スポーツとしてのゲーム

「体を動かすって、楽しいよ。浩之もサッカー部に入らない?」
「そいつはもう聞き飽きたぜ。オレはやりたいようにやるのが、一番好きなんだよ」
―(c)Leaf「ToHeart」

月刊誌「言語」1998年6月号の巻頭に、「スポーツ」の語源と題する興味深いエッセイがある。十八世紀の時点で「スポーツ」と考えられていたものの種類やそのおおまかな変遷について書かれた短い文章で、筆者は高橋幸一氏。肩書きにスポーツ史とある。

私の興味を惹いたのは、スポーツの語源を紹介する途中「ゲーム」という言葉に触れている点だ。私は特にスポーツに人一倍興味があるわけでも関わっているわけでもないけれども、特にゲームに人一倍興味があるわけでも関わっているわけでもあるので、ここでひとつ、触発されてみたい。


全なスポーツ
不健全なゲーム

スポーツをテーマにしたゲームは多い。タイトルからさまざまな具体的コンピューターゲームを想像した人も少なくないだろう。しかしあらかじめ申し上げておくと、ここで論じようとしているのは本物の「スポーツ」のことだ。

スポーツという言葉からあなたは何を連想するだろうか。野球、サッカー、スキー、テニス、ゴルフなどの競技が常識的なところか。あるいはオリンピックやワールドカップなどのイベントや、スポーツマンシップなどという概念などを思い付く人もいるかもしれない。

「体を動かす、したがって健康に良く、であるからして精神にも良い、若干の勝負的要素があるもの」あたりがひとまず一般的な解釈のはずだとは思うが、しかしよく考えるとだんだんわからなくなってくる。

勝負ごとではあるはずだが、「柔術」に対して近代スポーツとしての「柔道」を提唱した嘉納治五郎などという人もいて、命の取り合いまで行っちゃうとこれは違うらしい。いくら勝つための努力だと言っても、自らの肉体を科学の力で改造したりすると怒られる。どういうわけか、ほとんど大した運動量もない(80歳ぐらいの老人並みに衰えていればまあ効果がないこともないという程度の運動だそうだ)ゴルフなどというものがなぜかスポーツに分類されていたりする。単に肉体を鍛えればいいというものではなさそうだ。

そういえば、「健全な精神は健全な肉体に宿る」などという言葉があったりする。その為にスポーツをやるのだ、という理屈がある。では、健全な精神を育成するものがスポーツか?しかし健全な書物を読んだりするのはスポーツとは言わない。

先のエッセイには

英語以外の言語には、「スポーツ」(sport)と同義の語彙がなかったために、すべての国々で「スポーツ」が借用されている。
とある。日本語が詰まった頭で考えるのは難しい概念なのだろう。
さて一方、「ゲーム」はどうか。もちろん私がこの単語を使う時は、ほぼ間違いなくコンピュータを利用したものを指しているのだし、それのためにこそこのような文章を書いているのではあるが、まあひとまずそれは置いておくことにしよう。さて、それ以外では何を思い付くか。

将棋、囲碁、チェス。各種パズル。トランプ。麻雀。人によってはより様々な賭け事全般を指すこともあるだろう。「人生ゲーム」(比喩的な意味に取ってもらっても構わないがボードゲームの方だ)などのたぐいだって、椅子取りゲームやハンカチ落としなどのような「リクリエーション」という単語を伴って頭に浮かぶものだってある。

コンピュータ関連を除いても随分バラエティに富んでいるようだが、無理矢理一般化してしまおう。イメージとして「体をほとんど動かさない、すなわち健康に悪く、であるからして精神も歪む、若干の勝負的要素があるもの」 …。ちょっとこれは言い過ぎか。でも、少なくともスポーツとは別なものとして、場合によってはスポーツとは正反対のものとして、この言葉を使う時もあるのではないか。


ゲームを考えすぎる
©1998 Shibayama the HEAD
Last modified:98/10/25