第2節 親本が定家と別人に依る寄合書であろうと推定される巻――「柏木」「浮舟」(2021年6月9日稿)

  はじめに

 青表紙原本の「柏木」は、藤原定家と別人に依る寄合書の巻であることは、既に明らかになっている(注1)。そして明融臨模本「柏木」がその名のとおりに青表紙原本を原態のままに臨模された写本であることも周知の事実になっている(注2)

 明融臨模本「浮舟」に関しては、「原本は、本文墨付九丁裏あたりまで、書写が大ぶりで、定家自筆であったかと思われる」という、石田穣二氏の文献学者としての経験と印象に基づく指摘がある(注3)

 指摘のとおり、1丁表から9丁裏までの1面書写行数は、8行書15面、9行書3面である。それに対して、ほぼ同じ面数の10丁表面から18丁裏面までは、9行書がわずかに1面で、残りは10行書が17面へと変化している。それ以降は、10行書が圧倒的に多くなり、11行書、12行書まで出てくる。
 しかし、臨模本からの字形の印象とこれらだけでは、「浮舟」を定家と別人に依る寄合書であると結論づけるには不十分である。

 本稿では、「柏木」では、改めて明融臨模本からその親本を推定する際の留意点について述べ、「浮舟」では、定家と別人に依る寄合書の巻であることを、第1節と同様に、書記法・書き癖から推定してく。

  一 「柏木」(定家筆:首1オ1〜11ウ5 別人筆:11ウ6〜49ウ2尾)

  しかし、臨模本とはいっても、すべてにおいて同じであるわけではない。違いもあるわけで、どの点が異なっているかを、予め踏まえておく必要がある。そうしないと、臨模本からその親本の様態を推定する際に誤ちを冒すことになるからである。

(1) ほぼ原態どおりに臨模

 改めて、先人の指摘を確認しておこう。

 池田亀鑑氏は、「特に柏木の巻を前田家蔵の原本と比較すると、殆ど寸分違はぬのみならず、原本の虫損不明の箇所が明らかにされる程、忠実な複本である」(注4)と述べて、「これより推して他の諸帖も同様原本に準ずべきものと考へられる」といい、それが今日の定説となっている。

 その高弟の石田穣二氏は、「原本と比較すると、明融本の臨模のきわめて正確であることが確認される」と述べて、明融臨模本の不審箇所が原本では手擦れによる磨損で判読不明になっていること、原本の虫損による欠字箇所がそれ以前に書写されたこの明融臨模本によって判明すること、明融臨模本では横に書かれている文字が原本では直下に書かれている、という3か所の微細な異同であることを指摘している(注5)

 以上のように、明融臨模本が青表紙原本の臨模本として、原本の本文との字母・字形、1行の字詰め・改行位置、一面書写行数の一致等が指摘されてきた。

(2) 伝称「明融」の個性・書き癖、相違点

 しかし、いかに臨模とはいえ、書写者である伝称「明融」の個性や書き癖というのもある。そこで、さらに細かく見ていくと、次のような共通点や相違点が見られる。

 第1に、文字の字形について、定家の文字の字形を明融は意識的に似せて書写し、行末の改行、その文字の位置、さらに文字の連続箇所もその通りに書写している(7オ・7ウ・9オ・10オ)。

 第2に、空白字間について、和歌の書式のT型B類(和歌の下約一字程空けて地の文が続く形)の空白もそのままに踏襲している(3ウ)。

 第3に、文字の大きさについて、ほぼ同じ大きさに写しているが、時にやや小さめになることがある(7オ8)。これは「明融」の書き癖と称してよいだろう。

 第4に、筆線の太さについて、定家の太い筆線に比して、臨模本ではそれよりもやや細い筆線になっている。第3点の文字の大きさに連動した書き癖である。

 第5に、筆力の強弱について、定家の雄勁な力強い筆線が、臨模本ではやや弱く丸みを帯びた筆線になっている。

 第6に、文字の間隔について、臨模本では行の末尾や末行にやや詰まる傾向が見られる(1オ3・1ウ4・4オ1・11オ9)。

 第7に、行の間隔について、定家は最終行を詰めて書くことがあるが、臨模本ではほぼ均等に揃えて書いている(2ウ・3オ・6オ・6ウ)。

 第8に、本文訂正跡ついて、定家のなぞり書き修正跡(注6)は、それを再現してはいない。以下の別人筆部においても同様である。

 以上、明融臨模本におけるその字形・筆線(太さ細さ、強弱、字間、行間)は、後世の定家様の書写とは違って、定家の書き癖・個性までは写し取ってはいないこと。

 よって、明融臨模本において、その親本の様態が推測可能なのは、字母・字形、改行文字の位置等までである。
 したがって、石田穣二氏が「臨模本からの推定は危険ではあるが」と言っていたが、この明融臨模本の見た目の印象からでは親本の筆者を論じることはできない。このことは、他の巻においても同様である。

