紫式部集
First updated 11/24/2003
Last updated 08/18/2008(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)

紫式部集(実践女子大本)

      【一】
     はやうよりわらは友だちなりし人に、年ごろへて行きあひたるが、ほのかにて、十月十日のほど、月にきほひて帰りにければ、

0001 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに
   雲がくれにし夜はの月かげ

      【二】
     その人、とほき所へ行くなりけり。秋の果つる日きたるあかつき、虫の声あはれなり。

0002 鳴きよわるまがきの虫もとめがたき
   秋の別れや悲しかるらむ

      【三】
     「箏の琴しばし」と書いりける人、「参りて御手より得む」とある返り事に、

0003 露しげきよもぎが中の虫の音を
   おぼろけにてや人の尋ねむ

      【四】
     方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありとて、帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて、
0004 おぼつかなそれかあらぬか明けぐれの
   そらおぼれする朝顔の花

      【五】
     返し、手を見わかぬにやありけむ、
0005 いづれぞと色分くほどに朝顔の
   あるかなきかになるぞわびしき

      【六】
     筑紫へ行く人のむすめの、
0006 西の海を思ひやりつつ月見れば
   ただに泣かるるころにもあるかな

      【七】
     返し、
0007 西へ行く月の便りにたまづさの
   かき絶えめやは雲のかよひぢ

      【八】
     「遥かなる所に、行きやせむ、行かずや」と、思ひわづらふ人の、山里より紅葉を折りておこせたる、
0008 露深く奥山里のもみぢ葉に
   かよへる袖の色を見せばや

      【九】
     返し、
0009 嵐吹く遠山里のもみぢ葉は
   露もとまらむことのかたさよ

      【一〇】
     又、その人の、
0010 もみぢ葉を誘ふ嵐は早けれど
   木の下ならで行く心かは

      【一一】
     もの思ひわづらふ人の、うれへたる返り事に、霜月ばかり、
0011 霜氷り閉ぢたるころの水茎は
   えも書きやらぬ心地のみして

      【一二】
     返し、
0012 行かずともなほ書きつめよ霜氷り
   水の上にて思ひ流さむ

      【一三】
     賀茂に詣うでたるに、「ほととぎす鳴かなむ」と言ふあけぼのに、片岡の木末をかしく見えけり。
0013 ほととぎす声待つほどは片岡の
   森の雫に立ちや濡れまし

      【一四】
     弥生の朔日、河原に出でたるに、傍らなる車に法師の紙を冠にて、博士だちをるを憎みて、
0014 祓へどの神のかざりのみてぐらに
   うたてもまがふ耳はさみかな

      【一五】
     姉なりし人亡くなり、又、人のおとと失なひたるが、かたみに行きあひて、「亡きが代はりに思ひ交はさむ」と言ひけり。文の上に姉君と書き、中の君と書き通はしけるが、おのがじし遠きところへ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて、
0015 北へ行く雁の翼に言伝てよ
   雲の上がきかき絶えずして

      【一六】
     返しは、西の海の人なり。
0016 行きめぐり誰れも都に鹿蒜山
   五幡と聞くほどのはるけさ

      【一七】
     津の国といふ所よりおこせたりける、
0017 難波潟群れたる鳥のもろともに
   立ち居るものと思はましかば

      【欠】
     返し、
(二行空白)

      【一八】
     筑紫に肥前といふ所より、文おこせたるを、いとはるかなる所にて見けり。その返り事に、
0018 あひ見むと思ふ心は松浦なる
   鏡の神や空に見るらむ

      【一九】
     返し、又の年もてきたり。
0019 行きめぐり逢ふを松浦の鏡には
   誰れをかけつつ祈るとか知る

      【二〇】
     近江の湖にて、三尾が崎といふ所に、網引くを見て、
0020 三尾の海に網引く民の手間もなく
   立ち居につけて都恋しも

      【二一】
     又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを、
0021 磯隠れ同じ心に田鶴ぞ鳴く
   なに思ひ出づる人や誰れそも

