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明治35年1月23日、青森より八甲田経由で十和田市に向かった青森歩兵第5連隊は、八甲田山中にて猛吹雪に遭遇、道を見失い総勢210名中199名が凍死する大惨事を起こした。
平成元年4月27日、一路八甲田山を目指していた埼玉第354連隊302機動小隊(人員2名、2輪走行車2両)は、青森県に入ると共に降り出した雨に悩まされながらも無事八甲田山八地温泉にたどり着いた。
真冬の八甲田山は風が強く地吹雪が続き寒さに酒も凍りつくという。その酷寒の中を青森第5連隊は行軍し、凍傷にかかり疲労に倒れ寒さに気の狂うものまで現われた。
4月28日、外は雪となっていた。厳冬期を過ぎ黄金週間を控え春に衣替えをしている矢先の降雪。積雪は20cmを越え、外は真冬の景色に逆戻りしていた。それは見た目と裏腹、二輪車にとっては死をも意味する白い世界なのであった。
第5連隊の悲劇は人為的な要因もさることながら何十年に一度という未曾有の悪天候に遭遇したことにあった。其の時、北海道旭川では日本での歴代最低気温を記録している。
幸い除雪車の介入により路面の雪も排除され出発が可能になった埼玉二輪小隊であったが、記録によればこの日の天候も季節外れにして猛烈な冬型の気圧配置であったのだという。
日を追うにして第5連隊の随行員は減ってゆき、3日後にはわずか30名足らずとなった。ひとりが倒れると連られるようにばたばたと何人かが倒れ、一度倒れたものは再び起き上がることは無かった。未だ生きている者も氷の化け物、無表情の生きる屍と化していた。
ひたすら後藤伍長の銅像を目指し白き恐怖と化した田代平を行軍する埼玉二輪小隊であったがついに路面にも雪が積もり始め、それ以上の進行は不可能となってしまった。「天は我を見放すのかっ」その声も吹雪にかき消され、引き返すのみが残された唯一の選択であった。
第5連隊の捜索は困難を窮め救出された者はわずか17名であった。しかも5名はその後死亡、実質的な指揮官であった1名が責任をとって自決。生存者は11名のみとなったのであった。
無念の退却を強いられた埼玉二輪小隊は試行錯誤の末、奇しくも雪中行軍に成功した弘前第31連隊の進路を逆にたどり無事に下山。奥入瀬を走り十和田湖を回ってその日の宿泊地、青荷温泉に辿り着いたのであった。
1997年7月12日夜8時50分頃、レンジャー養成訓練中だった青森駐屯の陸上自衛隊第九師団第五普通科連隊の訓練生十五人、教官ら八人の計二十三人は、青森市駒込の八甲田温泉近くの田代平牧場入り口付近のくぼ地で相次いでガス中毒様の症状で倒れ、12人が病院に運ばれ内3名が死亡する大惨事となった。
その後の調べで有毒ガスは検出されなかったが、高濃度の二酸化炭素が検出され、低酸素状態となったくぼ地で、隊員は酸欠死した可能性が強まった。
現場は以前から危険な場所として地元の人は近づかない場所であったという。
かつてツーリング途中雪に阻まれUターンを余儀なくされた思い出を、明治時代の遭難事件と絡ませて書いてみた。これを書いたのは結構前だったんだけど、改めてホームページにも掲載しようとしこしこHTMLに書き直している最中上記のニュースが飛び込んできた。偶然なのだろうな、偶然に違いないのだろうけど、みんな数キロと離れていない場所でおきているのだ。しかも自分の中で八甲田山への意識が高まっていた最中にだ。たぶん偶然なのだろう、きっと偶然に違いないのだろうけどこのニュースを見たとき背筋を冷たいものが思いきりゾクリと走りました。
ちょっとこわくなりました。
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