  二 「浮舟」(定家筆:首1オ1〜9ウ8 別人筆:10オ1〜79ウ6尾)

(1)「浮舟」の定家筆と別人筆による寄合書の根拠

 「浮舟」が定家筆と別人筆からなる寄合書の巻である根拠について述べる。

 第1は、「本文墨付九丁あたりまで、書写が大ぶりで、定家自筆であったかと思われる」という、石田穣二氏の指摘があるように、1丁表1首から9丁裏までは、一面行数が8行書と9行書とであるが、10丁表以降79丁尾までは9行書から12行書となること。

 第2は、行頭に同字が並んだ場合に、定家はすべて異なる字母字形で書き分けているが、「浮舟」でも9丁裏までは、3箇所中、3箇所すべて書き分けられている。しかし、10丁表以降には20箇所中、13箇所は書き分けがなされているが、7箇所は書き分けがなされていないこと。なお、最初の非書き分け事例は18ウ9・10「い」で、次いで25オ8・9「れ」と続く。

 第3は、定家の和歌書式はT型A類を基本とするが、「浮舟」でも9丁裏までは、T型A類が1首であるのに対して、10丁表以降ではT型のABC類の他に、V型という上句と下句との境以外の箇所で改行するという形が出てくること。なお、そのV型は、75丁裏(A類)と76丁裏(C類)とに出て来る。

 第4は、字母の使用傾向を見た場合、定家には好んで使用される字母とそうではない字母とがある。
 例えば、定家は、仮名「ま」の書き癖として、字母「万」を最も多く使用し、次いで「末」、「満」という順位で使用している(「柏木(定家筆部)」「桐壺」「橋姫」、ただし「花宴」では「末」と「満」の順位が入れ替わる)。
 「浮舟」でも、9丁裏までは「万」(46)―「末」(19)―「満」(14)という順位であるのに対して、10丁表以降では「末」(798)―「満」(56)―「万」(13)という順位で使用されていること。
 また、字母「見」については、定家は漢字の「見」との差別化から、使用を避けていた節がある。「柏木(定家筆部)」「桐壺」「花宴」「橋姫」においても、字母としての「見」は使用されていない。
 「浮舟」でも9丁裏まではナシであるが、10丁表以降ではわずか1例ではあるが、それが見られること。

 第5は、定家の漢字表記語に関して、定家は「猶」「又」「心地」の語は漢字表記した。また「見」に関しては漢字として使用することはあっても字母として使用することはなかった(「柏木(定家筆部)」「桐壺」も同じ。ただし「花宴」では「猶」が1例仮名表記があった。「橋姫」では「心地」の漢字仮名交ぜ表記が見られ、「見」に関しても「み」という仮名表記が見られたが、「猶」と「又」に関してはすべて漢字表記である)。
 「浮舟」でも、9丁裏までは、「猶」に関しては冒頭「宮なをかのほのかなりしゆふへ」云々の箇所に仮名表記「なを」があるが、それ以外はすべて漢字表記、接続詞「又」もすべて漢字表記であるのに対して、10丁表以降は「猶」「又」ともに漢字と仮名との両表記が見られるようになること。

 以上、「浮舟」の巻の9丁裏と10丁表辺りを境として、その書記法・書き癖の違いから、「浮舟」が定家と別人による寄合書であることは確かである。ただしかし、厳密にはどこから定家筆から別人筆に移るかは、よくは分からない。わずかに、9丁裏までと10丁表からの行数の変化だけが、それらしき根拠である。
 今、仮説として、1丁表1行目から9丁裏8行目までを定家筆、10丁表1行目から79丁裏6行目までを別人筆と提起する。

  筆 者  定家筆部  別人筆部
 一面書写行数  8行 15面(83.3%)
 9行  3面(16.7%)
 9行   5面(3.6%)
 10行 108面(77.7%)
 11行  23面(16.5%)
 12行  3面(2.2%)
 行頭字母書き分け  異 3(100%)
 同 0
 異 13(65.0%)
 同  7(35.0%)
 和歌書式  T型A類 1首  T型A類 13首
 T型B類  1首
 T型C類  5首
 V型A類  1首
 V型C類  1首
 本文訂正跡  誤字削除(1)  衍字削除、訂正(4)
 脱字、修訂補入(16)
 本文、誤字訂正(7)
 字母の種類と使用傾向  万―末―満  末―満―万
 見
 漢字表記語  猶(2)・なを(1)
 又(2・0)
 猶(24)・なを(10)
 又(16・3)