      【二二】
     夕立ちしぬべしとて、空の曇りてひらめくに、
0022 かき曇り夕立つ波の荒ければ
   浮きたる舟ぞしづ心なき

      【二三】
     塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」と言ふを聞きて、
0023 知りぬらむ行き来にならす塩津山
   世にふる道はからきものぞと

      【二四】
     湖に、おいつ島といふ洲崎に向かひて、わらはべの浦といふ入り海のをかしきを、口ずさびに、
0024 おいつ島島守る神やいさむらむ
   波も騒がぬわらはべの浦

      【二五】
     暦に「初雪降る」と書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば、
0025 ここにかく日野の杉むら埋む雪
   小塩の松に今日やまがへる

      【二六】
     返し、
0026 小塩山松の上葉に今日やさは
   峯の薄雪花と見ゆらむ

      【二七】
     降り積みて、いとむつかしき雪をかき捨てて、山のやうにしなしたるに、人びと登りて、「なほ、これ出でて見たまへ」と言へば、
0027 ふるさとに帰る山路のそれならば
   心やゆくと雪も見てまし

      【二八】
     年かへりて、「唐人見に行かむ」と言ひける人の、「春はとく来るものと、いかで知らせたてまつらむ」と言ひたるに、
0028 春なれど白根の深雪いや積もり
   解くべきほどのいつとなきかな

      【二九】
     近江守の女、懸想すと聞く人の「二心なし」など、常に言ひわたりければ、うるさくて、
0029 湖の友呼ぶ千鳥ことならば
   八十の湊に声絶えなせそ

      【三〇】
     歌絵に海人の塩焼くかたを描きて、樵り積みたる投げ木のもとに書きて、返しやる。
0030 四方の海に塩焼く海人の心から
   焼くとはかかる投げ木をや積む

      【三一】
     文の上に朱といふ物をつぶつぶと注きかけて、「涙の色」など書きたる人の返り事に、
0031 紅の涙ぞいとど疎まるる
   移る心の色に見ゆれば
     もとより人の女を得たる人なりけり。

      【三二】
     「文散らしけり」と聞きて、「ありし文ども、とり集めておこせずは、返り事書かじ」と、言葉にてのみ言ひやりければ、「みなおこす」とて、いみじく怨じたりければ、睦月十日ばかりのことなりけり。
0032 閉ぢたりし上の薄氷解けながら
   さは絶えねとや山の下水

      【三三】
     すかされて、いと暗うなりたるに、おこせたる、
0033 東風に解くるばかりを底見ゆる
   石間の水は絶えば絶えなむ

      【三四】
     「今はものも聞こえじ」と、腹立ちたれば、笑ひて、返し、
0034 言ひ絶えばさこそは絶えめなにかその
   みはらの池を包みしもせむ

      【三五】
     夜中ばかりに、又、
0035 たけからぬ人数なみはわきかへり
   みはらの池に立てどかひなし

      【三六】
     桜を瓶に挿して見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて、
0036 折りて見ば近まさりせよ桃の花
   思ひ隈なき桜惜しまじ

      【三七】
     返し、人、
0037 桃といふ名もあるものを時の間に
   散る桜にも思ひ落とさじ

      【三八】
     花の散るころ、梨の花といふも、桜も夕暮れの風の騒ぎに、いづれと見えぬ色なるを、
0038 花といはばいづれか匂ひなしと見む
   散り交ふ色の異ならなくに

      【三九】
     遠き所へ行きにし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに、
0039 いづかたの雲路と聞かば訪ねまし
   列離れけむ雁がゆくへを

      【四〇】
     去年より薄鈍なる人に、女院崩れさせたまへる春、いたう霞みたる夕暮れに、人のさし置かせたる。
0040 雲の上ももの思ふ春は墨染めに
   霞む空さへあはれなるかな

      【四一】
     返し、
0041 なにかこのほどなき袖を濡らすらむ
   霞の衣なべて着る世に

      【四二】
     亡くなりし人の女の、親の手書きつけたりけるものを見て、言ひたりし。
0042 夕霧にみ島隠れし鴛鴦の子の
   跡を見る見る惑はるるかな

      【四三】
     同じ人、「荒れたる宿の桜のおもしろきこと」とて、折りておこせたるに、
0043 散る花を嘆きし人は木のもとの
   寂しきことやかねて知りけむ
     「思ひ絶えせぬ」と、亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなり。

