江戸進 を止めた一揆勢は、一転して明和元年(一七六四)閏一二月大晦日から、三六人の助郷請負計画(助郷人馬を実際に差し出せない村むらに一〇〇石につき金六両二分を負担させる)の願出人たち(在郷の有力地主や名主、商人、高利貸資本、問屋、本陣)への打ちこわしにかかった。
大晦日、入間郡町屋村名主半蔵宅から始まり、翌年正月二日から三日に入間郡・高麗郡に、四日には比企郡金谷村の地主で酒造、質屋であった勘介宅を襲い、足立郡川田谷村の甚左衛門宅など三〇数軒を打ちこわした。
このように打ちこわしが村落上層部に向けられたので、入間・高麗郡一一〇か村の名主寄合で一揆鎮圧を幕府に駆込訴えをした。幕府は鎮圧にのり出し火附盗賊改が出動、一斉に一揆参加者を逮捕した。
評定所の吟味の結果、三六〇人余が処罰されて事件は終ったが、「島原以来の事」といわれた大事件の割には軽い処分であった。だが取調べの段階で死者を出した。
この首謀者として獄門となったのは一人で、児玉郡関村名主兵内、明和三年二月一三日関村で処刑された。兵内はのち関兵霊神として祭られ、幕末には「関兵霊神くどき」「関おどり」が作られて、今日も唄い継がれてその義挙を讃えられている。(兵内は対領主闘争は発頭人であるが、打ちこわしは首謀していない)。このほか追放以上の刑を受けたのは武蔵の百姓三二人で、他は軽徴の罪とされた。一方村方役人も多くが役儀追放などの処分を受け、幕府側も上層部は責任を問われなかったが、下級役人が罪せられ、評定所出留役倉橋与四郎の役御免閉門の他、遠島二人、閉門一人、押込二人ほか、五人が罪されている。
この一揆で現川口市や周辺で罪せられた村役人が出た。一揆に参加したのではなく村方不取諦りの故であったと考えられるが、何れも日光御成街道沿いの村役人であるところは、この大一揆が宿駅伝馬、助郷に関しての一揆であったところからであろうか。何れも「役儀取放し」処分を受けている。
足立郡平柳領辻村名主 久左衛門
〃 〃 中居村名主 安左衛門
〃 〃 上新田村名主 源 兵 衛
〃〃二軒在家村名主 次郎右衛門
〃 〃 樋爪村名主 源右衛門
〃 慈林村名主 源 次 郎
〃 戸塚村名主 次左衛門
〃 〃 年寄 長左衛門
〃 〃 与 平 次
〃 〃 徳右衛門
〃 〃 左 平 次
〃 江戸袋村名主 七左衛門
〃 赤井村名主 友右衛門
これらの人びとが何で罪されたかは不明である。
兵内くどきは事件から一〇〇年後の文久三年、関村の漢学者中沢喜太夫によって作詞されて今も唄われており、非常に長い敍事長篇であるが、一部を掲げてみよう。
(前略)
さてもサァエー会合評議の場所は
昔田村の将軍様の
大蛇退治のその跡なるが
ここは名におう十条河原
その日集る人数の程は
そ一万八千余人
名主兵内諸人に向い
当時お上の御無理な事や
時の役人非道の故に
しかし大勢騒き立つなれば
上のおきてを破るも道理
吾はもとより諸人の為に
捨つる命は覚悟の上と
言へば皆々言葉を揃え
然るべきようお頼み申す 命かけての願であれば
後の御回向仕らんと
言うて皆々わが家に帰る
(後略)
つづく