(2) 親本・定家筆部(1オ1〜9ウ8)

 本文訂正跡について、本文一筆と目される訂正跡のみを考察の対象とする。誤写の内容と傾向から書写者の書写態度を考える。
 本文訂正跡が1箇所認められる。
 その内容は、誤字の削除(1箇所)である。

 @「れいのゝと个き(き$)さすき多る」(3ウ6)

 「き」の上に大きく二点ミセケチ符号が付けられている。
 この訂正跡は、本文書写者が「のどけき」と書いたところで、誤ちに気が付いて、その活用語尾「き」字の上に大きく二点ミセケチの削除符号を付けて、名詞形の接尾辞「さ」を続けた訂正過程が窺える。よって、本文書写者自身の誤写の訂正跡である。
 大きく二点ミセケチ符号を付けると言い、その訂正過程と言い、いかにも定家の所為である。
 定家も文意の思い込みに依る誤写を冒すのである。

(3) 親本・別人筆部(10オ1〜79ウ6)

 上同様に、本文一筆と目される訂正跡のみを考察の対象とする。そして誤写の内容と傾向から別人書写者の書写態度を考える。

 本文一筆の文字の訂正には、親本書写者の書写時中の訂正と書写後の訂正とが考えられる。
 また親本の訂正跡には書写者自身の訂正跡と監修者である定家の訂正跡とが考えられる。しかし、それを臨模本の筆跡からそれを判断するのは困難である。

 明融臨模本の親本すなわち別人筆部における本文一筆の本文訂正跡についてみると、およそ27箇所である。しかし、あるいはこの中に後人筆の訂正が混じり込んでいるやもしれない。また反対に見落としているものがあるやもしれない。何分にも臨模本のしかもその影印本からの判読であるからもとより精確さは期しがたい。

 その誤写の内容はおよそ3つに分類される。
 最も多いのは、脱字の補入である。そのほとんどを補入符号の印を付けずに当該箇所の右傍らに書いている。16箇所ある。
 次に多いのは、誤写の訂正。すなわち文脈の思い込みによる誤字を訂正したもの。7箇所ある。
 そして最後は、衍字すなわち同じ字をダブって書いてしまったところの削除およびその訂正である。4箇所ある。
 これらから、書写者の性格あるいは書写態度というものが窺えよう。以下、具体的に検討していこう。

 1.脱字、修訂補入(16箇所)

 補入には、補入符号の有るものと無いものとがある。最初の例(@)は、他のそれに比してやや大きめの丸印の符号(+)で、本文一筆と認められる筆跡。しかし多くの補入符号は小さな丸印で後人筆と思しいものである。補入符号の無い補入(+)の筆跡は本文一筆と目されるものである。/は改行箇所を表す。

 @「かゝることこ(+ハ)あり个れ」(12オ10)
 A「うらめしうおも(+ふ)へ可り遣りと」(27オ10)
 B「われ(+尓)もあらていてぬ」(29ウ10)
 C「これ(れ$ひ)しき/(+尓)よそへられ多るも」(37オ8))
 D「いと者つ可しくま(+ハ)ゆきまて」(42ウ10)
 E「これ(+さ)へ可ゝるを」(43オ9)
 F「いとらう(+多)けなり」(46オ8)
 G「や(+すく)もえミす」(46ウ8)
 H「者しめなれ者(+尓)や」(48オ3)
 I「いしとまり堂ま日尓(+き可)しといふも」(53ウ9)
 J「ことなとの越(+の)つ可ら」(55オ10)
 K「うしな日てハや(+つ)ゐにきゝ尓くきことは」(56オ4)
 L「な尓こ/とも(+お)ひら可に」(57オ6)
 M「心ちのあしくる(+尓)も」(57ウ1)
 N「との(+つい)ゐて」(60オ6)
 O「きこしめさぬ/いとあ(+や)しゆつ遣なと」(79オ4)