      【四四】
     絵に、もののけ憑きたる女の醜きかた描きたる後ろに、鬼になりたる元の妻を、小法師の縛りたるかた描きて、男は経読みて、もののけ責めたるところを見て、
0044 亡き人にかごとはかけてわづらふも
   おのが心の鬼にやはあらぬ

      【四五】
     返し、
0045 ことわりや君が心の闇なれば
   鬼の影とはしるく見ゆらむ

      【四六】
     絵に、梅の花見るとて、女、妻戸押し開けて、二三人ゐたるに、みな人びと寝たるけしき描いたるに、いとさだ過ぎたるおもとの、つらづゑついて眺めたるかたあるところ、
0046 春の夜の闇の惑ひに色ならぬ
   心に花の香をぞ染めつる

      【四七】
     同じ絵に、嵯峨野に花見る女車あり。なれたる童の、萩の花に立ち寄りて折りたるところ、
0047 さ雄鹿のしか慣らはせる萩なれや
   立ちよるからにおのれ折れ伏す

      【四八】
     世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所どころ描いたるを見て、塩釜、
0048 見し人の煙となりし夕べより
   名ぞ睦ましき塩釜の浦

      【四九】
     門叩きわづらひて帰りにける人の、つとめて、
0049 世とともに荒き風吹く西の海も
   磯辺に波は寄せずとや見し

      【五〇】
     と恨みたりける返り事、
0050 かへりては思ひ知りぬや岩角に
   浮きて寄りける岸のあだ波

      【五一】
     年返りて、「門は開きぬや」と言ひたるに、
0051 誰が里の春の便りに鴬の
   霞に閉づる宿を訪ふらむ

      【五二】
     世の中の騒がしきころ、朝顔を人のもとへやるとて、
0052 消えぬ間の身をも知る知る朝顔の
   露と争ふ世を嘆くかな

      【五三】
     世を常なしなど思ふ人の、幼き人の悩みけるに、唐竹といふもの、瓶に挿したる女ばらの祈りけるを見て、
0053 若竹の生ひく末を祈るかな
   この世を憂しと厭ふものから

      【五四】
     身を思はずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさまなるを思ひける。
0054 数ならぬ心に身をばまかせねど
   身にしたがふは心なりけり

      【五五】
0055 心だにいかなる身にかかなふらむ
   思ひ知れども思ひ知られず

      【五六】
     初めて内裏わたりを見るにも、もののあはれなれば、
0056 身の憂さは心のうちに慕ひきて
   いま九重ぞ思ひ乱るる

      【五七】
     まだいと初々しきさまにて、古里に帰りてのち、ほのかに語らひける人に、
0057 閉ぢたりし岩間の氷うち解けば
   をだえの水も影見えじやは

      【五八】
     返し、
0058 深山辺の花吹きまがふ谷風に
   結びし水も解けざらめやは

      【五九】
     正月十日のほどに、「春の歌たてまつれ」とありければ、まだ出で立ちもせぬ隠れがにて、
0059 み吉野は春のけしきに霞めども
   結ぼほれたる雪の下草

      【六〇】
     弥生ばかりに宮の弁のおもと、「いつか参りたまふ」など書きて、
0060 憂きことを思ひ乱れて青柳の
   いと久しくもなりにけるかな

      【六一】
     返し、
0061 つれづれと長雨降る日は青柳の
   いとど憂き世に乱れてぞ経る

      【六二】
     かばかり思ひ屈ぬべき身を、「いといたうも上衆めくかな」と言ひける人を聞きて、
0062 わりなしや人こそ人と言はざらめ
   みづから身をや思ひ捨つべき

