フリアカの小冒険

 しばらく真っ暗な荒野を走っていたが、いきなり真っ暗な町の中に入って減速した。出発してから、一番大きな駅に着いた様だ。しまった!フリアカの駅だ。「みんな懐中電灯を出した方がいいよ」と言ったが間に合わず、私達は暫く真っ暗な中でいつになるか見当もつかない発車時間を、待たされることになった。この後、私はちょっとした冒険を経験する。

 ディーゼルエンジンを止めてしまった機関車からは、電源が供給されないから列車の中は真っ暗で、見えるものと言えば、外の薄明かりを背景に窓際に座っている乗客のシルエットだけ。さすがに駅の敷地だから電灯は点いているが、白熱電球の光は水銀灯に馴れた私にはめまいがするほど暗く感じる。

 私の懐中電灯の光が弱い。そういえばマチュピッチュ駅から隣の駅まで、真っ暗な線路の上をひと駅歩いた後、そのまま電池を交換していなかったんだっけ。軽くて明るいと重宝していたマグライトも、所詮は単3電池の容量では長持ちしない。電池はこの列車のどこかに積まれているであろうスーツケースの中にある。本も読めないので退屈だ。

 ほどなくして小柄で顔も体つきも丸い現地の人が、客車に乗り込んで来た。私達日本人を迎えに来たそうで、ここでバスに乗り換えるから降りろという。私達は慌ただしく荷物を掴んで降車することになった。

 その案内人が私のマグライトを見て、それを貸せという。えー?私達の中で懐中電灯を用意している人が少なかったので、忘れ物が無いように明かりを貸してあげようと思っていたのだが、そのガイド氏が必要なのだろうと思って言われるままに渡した。

 私と彼が始めに降りた。なんのことはない。彼は自分の足元を見る為に借りただけなのであった。懐中電灯を持ってみたかっただけなのだろう。切れかかった電池にお構いなく、ずっと点けっぱなしにしてくれたので、まさに風前の灯火になっている。これだけ詳しく懐中電灯について書くのには、それなりに理由がある。後で明かりが無くて困ったからである。

 さて降り立ったところは線路の高さと同じで、私達が知っているプラットホームではない。振り返れば、私達の乗っていたツーリスモ客車もそうだが一般車両も真っ暗で、その中に大勢の乗客がすし詰めになっているのがぼんやりと見える。一般車両に乗っていたら、網棚に載せた荷物は盗られても仕方がないだろう。

 私達は改札口ではない貨物専用らしい門から駅の外に出された。そこには3人の観光ポリスと、賓の良い中年の日本人女性が待っていて、私達をバスに案内してくれた。女性はクスコでお世話になった篠田氏の奥様で、仕事でこちらに来ているそうだ。

 この地方都市フリアカの駅前広場には、大勢の人が動き廻っている。あるいは物売りが小さな店を広げて、みやげ物や日曜雑貨を売っている。中には売り物に手を付けて飲んでいるチチャ酒売りも居たりする。私はこの薄明かりの眺めが、暗いところで本を読んでいる様な感じで、生理的に好きではない。

 マイクロバスに乗り込んで、貨物車両から私達のスーツケースを運び出すのを待っている時に、同行の安藤さんが列車の中に水筒を置き忘れた事に気が付いた。金属製の細いやつで、日本で2千円以上するらしい。全員の荷物が運び込まれるまでに、まだ時間がある様なので、私は丸っこい現地人ガイド氏と二人で、再び列車に向かって行く。

 なんと列車は動き出しているではないか。アレキッパ方面から来た列車と連結する為らしいが。私とガイド氏は走る列車に追いついて飛び乗った。今から考えてみると、なんとも危ないことをやったものである。

列車の中は相変わらず真っ暗だったので、懐中電灯を点けたところ、電池の寿命で間もなく消えてしまった。白人の乗客達は、我々日本人が居なくなったので広々と使っている。安藤さんの座っていた場所にも若い男性が座っていたが、知らないという。真っ暗なので確かめようがない。

一人の男性がニヤニヤしながら、先ほどまで乗っていた例のネグロイド系のウェイター氏が持って行ったという。私のちょっとした冒険は無駄に終わった。ガイド氏は明日の朝にそのウェイター氏に確認すると言っている。それを信じる他はなかろう。結論から言えば、それはもう戻って来なかった。

 再び、構内を編成組み替えの為に右に左に走り廻る列車から、飛び降りてバスに戻った。少し息が切れる。フリアカ駅前広場の暗闇の賑わいを見ていると、頭痛さえしてくる。バスが走り出してフリアカ郊外に出る頃には、完全に気分が悪くなっていた。認めたくは無いが、ここに来て高山病にかかった。先ほど急に走ったからだろう。おまけに乗り物酔いまで併発している。ここまで連日元気だった私が、ヘロヘロと萎えてしまっていた。ちょっと寒い。

 私は元気が無くても、今回もバスの一番前の席をチャッカリ確保している。私の隣は、幸いにも篠田夫人である。この教養がありそうで凛とした感じの女性との会話が、印象に残ったので書き留めておく。

――――この町の主な産業って何ですか?

 広野の真ん中にポツンとあるフリアカの町は商業の町だそうだ。あと少し行けばチチカカ湖畔の大きな町プーノがある。そこなら交通の便や産物の往来にも便利であろうとは思ったが、地図で見ると海岸地方からの産物や山地の穀物等を集荷するには、なるほど便利な立地である。多分新潟県の長岡みたいな存在なのだろうな。

――――私は初めての海外旅行でここに来ました。

 彼女の初めての海外旅行も、私と同じくペルーだったそうだ。すでに30歳を過ぎていたそうだが、この地の魅力に取り付かれてしまい、ついでに篠田氏と出会って結婚されたとのこと。それ、私にはよく理解できます!必ずもう一度ここに来ます。

 お子さんはリマの大学に行っているそうだから、年齢は逆算...するのはやめておこう。首に巻いたネッカチーフが印象に残る、素敵な女性である。

――――私に障害児の息子がいて、今まで家を空ける様な旅行ができなかった

 このあたりでは、何らかの障害を持った人を区別する言葉はあるが、差別はしないそうである。その障害児を持った家族だけでなく、それを取りまく近所の人々もその子の面倒をみる。それは日常生活に於いては当たり前のことなのだ。

 先進国の様に差別だ・侮蔑だとかいった、呼び名で不毛の議論になる様な事は無いらしい。ひょっとしたらボランティアの原点って、こういうことではないか?

――――チチカカ湖では、旧ソ連等で問題になっていた湖の汚染は大丈夫ですか?

 まったくそういう問題を聞いたことはありません。だそうだ。

まだ見ぬ富士山よりも標高の高い湖への、想像が膨らむ。私は能みその血管が低い気圧によって膨らんで、高山病になっている。おそまつ。


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