 @は、係助詞「は」の誤脱。補入符号の印が「そ」と「あ」の間に付けられて、その右傍らに「ハ」と補入されている。丁寧な補入といえる。
 Iは補入符号の印が「尓し」と連綿体で続く左傍らに付けられて「きか」と補入されている。「止まりにし」でも文意は通じるが、「止まりにきかし」と完了助動詞「に」と過去助動詞「き」を挿入し文意を強めた表現に改めている。
 AMNOは、補入符号ナシ。補入文字が無くても文意は通じるが、脱字に気づいて訂正したものであろう。
 Bの「尓」は、「も」の右傍らの位置に書かれているが、文意から、それは併記ではなく、A同様な補入であろう。
 Cの「尓」は「よ」の右傍らに書かれているが、文意から補入である(「人」の下に小さな〇印の補入符号があるが、これは別筆である)。
 DEFGHJKLは、その右傍らに書かれた文字が無ければいずれも文意不通。書写後ないしは見直しの際に誤写に気づいて補訂された文字であろうか。

 2.誤字訂正(7箇所)

 @「おほし者ゝか(者ゝか$いら)るゝ尓」(26オ4)
 A「おもへ(もへ$本せ)ハこと佐ま尓」(32オ2)
 B「これ(れ$ひ)しき/(+尓)よそへられ多るも」(37オ7))
 C「さりとて(て$)もこひしと」(50ウ3)
 D「こそ…わさなりけり(り$連)」(62オ7)
 E「こと者りと/おほゆ(ゆ$す)可ら」(72ウ4)
 F「ふ可き/徒ゆ尓しめり多るか本(本$)の可う者しさ」(75ウ5)

 @は、「はゝか」の左傍らに二点ミセケチ符号を付けて、右傍らに「いら」と訂正したものである。
 「思し憚るる人」を「思し焦らるる人」に訂正している。「いら」を「ハゝ」と見て「者ゝか」と書き、そこで誤りに気づき、「いら」と訂正したものか。
 Aも、「もへ」の左傍らに二点ミセケチ符号を付けて、右傍らに「ほせ」と訂正したものである。
 「思へば」を「思せば」と敬体に訂正している。
 B「れ」は不完全な字形である。「れ」では文意不通。変体仮名「悲」を誤って「れ」と書きかけて、右傍らに「ひ」と書いたものではないか。
 Cは、「さりとて」と書いて、誤写に気づき「て」を削除したものか。あるいは「て」を削除したものか。
 Dは「り」の左傍ら上に小さく「ヒ」とあるが、これは別筆。しかし「連」は本文一筆。「こそ…けれ」の係り結び。親本において訂正されたものである。
 Eは「ゆ」の左傍らに二点ミセケチ符号を付けて、右傍らに「す」と訂正したものである。
 Fは「御かほ」と書いた後に誤りに気づいて「本」に大きく二点ミセケチ符号を付けて「の香はしさ」と続けたものである。

 3.衍字削除、衍字訂正(4箇所)

 @「ふ多き春す(す$)へきに」(10ウ9)
 A「者つせのくわんをん个/遣(遣$ふ)ことなくて」(24オ3)
 B「もろと/とも尓いれ堂てまつる」(40ウ5)
 C「やすく可く可く(可く$)れなむこと」(53ウ2)

 @は、「韻塞ぎすべきに」と書くべきところを、「す」を「すす」とダブって書いてしまったので、後出の「す」に二点ミセケチの削除符号を付けて、削除し、書写を続けている。
 Aは、行の替わり目に再度「け」とダブって書いてしまったのに気づいて、後出の「け」を削除して右傍らに次の「ふ」字を書いて、書写を続けている。
 Bの前出「と」の小さな削除符号は、別筆である。A同様、行替りの差異に衍字を生じているが、ここではそれに気づかず、そのまま書き進めていってしまったようだ。
 C後出の「可く」に二点ミセケチの削除符号を付けられている。「隠れなむ」と訂正する。

 以上から、「浮舟」の親本の別人筆部における誤写(脱字16―誤字7―衍字3))から、その書写者の書写態度を推測すると、うっかり、注意力緩慢、思い込みといった誤写要因が浮かび上がる。

(4) 「浮舟」の別人筆者

 最後に、「浮舟」巻の別人筆者について、これまで考察してきた「青表紙原本」(5帖)の別人筆や「明融臨模本」(8帖)と比較して考えてみたい。

 第1に、「浮舟」別人筆の一面書写行数が、9行書5面(3.6%)・10行書108面(77.7%)・11行書23面(16.5%)・12行書3面(2.2%)であることは、これまで考察してきた「青表紙原本」(5帖)中の別人筆に近似したものはない。最も近い「柏木(別人筆)」でさえも、8行書1面(1.3%)・9行書35面(46.7%)・10行書34面(45.3%)・11行書5面(6.7%)である。
 この一面書写行数は、次節で考察する「明融臨模本」の「若菜上」「若菜下」に近似するものである。例えば、
 「若菜上」は、9行書90面(41.3%)・10行書114面(52.3%)・11行書13面(6.0%)・12行書1面(0.4%)である。
 「若菜下」も、9行書11面(4.8%)・10行書114面(50.2%)・11行書100面(44.1%)・12行書2面(0.9%)である。
 いずれも9行書から12行書までにわたっており、しかも10行書を最多としている。