      【六三】
     薬玉おこすとて、
0063 忍びつる根ぞ現はるる菖蒲草
   言はぬに朽ちてやみぬべければ

      【六四】
     返し、
0064 今日はかく引きけるものを菖蒲草
   わがみ隠れに濡れわたりつる

      【六五】
     土御門殿にて三十講の五巻、五月五日に当たれりしに、
0065 妙なりや今日は五月の五日とて
   五つの巻のあへる御法も

      【六六】
     その夜、池の篝火に御明かしの光りあひて、昼よりも底までさやかなるに、菖蒲の香いまめかしう匂ひ来れば、
0066 篝火の影も騒がぬ池水に
   いく千代澄まむ法の光ぞ

      【六七】
     公事に言ひ紛らはすを、向かひたまへる人は、さしも思ふことものしたまふまじきかたち、ありさま、よはひのほどを、いたう心深げに思ひ乱れて、
0067 澄める池の底まで照らす篝火の
   まばゆきまでも憂きわが身かな

      【六八】
     やうやう明け行くほどに、渡殿に来て、局の下より出づる水を、高欄を押さへて、しばし見ゐたれば、空のけしき、春秋の霞にも霧にも劣らぬころほひなり。小少将の隅の格子をうち叩きたれば、放ちて押し下ろしたまへり。もろともに下り居て眺めゐたり。
0068 影見ても憂きわが涙落ち添ひて
   かごとがましき滝の音かな

      【六九】
     返し、
0069 一人居て涙ぐみける水の面に
   浮き添はるらむ影やいづれぞ

      【七〇】
     明かうなれば入りぬ。長き根を包みて、
0070 なべて世の憂きに泣かるる菖蒲草
   今日までかかる根はいかが見る

      【七一】
     返し、
0071 何ごとと菖蒲は分かで今日もなほ
   袂にあまる根こそ絶えせね

      【七二】
     内裏に水鶏の鳴くを、七八日の夕月夜に、小少将の君、
0072 天の戸の月の通ひ路鎖さねども
   いかなる方に叩く水鶏ぞ

      【七三】
     返し、
0073 槙の戸も鎖さでやすらふ月影に
   何を開かずと叩く水鶏ぞ

      【七四】
     夜更けて戸を叩きし人、つとめて、
0074 夜もすがら水鶏よりけに泣く泣くぞ
   槙の戸口に叩き侘びつる

      【七五】
     返し、
0075 ただならじ戸ばかり叩く水鶏ゆゑ
   開けてはいかに悔しからまし

      【七六】
     朝霧のをかしきほどに、御前の花ども色々に乱れたる中に、女郎花いと盛りなるを、殿御覧じて、一枝折らせさせたまひて、几帳の上より、「これただに返すな」とて、賜はせたり。
0076 女郎花盛りの色を見るからに
   露の分きける身こそ知らるれ

      【七七】
     と書きつけたるを、いととく、
0077 白露は分きても置かじ女郎花
   心からにや色の染むらむ

      【七八】
     久しく訪れぬ人を思ひ出でたる折、
0078 忘るるは憂き世の常と思ふにも
   身をやる方のなきぞ侘びぬる
(四行空白)

      【七九】
     返し、
0079 誰が里も訪ひもや来るとほととぎす
   心のかぎり待ちぞ侘びにし

      【八〇】
     都の方へとて鹿蒜山越えけるに、呼坂といふなる所のわりなき懸け路に、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉の中より、いと多く出で来たれば、
0080 ましもなほ遠方人の声交はせ
   われ越しわぶるたごの呼坂

      【八一】
     湖にて伊吹の山の雪いと白く見ゆるを、
0081 名に高き越の白山雪なれて
   伊吹の岳を何とこそ見ね

      【八二】
     卒塔婆の年経たるが、まろび倒れつつ人に踏まるるを、
0082 心あてにあなかたじけな苔むせる
   仏の御顔そとは見えねど

      【八三】
     人の、
0083 け近くて誰れも心は見えにけむ
   言葉隔てぬ契りともがな

      【八四】
     返し、
0084 隔てじとならひしほどに夏衣
   薄き心をまづ知られぬる

      【八五】
0085 峯寒み岩間凍れる谷水の
   行く末しもぞ深くなるらむ

      【八六】
     宮の御産屋、五日の夜、月の光さへことに隈なき水の上の橋に、上達部、殿よりはじめたてまつりて、酔ひ乱れののしりたまふ。盃の折にさし出づ。
0086 めづらしき光さしそふ盃は
   もちながらこそ千世をめぐらめ

