推し量り。『残らむ』とあるは、
  立ち添ひて消えやしなまし憂きことを
  思ひ乱るる煙比べに
 後るべうやは」(柏木・第一章四段「女三の宮の返歌を見る」)
とあります。柏木は、その手紙を読んで、さらに、
「御返り、臥しながら、うち休みつつ書いたまふ。言の葉の続きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、
 『行く方なき空の煙となりぬとも
  思ふあたりを立ちは離れじ
 夕はわきて眺めさせたまへ。咎めきこえさせたまはむ人目をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも、絶えずかけさせたまへ』
 など書き乱りて」(同じ)
というように書き贈っています。訳文は、「源氏物語の世界」をご参照ください。
おっしゃるような意味で、柏木の女三の宮へ贈った手紙(和歌)が源氏物語の中で最も感動的な手紙の一つと言ってよいでしょう。 どうぞ、柏木と女三の宮の物語を嘆賞ください。
 なお、この他にも手紙の色や紙質、結び付けた植物の枝や花、手紙を出した季節や時候、タイミングなど、実にさまざまな例があります。どうぞ、そうした方面にもご関心を寄せてご鑑賞されたらいかがでしょうか。

Q: わたしも「花の宴」を訳したのですが、あの中の「みなひとにゆるされにたれば」という言葉は「皆に色好みとして認められているのだから」という風に訳すのはどうでしょうか。(Y・Bさん)
A:おっしゃるとおり、その意味で間違いありませんし、訳文全体の流れの中でしっくり落ち着いていますからそれで良いと思います(そのことが大切だと思います)。
 わたしの考えを述べさせていただきますと、源氏物語の表現世界というのは、抽象的で分かりにくいと言われますものの、また一方で、かなり具体性をおびた印象的な描写などもあります。しかし、それはただ具体的であるというだけでなく、その具体的描写のなかの「ことば」にも、複数の意味や連想などをたたえている豊かな表現性をもっている「ことば」なので、二者択一的な解釈をしたり、 「ことば」の意味を限定したりすると、かえって原文の豊かな表現性を失わせて、痩せ細ったものにさせてしまいます。それで、現代語訳をする際にもできるだけ原文に近い訳というものをしたいと思っています。そのことがかえって、ぎくしゃくした分かりにくい訳文になってしまっていますが、それはわたしの力不足というもので、お許しいただきましょう。
 最後にわたしから一つ質問をさせてさせていただきたく思いますが、「皆に色好みとして認められている」とは、いったいどういうことなのでしょうか。いまちょっとぴんとイメージできない、というのがわたしの思いです。

Q:初めまして。私は高校で源氏物語を習っているのですが、教科書に出ていなくて源氏物語でもないプリントを先日配られて途方にくれています。
 それは「浮舟」に関係のある話なのですが、紫式部が書いたものではないのです。
冒頭は、宇治十帖と作者が違うことが書いてあって、
「これはかの光源氏の御末にとまり給ひし、薫大将と聞えし御あたりのことなれば、その続きめいたるこそ、いとかたはらいたくつつましけれど、ゆめゆめさにはあらず。ただ小野の里人にたづね逢ひ給ひしありさま、こなたかなたの御けしき、くはしう見ける人の、夢のやうなる御中に、あはれにしのびがたく覚えけるままに、何となき筆のすさみに書き置ける、その心人にも漏らさざりける、かりそめなる旅の空にて、かかずさへなくなりにければ、あだなる人のその行く先をとぶらはむとて、藻塩草のけぶりかきとどめける、そぞろごとどもを皆選り出でて、経師に漉かせけるついでにこれを見つけて、何の聞きどころあるふしもなけれども、果ていかならむと思ひわたる人の行く方なりけり、と見るばかりの、心とめてをかしさに、書き置けるにやあらむ。」
と書いてあります。
 この続きには中の君の事や、匂宮、浮舟の弟が尼になった浮舟に文を届ける事なども書いてあります。
 出典が何なのかわかりません。もしわかるのでしたら、出典と訳を教えて頂きたいのですが。(高校生 J・Yさん)

A:これは、『源氏物語 山路の露』といわれる作品です。高等学校の図書館には適当な参考書(注釈書)はないと思います。本文の引用は、『日本古典全書 源氏物語 七』(朝日新聞社 昭和30年初版)に依ったものと思われます。作者は、『源氏物語』の最初の注釈書を作った世尊寺伊行(せそんじこれゆき)の娘の建礼門院右京大夫と考えられています。彼女には、『建礼門院右京大夫集』という歌集も残されています。その作品の文章との類似性などが指摘されています。この本は『新潮日本古典集成』にも入っていますので、容易に見ることができま す。一読をお勧めします。
 次に、現代語訳ですが、これはどうぞ御自身でなさってください。原文は、院政期から鎌倉時代初期にかけてのものですから、『源氏物語』と気分的に大きな差異はないと思います。どうぞ、がんばってみて下さい。

Q:Greetings
Previously you had a link to the Kyoto University library manuscript version of the Genji on your page. I see that it is no longer there. Why was that link removed and can it still be accessed?(Professor of Anthropology UCI R・Gさん)

A:I'll tell you the address of Kyoto University library.
 http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/genji/gmfrcont.htm
You can see the manuscript version of the Genji.

E-mail eshibuya@sainet.or.jp(渋谷栄一)

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