 第2に、「浮舟」巻の別人筆部における行頭同字の字母字形書き分けが、13/20(65.0%)という数値は、「青表紙原本」(5帖)中の別人筆に近似したものはない。最も近い「早蕨」であっても、5/6(83.3%)、又他の別人筆の「行幸」では6/17(35.3%)である。
 これに近似した例は、前項同様に、「若菜下」の28/44(63.6%)と「若菜上」の26/37(70.3%)である。

 第3に、「浮舟」別人筆部の和歌書式に、V型のA類とC類が見られるが、V型とは和歌の上句下句の境以外のところで改行するものである。このような和歌書式が見られるのは、「明融臨模本」の「帚木」と「若菜上」、「若菜下」の3帖である。
 「帚木」ではV型C類が5首、「若菜上」ではV型A類が22首そして同C類が1首、「若菜下」ではV型A類が6首見られる。しかし、「帚木」には、「若菜上」「若菜下」「浮舟」にはないU型(改行した下句は上句と同じ位置から書く)が9首ある。

 以上、3点から、「浮舟」の別人筆者は、「若菜上」「若菜下」の筆者との関連性が浮かび上がってくる。

 ただ、第1点に関しては、「浮舟」も「若菜上」「若菜下」と同様に長大な巻であるという共通性から、一面書写行数が詰められて書かれたということがあるかもしれない。
 しかし、第2点の行頭字母書き分け意識のレベルが「若菜上」「若菜下」に近いものであるということや、第3点の和歌書式は、定家が和歌を上句と下句とで分けて書くという方針とは明らかに違った書式で、定家の周辺に有りながらそのような書式で和歌を書く人というのは、やはり重視すべきであろう。
 よって、ここまでの考察では、寄合書「浮舟」の別人は、「若菜上」「若菜下」と同一人か、という推定される。
 次節の「親本が全文別人筆であろうと推定される巻――「帚木」「若菜上」「若菜下」」で再説しよう。


  

(1)石田穣二『源氏物語 柏木』(「校訂私言」51頁 桜楓社 昭和34年5月)、太田晶二郎『源氏物語(青表紙本)解題』(9頁 昭和53年11月 前田育徳会尊経閣文庫)、大野晋『仮名遣と上代語』(19頁 岩波書店 昭和57年2月)。
(2)池田亀鑑『源氏物語大成巻七 研究資料篇』(66頁 中央公論社 昭和31年1月)、石田穣二『源氏物語(明融本)U』(「解題」707頁 東海大学出版会 1990年7月)。
(3)石田穣二『源氏物語(明融本)U』(「解題」716頁 東海大学出版会 1990年7月)
(4)池田亀鑑『源氏物語大成巻七 研究資料篇』(66頁 中央公論社 昭和31年1月)
(5)石田穣二『源氏物語(明融本)U』(「解題」714頁 東海大学出版会 1990年7月)では、3か所の微細な異同を指摘する。
 ・「本文墨付三丁裏、一行目の下「御み」とあるのは「御みゝ」べき所。原本に就いて検するに手擦れによる磨損があって、「ゝ」の存在は確認しがたい。原本複製に付せられた太田晶二郎氏の「使用上の注意」には「磨損アッテ、明瞭ヲ闕ク」とされている。」
 ・「本文墨付三二丁表、最終行「のたまへハ」の「ハ」は原本に虫損があって消えている。欠字の扱いをすべきであるが、『大成』の校異篇の本文はそのまま続けている(一二五一頁四行目)。明融本は、おそらく幸いにして虫損以前の姿をとどめ得たものであろう。」
 ・「本文墨付三四丁裏、五行目の行末「大将のきみハ」の「ハ」、「み」の左下に寄せて書かれているが、原本は「み」の直下に書かれている。僅かな位置の相違である。」
(6)太田晶二郎「一一オ四行 すこしノ「し」、書キ損ネタヤウニ、線ガ重ナツテヰル」「一二オ六行 ましりたるノ「た」、書キ僻メタト見エ、上部、字形ガ紊レテヰル」(「源氏物語(青表紙本)使用上の注意」7頁 昭和53年11月 前田育徳会尊経閣文庫)