      【八七】
     又の夜、月の隈なきに若人たち、舟に乗りて遊ぶを見やる。中島の松の根にさしめぐるほど、をかしく見ゆれば、
0087 曇りなく千歳に澄める水の面に
   宿れる月の影ものどけし

      【八八】
     御五十日の夜、殿の「歌詠め」とのたまはすれば、
0088 いかにいかが数へやるべき八千歳の
   あまり久しき君が御世をば

      【八九】
     殿の御、
0089 葦田鶴の齢しあらば君が代の
   千歳の数も数へとりてむ

      【九〇】
     たまさかに返り事したりける、後に又も書かざりけるに、男、
0090 折々に書くとは見えてささがにの
   いかに思へば絶ゆるなるらむ

      【九一】
     返し、九月つごもりになりにけり。
0091 霜枯れの浅茅にまがふささがにの
   いかなる折に書くと見ゆらむ

      【九二】
     何の折にか、人の返り事に、
0092 入る方はさやかなりける月影を
   上の空にも待ちし宵かな

      【九三】
     返し、
0093 さして行く山の端もみなかき曇り
   心も空に消えし月影

      【九四】
     又、同じ筋、九月、月明かき夜、
0094 おほかたの秋のあはれを思ひやれ
   月に心はあくがれぬとも

      【九五】
     六月ばかり、撫子の花を見て、
0095 垣ほ荒れ寂しさまさる常夏に
   露置き添はむ秋までは見じ

      【九六】
     「ものや思ふ」と、人の問ひたまへる返り事に、長月つごもり、
0096 花薄葉わけの露や何にかく
   枯れ行く野辺に消え止まるらむ

      【九七】
     わづらふことあるころなりけり。「貝沼の池といふ所なむある」と、人のあやしき歌語りするを聞きて、「心みに詠まむ」と言ふ。
0097 世にふるになぞ貝沼のいけらじと
   思ひぞ沈む底は知らねど

      【九八】
     又、心地よげに言ひなさむとて、
0098 心ゆく水のけしきは今日ぞ見る
   こや世に経つる貝沼の池

      【九九】
     侍従宰相の五節の局、宮の御前いとけ近きに、弘徽殿の右京が、一夜しるきさまにてありしことなど、人びと言ひ立てて、日蔭をやる。さし紛らはすべき扇など添へて、
0099 多かりし豊の宮人さしわきて
   しるき日蔭をあはれとぞ見し

      【一〇〇】
     中将、少将と名ある人びとの、同じ細殿に住みて、少将の君を夜な夜な逢ひつつ語らふを聞きて、隣の中将、
0100 三笠山同じ麓をさしわきて
   霞に谷の隔てつるかな

      【一〇一】
     返し、
0101 さし越えて入ることかたみ三笠山
   霞吹きとく風をこそ待て

      【一〇二】
     紅梅を折りて里より参らすとて、
0102 埋もれの下にやつるる梅の花
   香をだに散らせ雲の上まで

      【一〇三】
     卯月に八重咲ける桜の花を、内裏にて、
0103 九重に匂ふを見れば桜がり
   重ねて来たる春の盛りか

      【一〇四】
     桜の花の祭の日まで散り残りたる、使の少将の挿頭に賜ふとて、葉に書く。
0104 神代にはありもやしけむ山桜
   今日の挿頭に折れるためしは

      【一〇五】
     睦月の三日、内裏より出でて、古里のただしばしのほどにこよなう塵積もり荒れまさりにけるを、言忌みもしあへず、
0105 改めて今日しもものの悲しきは
   身の憂さやまたさま変はりぬる

      【一〇六】
     五節のほど参らぬを、口惜しなど、弁宰相の君ののたまへるに、
0106 めづらしと君し思はば着て見えむ
   摺れる衣のほど過ぎぬとも

      【一〇七】
     返し、
0107 さらば君山藍の衣過ぎぬとも
   恋しきほどに着ても見えなむ

      【一〇八】
     人のおこせたる、
0108 うち忍び嘆き明かせばしののめの
   ほがらかにだに夢を見ぬかな

      【一〇九】
     七月朔日ごろ、あけぼのなりけり。
     返し、
0109 しののめの空霧りわたりいつしかと
   秋のけしきに世はなりにけり

      【一一〇】
     七日、
0110 おほかたに思へばゆゆし天の川
   今日の逢ふ瀬はうらやまれけり

      【一一一】
     返し、
0111 天の川逢ふ瀬はよその雲井にて
   絶えぬ契りし世々にあせずは

      【一一二】
     門の前より渡るとて、「うちとけたらむを見む」とあるに、書きつけて返しやる。
0112 なほざりのたよりに訪はむ人言に
   うちとけてしも見えじとぞ思ふ

      【一一三】
     月見る朝、いかに言ひたるにか、
0113 横目をもゆめと言ひしは誰れなれや
   秋の月にもいかでかは見し

      【一一四】
     九月九日、菊の綿を上の御方より賜へるに、
0114 菊の露若ゆばかりに袖触れて
   花のあるじに千代は譲らむ

      【一一五】
     時雨する日、小少将の君、里より、
0115 雲間く眺むる空もかきくらし
   いかにしのぶる時雨なるらむ

      【一一六】
     返し、
0116 ことわりの時雨の空は雲間あれど
   眺むる袖ぞ乾く世もなき

      【一一七】
     里に出でて、大納言の君、文賜へるついでに、
0117 浮き寝せし水の上のみ恋しくて
   鴨の上毛にさえぞ劣らぬ

      【一一八】
     返し、
0118 うち払ふ友なきころの寝覚めには
   つがひし鴛鴦ぞ夜半に恋しき

      【一一九】
     又、いかなりしにか、
0119 なにばかり心尽くしに眺めねど
   見しに暮れぬる秋の月影

      【一二〇】
     相撲御覧ずる日、内裏にて、
0120 たづきなき旅の空なる住まひをば
   雨もよに訪ふ人もあらじな

      【一二一】
     返し、
0121 挑む人あまた聞こゆる百敷の
   相撲憂しとは思ひ知るやは
    雨降りて、その日は御覧とどまりにけり。あいなの公事どもや。

      【一二二】
     初雪降りたる夕暮れに、人の、
0122 恋ひわびてありふるほどの初雪
   消えぬるかとぞ疑はれける

      【一二三】
     返し、
0123 経ればかく憂さのみまさる世を知らで
   荒れたる庭に積もる初雪

      【一二四】
     小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の、物の中なるを見つけて、加賀少納言のもとに、
0124 暮れぬ間の身をば思はで人の世の
   哀れを知るぞかつは悲しき

      【一二五】
0125 誰れか世に永らへて見む書き留めし
   跡は消えせぬ形見なれども

      【一二六】
     返し、
0126 亡き人を偲ぶることもいつまてぞ
   今日のあはれは明日のわが身を

     本云
      以京極黄門定家卿筆跡本不違一字至于行賦字賦隻紙勢分如本今書写之于時延徳二年十一月十日記之
              癲老比丘判
      天文廿五年夾鐘上澣書写之

【校訂】
校訂01 書い(底本「かひ」は「かい」の仮名遣い誤写と認めて改める)(戻)
校訂02 生ひ(底本「おい」は「おひ」の仮名遣い誤写と認めて改める)(戻)
校訂03 思ひ屈(底本「思う(う$そ)」は「う」をミセケチにして「そ」と改める、陽本「思ひくし」に従う)(戻)
校訂04 ける(底本「けり」、諸本によって改める(戻)
校訂05 埋もれ(底本「むまれ」、諸本によって改める(戻)
校訂06 雲間(底本「くまも」、諸本によって改める(戻)
校訂07 初雪(底本「はつつき」、諸本によって改める(戻)